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39. 黒の侵食

 すでに、就寝時間を廻った住宅街は、静けさをまとっている。そんな静かな夜を駆け抜ける黒い影……ノインテーターは民家の屋根や、ビルの屋上、電柱の上を、ムササビかこうもりのように、巧みに飛び跳ねて渡っていく。イルリヒトの魔力探知を頼る必要もなく、わたしはその影を必死に追いかけた。

 イルリヒトはずっと、カンテラの中で震えたままだ。さっき、イルリヒトが言いかけた言葉。「ちゃうねん、ワイが怖いのは……トーコ姐さんの顔や」そんなこと、自分が一番良く分かってる。憎しみに歪んだ顔なんて、わたしだって鏡で見たくない。

 でも、わたしは弱いんだ。だって、わたしは普通の十三歳の女の子なんだ。当たり前のように笑って、当たり前のように怒って、当たり前のように泣く。綾ちゃんやソフィと、和歌ちゃんたちと変わりない、ありきたりな中学生なんだ。だから、転生だとか、世界だとか、そういうややこしい喧騒の中心にホントはいたくないと思うような、弱い人間だってことはわたしが一番良く分かってる。だけど、弱い人間だから、お母さんを殺された憎しみを、簡単に払いのけることができないんだ。

 ノインテーターの影を追いかけていくと、やがて、路が開ける。目の前には交差点があって、右に行けばオフィス街、左に行けば繁華、そして目の前に続くのは、街を縦断する川に掛かる一本の橋。ここを行けば、隣町へと繋がっている。その橋はアーチ状の鉄橋で、その一番高いところで、ノインテーターは脚を止めて、わたしの方を振り返った。

 辺りには、何故かここを通り過ぎる車は一台もなく、信号機が一時停止を促す赤色に点滅しているだけで、わたしは交差点の真ん中で立ち止まると、アーチの天辺を睨みつけるように見上げた。

 いつの間にか、どんよりとした雲の間で、ごうごうと不気味な雷鳴がとどろき、時折光を発していた。。その遠雷をバックに、ノインテーターは赤い瞳と銀色の大鎌をギラリと光らせる。わたしは、足元にカンテラを置くと、イルリヒトが止めるのも無視して、両手をノインテーターに向けて突き出した。

「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・レーゲン!」

 唱えるのは、黒の魔法。わたしの詠唱が終わると同時に、空中に闇が口を開く。だけど、ノインテーターは避けるそぶりも見せず、レインコートーのフードの中で、不敵な笑みを浮かべたままだった。

「いいのかぁ? 鉄の雨を降らせれば、コイツももろともだぜ?」

 と言って、ノインテーターが左手にしたヴェステンをわたしに見えるように突き出した。大嫌いな猫掴みで首の後ろを鷲づかみにされたヴェステンは、四肢をだらりと伸ばして、ぐったりとしている。もう抗う力も残されていない、そんな風だった。

「人質をとるなんて、最低っ!」

「最低か、いいねえ、その響きゾクゾクするぜ」

 ノインテーターはヒャハハと耳障りに笑う。わたしは悔しくって唇をかみ締めると、拳を握りつぶして、発生させた魔法をかき消した。

「どうして、こんなことするのよ! こんな回りくどくて、まだるこっしい嫌がらせなんてしなくても、直接私を殺せばいいでしょ?」

「それじゃあ、面白くねえ。怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖、それらに彩られた悲鳴ほど、俺さまを芯から満足させてくれる、上質なものはねえ」

 意に介さないようなことをスラスラと言うと、ノインテーターはいやらしく舌なめずりをする。そして、身軽にアーチの上から飛び降りると、着地の瞬間に地面を蹴って、わたしとの間合いを詰めた。

「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・ズィッヒェル!」

 振り下ろされるノインテーターの銀色の鎌に、咄嗟に唱えた鉄の鎌の魔法。ずしりとした重みが両手に伝わるとともに、わたしの鎌とノインテーターの鎌が激しくぶつかり合い、周囲につんざくような金属音が鳴り響いた。ギリギリと上から押さえつけられ、鎌と鎌が火花を散らす。

