38. 爆発
イルリヒトのオレンジ色の光に照らし出された、ラフな姿の阿南くんは、わたしのことをじっと見つめると、
「怪我はもういいのか? 安静にしてなきゃいけないんじゃないのか? 綾のやつ、すごく心配していたよ。危ないことしやがって」
と、矢継ぎ早に言った。確かに、頭と腕、阿南くんからは見えないけれど胸にも包帯を巻いた姿を見れば、誰だって心配になると思う。心配してくれることは、とても嬉しいことのはずなのに、今のわたしはそれに耳を貸すつもりはなかった。わたしは、阿南くんに向かってイルリヒトのカンテラを突き出した。
「何だよ、中野、怖い顔して……。ゲシュペンストとかっていう、幽霊そっくりだぞ」
「そうかもね」
わたしがそう言うと、阿南くんはメガネの奥で険しい顔をして、やや身構えた。
「どういうことだよ?」
「あの日、ヨハネスの命令を帯びたゲシュペンストは、このイルリヒトを使って『生命の魔法書』を探してた。イルリヒトには、『光』と言うその名の通り、強い魔力を感知する力があるの。ちょうど、暗い海を照らす灯台のようにね。だから、あの夜、イルリヒトは『生命の魔法書』が発する強い魔力を追跡していたのよ」
記憶を手繰り寄せなくても、あの日のことは良く覚えている。俄かに起きた幽霊騒ぎ、その正体をトイフェルのゲシュペンストだと見極めたわたしたちは、夜な夜なゲシュペンストを追いかけた。そして、三日目の夜、ようやくその尻尾を掴んだとき、ゲシュペンストの目の前には、阿南くんがいた。
「ねえ、イルリヒト、今、阿南くんから強い魔力を感じる?」
と、イルリヒトに振ると、イルリヒトはカンテラの中で、ふるふると頭を左右に振った。
「でもあの時、たしかにコイツから、強い魔力を感じたんや。それは間違いないで。せやから、ザントは学校中を眠らせて、コイツを連れ去ろうとしたんや」
「つまり、イルリヒトはあの夜、阿南くんじゃなくて、別のものから発せられる魔力を感じ取っていたってことだよね……?」
「もったいぶった言い方するなよ! 何が言いたいんだよ、中野!」
多少イラついたように、阿南くんが声を荒げた。いつも冷静な眉が、今はつりあがっていて、ともすれば気圧されてしまいそうになるけれど、それにも増して、わたしの眉の方がつりあがっていたのかもしれない。
「単刀直入に言うね。『生命の魔法書』を渡して。どういう事情があって、阿南くんがそれを持っているのかは知らないし、今そんなことを問いただしている余裕はないの!」
わたしはカンテラを持っていない方の、左手を差し出した。だけど、阿南くんは微動だにせず、わたしを睨みつける。「生命の魔法書」があれば、ヴェステンを救えるかもしれない。そして、それはノインテーターに対する大きな武器になる。更に言えば、ヨハネスが捜し求めている魔法書を手中に収めれば、ノインテーターにお母さんを殺すよう命じた元凶とも言えるヨハネスに、復讐できる。それが、阿南くんを呼び出した目的だった。少ない情報をえり分けて、何とか導き出した答えだった。
阿南くんが「生命の魔法書」を持っているという予感はあった。ただ、確信がなかっただけ。友達だから、疑ったりしたくなかったんだ。でも、そんなことを言っていられる状況じゃない。阿南くんは、きっとすべて知っている……。
だけど、阿南くんは「前にも言ったけど、そんなもの知らない」と、あくまでシラをきるつもりみたい。
「嘘つかないで! ゲシュペンストに襲われた夜、阿南くんが持ってたあの紙袋の中身、それが『生命の魔法書』なんでしょ? 何処に隠したの?」
そっと、カンテラの扉に手をかける。驚いたのは、イルリヒトだった。何をするつもりなの? と言いたげな瞳は、とてもつぶらで潤んでいて、わたしは胸が少しだけ痛んだ。
「脅迫するのかよ。そんなやつだと思わなかったよ」
阿南くんは、深く長いため息を吐き出した。
「それで、『レーベンの魔法書』……を手に入れて、どうするつもりなんだよ。あれは、とっても危険なものなんだ」
「分かってる。でも、ヴェステンを、わたしの相棒を助けるためには『生命の魔法書』が必要なの!」
