32. 魔法の鉄鎌
新学期が始まると、みんな「休みボケ」と言う言葉を実感する。頭がポーッとして、体が気だるい。始業式の教頭先生のありがたい訓示も、元気いっぱいの諏訪先生の声も、何処か遠くで鳴り響く秋の虫の音や夏の終わりを告げる雨の音のように聞こえてくる。
クラス全体がそんな雰囲気の中、ただ一人「休みボケ」のやの字も感じさせない人がいる。わたしの隣で、夏休み前と変わることなく、仏頂面してる阿南くんだ。もしかして、阿南くんって家でもそういう顔してるんだろうか。疲れないのかな? なんて思っていると、メガネの奥に潜んだ、切れ長の瞳がギロっとわたしを睨み付けてきた。どうやら、夏休みが始まったばかりの頃、わたしが阿南くんのことを尾行したのを、怒っているみたいだ。一ヶ月ぶりに逢ったというのに、今日はまだ一言も口を聞いていない。
問題が山積だっていうのに、ここで人間関係にまでヒビが入ったら、それこそ容量の少ないわたしの頭はパンクしてしまう。睨みつける阿南くんに、満面の笑みを返しつつ、心の中でわたしはため息をついた。
窓の外は、あの騒々しかった試験の日のような雨。だけど、しとしととグラウンドを打ち付ける雨の音は、あのときよりも物悲しい。秋雨というにはすこし早い気もするけれど、いずれにしても、雨は嫌いだ。そういえば、あの日も雨が降っていた。もっと冷たくて、もっと悲しくて、もっと痛いくらいの雨が……。
『お母さん! お母さん! やだよう……おかあさんっ』
『申し訳ありません。手は尽くしたのですが、現代の医学では手の施しようもなく』
『捜査は依然難航しており、犯人の目星もついていない状態です』
『いやあ、奇怪な事件ですよ。事件か事故か、警察も判断を苦しんだようですし……。巷ではウィルス説まで流れているくらいなのですから』
『来ないで! へんなビョーキがうつるじゃないっ!』
『すみません。俺の力が足りないばかりに』
『どうしてっ……わたし、犯人もあなたも許さないっ!!』
『いいか、東子。これからは、父さんと二人、母さんの分まで強く生きていこう……』
記憶の中では、ずっとずっと雨だった。本当は晴れの日だってあったのに、あの家に引っ越すまで、わたしの心の中には雨が降り続いていたんだと思う。どうしてだろう、浜名さんが我が家を訪れてから、わたしはそんなことばかり考えている。過去は振り返らない。あの日、お父さんと約束したはずなのに、半年以上も経って、再びわたしは、忘れてはいけないことを確認したような気がする。
「こーら、中野さん! 新学期早々、ぼんやりしてるのねえ。さぞ、わたしの話が嫌いみたいねえ?」
はっとなると、目の前にサタンさま……もとい! 諏訪先生の顔がある。先生は、すっとわたしのおでこに手を伸ばしてくると、ぺちりとデコピンする。
「痛いっ!」
「目がさめたかしら? もう、しっかりしなさいよ」
ひりひりするおでこを押さえてわたしが唸っていると、先生はそう言ってわたしの肩をぽんぽんと軽く叩いた。常にぼんやりした問題児のレッテルを貼られているわたしのことを、諏訪先生は少なからず気にかけていてくれる、と言うのは嬉しいことなんだけど、さっきのデコピンはホントに痛かった。
始業式のホームルームが終わり、部活に行く人、久々の旧友との雑談に花を咲かせる人、それぞれ三々五々に教室を出て行く。わたしも、帰り支度をしてから、綾ちゃんと一緒に教室を後にした。昇降口に下りると、湿気と雨の音が、スノコの上にまで密集している。
「中野……」
靴を履き替え、傘を差そうとしたわたしの背後で、阿南くんがわたしを呼び止めた。わたしが振り向くと、阿南くんは何故か綾ちゃんの方をちらりと見た。綾ちゃんの胸には、星型の貝殻のペンダントがキラキラしている。すぐに、わたしの方に視線を戻した阿南くんは、やたら深刻な顔をして、
「何かあった?」
