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30. 夏の終わりの来訪者

 夏休みもあと残り一週間と迫った、晩夏の西日が差し込む天窓の下で、わたしは一冊の本を手に取った。夕方の市立図書館は、人もまばらで、とても静かで調べ物をするのにはうってつけだった。

 本のタイトルは「世界の偉人大百科」。中高生向けに描かれた、歴史上の大人物たちが簡単に紹介されている本で、中国の始皇帝とか、日本の聖徳太子、フランスのナポレオンなど、国別に百人以上の人たちが列挙されている。その中に、その人の名はあった。

「マルティン・ルター。一四八三年~一五四八年。ドイツの神学者。お金さえ積めば罪が減軽されるとして、ローマ・カトリック教会が販売していた贖宥状(しょくゆうじょう)に反発して、信仰は『金銭』ではなく『聖書』にのみあると考え、大学の掲示板に『九十五条の論題』を貼り、ヨーロッパ全土に『宗教改革』を巻き起こした中心人物。やがて、彼の呼びかけは、『新教(プロテスタント)教会』の源流となった」

 大きめな文字で、漢字という漢字すべてに丁寧な振り仮名が振ってある、説明文の隣には、略歴を含めた年譜が書かれ、その下に小さく肖像画の写真がある。不遜な顔つきで、何だか睨まれているようにも見えるその顔は、とても丸顔だった。間違いない、あのマルティンと呼ばれた人はこの人だ。ただ、わたしの見たマルティン・ルターは、もう少し恰幅がよかった気がする。

 もう一人の男の人。あの白いローブをまとった背の高い男の人は……。ページをめくってみる。だけど、何処にもそれらしき人物は見当たらないまま、ページは隣の国の偉人へと続く。

 どうやら、これ以上の情報は仕入れられそうにもない、と感じたわたしは別の本棚へと移動することにした。今度は図書館内でも一番人の近寄らない、辞書のある本棚コーナー。一冊で、普通の本の何倍あろうかという、太い辞典をよいしょと取り出して、立ち見の閲覧台に置くと、「れ」の行を開いてみる。

「錬金術とは、不完全なものから、完全なる物質や、貴金属、果ては人間の肉体・精神を、生み出そうとする試みのことである。錬金術の過程で、塩酸などの化学薬品や実験器具が発明され、錬金術は自然科学のはじまりと言われているが、実際に錬金術が成功したという例は文献等に残されていない。最も一般的には、卑金属から貴金属である金を生み出すというのが、錬金術のイメージであるが、錬金術を研究する錬金術師たちが目指したのは、物質を完全なる者に変化させるという触媒『賢者の石』の生成であったとされる……」

 賢者の石! あの時あの男の人が叫んでいた言葉だ!

『どうだ、これが『錬金術師』としての俺の成果だ! この『賢者の石』で、俺は俺の災難を振り払う!!』

 確かに、あの男の人は、狂気を含んだ瞳で、誰に言うでもなくそう叫んだ。

「トーコちゃん、何調べてるの?」

 突然ひょこっ、と横から綾ちゃんのニコニコ顔がわたしの広げた辞典を覗き込んだ。わたしは慌てて、「何でもないよ」と言いながら辞典を閉じ、本棚のもとあった場所へと仕舞いこんだ。取り繕うようなわたしの笑顔は、何処かぎこちなく、綾ちゃんは怪訝そうにわたしを見つめた。

 ソフィを助けようと海に飛び込んだとき、わたしが見たヴィジョンのことを、ヴェステンや綾ちゃんには話していない。あれが何だったのか説明のつかないのに、誰かに話しても困らせるだけ。白昼夢よろしく、わたしが気を失いかけて見ただけの夢かもしれない。そう思いたかったけれど、わたしが感じた恐怖は夢なんかじゃなかった。あの男の人が「賢者の石」で呼び出した黒い影、あれは一体何だったんだろう? どうしてソフィの指に触れた瞬間に、わたしはあんなヴィジョンを見たんだろう? その疑問は、海から帰ってきてもずっとわたしの頭の隅に、もたげたままだった。