「確かに、あの本に書かれてる魔法が使えたら、死の淵を彷徨う、あの猫の魂を呼び戻せるかもしれない。いや、ノインテーターの死の刻印を打ち消すことができるのは『レーベンの魔法書』だけだ。でも、レーベンの魔法を使うことは、自然の理を壊すことだ。世界を混沌に変えてしまう。生きるべき命、死ぬべき命は、すべて自然に決まっていることだ。それを自由にしていい権利は、お前にも俺にも、神さまにだってないんだ!」
「だから、ヴェステンは望んでないなんて、お約束を言うの? そんなの関係ない! わたしが、ヴェステンを助けたいの。死ぬべきなのは、ヴェステンなんかじゃない! 命を自由に扱っているのは、ノインテーターの方だよ! わたしのお母さんを、ううん、最期の悲鳴を聞くためだけに、笑って沢山の命を奪ってきたのは、あの悪魔だ! さあ、魔法書を渡して!」
金切り声と言うのだろうか。わたしの声は、公園中を甲高く響き渡った。阿南くんは、そっと身構えるように体を引く。
「それじゃあ、あいつと……ヨハネスと何のかわりもないよっ! せっかく、あいつの記憶を封じているって言うのに、お前が、ヨハネスの代わりをしてどうするんだよ。思い出せ、魔界の王から世界を守ること、それが俺たち転生者の使命だろ、トーコっ!!」
阿南くんが何を言っているのか良く分からない。でも、やっぱりわたしの予感は的中。阿南くんは、わたしの知らないことまで知っているみたいだ。ずっと、魔法とか魔物とか、そういう世界と無縁なフリをしていたんだ。いまさらながら、阿南くんの目が怖くなった。でも、今はそんなこと関係ない。脅しでもなんでもいいから、とにかく「生命の魔法書」が欲しい。
「あ、姐さんっ!!」
突然、カンテラの中のイルリヒトが、ブルブルと震えた。そちらに目を遣ると、イルリヒトは、ガラスのカンテラの中で、怯えきった口調で、「ヤツや、ヤツがきた……」と口走った。その瞬間、足元を揺らす地面を抉るような振動と、地鳴りのような轟音が当たりに響き渡った。そして、僅かな衝撃を感じた後、わたしたちのすぐ近くで、爆発の煙が上がった。
「あれはっ!?」
そう叫んで阿南くんが指差したのは、住宅地の真ん中から、ごうごうと燃え上がる炎と煙。ただ、火事じゃない……そう直感的に思ったときには、わたしの脚は走り出していた。
「中野っ! 待ってっ。何処へ行くんだよ」
「あそこには、ヴェステンの居る動物病院があるのっ!!
わたしの後を追いかけてくる阿南くんに、振り返らずそう叫んだ。どこかから、「火事だーっ!」と言う叫び声が聞こえてくる。誰かが通報したのだろうか、遠くに消防車と救急車のサイレンも聞こえていた。胸騒ぎがする。嫌な予感なんて、生優しいものじゃない。すっかり縮こまったイルリヒトが、怯える理由は一つ。ノインテーターだと、わたしの背筋を駆け巡る悪寒が言っていた。
住宅街の道を何度か曲がる。地理には疎いけれど、まっすぐ炎と煙を目指した。意外に遠く、わたしたちが動物病院の場所までたどり着いたときには、あたりに黒山の人だかりが出来上がっていた。すでに、あの緑の屋根の動物病院は炎に包まれ、全焼の勢いだった。
「下がって、下がって!! 危ないですから、下がってください!!」
と、銀色の耐火服に身を包んだ消防士さんたちが、集まったギャラリーを押しのけて、放水を開始するものの、火の勢いは強く、ホース一本では焼け石に水状態だった。
「なんでも、ガス漏れに引火したそうよ」
「こわいわねぇ」
対岸の火事といった雰囲気に、寝巻き姿で現場に集まった人たちが、口々に言う。きっとみんなの頭の中には「ウチじゃなくてよかった」という、身勝手な安堵があったのかもしれない。それでも、動物病院に家族同然のペットを預けている人たちは、みんな一様に青ざめた顔をしていた。わたしも、同じ気分だった。動物病院の一番奥にある、病室のケージの一つには、ヴェステンが入っていた。
わたしは最悪の事態を思い描かないように強く頭を振って、あたりを見渡した。散水する赤い消防車の奥に、白いバン。側面には、消防庁の名前と緑色の十字架、「救急車」の文字。ちょうどその後部の扉が開き、担架が積み上げられようとしていた。わたしは、人ごみを掻き分けて、救急車に駆け寄った。
