31. 刑事さん
「すみません、友達と図書館へ出かけていたんです。お父さんなら、もうすぐお仕事から帰ってくると思います。どうぞ、上がって下さい」
わたしは、半年振りの再会を胸に、浜名さんを家の中に案内した。
「いやあ、こっちに引っ越したとは聞いていたんだけど、これまたすごい家だねえ」
玄関ホールで靴を脱ぎながら、浜名さんはぽかんと口を開けて、辺りを見回した。確かに引っ越す前の家は、ごく普通の一軒家で、家族三人暮らすのがやっとと言う広さだった。それと比べれば、家族三人どころか、三世代の大家族でももてあましてしまいそうなこの洋館に、浜名さんが驚いてしまうのも、無理はないと思う。
「近所からは、『魔女の家』って呼ばれてるんですよ」
とわたしが冗談交じりに言うと、そのネーミングセンスと抱いていたイメージが合致したのか、浜名さんは少しだけ笑った。もちろん、ホントに魔女が住んでいるとは夢にも思ってないはず。
「応接室は物置になっちゃってるので、リビングへどうぞ」
そう言いながら、浜名さんを伴ってリビングへ向かうと、いつもどおりヴェステンがソファに丸くなって、お気に入りの時代劇を食い入るように見ていた。
『火付盗賊改奉行、鬼瓦兵衛門である! 江戸を騒がす大盗賊、高砂の甚吉、神妙に縄につくがよい!』
カカッという木を打ち鳴らした効果音とともに、歌舞伎よろしく俳優さんの迫力ある声がリビングに響き渡る。
「ただいま、ヴェス」
ヴェステンはわたしの背後に浜名さんが居るのに気付き、わたしに「おかえり」と言おうとした口を慌てて閉じた。喋らなければ、見た目にはただの猫にしか見えないヴェステン。浜名さんはヴェスをただの猫だと思って、疑わなかった。
「おや、猫を飼っているのかい? しかし、時代劇を見る猫ってのは変わってるなあ」
「変な猫なんです。こっちに来てから飼い始めました。あの、ティーバックの紅茶しかないですけど、いいですか?」
「いやいや、お構いなく」
そう言いながら、浜名さんはソファに腰を下ろし、ヴェステンの艶やかな毛並みを撫でてやる。その間にわたしはキッチンで紅茶を淹れる準備をすることにした。戸棚から、花柄のティーポットと、おそろいのティーカップを取り出し、スティック砂糖はあったかなと、別の戸棚を探ってみる。
「いやあ、それにしても豪邸だなあ。俺の寮なんて、ゴキブリと二人暮しでやっとの広さなのに」
「ゴキブリと二人暮しですか?」
「例えだよ。独身寮だからね、八畳ほどの広さしかなくて、狭苦しいったらありゃしないんだよ。俺の五つ上の先輩で、進藤さんって人が居るんだけどね。そんなに狭苦しいのなら、引っ越せよって言うんだけど、下っ端の給料じゃ都内に借りられる部屋なんかなくてね。うらやましいよ、こんな広い家」
「うちのお父さんも安月給だってぼやいてますよ。浜名さんとおなじ公務員ですから。それに、この家中古物件でものすごく安かったそうです。そういうのを掘り出し物って言うんだって、お父さんすごく喜んでました」
「そうか、掘り出し物か。それはそうと、お父さんは、お元気かい?」
「はい、とても。何か、吹っ切れたって感じで、前とは人が変わったみたいなんですよ。きっと驚くと思いますよ」
ようやく、砂糖とティーバックを見つけて、ティーポットにお湯を入れながら、わたしが言うと、「君もこの半年で、随分大人っぽくなったじゃないか。驚いたよ」と浜名さんは、少しお兄さんっぽく微笑んだ。わたしは照れくさくなって、話題を変えることにした。
「そう言えば、第二強行犯係って、仰いましたよね? 前に貰った名刺にはそんなこと書かれてなかったですけど……?」
「一週間前に異動になったんだよ。って言うか、あの事件全般を第二強行犯係が請け負うことになってんだよ。そんで、俺も昇格して、捜査員のリーダーなんてやってる。まあ、異動って言っても、隣のデスクに移っただけだけどね」
と、浜名さんは笑う。これは、ずっと後に知ったことなんだけど、警察にはたくさんの部署があって、事件の捜査をするのが、刑事部と呼ばれ、その中でも凶悪犯罪を取り扱うのが捜査一課の強行犯捜査係と呼ばれるらしい。ちなみに、凶悪犯罪とは、強盗・誘拐・暴行・傷害、そして……殺人事件などのことで、サスペンスドラマでよく目にする、「一課の刑事さん」は捜査一課強行犯係の捜査員ということになる。
「あの事件……ちゃんと調べてくれてたんですね」
「まあな。本当は、ケイゾク行きになるかもなんて噂されてたんだけど、そうも行かなくなったんだ」
わたしは、紅茶のポットとカップを浜名さんの前に並べた。すっかり浜名さんに懐いて、その膝に腰掛けるヴェステンは、わたしたちの会話に付いていけず、きょとんとしながらわたしの顔を見る。
「そうも行かなくなったって……?」
思わずわたしは、紅茶を乗せてきたお盆を抱きしめた。浜名さんは、少しだけヴェスを撫でてやると、短くだけど深いため息をついて、おもむろに紅茶を口に含んだ。
「うん、旨いな。紅茶なんて久しぶりに飲んだよ。いつもは、専らコーヒー党だからね」
そう言うと、浜名さんは深刻な顔になる。
「本当は、君のお父さんが帰ってから話そうと思っていたんだけど……これ知ってるかい?」
