3. 地下室のヴェステン
ギギッと、扉の蝶番がきしむ音。もうずっと使われてない扉を開くと、カビの匂いが、つんと鼻を突き刺した。それと同時に、地下室へのびる階段の暗闇から、生ぬるい風が噴出してくる。ただならぬ気配ってやつ。
恐々としながら、もしも泥棒だったらなにか、退治するための武器が欲しい、と思い立ったわたしは、扉のすぐ脇にお父さんが置いた、傘立てを見つけた。なんて都合よく傘立てには、年代モノの黒いこうもり傘がある。先端は、鋭く尖った金具。柄は鉄で出来ていて頑丈。もち手は、鉤になってる。よし、これだ! わたしは黒いこうもり傘を握り締めると、一歩ずつ慎重に、階段を下りた。
踏み板を鳴らしながらも、忍者みたいに、抜き足差し足で暗闇の中へと入っていく。どこかに電気のスイッチがあるはず。そう思ってみても、地下室に入るのはこれがはじめて。思えば、ここに引っ越してきたときから、ずっと気になってた。
傘を右手に、左手で壁を探す。ひんやりとした感触とともに、わたしの指先が電灯のスイッチに触れた。わたしは迷うことなく、そのスイッチをオンにした。何度か光が瞬いて、地下室にぼんやりと裸電球の弱い光がともる。
「わーっ、すごい!」
思わずわたしは声を上げてしまった。だって、目の前に広がるのは、かなり広い地下室の奥のほうまで、ずらりと並ぶ本棚。さながら、図書館の閉架みたいな気がする。わたしの背丈の倍はあろうかと言う本棚に立てられた本のどれも、背表紙にはアルファベットが書いてある。
「フリエゲン・ファハレン?」
一冊取り出して、表紙の文字を読んでみる。うまく読めないし、どうやら英語じゃないみたい。本棚には、そういう見知らぬ外国の分厚い書籍が、びっしりと詰まっていた。きっと、前の住人が置いていったものだろう。
ガタっ!
再び物音がして、コンクリートの壁に反響する。わたしは慌てて、本棚に本を戻した。音は、もっと奥の方から聞こえてきた。きっと、突然灯りがついて、泥棒もびっくりしているに違いない。一気に大声を出して、飛び掛れば、勝機はある! とわたしは得体の知れない確信を胸に、ぎゅっとこうもり傘を握り締めた。
本棚を背にしつつ、一番奥までくると、さすがにドキドキしてくる。冷静になれる余裕なんてないけれど、考えてみれば、相手はナイフとか、もっと恐ろしい武器を持ってるかもしれない。こんな傘くらいでひるむかな? でも、もう相手は目の前だ、迷ってられない!
「出て来い、泥棒っ!!」
わたしは、大声を上げて、傘を振り上げた。幸い地下室の天井は高い。やあっ! と掛け声よろしく本棚から飛び出したわたしは、泥棒めがけて飛び込んだ。
はず……だったんだけど、目の前には泥棒はおろか、人影なんかいない。その代わり、本棚から何冊か本が無造作に転げ落ちているだけ。何だか拍子抜けしたわたしは、勢いが削がれるのと同時に、振り上げた傘を呆気に取られながら降ろした。
なんだ、本が落ちただけか。でも、地震でも起きない限り、簡単には本棚から本が落ちるなんてこと、ありえるだろうか。わたしは、再びクラスメイトのお化け話を思い出した。
いやいやいや、そんなことない。お化けなんていない!