「ねえ、ひょっとして、志高さんの別荘で、何かあったの?」

 下から覗き込むような綾ちゃんの視線にわたしは、思わず顔を背けた。

「何もないよ。楽しい旅行だったよ! そ、それより、綾ちゃん。もう遅くなるし、帰ろうよ」

 明らかに嘘をついてる、そんなわたしの態度に、綾ちゃんはぷくっと頬を膨らませる。わたしが嘘が苦手なのは、今に始まったことじゃない。

「もうっ、せっかく一緒に遊ぼうと思ってたのに、図書館に行きたいって言ったのはトーコちゃんだよっ! 海に行くのも内緒にしてたし、帰ってから、もう二週間以上深刻な顔して、何にもわたしに相談もしてくれないし。トーコちゃん、何だか冷たくない!?」

「そ、そんなことないよっ」

「あるよーっ! いいもん、今度ヴェスくんに訊いてみるからっ!」

 綾ちゃんは本気で怒っているみたいに、腰に手を当てて、ぷいっとあさっての方向に向いた。

「しーっ! 図書館では静かにしてください」

 通りがかりの司書さんが、口に人差し指を当てて、わたしたちのことを注意する。どうやら、ことのほか、わたしたちの声のボリュームが大きかったみたいだ。そろってぺこりと頭を下げると、司書さんは少しこちらを睨みつけながら、本棚の向こうに歩いて行った。

「内緒にしてたわけじゃないよ。わたし、何度も綾ちゃんに連絡したけど、全然連絡つかなかったじゃん」

 と、司書さんの足跡が遠ざかって行った後、わたしは声を潜めるように言った。すると、綾ちゃんがきょとんとする。

「わたし、ずっと家にいたよ?」

「え? でも、何度かけても携帯繋がらなくって……」

「うそ、わたし携帯の電源入れっぱなしだったよ!」

 なんだか話がかみ合わない。すると、綾ちゃんは少しだけ困ったような顔をして俯き、顔を青ざめさせる。肩も僅かに震えていた。

「綾ちゃん?」

 笑みをなくした綾ちゃんに、こんどはわたしが心配になってきた。

「時々ね……わたし、記憶が飛んじゃうことがあるの。憶えてないことや、思い出せないことがたくさんあるの。最近、そういうのがよくあって、回りがおかしいんじゃなくて、わたしがおかしいのかもしれないって気付いたの。もしかしたら、わたし病気なのかな?」

 綾ちゃんがか細い声で、唇を震わせながら言った。わたしはどうしたらいいのか分からなくって、必死に言葉を探していると、急に綾ちゃんが顔を上げて、

「なーんてね、冗談だよっ」

 と、何事もなかったかのようにわたしに笑いかける。きっと、嘘だとわたしは直感的に感じた。綾ちゃんは、わたし以上に嘘の苦手な女の子だ。だけど、その笑顔は反則だと思う。どうして、綾ちゃんは肝心なことになると、そうやって笑って誤魔化すんだろう……。和歌ちゃんから、綾ちゃんと阿南くんが幼なじみじゃないと聞かされた時だってそう。大事なことは、笑顔ではぐらかされているような気がしてならない。だけど、屈託なくて可愛い笑顔に弱いわたしもわたし。

「調べ物はもういいの?」

 綾ちゃんはニコニコしながらわたしに尋ねた。「うん、大丈夫」なんて言いながらも、街の図書館じゃこれ以上、あのヴィジョンの正体を突き止めるための、手がかりが見つかりそうにもないと、内心観念していた。

 連れ立って図書館を出ると、まだ夏のけだるさが残る空気に、汗が噴出しそうになる。背後から、立ち去るわたしたちに向けられた司書さんの、ジトッとした視線を感じたけれど、わたしはあえて振り向かずに、ビルに区切られた赤い夕空を見上げた。

「来年の夏休みは、一緒に海へ行こう。今度は、阿南くんも、イルリヒトも誘って、みんなで行こう」

「ホントに?」

「うん。プライベート・ビーチは無理だけど、日帰り海水浴場くらいならね」

 とわたしが言うと、綾ちゃんは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。そんな綾ちゃんを見ていると、何だかわたしも嬉しくなってしまう。

「絶対だよ。約束だよ」

 そう言いながら、綾ちゃんは胸元のペンダントを指先でいじった。それは、わたしが贖宥状ならぬ海のお土産として、綾ちゃんにプレゼントしたものだ。あの時、砂浜で見つけた、小さくてつやつやした星の形の貝殻をそのまま手渡すのは忍びなくって、お父さんに教わりながら、ペンダントに加工した。

