34. 敗北
「ますます、あんたの悲鳴を聞きたくなってきたぜ! 冥府の虚空に響く黒き雷鳴よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! ドンナー・レーゲン!」
子どものようにはしゃぎ、ノインテーターが浅黒い左手を突き出す。頭上に何度目かの闇の口が開き、パリパリと放電の音が鳴り響いた。
許さない……殺してやる。お母さんの仇をとるんだ! どす黒い感情だけが、頭の中を支配していたわたしには、冷静さなんかなかった。だけど、真っ黒な心の方が却ってしっくりと馴染み、知りもしないはずの魔法の言葉が、次から次へと思い浮かぶ。そう、憎しみに心をゆだねてしまえば、黒の魔法を唱えることは、白の魔法を操ることよりも容易かった。
「冥府に彷徨いし魂の嘆きよ、我が名と魔界の王の名において、其を消し去れ! ズィングシティメ・レッシェング!!」
わたしの言葉に呼応して、耳を劈くような、音があたりに鳴り響いた。闇の国からの悲鳴が、マイナーの和音を奏でつつ空間をゆがめ、ノインテーターの開いた闇の口を閉じていく。
「何っ!? 俺の魔法がかき消されていくだと! バカな!?」
はじめてみせる、ノインテーターの焦りの色。わたしは、その一瞬を見逃さなかった。黒いものが心の中に渦巻き、次に唱えるべき魔法の言葉が、まるで眼前に示されているかのように思いつく。
「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・シュパイクっ!!」
「くっ! 何でもありかよっ!! ならばっ! 我が手に戻れ、魂を食らい尽くす『ノインの鎌』よ」
わたしの魔法が唱え終わるのに被せるように、ノインテーターは高く手をかざした。そして、黒い光の粒子がその手に集まると、それは一つの形を作る。黒の魔法で呼び出した鉄鎌よりも、ずっと柄が長く、波打つ刃はもっと凶悪ななりをした、銀色の鎌。それが、ノインテーターの言っていた「サビ鎌」であることに気付いたけれど、だからひるんだりしない。目の前に居るのは、何の罪もないわたしの大事な人をこの世から奪い去った、トイフェルよりも憎い殺人鬼。
「アイン!」
わたしの掛け声とともに、ノインテーターの足元から、鉄のスパイクが隆起する。もちろん、その一撃は容易くかわされてしまう。
「ツヴァイ!」
ノインテーターの背後からの、第二波。そして、それを器用にノインテーターがかわした瞬間、わたしは「sドライ! フュンフ!」の掛け声とともに、左右両脇から、鉄のスパイクの第三波、四波を発動する。
仕留めた心の中で、わたしの黒い影が叫ぶ。だけど、ノインテーターは左足を軸にくるりと回転すると、脇に抱えた、銀色の大鎌を振った。瞬間、鉄のスパイクが寸断される。
「そうだ……もっと心を捻じ曲げろ」
両手で持ち直した鎌をわたしに突きつけて、ノインテーターは僅かに口元を歪めた。
「笑うな! 人殺しっ!!」
「いいねえ、人殺しとは、俺にとっちゃ、最高の褒め言葉だぜ」
ヒャハハと、下品きわまりない笑い声が、玄関ホールに響き渡る。もう、あたりはめちゃくちゃだった。玄関扉は粉々に砕け散り、その残骸が散らばっている。そして、床は魔法の衝撃に抉れ、天井にも穴が開いている。だけど、そんなことはどうだっていい……。
「あかん! 心の根まで憎悪に囚われたら、抜け出せなくなる。闇は何処までも暗く深い場所なんや。姐さんは白の魔法使やないのんか!?」
カンテラから出られず、ただ状況を見守ることしか出来ないイルリヒトが、悔しそうに歯噛みして怒鳴った。だけど、わたしの耳には一切届かなかった。すべての神経が怒りと憎しみに震え、わたしの真っ赤な瞳は、ノインテーターを捉えて離さない。次の一撃で決める。その憎たらしい顔も、漆黒のレインコートも、ズタズタに切り裂いてやる! 鋭く敵を睨みつけ、また頭に浮かんだ魔法の言葉を口にする。