と、尋ねてくる。何かあった、と言えばあるのだけど、それは阿南くんにも綾ちゃんにも話すべきことじゃないと分かってる。わたしの心を悩ませているのは、中野家の問題で、それに友達を巻き込むつもりはない。ううん、ホントはそんな奇麗事じゃない。わたしは、わたしとわたしの家族にまつわる事件を、人に聞かせたくないんだ。親友だと思えば思うほど。もしも、綾ちゃんや阿南くんが知れば……冬香のように……。
「何もないよ。ただ、学校が始まったから、ちょっと憂鬱なだけだよ」
「そうなのか? それにしちゃ、朝からずーっと暗い顔してるよな。なんだか、この世の終わりみたいな顔」
真っ直ぐわたしの顔を見る阿南くんの瞳は、まるでわたしの瞳の奥を覗き込むみたいだった。すると、わたしの隣に居た綾ちゃんがすこし、ジトっとした目で阿南くんを睨む。
「結宇ってば、トーコちゃんのことよく見てるんだね!」
「そ、そんなことねえよっ! 隣の席だから、こいつが暗い顔してたら、俺までやな気分になるからな」
そう言い捨てると、チェックの雨傘を拡げて阿南くんは雨の中へと走り出した。そんないい方しなくてもいいじゃない、と内心に思っていると、とたんに阿南くんは足を止め振り返る。
「なんか、困ったことがあるなら、言えよ! 力になるからさ!」
雨の音を掻き消すような大声で、何だか恥ずかしくなっちゃうことを言ってのけた、阿南くんは再び雨の中へと姿を消した。
わたしそんなにやな顔してるのかなあ……。わたしは思い切って、顔を両手ではたいた。びっくりしたのは、傍に居る綾ちゃん。くりくりした瞳を大きく見開いて驚く。
「トーコちゃん? どうしたの?」
わたしは、精一杯笑顔を浮かべて「気合入れたんだよ」と返した。綾ちゃんは心なしかきょとんとしている。
それから、わたしたちは並んで雨の道を家路へと向かった。この田園の通学路を歩くのも、すっかり慣れてしまった。刈り入れにはまだ早い、青々とした早稲も、雨にぬれてしょんぼりしているように見える。そんな見慣れた景色を横目に、わたしたちは一言も口を聞かないまま、森の入り口までやってきた。住宅街へ帰る綾ちゃんとは、ここでお別れ。
「わたしも、トーコちゃんの力になるよ。わたしなんかに何が出来るか、分からないけれど、わたしたち親友だもん」
黄色い傘の下で、綾ちゃんが言う。ニッコリと笑うその笑顔に、わたしの顔も自然と綻んだ。
「どうしても、助けて欲しいときには、綾ちゃんや阿南くんを頼るよ。でも、今はそっとしておいて欲しい」
「トーコちゃん?」
「大丈夫。わたしは元気だから。明日は、ちゃんと笑えるから」
そう言って、わたしは森の方へと歩き始めた。背後に不安げな綾ちゃんの視線を感じたけれど、振り返らなかった。振り返れば、本当に友達を頼ってしまう。心の奥でくすぶり続ける痛みを吐露してしまうかもしれない。その後に待っているものを、想像もしたくない。
森の道は、少し行くだけでうねり、綾ちゃんの姿はあっという間に見えなくなる。それでいいんだ。友達だからこそ、それでいいんだと、心に言い聞かせながら、不気味な森の道を歩いた。雨にぬれた森から、少しだけ鼻先をつく、ムッとした匂いが漂ってくる。あんまり好きな匂いじゃない。なんて、思いながらわたしはぬかるみに脚をとられないように、押し黙って我が家を目指した。
ちょうど、家の門扉が見えたその時、わたしは背筋にぞわぞわとした違和感を感じて立ち止まり、背後を振り返った。静かな森の道に、わたしの足跡があるだけで、そこに誰かが居るわけじゃない。それなのに、確かな気配を感じる。わたしは人間だし、魔女だから、イルリヒトやヴェステンのように、強い「魔力」を感知することは出来ないけれど、気配とない交ぜになった殺意は否が応でも、背筋をぶるぶると震わせる。
「誰っ!? 誰かいるのっ!?」
声を張り上げる。だけど、当然のように返事が返ってくることはなく、雨が梢を打つ音と、その梢で雨宿りする小鳥の囀りが聞こえるだけ。
わたしは、そっと傘を閉じて、臨戦態勢の構えを取った。ただならぬ気配は、ぴりぴりとわたしの肌を突き刺してくる。返事はなくても、誰かが居る。誰かがわたしを見てる。それは、人間じゃない!