「先生!」
わたしがそう叫ぶと、ヘルメットを被った救急隊員がちらりとわたしのことを見る。だけど、わたしを制止したりしなかった。それよりも、応急処置に負われている感じだった。
担架には、動物病院の先生が載せられていた。白衣の裾や白い口髭は焼け焦げているけれど、どこにも火傷の後はない。わずかに、お腹の辺りを怪我をしている程度だった。すると、わたしに気付いた先生は枯れた声を上げ、わたしに手をを伸ばす。わたしは、ぎょっとした。その手には、赤黒く焼け爛れた跡のような、「9」の刻印があったのだ。
「おお、お嬢さんは……黒い雨合羽の男が、あの猫を、あの猫を」
先生はそういうと、そのまま気を失った。そして、それを合図にするかのように、白衣に真っ赤な血が滲む。救急隊員の人が、慌てて声をかけたけど、先生は目を覚まさなかった。
「まずいな、急激に意識レベルが低下してる! どうしてだ!? くそっ! すぐに出してくれ!」
怒号にも似た、救急隊員の人の声に合わせて、担架は救急車の荷台に積み上げられた。そして、乱暴に扉を閉めるなり、耳に痛いサイレンの音を鳴り響かせて、救急車は走り出してしまった。
お母さんのときと同じ。「9」の刻印を刻まれた人の血は止まらない……その命が絶えるまで。もっと正確に言うなら、刻印はその人の生きる力すべてを奪い去る、「死の宣告」なんだ。わたしは拳をぎゅっと握り締めて、先生を病院へ運ぶ救急車の、赤いテールランプを見つめた。
先生が言った、黒い雨合羽の男……ノインテーターに間違いない。ヴェステンを攫うために、ノインテーターが動物病院を襲ったんだ。わたしは、人ごみから離れ、通りの角を曲がると、カンテラを振った。相変わらず、イルリヒトは怯えて小刻みに震えている。
「イルリヒト! 今すぐ、ノインテーターの魔力を追って! そんなに遠くへは行ってないはずだよ。早くしないと、ヴェステンがっ」
「でも、姐さん! ワイ怖いねん!」
イルリヒトの炎はますます小さくなる。わたしはそんなイルリヒトに、イライラしてもっと強くカンテラをゆすってやった。
「キミもトイフェルでしょ!? 今度こそ、あいつを殺してやる。そんで、ヴェステン助けるんだ、心配しないで!!」
「ちゃうねん。ワイが怖いのは……」
「中野!」
まるでイルリヒトの言葉をさえぎるように、傍に駆け寄ってきた阿南くんがわたしを呼ぶ。
「まさかお前、独りでノインテーターと戦うつもり? 魔法の傘もないのに」
「こうもり傘なんてなくたって、黒の魔法がある。あいつを殺すのに、白の魔法なんか通用しないんだ。それに、今までだって、戦うのはわたし独りだった。何にも変わりないよ。白が黒になっただけ……」
「そんなことはないって。落ち着けよ、中野! お前は、ヴァイス・ツァオベリンだろ? 白の魔法使いが黒の魔法を使っちゃダメだ。二度と引き返せなくなる。白の魔法を使えなくなるんだぞ、それでもいいのか、中野!?」
阿南くんの手がわたしの肩をつかむ。その力があまりにも強くて、わたしは一瞬たじろいで、阿南くんの腕を無造作に振り払うと、鋭く睨み返した。
「うるさい。呼び捨てにしないで、お前って言わないで! これは、わたしの問題なの!!」
胸の奥に、黒々とした憎悪の塊が沸騰する。わたしの知らないことを知ってて、それを教えてくれないばかりか、知らないふりをしていた阿南くんさえも、憎い。魔法のことや「生命の魔法書」のことを知っているなら、どうして教えてくれなかったの? 何で隠したりしたの? どうして、協力してくれなかったの? もしも、阿南くんが協力してくれてたら、こんなことにならずに済んだかもしれない。そう思えば思うほど、阿南くんのことが嫌いになりそうだった。
だから、わたしはそのまま阿南くんが呼び止めるのを無視して、走り出した。胸の奥に湧き起こる憎悪と、友達を嫌いだなんて思うイヤな自分の姿に、わたしはとても気分が悪かった。
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