 海へ行ってきたんだよ、とつむぎちゃんの別荘から帰った後、ようやく繋がった電話越しに話すと、綾ちゃんはすこし寂しそうにしていた。胸の奥がちくちくと痛んで、許しを請う代わりにわたしは、そのペンダントをプレゼントした。友情の証、なんて大げさなことを言うつもりはないけれど、綾ちゃんはとってもそのペンダントを気に入ってくれて、それ以来ずっと身に着けていてくれるのを見ていると、それはやっぱり友情の証になったんだろう。

 もしも、綾ちゃんに何か悩み事があるなら、それがわたしに解決できないことであっても、せめて、綾ちゃんの傍にいたいと、わたしは微笑む親友の顔を見つめながら、そっと心の中で思った。

 図書館を出て、バス停でわたしたちは別れた。わたしはバスに乗り込み、見送る綾ちゃんに手を振る。やがて、バスが走り出してしまうと、何だか急に静かになって寂しくなってきた。

 海から帰ってもう、二週間以上が過ぎた。あの後、ソフィとつむぎちゃんをそれぞれの部屋まで運んだわたしは、くたくたになってベッドにもぐりこみ、次の日、みんなが帰り支度をするまで伸びていた。ソフィは自分がメーアヴァイパーに攫われそう担ったことを覚えていないみたいで、同時につむぎちゃんもあれは夢だったと、半信半疑納得して、信じてくれたらしい。一方、メーアが化けていた、本物の尾瀬さんは無事で、こちらもメーアに襲われたことは覚えていなかった。おかげで、わたしの異常なほどの疲労だけを残して、万事「何事もなかった」と言う形で、海の旅行は無事に終わった。

 気になるのは、ソフィの指先に触れた瞬間に見た、あのヴィジョンのことだけじゃない。メーアヴァイパーは、ソフィに何をしたのだろう……どうしてソフィを攫おうとしたんだろう。ザントメンヒェンが攫おうとした阿南くんのことと、何か関係があるのかしら? 疑問符だけは、無限にわき続け、そのどれもが「魔法」という一本の糸で繋がっているのに、けして重なり合うことがない。

 そもそも、ソフィは、魔法のことなんて知らない普通の女の子だ。だから、ソフィをこれ以上巻き込みたくないと言う気持ちもある。すべての疑問を解く鍵は、もしかするとあのヴィジョンにあるのかもしれないと、何の確信もない、漠然とした考えだけが、わたしの頭の中でぐるぐる渦を巻いていた。せめて、手がかりだけでも見つけたい。

「今年の夏も終わりかあ……」

 すっかり乗客の居なくなったバスの車窓から見える、田園風景を横目にため息をついた。しばらく進むと、田園の端に、森が見えてくる。「魔女の家」と呼ばれる我が家がある森だ。帰ったら、ヴェステンとお父さんの夕飯を作らなきゃいけない。夕飯の支度は、引っ越す三ヶ月前から、わたしの日課になっている。今日のメニューは何にしようかな、冷蔵庫に何が残ってたかな……。

「ありがとうございました」

 と言う、バスの運転手さんの声とともに、自動扉が閉まり、わたしは家の近くのバス停に下りた。バスはそのまま、学校のある方へと走っていく。わたしはバスを見送ると、少し足早に家路を急いだ。もうすっかり慣れてしまった、不気味な森の道を抜ければ、格子の門扉が見えてくる。その門扉の前に、夏だと言うのにスーツを着込んだ男の人が立っていて、思わずわたしはドキっとした。

 海から帰ってこっち、トイフェルは一度も姿を見せていない。もしかすると、トイフェル? でも、今は傘を持っていない。手のひらで使う魔法は、威力も弱くて、きっとトイフェルに太刀打ちできない。どうしよう、とわたしが迷っているうちに、その男の人がわたしに気付いた。

「やあ、こんばんわ。トーコちゃんだっけ? 久しぶりだね、お昼からずっとお留守だったみたいだけど、何処かへ出かけてたのかい?」

 男の人は、やけに親しげな口調で、わたしの方に歩み寄ってきた。歳のわりに少し小柄で、ぱりっとしたスーツが全然似合っていないけれど、人懐こい少年みたいな顔はわたしの警戒心を解いてくれた。

「あれ? 憶えてない? 俺だよ、俺。警視庁捜査一課第二強行犯係の浜名鉄雄(はまなてつお)!」

 浜名さんは自分の顔を指差して言った。あれから、半年近く過ぎたけれど、覚えてないはずがない。あの事件を捜査してくれている刑事さんだもの……。

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