「冥府の虚空に響く黒き雷鳴よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! ドンナー・レーゲン!」
耳元に微かな呪文の言葉。その瞬間、わたしの頭上に闇の空間がぽっかりと口を開けた。黒の魔法だっ! そう思う前に、わたしの反射神経はその場からわたしの体を飛び跳ねてさせた。闇の空間から、真っ黒な放電が現れ、先ほどまでわたしが居た場所を焦がす。
「緑の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、風の矢となれ……ヴィント・プファイル!」
水溜りの泥を跳ね上げながら着地したわたしは、すかさず声のした方に向けて、風の矢を飛ばした。枝と幹が折り重なった森の木々の隙間。風の矢はその隙間に隠れる敵の足元へと飛来する。はじけ飛ぶような音に、木々がざわざわとする。
「ヴァイス・ツァオベライ……なるほどなあ、あんたがヨハネスの言ってた、器の少女か」
わたしの目の前を過ぎる、黒い影。男の人の声。でも、何重にも重ねられた合成音のようにも聞こえ、それが、木立から木立へとまるで忍者のように飛び交う。
「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・ズィッヒェル!」
背後にまた凍りつくような殺気。
「黄の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、土隆の剣となれ……エーアデ・シュヴェーアト!」
振り向きざま、早口で魔法の言葉を唱えると、わたしは固い土の剣に変わったこうもり傘を振った。ものすごく重たい衝撃が走る。手首から腕へと、痺れが伝わって思わずこうもり傘を落としそうになるのを必死にこらえた。剣ぶつかり合い、鍔競り合いするのは、黒いレインコートに身を包んだ男の人。その男の人の手には、長柄の鉄鎌が握られていた。
「こいつぁ、いいや。転生した新しいヨハネスに教えてもらった俄か魔法だが、俺が魔界から持ってきたサビ鎌より使えるなあ」
黒いレインコートの男の人がにやりとした様な気がした。それと言うのも、目深に被ったレインコートのフードが邪魔で、顔までは見えない。男の人だと思うのは、その声からだった。
「あなた、誰?」
「察しはついてんだろう? あんたの敵だよ。ノインテーターって言うんだ、よろしくな」
レインコートの男の人……ノインテーターは軽い口調で自己紹介すると、わたしの剣と鍔競り合いをやめて、一歩飛び退いた。
「ここには、生命の魔法書はないわよ。前に、ヨハネスにはそう言ったはずだけど?」
「ああん? せーめーのまほうしょ? そんなものは知らねえよ。俺はやりたいように、好き勝手やるだけだ。せっかく、しけた魔界から、獲物だらけの人間界へやってきたんだぜ」
「ずいぶんね、そんなことをして、あなたのご主人さまは怒らないの?」
「俺に主なんていねえよ。契約なんてものは、形だけさ。そうやって、俺は十三年間随分と、楽しませてもらってるからな。今更、ヨハネスの命令に従う気なんざ、さらさらねえよ!」
ノインテーターは、ヒャハハと下品に笑うと、まるで死神の鎌を思わせる、魔法の鉄鎌をぶんぶん振り回した。……死神の鎌? わたしの脳裏に何かが引っかかる。記憶の糸を必死に手繰り寄せようとするけれど、思い至るその前に、ノインテーターがわたしの間合いに踏み込んできた。
「本当はあんたにだけは手を出すなと、ヨハネスに言われてたんだが、気が変わった。ヴァイス・ツァオベリンと戦えるのは十三年ぶりだ。あんたも、ひいひい言って、楽しませてくれよな。そうしたら、俺の『シュテンペル』をあんたにも押してやるよ!」