「甘いっつってんだろっ!」

 不意に横からの風。何事かと、確認する余裕もなく、ノインテーターの長い脚がわたしの横腹を叩いた。

「きゃあっ!!」

 バランスを崩したわたしの体が、一メートルくらい吹き飛ばされて、アスファルトに叩きつけられ、思わず悲鳴を上げてしまった。横腹の痛みは、骨折の治っていない肋骨にまで響き、尋常じゃない痛みに変わる。それでも、わたしは涙が零れ落ちそうになるのをこらえて、立ち上がった。

 秘策はあるんだ……。心の中で、わたしは反芻するように言った。

「そんなんじゃねえ。もっと、もっとゾクゾクさせてくれよ」

「変なトイフェルにはこれまで何度も出会ったけど、あんたが一番変態だね……」

 鉄鎌を構えなおして、わたしはいっぱしの皮肉を込めた。すると、ノインテーターはさも愉快そうに高らかな笑いをあげる。

「変態か……ちげえねえ! でもよ、お前の母親の悲鳴は、最高だったぜ。お前にも聞かせてやりたかったくらいだ」

「どうして、お母さんをっ!」

 胸の辺りがムカムカし始めるのを、なんとか押さえ込むように、鉄鎌の柄を堅く握り締めて問いかけた。

「現世のヨハネスが俺に命じたからさ。俺さまは、十三年前、前世のヨハネスに魔界から召喚された。だけど、やつの命令に従わなかったため、俺さまは二度と魔界には帰れないというバツを与えられたのさ。言ってみれば、魔界と言う帰る家をなくして、人間界と言う荒野に打ち捨てられたって訳だ。だけどよ、ある日ひょっこりと、転生したヨハネスが俺の前に現れてこういったんだ……」

『わたしに協力し、我が宿願を果たすならば、お前のバツを取り消そう』

 ノインテーターの前に現れた現世のヨハネスはそう言った。もちろん、十三年の間、人間界を彷徨ったノインテーターにとっては願ってもない申し出だった。なにをすればいい? 嬉々としてノインテーターが問い返すとヨハネスは、

『器の少女、今は、中野東子としてこの世に転生した器を、真の器とするため、少女の心を悲しみで埋め尽くし、絶望の中でその心を空っぽにする協力をして欲しい。そのために、お前がするべきことは、お前が大好きな悲鳴を集めることだ』

 と、命じた。そうして、ノインテーターはヨハネスの手先に返り咲き、わたしの心を悲しみで埋め尽くすため、わたしのお母さんを殺した。その過程で、ノインテーターは罪もない、全く関係のない人まで、沢山殺めていったのだ。

「中でも、最高だったのがお前の母親の悲鳴だ。あれは、ゾクゾクしたな」

 再び、耳障りな声で、ノインテーターが笑う。わたしは悔しくて仕方なかった。ヨハネスの宿願だとか、器の少女だとか、訳の分からないことのために、失われなくてもいい命まで、失われた。そして、今また、ヨハネスの左手で、わたしの大切な家族が死に直面している。

 許せない! 絶対に許しちゃいけないっ! 

「そうだ、そうやって心を歪ませろ。憎め、悲しめ! ゾクゾクする悲鳴をあげろっ!!」

「うるさいっ!! ヴェステンを放せっ、死神っ」

 わたしは、地面を蹴った。鎌を両手で振りかぶり、ノインテーターとの間合いを詰める。だけど、ノインテーターは落ち着いた顔で、片手で持った銀の鎌でわたしの攻撃を軽くあしらった。わたしの体はまたもやバランスを失い、膝から地面に落ちる。そして、次の瞬間、ノインテーターの鎌の切っ先が、わたしの喉元を捉えた。

 だけど、その刃はわたしの首筋を引き裂く前に、ぴたりと止まる。

「本当はな、お前の悲鳴を聞くためなら、お前を傷つけるなというヨハネスの命令を無視してでも、殺してやりたいところだが、どうやら早くも時間切れらしい……」

 ノインテーターの言葉のすぐ後、背後で気配がした。その気配は、交差点の端にわたしが置いた、イルリヒトのカンテラを拾い上げると、それを手にして、ゆっくりと足音を響かせながら、わたしに近づいてきた。

「心は、水のようなもの。体は、それを湛えるための器。たとえ、世界一の魔力を秘めたあなたでも、人間であることに変わりはない。でも、世界一の魔力を持つあなたの、無限の可能性ある体は、あの人に相応しい……」