わたしは、イヤイヤをするみたいに頭を強く振って、邪念を払った。そして、床に転げ落ちた本たちが納まっていたのであろう、本棚の隙間に眼をやる。
「フリューゲン・フェアファーレン」
不意に声がして、わたしは心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。その声は、小さな男の子の声。だけど、一体どこから聞こえてきたんだろう……、わたしは動悸が激しくなるのを感じながら、周囲を何度も見回した。だけど、地下室にわたし以外の人の姿はない。
と、その時、本棚の隙間がギラッと光る。ちょうど、豆電球くらいの大きさの光が、眼であることに気がついたのは、光が二つだったから。そして、ゆらりと光が本棚の隙間で揺れたかと思うと、ゆっくりと黒い塊が灯りの下に現れた。
「あの本のタイトルは『フリューゲン・フェアファーレン』。今から四百年前、プロイセンの黒の森に棲む最後の魔女が書き残した、空の飛び方に関する本だ。そんなことも、忘れちゃったのか、トーコ」
男の子の声でそう言いながら現れたのは、一匹の黒い子猫。深いエメラルドグリーンの瞳、つややかな黒い毛並み、長い尻尾の先だけ、すこしブルーグレー色をしていて、とても可愛い。何を隠そう、わたしは猫が好き。
「なんだ……猫か。脅かさないでよ! もーっ、泥棒かと思ったじゃない。ダメじゃない、どこから入ってきたの?」
ほっと息を吐き出してから、わたしは、黒猫の首を掴んだ。猫掴みされた黒猫は、宙ぶらりんになって慌てる。可愛い手足をばたつかせて、何とかわたしの手から逃れようとするけれど、黒猫の力はあまりにも非力だった。
「ちょ、放せ、トーコっ!! ぼくは、猫掴みされるのが嫌いなんだ! 知ってるだろ?」
「知らないよ! それよりも、なんで、キミはわたしの名前を知ってるの?」
「なんでって……まさか」
突然猫の顔が曇った。そして、エメラルドグリーンの瞳で、訝るようにじっとわたしの顔を見る。
「トーコ、まさか、何もかも忘れちゃったのか? 今度会うときは、必ず『その時』だって、言ったのはトーコだよ!? だから、ぼくは十三年の間、封印を解かれる日をずっとここで待ってたんだ」
「はぁ? 何言ってるのか、ぜんぜん分かんないよっ!」
「ホントに!? だから、あれほど、『ヴィーダー・ゲブーアト』はとても難しいから、危ないって言ったんだ! トーコっ! 思い出せ、ぼくだよ、ヴェステンだよっ!」
「べすてん? 何ソレ」
「べ、じゃなくてヴェステン! ぼくの名前っ! つけてくれたのは、トーコじゃないか。ひどいや、それさえも忘れちゃうなんて。ぼく、泣いちゃうからねっ!」
そういうと、吊り下げ状態のまま、黒猫は、わーんと泣き出した。猫って泣くときは、ニャーンじゃなくて、わーんなんだ……。猫の男の子がわんわん泣く姿に、わたしは同でもいいことを思った。
ん? なんか変だぞ。わたし、誰とお話してるんだっけ? ゆっくりと視線をめぐらせる。地下室にいるのは、わたしと、目の前の黒猫だけ。全身から血の気が引いていく。寒気が、背筋を昇り、頭のてっぺんで派手にはじけた。
って、ちょ、ちょっ、ちょっと、待ったー!!