テーブルの上に差し出された、一枚の紙切れ。新聞の切抜きで、走り書きのように端に日付が書かれている。それは、ちょうどわたしがつむぎちゃんの別荘に遊びに行っていた日。記事は、その日に起きた一つの事件について書かれていた。
「新聞報道じゃただの殺人事件として扱った。もっとも、ここから先は緘口令を前提に話すよ。君は、いや君たち家族にとって、この事件は無関係じゃない。報道機関には情報を与えていないが、この事件はあの事件と同一犯の可能性がある。いや、それどころか、首都近郊の所轄管内で起きた、いくつかの事件を洗ったところ、未解決とされた事件のいくつかともつながりがあることが分かったんだ」
記事に書かれている事件のあらましは、とてもわたしたち家族に関係あるような内容じゃなかった。所謂通り魔事件で、未だ犯人が捕まっていないということを知らせているだけ。だけど、警察が報道機関に与えていないという情報に、わたしは心当たりがあった。
「『9』……ですか?」
「察しがいいな、その通りだよ。大人として、警官として、中学生の君に、こんな話をするべきじゃないけれど、あの時犯人を見つけられなかったのは、俺たちの落ち度だ。本当に申し訳ないと思ってる」
「そんな! そんなことないです。浜名さんは、一生懸命犯人を捜してくれました。なのに、わたし、ヒドイこと言っちゃって。本当は、浜名さんを怒らせたんじゃないかってずっと思ってたんです」
わたしが強くお盆を抱きしめて言うと、浜名さんは頭を左右に振った。
「いや、あの時君が言ったことは、正しい。そして、遅ればせながら、ようやく警察の重い腰をあげることになった。言い方は悪いけど、この事件のおかげでね」
浜名さんが、テーブルの上の新聞記事を指差した。
「今日は、あの事件のことを確認するために訪ねたんだ。今度は、絶対に犯人を逃がさない。『9』なんて、ふざけたマネをする、犯人を俺も許しちゃおけないんだ」
そう静かに言葉にした浜名さんの瞳に、固い決意の炎が揺らめいて見えた。警察官は正義の味方。ヴァイス・ツァオベリンの使命と同じ。戦う相手は違うけれど、誰かを悲しませないために、誰かの悲しみを少しでも癒すために、正義を貫く。そういう人たちなんだと、改めてわたしは思った。
「ただいまー! トーコ、ヴェステン、お客さんがきてるのかい?」
玄関からお父さんの帰宅の声が聞こえてくる。きっと、玄関先の浜名さんの靴を見つけたのだろう。足早にリビングにやってきたおとうさんは、浜名さんの顔を見て、すこし驚いていた。
「あっ、お邪魔しております」
と、浜名さんが立ち上がると、お父さんはわたしとヴェスに、リビングから出て行くように目配せしながら、
「これはどうも、お久しぶりです。あの、事件に何か進展があったのですか?」
と言った。
「今、お嬢さんにもお話したところなのですが……」
わたしは、ヴェステンを抱えて後ろ手にリビングのドアを閉めて、自分の部屋へと向かった。
「ねえ、トーコ。今さっきのあの刑事さんの話、どういうこと? 『9』って何?」
部屋に入るなり、ヴェステンが矢継ぎ早に問いかけてくる。わたしは、電灯もつけないで、ベッドに寝転がった。ヴェステンは、わたしの枕元に立って、小首をかしげるように、
「ねえ、教えてよ」
と食い下がるけれど、わたしはそっと瞳を閉じた。
「ごめん、今は話したくない。そのうち、教えてあげるから、今はそっとしておいてよ」
いろんなことが、わたしの頭の中をシェイクしていく。わたしには、解決しなきゃいけないことが山ほどある。そのどれに、どんな優先順位をつければいいのかもわからないまま、トイフェルと戦い続けていると言うのに、そのたびに謎は増えていくばかり。
そして、人前で、どんなに朗らかなフリをしても、ずっとわたしの心を苛む「あの事件」。それさえなければ、わたしはきっとこの家に引っ越してきたりしなかっただろう。そうすれば、謎にぶつかることもなく、世界の運命とか、魔法とか知らないまま、みんながそうであるように、ごく普通の中学生でいられたはずだ。それを恨み言のように言うつもりはない。引っ越してこなければ、綾ちゃんや阿南くん、ソフィ、ヴェステン、イルリヒトたちに出会うことはなかった。どちらが良かったか、なんていえないけれど、少なくとも「あの事件」さえなければという気持ちは、ずっとわたしの心を縛り付けている。
せめて、わたしの手に「生命の魔法書」があれば……。
そう思って、わたしは慌てて頭からその考えを振り払った。傍でヴェステンがきょとんとしている。
浜名さんが帰って行ったのは、それから一時間くらい後だった。玄関ホールに、お父さんの「よろしくお願いします」という言葉が反響していた。
「ねえ、トーコ。お腹すいた……」
浜名さんが帰っていったのを合図にするように、ヴェステンがお腹を鳴らす。すると、そに輪唱でもするかのように、わたしのお腹もきゅう、と鳴く。
「そういえば、夜ご飯まだだったね。お父さんもお腹空かせてるかもしれないから、何か作るよ」
努めて笑顔でそう言うと、ヴェスの頭を撫でて、わたしはベッドから起き上がった。
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