40. ノートゥング
『黒の侵食』。それは、悪魔と契約していない者が、憎悪に駆られて、黒の魔法を使い続けたときの副作用。ヴェステンやイルリヒトが「闇に囚われる」と言っていたのはこのことだと、ようやくわたしは気付いた。でも、どうしていいのか分からない。わたしに道を示してくれるヴェステンは、光の粒になって消えた。イルリヒトは、ヨハネスの手によって魔界に返された。わたしの傍には、誰も居ない。お母さんの仇さえ討つことが出来ずに、わたしは絶望の淵に立たされた。
すべては、ヨハネスが、五百年間抱き続けた宿願のため。わたしを器にするため。五百年? それは、何のため? 誰のため? 分からない。でも、分からなくてもいい気がした。このまま闇に飲み込まれてしまい、わたしがわたしじゃなくなったとしても、それでもいい。身を投げ出してわたしを守ってくれたパートナーの命を守ることもできず、苦しみながらわたしの名前を呼んで死んで行ったお母さんの仇も討てなかった。その挙句、友達の忠告も受け入れず、憎悪に身を任せた報いというのなら、それも仕方がないことかもしれない、運命なのかもしれない。わたしは全身から力という力が抜けていくのを感じ、優しくわたしを抱きしめてくれるヨハネスの柔らかな感触に、体を預けた。
「ようやく、器を手に入れた……後は『生命の魔法書』さえ取り戻せれば。待っていて、グレートヒェン。あと少しで。もう少しで……」
わたしの耳元で、ヨハネスが囁いた。わたしは、その声をききながら、涙でぬれた瞳をそっと閉じた。遠雷の音以外何も聞こえない。静寂そのものがわたしを包み込む。憎悪の文字は、わたしをどれくらい塗りつぶしただろうか。わたしの心が空っぽになったら、わたしはどうなるんだろう……。でも、ヨハネスに抱きしめられて、静寂に身を委ねていると、不思議とそれは怖くなくて、むしろ、暖かい気持ちになる。どうしてなんだろ。
「そうはさせないっ!!」
突然声がした。ヨハネスの背後、わたしの視線の先、赤点滅の信号機に照らされて、誰かがこちらに走ってくる。あれは……阿南くん?
「中禅寺! 中野の周りを、バックラーでふさげっ!!」
中禅寺さん? どこにいるの? ぼんやりした頭で、そんなことを考えていると、突然ヨハネスはわたしを突き飛ばすように離れ、立ち上がった。
「はっ!! ヴィント・バックラーっ!!」
わたしの背後で別の掛け声が聞こえ、わたしとヨハネスを取り囲むように、六枚のカードが降ってくる。それらは、アスファルトの上に突き刺さり、六角形を築くと、光り輝いた。カードに描かれた魔法円が薄らいでいくと同時に、わたしだけを風の盾が包み込む。
「ヨハネスーっ!!」
まるで宿敵の名を叫ぶように、声を荒げた阿南くんの手には、青銅色の剣が握られていた。それは、模造刀やおもちゃなんかじゃない。わたしのこうもり傘に刻まれていた魔法の文字と同じものが、剣身に刻まれ、淡く光っている。そして、なにより、その刃は荘厳な輝きを持っていた。
阿南くんは、ヨハネスの間合いに駆け込むと、目の前で、青銅色の剣を振り上げた。ヨハネスもそれに応じて、魔法の杖をかざす。二つの武器は、青白い火花を散らしながら、激しい金属音を上げてぶつかり合った。
「『ノートゥング』か……! 懐かしいな、あなたの身の丈に合わないその剣で刺された時の事を、今でも昨日のことのように思い出す」
吐き捨てるようにそういうと、ヨハネスはその細い腕から想像もつかないくらいの力で、阿南くんの剣を押しのけた。二人は、間合いを取ると、お互いに武器を構え、にらみ合う。まるで、時代劇の決闘シーンのようだ。
わたしは、ただ呆然とその光景を眺めていた。いつの間にか、背後に人の気配。だけど、わたしは振り返る気力もなかった。彼女は、そんなわたしの傍までやってくると、わたしの周りに突き立ったカードを一つ引き抜いて、風の盾を払いのけた。
「中野さん、しっかりして」