 ノインテーターによって喉元に、銀の鎌の切っ先をあてがわれ、それが誰の声だか確認することは出来なかった。だけど、振り返らなくても、それが誰だかわかった。黒いローブ。宝石のはめ込まれた魔法の杖。顔は意味深に仮面で隠した、黒の魔法使い。ヨハネス、またの名を祝福されしものと言う……わたしにとって、もう独りの仇。

「絶望は人の心を壊してしまう。わたしに必要なのは、あなたの体、即ち『器』だけ。トーコという人格も心も不必要。そして、絶望の果てにあなたの心が空っぽになれば、わたしの五百年の宿願は果たされる。すべては天界で待ち望む『グレートヒェン』のため」

「つまり、ヨハネス……あなたは、最初から空っぽのわたしが欲しかっただけ? だから、ザントに殺されそうになったわたしを助けてくれたの?」

 わたしは、後ろを振り向かず、ただじっと虚空を見つめて、ヨハネスに問いかけた。

「そうよ。でも、その前に色々とするべきことはあった。料理で言えば、下準備と言ったところかしら……。あなたが、きちんと魔力に目覚めること。そして、悲しみと言う暗闇を彷徨うこと。前者は苦労したわ。何故か前世のトーコは、記憶を消してあなたに転生した。ヴェステンは、前世のトーコが転生魔法『ヴィーダー・ゲブーアト』に失敗したと思い込んでいたようだけど、そうじゃない。前世のトーコは自ら、記憶を消したの」

「どうして……?」

「さあ、そればっかりは、トーコ本人にしか分からないわ。ただ、記憶を封じる魔法は、とても簡単な魔法なのよ。特に術者が自分自身に向けてかける場合は、たとえ初心者でも容易にかけられる。一種の自己暗示みたいなものだから」

 とても楽しそうにヨハネスが笑う。その時、わたしはふと阿南くんの『せっかく、あいつの記憶を封じているって言うのに』と言う言葉を思い出していた。あいつ、って誰のことなの?

「でも、記憶が封じられていたおかげで、あなたは十三年もの間、魔法や自分の正体を知らないまま過ごしてきた。でも、それがわたしにとって好都合に作用した面もあるの。あなたは、両親の愛を一身に受けて育ってくれた。家族との絆が深ければ深いほど、それを失えば絶望は深くなる。結局、あなたは母親を殺され、悲しみと言う暗闇を彷徨い、その結果、前世のトーコが最後に逗留したあの洋館『魔女の家』に引っ越してきて、ヴェステンと出会い、魔法の力に目覚めた。順序は前後してしまったけれど、あとはその心を砕いてしまえば、あなたは真の器となる」

 わたしの頭に疑問符が去来しているのなんか知らないで、随分と饒舌にヨハネスは語る。

「そのために、ヴェステンを動物病院から攫ったの? そして、何の罪もない医院長先生まで傷つけて……」

「昔から言うじゃない。目的のためには、多少の犠牲はやむをえないって」

「だったら、あんたたちが死ねばいいっ! フライセン! アイゼン・シュパイクっ!!」

 わたしは顔を上げて叫んだ。ここへ来るまでの間、走りながら魔法をいくつか固定してきた。勿論、それはすべて秘策のためだ。固定を解かれた魔法は、ノインテーターの背後から出現する。アスファルトを割り、地面から鉄のスパイクが隆起して、ノインテーターの背後を突く。

「しゃらくせえっ!!」

 ノインテーターは唸り声を上げると、橋のアーチぎりぎりの高さまで跳躍して、スパイクを回避する。勿論それは織り込み済みだ。わたしは、ノインテーターの銀の鎌がわたしの首から外れた隙をついて、立ち上がる。

「アインっ! ツヴァイ! ドライっ!!」

 続けざまに、ノインテーターの上空に三本のスパイクを出現させる。「何っ!? 上からシュパイクの魔法だとっ」と叫ぶと、慌ててノインテーターは、銀の鎌を振り上げ、スパイクを切り刻んだ。今だ!