「冥府の閃光、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! すべてを滅ぼせ、焼き尽くせ! ケルン・エクスプ……」
「やめてっ!! トーコっ!!」
怒鳴り声にも似たヴェステンの叫び声が頭の奥に鳴り響き、わたしの魔法詠唱を寸での所で止める。見れば、ヴェステンは、まだ傷の癒えない体で立ち上がり、わたしを睨み付けていた。エメラルドグリーンの瞳が、悲しげな色に染まり潤んでいる。
「邪魔しないで! 白の魔法使いとか、世界とか関係ない! トイフェルだろうが何だろうが、わたしはこいつを許さない! 黒の魔法だって何だって、こいつの命を奪えるなら、それで構わないんだ! ヴェステンには関係のないことだよ!!」
「関係なくないよ! ぼくはトーコを守るためにこの世に生まれたんだ! ぼくの大事なパートナーが、憎悪に心を砕いてしまうのを見たくない! 優しいトーコに戻ってよう」
ヴェステンの必死の訴えにわたしは僅かにひるんだ。するとその隙に、ヴェステンの尻尾がゆっくりと持ち上がり、ふさふさした先端からまばゆい光がこぼれた。ヴェステンはその光で、空中に魔法円をすばやく描き上げる。
「キミの魔力を奪うよ」
短く、そう言うと魔法円がわたしの体まで飛んできてお腹の辺りに張り付いた。みるみるうちに残り少ない魔力が吸い取られ、体が重くなっていく。
「俺の楽しみの邪魔だ! 魔法生物! 冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・レーゲンっ!!」
唐突に、忌々しげなノインテーターの声が響く。その拍子に、ヴェステンの頭上に、闇の空間が開く。一瞬、すべてが凍りついた。鋭く尖った鉄の欠片が、雨のようにヴェステンの体を容赦なく貫いた。ヴェステンは何もいわないまま、鉄片を体につきたてその場に倒れた。ぐったりとした体の、その艶やかに黒い毛並みが、光って見えるのは、血まみれだからだ。
「さて、これで邪魔者は居なくなったぜ!」
ニヤつくノインテーター。遠くでイルリヒトが必死にヴェスの名を呼ぶ声がする。わたしはその声を振り払うように、なんども頭を振って、両手を胸の前に突き出した。
ノインテーターが、一足飛びに駆け出す。チャンスは一瞬。その大鎌を振り上げた一瞬だ。そう、今だっ!!
「冥府の閃光……っ!」
ところが、言葉に詰まる。体が急に重力に耐え切れなくなり、視界がぐにゃりと捻じ曲がり、ぼやけてくる。もう一度魔法を唱えるには、魔力が足りないんだと、悟った時にはもうすでに手遅れで、脚からフローリングの床に向けて力が溶け出していくみたいに、すっと抜けていき、わたしは立っていられなくなった。
「後もう一回だけ、もう一回だけ」
魔法を唱えさせて。わたしに、お母さんの仇を討たせて。お願い……。そう叫びたいのに、声が出ない。海に潜ったときのように息が苦しくて、もがきたいのに体中が鉛の塊になったみたいに動かなかった。ゆっくりと、ノインテーターの近づいてくる足音が聞こえる。残念だけど、もう悲鳴を上げる力も残ってないよ。
「ちっ、ガス欠かっ!」
不意にノインテーターの振りかざした鎌の切っ先が、あと数十センチと言うところで、ぴたりと止まった。
「面白くねえな。これじゃ、可愛い悲鳴が聞けないじゃねえか……つまんねえ」
吐き捨てるように、そう言うと、ノインテーターは銀色の大鎌を光の粒子に変えて収めて、くるりと踵を返す。そして、靴音を響かせながら、今度は虫の息となったヴェステンの元に歩み寄った。