草色のスカートに、薄いブルーのパーカーという地味な私服姿だけど、顔の三分の一を占領するほど大きな丸ぶちのメガネ、ちょっと後ろ髪の跳ねた短いクセ毛、阿南くんの仏頂面と違い、どんな状況でも冷静な顔は、あのB組の占い少女、中禅寺さんだった。
「中禅寺さん……どうして、ここに?」
「細かい説明は後よ。立てる? 阿南くんがヨハネスをひきつけている間に、ここから逃げ出すの」
涼やかな風が通り過ぎるような声で、中禅寺さんは淡々と言うと、わたしの腕を強く掴んだ。そして、わたしを立ち上がらせ、その腕を自らの肩にかける。
「なるほど、『ワルブルガの魔女』がまた残っていたとは思わなかったわ」
阿南くんとにらみ合ったままのヨハネスが、振り返りもせずに言った。中禅寺さんは、さほど驚いた様子もみせないで、
「残念だけど、わたしは『ワルブルガの魔女』じゃない。その遺志を継いだだけ。このカードの持ち主だった、母の遺志を……」
と、冷静に返した。
「なるほど、差し詰め『ワルブルガの遺児』と言ったところね。面白いわ、トーコ以外に魔法を使える人間が、この世界に残っていたなんて。でも、あいにくね、この一帯に、人避けの魔法と結界を張ってあるの。この場に入ってきたが最後、わたしを倒さない限り、ここから出ることは出来ない。トーコを助けに来たつもりだったんでしょうけど、カードと言う触媒を用いるあなたの魔法じゃ、わたしには勝てない」
「分かってるわよ、そんなこと」
「思い出すわ、十三年前、トーコとあなたの母親、そしてそのお仲間たちがわたしを魔法空間『フェルド』に誘い込んだ日のことを。今はまさにその逆。力及ばないあなたたちが、こうしてわたしの作った結界の中におびき出されている」
何故かヨハネスは楽しそうに笑った。笑える状況じゃないはずなのに。青銅色の剣を構えた阿南くんと、カードを握る中禅寺さんに囲まれている。それなのに、ヨハネスの背中は余裕に満ち溢れていた。
「悪いけど、俺たちは過去ばかり振り返らないんだ。お前にもそうあってほしかった」
阿南くんが、静かに言った。
「だから、わたしの記憶を封じたつもりだったんでしょうけど……、忘却の魔法はかけるのが簡単な分、解くのも簡単なのよ」
「解いたのは、おまえ自身じゃないだろ? そうじゃなきゃ、お前は中野にこんなひどい仕打ちをすることなんて出来るわけがない」
「ちがう、わたし自身よ。もっとも、段階的な解除だから時間が掛かった。もうすぐわたしは、ヨハネスとしての記憶をすべて取り戻す。その時、わたしは五百年の宿願を果たすの。さあ、ユストゥス! わたしの魔法書を返してっ!!」
「俺は、ユストゥスじゃないっ! 阿南結宇だっ」
声を荒げ、阿南くんはメガネを投げ捨てると、青銅色の剣を両手で握り締めヨハネスに飛び掛った。ヨハネスは仮面の隙間から、僅かにため息を吐き出すと、杖の先を阿南くんめがけて掲げ、魔法の言葉を唱える。
「冥府の大地を凍らせる重力、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ!! タイルヒェン・レーゲン!」
あれは、ノインテーターを押しつぶした魔法。危ないよ、逃げて! とわたしが叫ぼうとした瞬間、中禅寺さんが左手にした、カードを投げつけた。カードは阿南くんの頭上まで飛んでいくと、強く輝き魔法の力を発揮する。
「エーアデ・バックラー」
輝きとともに、カードに描かれた魔法円が紐解かれ、阿南くんの頭上を、土の壁が覆いかぶさった。瞬間、ヨハネスの魔法が土の壁をぺしゃんこに押しつぶす。
「デコイのつもりかっ! こしゃくなマネをっ!!」
ヨハネスは唸ると、地面を蹴ってあとずさり、寸でのところで、剣の切っ先をかわす。すると、阿南くんの剣はそのまま、地面にぶつかって、思いもよらないような力で、アスファルトを抉った。
「さすがは、ニーベルング伝説に謳われる英雄の剣『ノートゥング』……。あなたには惜しいほどの、切れ味ね」