「きゃあっ!! ね、猫がしゃべったっ!!」
悲鳴を上げて、わたしは黒猫を放り投げた。黒猫はサーカスの曲芸みたく、くるりと身を翻すと、何事もなかったかのように、ちょうどわたしの目の高さの位置にある、本棚の天板に降り立った。そして、二、三度顔を洗って、涙の跡を拭うと、エメラルドグリーンの瞳でわたしを睨み付ける。
「ぼくは猫じゃない。『ワルブルガ』の使い! だから、人の言葉を解するのは、当然のことじゃないか。そこら辺にいる、野良猫の類と一緒にしないで欲しいね」
えっへんと、胸を張るように、黒猫のヴェステンは言った。当然といわれても、わたしの十三年間の知識の中には「猫がしゃべる」なんて「当然」は、含まれていない。わたしの頭には、猫がしゃべるという奇怪な現象に対する、戸惑いと、恐怖が混在して、頭の上ではじけた悪寒がハテナマークを作り出していた。
「トーコ、ホントに『ヴィーダー・ゲブーアト』に失敗したんだね。ああっ、こんなことなら、あの時もっと強く止めておくんだった。せめて、記憶だけでも分離して、補完した形で……」
「記憶を補完? ビーダーゲブアト? ワルブルガ?」
ヴェステンの口からこぼれる、いくつもの意味不明な単語。猫がしゃべると言う、非現実的な光景に、理解の範疇を超えてしまったわたしの、貧相な頭は、回転を止めてしまう。このまま、気を失えば楽になるのかしら。そして、眼を覚ましたら、目の前からしゃべる猫はきっといなくなってるに違いない。あ、でも、早く夕飯の支度しておかなきゃ。もうじき、お父さんがお仕事から、お腹を空かせて帰ってくる。お父さんに料理を任せたら、どんなゲテモノ料理だっておいしく思えちゃうほど、料理下手なんだ。わたしが、頑張らなくちゃ。お母さんのぶんまで……。
わたしの頭の中は、完全に現実逃避しようとしていた。泥棒撃退のために握り締めていた、黒いこうもり傘を落としそうになる。このまま全身の力が抜けていくのに、身を任せたい気分。
「こうなったら、反転応用で記憶を再生して……。でも、そうしたら、今のトーコの心と体が持つかどうか分からないな。そんな危険なことは、ぼくには出来ないよっ! それにしても、どうして、こんな子どもの姿なのか。まさかっ、『ヴィーダー・ゲブーアト』の時間軸にズレが生じたってこと? ああっ、このままじゃダメだ!! なんとかしないと!」
ヴェステンはひとりで、ブツブツとわけの分からないことをぼやいてから、もう一度わたしのことを見る。
「でも、ここにトーコがいるってことは、完全に『ヴィーダー・ゲブーアト』が失敗したわけじゃないんだ。だったら、まだ望みはあるかもしれない。おいっ、新しいトーコ!!」
すっかり座り込んで、何とかしてこの不可思議な現実から逃げ出そうとしているわたしに向かって、ヴェステンは怒鳴った。
「これは、紛れもない現実だ。ぼくはここにいて、トーコもここにいる。すべては、前のトーコがいってた通りになる」
「前のトーコ?」
「そう。だから、これからぼくの言うことを良く聞くんだ、いいね?」
と、猫が凛々しい顔つきになって、わたしに言った。その時だった。何が何だか分からなくなって、ぼんやりしかけたわたしの頭を、強く揺さぶるような、轟音が鳴り響く。地震か地鳴りのような音は、地上の方から聞こえていた。ただならぬ気配。さっきの悪寒とはまるで違う、もっともっと気味の悪くて恐ろしいような寒気が、わたしの体を縛り付ける。
「げっ! 『トイフェル』だっ! もう、嗅ぎつけてきたのかっ!?」
ヴェステンのぴんと伸びたヒゲが、ビリビリと震えた。トイフェル? またまた、聞きなれない単語。いい加減、わたしにもわかる言葉でしゃべって欲しい。いや、猫がしゃべるのは変だけど……。
「立て、トーコ! 『トイフェル』を追い返さなきゃっ!」
そう言うと、ヴェステンは本棚から飛び降りた。そして、わたしに付いて来い、といわんばかりに首を振って、ふつうの猫と同じように四つの脚で駆け出す。
わたしは、右手のこうもり傘を強く握り締めると、慌てて立ち上がった。ヴェステンは、タタッと足早に、本棚の間を縫って、階段の方へと向かう。わたしはその後姿を追いかけるうち、何かとんでもないものに巻き込まれたような気がした……。
魔法使いと言えば、猫でしょう! 雪宮は、猫大好きです!!
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