「せめてもの置き土産だ、忌々しい黒猫に、俺さまの刻印を与えよう」
ヴェステンの傍にしゃがみ、浅黒い手のひらをヴェステンの背中のあたりにかざしながら、何事か小声で呪文を唱えた。その言葉までは聞き取れないけれど、ジュッと焼ける音ともに、俄かにヴェスの体に煙が立ち昇り、苦しそうな呻き声が聞こえてくる。
やめて、ヴェステンにひどいことしないで! 言葉にならない声で、酸素の足りない金魚のようら口をパクパクさせていたわたしの意識は、まるでロープが千切れるように、そこでぷっつりと途切れてしまった。目の前が真っ暗になり、途方もなく深い泥沼の底に沈み込んでいくような感覚とともに、わたしは、完膚なきまでに敗北したことを感じていた。
「光は影に、影は光に寄り添うように、白と黒の魔法は対極でありながら、同源のものだ」
それは、わたしがヴェステンから教わった言葉だ。白の魔法の根源は、慈愛の心。つまり優しさや思いやり。誰かを守りたいと願う気持ち。一方、黒の魔法の根源は、憎悪や恐怖の心。相手を憎み、殺したいと願う気持ち。
そのどちらも、わたしたち人間が生まれたときから持ち合わせている感情が根源となっている。その感情を魔力に乗せて、精霊の力を借りて発現するのが白の魔法で、悪魔の力を借りて発現するのが黒の魔法。魔法の言葉なんて、魔法を正しく発動し、誘導するための、オマケみたいなもので、魔力があるなら、その心に何を念じるかが一番大事なんだ。
「つまり、ヴァイス・ツァオベライだとかシュバルツ・ツァオベライだとか言っても、どちらも似たり寄ったりなんだ」
と、ヴェステンは教えてくれた。その言葉を用いるなら、ただ黒の魔法を使うだけなら、悪魔と契約する必要もない。心に憎悪を描きさえすれば、白の魔法使いが、黒の魔法を操ることは簡単だ。優しさも思いやりも捨ててしまえばいい。目の前に居る相手を憎み、殺してやりたいと思えばいい。あとは、白の魔法を唱えるよりもずっと簡単なことで、怒りや憎しみに乗せて魔法を唱えればいい。
だけど、闇は深い。例えるなら、真っ黒で静寂に包まれた世界。その世界に、一度心をゆだねれば、底から抜け出すことは難しい。人間は、あまりにも脆い生き物で、いつでも優しさに気を張って生きていくよりも、感情の発露するままに身を任せていた方がずっと楽で、どうしても楽な道を選ぼうとする。そうやって闇に堕ちて行けば、二度と白の魔法使いに戻ることは出来ないかもしれない。
そう言った意味でも、どちらが正しいことなのかは明白だ。人間は本能だけで生きているわけじゃない。もっとも賢い動物とよばれ、欲と悲しみに溢れた世界を生きていてなお、わたしたちがわたしたちで居られるのは、心の中にたった一握りでも、優しさという名の理性を持っているからだ。そうしなければ、きっとわたしたち人間は、ずっと太古の昔に滅んでいたかもしれない。だから、白の魔法使いは自分たちを、正義の味方と自負し、正しい心と向き合っている。
ノインテーターがお母さんの仇だと知ったとき、わたしはそれを分かっているのに、心を憎しみに委ねた。一握りの優しさなんか、握りつぶしてしまえば言いと思った。例え、心を歪めてしまったと、ヴェステンに罵られても、わたしはノインテーターを、冷酷な殺人鬼を許しておくわけには行かなかった。
それでいいんだ……わたしは間違ってない。だから、せめて後一度だけ、魔法が唱えられたら、わたしと家族の幸せを奪った、ノインテーターを殺すことができたら、それでいい。もう、他には何もいらないから……。
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