「お前を支配する、悪魔を打ち滅ぼすために、手に入れた剣だ。お前が、どうしてもヨハネスに戻りたいと言うのなら、五百年前と同じように、俺がこの剣でお前を救ってやる」
「結構よ」
ヨハネスは冷たく言い放つと、杖を構えなおす。きらり……不意に、黒いローブに覆われたヨハネスの胸元で、何かが光った。あれは……。
「フライセン! ドンナー・レーゲン!」
ヨハネスの杖が淡く輝きを帯びる。阿南くんの頭上に、闇の空間が開き、ばちばちと放電の音が聞こえたかと思うと、一瞬の間に、阿南くんの体を稲妻が包み込んだ。
「阿南くんっ! 逃げてっ」
闇の稲妻が阿南くんの体を灰に変えるまで燃やしつくす様に、わたしは叫んだ。だけど涙で枯れた声は、阿南くんには届かない。イルリヒトを失い、ヴェステンを守れずに、そして阿南くんまで失ってしまうなんて、嫌だ。わたしの友達を返してっ!! 心の中で再びヨハネスへの憎悪が湧き上がる。すると、まるでそれに呼応するかのように、憎悪の文字が更に加速して、わたしの腕にまとわりつき、黒い染みになっていく。
「ダメよ、中野さん! 心を鎮めて。阿南くんなら大丈夫。ノートゥングの『魔法障壁』が彼を守ってくれるから!」
わたしの手をぎゅっと握って中禅寺さんが言う。
「何っ!?」
うろたえたのは、ヨハネスだった。黒い雷が徐々にその力を弱め、代わりに、阿南くんの体を青白い光が包み込んでいる。魔法? 違う。青銅色の剣に刻まれた文字が強く光り輝き、阿南くんを守ったんだ。
「ゲシュペンスト襲われたときも、こいつを持っていれば良かったんだけどな。あいにく、俺にはほとんど魔力はないから、バックラーの魔法は使えない。でも、この剣が俺を守ってくれる」
無傷の阿南くんはそういうと、剣圧で放電を払いのけた。
「『レーゲンの魔法書』も『器』もお前には渡さないっ! 中禅寺っ! 撤退だ、結界を破るんだ!」
「了解よ、阿南くん」
中禅寺さんが、草色のスカートのポケットから、新たなカードを取り出す。カードには、いくつもの魔法円が組み合わさった複雑な図形が描かれていた。
「これは、わたしの母が、前世のあなたを『フェルド』から逃がした時に使った、結界解除の魔法円」
そう言うと、中禅寺さんは空高く、カードを放り投げた。一際まばゆい光が、橋全体を覆う。すると、端の上空に、薄紫の光の文字が現れた。それらは、すべて魔法の文字。更に、アスファルトの上にも、薄紫の光で描かれた魔法円が現れる。そして、カードに描かれた魔法円が消えていくと同時に、それらは激しい振動と、勢いよくガラスが割れたときのような音を立てて、弾け飛んでいった。
「結界が崩壊するっ!?」
とヨハネスが唖然とするのを横目に、中禅寺さんは更にポケットから二枚のカードを取り出し、それを地面めがけて投げつけた。
「ヴァッサー・バックラー! フランメ・ランツェ!!」
二つの魔法の書かれたカードは、それぞれにその力を発揮させ、もうもうと水蒸気があたりに立ち込めた。わたしが以前、イルリヒトの力を借りてやったことのある、水蒸気の煙幕だ。
「逃げるぞ、中野っ!!」
煙幕を抜けて、こちらにやって来た阿南くんは、青銅色の剣で橋の対岸を指した。わたしに代わって、中禅寺さんが頷いて、わたしの腕を担いだまま走り出す。わたしは足をもつらせないようにするので精一杯だった。
ぽつり。
わたしの頭に何かが降って来る。わたしの涙が、頭の上にワープしたわけじゃない。遠雷の鳴り止まないどんよりとした雲の隙間から、大粒の雨が降ってきたのだ。だけど……、わたしにはもう傘がない。雨宿りを勧めてくれる、大切なパートナーも居ない。わたしの所為で、わたしは沢山のものを失った。
絶望は、わたしの心を空虚で埋め尽くしていく。そして、わたしの体を憎しみにあふれた文字が、真っ黒に染めていくのを、ただ、黙って受け入れるしか、今のわたしには出来なかった。
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