「フライセン! ドンナー・レーゲン! フライセン! ドンナー・シュパイク!!」

 わたしは、ノインテーターとの距離をとりながら、固定しておいた魔法を解放する。上空と地上両方から、雷が湧き起こり、二つの稲妻の先端がぶつかり合った。

「くらえ、わたしの秘策!! 冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・レーゲン!」

 わたしの前に闇が口を開き、無数の鉄片がノインテーターめがけて現れる。そして、その刃はちょうど稲妻のぶつかり合うところを通り抜けた。その瞬間、電撃をまとった鉄片の飛翔速度が一気に加速する。

「やべえっ!!」

 ノインテーターの焦る声が早かったか、それとも鉄片がノインテーターを射抜くのが早かったか、わたしには分からなかった。鉄片は満遍なくノインテーターの体を貫き、その左手からヴェステンを取りこぼした。わたしは慌てて走り、上空から落ちてくるヴェステンの体をキャッチした。

「ヴェステン……」

 わたしが名を呼ぶと、ヴェステンは少しだけ瞳を開いた。

「トーコ。だめだよ。これ以上黒の魔法を使っちゃ……心が、闇に囚われる」

 うわごとのようにヴェステンは言う。わたしは、そっとヴェステンの、まだ少しだけぬくもりのある、小さな体を抱きしめた。

「なるほどね、電気(レール)砲の原理か……。魔法と魔法を組み合わせるなんて、さすが『ヘレネー』の転生者ね」

 冷静な、ヨハネスの声。仮面の所為で少しだけくぐもって聞こえるけれど、今更ながらにその声にわたしは緊張した。ヨハネスは、イルリヒトのカンテラを手に、ゆっくりとわたしに近づいてくる。

「どけろっ!! ヨハネスっ! コイツは俺が殺すっ!!」

 突然上空からの声。わたしとヨハネスはほぼ同時に、顔を上げた。全身に鉄片を突き刺したまま、緑色の血を流したノインテーターの銀色の鎌がわたしの目の前に迫る。

「冥府の煉獄に鍛えられし鉄……」

「ダメぇっ!!」

 わたしが魔法で迎え撃とうとした瞬間、ヴェステンが最後の力で叫び、わたしの手を強く噛んだ。

「愚かな……もう充分働いてくれた。お前を望みどおり、魔界に帰してやろう」

 不意にヨハネスの声がとどろく。

「冥府の大地を凍らせる重力、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ!! タイルヒェン・レーゲン!」

 一瞬何が起きたのか分からなかった。ヨハネスが魔法の言葉を唱え、ノインテーターに向けて杖を掲げた瞬間、ノインテーターの体が上下ペシャリとつぶれたのだ。断末魔の悲鳴を上げる余裕もなく、ノインテーターは灰になってしまったと、気がついたのは、あたりが静かになり、遠雷の音だけが鳴り響いたその瞬間だった。

 あまりにあっけない、仇の最後にわたしは呆然とするほかなかった。湿った風にあおられて、キラキラと飛び散っていく灰は、あの殺人鬼の亡骸にしては、とても綺麗だなんて場違いなことを思ってしまう。

「さて、邪魔者は居なくなった……」

 ヨハネスが言う。わたしは、ヴェステンを抱きかかえて立ち上がった。と、その時だった。ヴェステンが噛みついた、わたしの手の傷が、ものすごく熱くなる。そして、ヴェステンの歯形から、もうもうと黒い霧のようなものが立ち上ってきた。

「何、これっ!?」

 霧は渦を巻いて、わたしの手に取り付くと、見たこともない文字に変わる。そして、指先から徐々にわたしの手は真っ黒に染め上げられていった。どんなに振り払おうとしても、霧はわたしの腕から離れない。焦れば焦るほど、わたしの手は黒くなっていく。

「いやっ! ひゃぁっ! 取れないっ」

 おぞましいほどの恐怖が、憎悪が体から黒い霧となってあふれ出してきて、まともに立っていられなくなったわたしはその場にしりもちを突いて倒れた。

「『黒の侵食』……悪魔との契約のないものが、憎悪に任せて黒の魔法を使い続けていればそうなる。それは、あなたの絶望へと繋がるの」

 仮面の下のヨハネスが、笑ったような気がした。そして、ヨハネスはイルリヒトのカンテラを放り投げると、

「さあ、裏切り者のあなたも魔界にお帰り、イルリヒト」

 と妙に優しく語り掛けるように言って、杖をかざした。杖の先端に取り付けられた紫色の宝石が、鈍く輝きを発し、魔法のガラスで出来ているはずのカンテラが、パリンと音を立てて割れた。ううん、砕け散ったと言うべきかも知れない。