「何を訳のわかんないことをっ!!」
振り下ろされる鎌を、土の剣で受け止める。だけど、ノインテーターの力は予想以上に強い上、わたしのスニーカーが、舗装されていない森の道のぬかるみに滑った。まずい! と思った瞬間には、わたしのはしりもちをついていた。そして、わたしの首筋に鋭い鉄鎌の切っ先が突きつけられる。
「ほら、泣いて喚けよ。怖いだろ? あんた、死ぬんだぜ」
勝者が敗者を見下すように、愉悦のこもった声で、ノインテーターは言った。
「誰が、泣くもんか!」
「気の強ええ、ガキだな。どうれ、その白い肌に傷をつけてやれば、ちっとは泣き喚くか?」
鎌の切っ先が、首筋からわたしの二の腕に標的を変える。無詠唱で固定した魔法はない。今から魔法の言葉を口にする余裕はない。ノインテーターはまるでわたしの手の内が空っぽであることを知っているかのように、悠然と余裕を見せつけ、鎌の切っ先で、わたしの二の腕を引っかいた。
熱を持った痛み。血がだくだくと流れ出す。本当なら、気を失ってもおかしくない状況で、わたしは必死に痛みに耐えた。ここで悲鳴を上げれば、ノインテーターの思う壺。痛い痛いと喚く暇があったら、考えろ、わたし!
「今度は、そのすばしっこそうな脚を引っかいてやろうか? それとも腹がいいか? 顔がいいか?」
歪んだ気持ちの悪い殺気が、わたしの思考の邪魔をする。楽しんでる。わたしを傷つけることを楽しんでる。なんてヤツ!
「トーコっ!! 伏せてっ!!」
突然家の方から声がする。タッ、タッと小気味よい四本の脚が、ぬかるみをものともせず、わたしの元に駆け寄ってくる。
「行け、イルリヒトっ!」
「あいよ! 炎のトイフェル、姐さんのピンチにただいま参上やでっ!」
その声は、ヴェステンとイルリヒトに間違いなかった。二人は、わたしを飛び越えると、ノインテーターの眼前に颯爽と降り立った。そして、ヴェスは口に咥えたガラスのカンテラをかたかたと振って、器用にその窓を開いた。その瞬間、カンテラからイルリヒトが火柱となって噴出す。
「ぬおっ!!」
ノインテーターが顔面に火炎を浴びて、悲鳴を上げた。そして、強力なイルリヒトの炎は、あっという間にノインテーターの全身を包み込んだ。
「トーコ、血が出てるっ」
振り向いたヴェステンが、わたしの元に駆け寄ってくるなり、わたしの二の腕の傷を見てエメラルドグリーンの瞳を曇らせる。そんなヴェステンの髭は、ノインテーターの魔力を感じて、びりびりと震えている。
「こんなの、後で傷薬つければ治るよ。それよりも……」
わたしは、傷口を押さえながら立ち上がった。
降り続く雨は、森の木々の隙間から、零れ落ちてくる。その冷たい水が、ノインテーターを包み込む炎を鎮めていく。地面にうずくまったノインテーターは、全身から白い湯気を立ち上らせ、小刻みに体を震わせていた。怯えて震えているんじゃない。
「このやろうっ! 魔法生物と、魔界の下っ端風情が、俺の楽しみを邪魔しやがってっ!!」
ノインテーターのどす黒い怒りが、地面を揺らした。少しばかり焼け焦げたレインコートのフードから、ちらりと瞳だけがのぞく。真っ赤な血の色をした瞳が。
「ぶッ殺してやるっ!! 冥府の虚空に響く黒き雷鳴よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! ドンナー・シュパイク!!」
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