「と、トーコ姐さんっ!! ワイ、魔界になんか帰りたくないっ。姐さんたちと一緒にいたいんや……!」

 叫びも空しく、空中に投げ出されたイルリヒトの体が灰になっていく。わたしは、イルリヒトの名を叫んだ。だけど、炎のトイフェルは裏切り者の烙印を押されたまま、虚空へと消えてしまった。

 じゃりっ。ヨハネスが、砕け散ったカンテラの残骸を踏みつける。

「まんまと、誘いに乗ってくれてありがとう。イルリヒトは、感づいていたみたいだけど、ノインテーターはこの場所にあなたをおびき出してくれた」

「誘い?」

 わたしは、黒く染まっていく腕から目を逸らして、ヨハネスに問いかけた。

「そうよ、ヴェステンを使って、あなたをここにおびき出してくれたの。ここはね、黒の元素『鉄』『雷』白の元素『水』『風』『土』、五つもの魔力が集まるポイントなのよ」

 ヨハネスはそう言って、空を指差した。どんよりとした雲の間に光が走り、遠雷がぢょぢょに近づいていることを知らせる。そして、鉄で出来たこの橋の下には、川が流れていて、その上を下流からの風が吹き上げ、土手の土を舞い上げる。

「現代人はそれをパワースポットなんて呼ぶけれど、パワースポットなんて何も特別な場所のことじゃないの。世界中の至る場所に五万と点在してる。どうしても人間は、神秘性と結び付けたがるから、こんな何の変哲もない橋の上がパワースポット、だなんて思いもしないわよね」

「どうして、わたしをここに……」

「簡単なことよ。ノインテーターと戦い、黒の魔法を使ってくれれば、やがてトーコの人格は憎悪に耐え切れなくなって『黒の侵食』が始まるの。この場所は、それを加速させる。そして、侵食されたあなたは絶望の扉を開き、あなたをグレートヒェンのための、器に変える。つまり、真の器の完成よ」

 つまり、罠だったってこと? ヴェステンを攫ったのも、この場所へやってきたのも、すべてヨハネスの罠? わたしが、イルリヒトの忠告も、阿南くんが止めるのも聞かずに、無鉄砲に走ったから? 体がずんと、重たくなる……。黒い文字は、どんどんわたしの腕に張り付いていく。もう肩口まで真っ黒だ。

「残念だけど、あなたを絶望させてあげる……」

 ヨハネスは、そう言うとまた一歩わたしの方に近づいてきた。そして、わたしの目の前で膝を折ると、静かにしゃがみ、左手をヴェステンの体に刻まれた「9」の刻印にあてがった。そして小声で呪文を唱える。

 わたしはそれをただ呆然としながら見つめていた。黒い憎悪の文字は、まるでわたしの体に鎖を巻きつけていくような感覚でどうしても体が動かない。

「さようなら、ヴェスくん」

 わたしにではなく、ヴェステンに向かって親しみあるような口ぶりでそう言うと、突然ヴェステンの体が光の粒に変わっていく。そして、その一つ一つの結びつきがほどけていくように、光の粒はわたしの手を離れて、ふわりふわりと空中に舞い上がっていった。

「ヴェステン……ヴェステンっ!! いやぁっ! ダメだよ、わたし独りにしないでっ!!」

 宙に霧散する光の粒の、最後の一粒を掴もうと手を伸ばした瞬間、それは儚く解けて消えた。わたしの手が震える。全身が凍りつく。何が起こったのか理解できない。ちがう、理解したくないと、心が叫んでる。

 生意気で、ムカツクやつだけど、いつもわたしのことを心配してくれる、大好きな家族がまた一人、わたしの前から消え。これは夢だって、幻だって、ヴェステンが消えたという事実に目を背けたいのに、もうこの手にヴェステンの重さもぬくもりも感じられないことが、否が応でもわたしにその事実を、冷酷に突きつけた。


 ごめんね、トーコ……。


 心の深くにヴェステンの声が響いたような気がした。不意に、わたしの瞳から涙が溢れ出す。ずっとこらえていたはずの涙が、ぽろぽろと頬を伝って、落ちていく。そんなわたしの肩に、ヨハネスはそっとやさしく触れた。仮面で表情までは分からないけれど、どこか優しく微笑んでいるような気がした。

「ヴェスくんは、無に帰ったわ。さあ、泣きなさい……。憎悪に身をゆだねた自らの過ちに、絶望しなさい。そして、わたしに従いなさい」

 そう言うと、ヨハネスはわたしを抱きしめた。


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