29. 追憶
何だか、眠りの世界に居るみたいに、体がふわふわする。あたりは真っ白でなにもない。ソフィの指に触れた瞬間わたしの目の前に閃光が走ってそして気を失った。海の中で。カナヅチなのに、ソフィを助けるために夢中で海に飛び込んだんだ。自分でも笑っちゃうくらい、無鉄砲だよ。きっとヴェステンは怒ってるだろうなあ。ごめんね、ヴェス、心配ばかりかけて。
それにしても、ここは何処なんだろう。天国? ううん、きっと違う。真っ白で何もないこんな場所が天国なわけないよ。わたしが思い描く天国は、とても綺麗な花畑があって、キラキラと実なものか輝く川が流れ、そこにわたしを待つ……。
カッ、と頭上にまばゆい光が走り、わたしの視界を埋め尽くす。瞳が焼き付きそうになって、思わずわたしは眼を伏せた。光はあっという間にわたしを包み込んでいく。そして、再び眼を開くとそこは、見たこともない場所だった。
まるで外国のお城の中みたいな、ひんやりとした石畳の廊下。壁沿いには、ランプが等間隔にかけられているけれど、ランプの炎はあまりにも淡く揺らめいて、廊下はひどく薄暗い。少し先は、真っ暗で何も見えなくて、まるでその闇に吸い込まれるように廊下は真っ直ぐ伸びていた。わたしはそんな廊下の真ん中にふわりと着地した。これは夢? それとも現実? リアルすぎる目の前の光景に戸惑っていると、廊下のずっと奥、暗闇の方から、足音が聞が近づいてくる。まさか、トイフェルじゃないだろう。
「あのっ! すみません。ここは何処なんですか?」
わたしは、声を張り上げた。声は廊下中に響き渡り反響したけれど、足音は止まらない。そして、暗闇の中から一人の男の人が現れた。
二十歳くらいの若い男の人。少し顎の周りとお腹の周りがふくよかだ。恰幅がいいと、言い換えてもいいかもしれない。だけど、眼の堀の深さやツンととんがった鼻は、日本人には見えなかった。更に男の人は、なんとも奇抜な格好をしていた。黒い鍔なしの帽子を被り、スカート状のゆったりとした黒いローブを身にまとい、手には横文字の書かれた赤い本を握り締めている。
「すみません。わたし、知らないうちに、ここに迷い込んじゃったみたいで。ここが何処か教えていただけませんか?」
わたしがもう一度、恰幅のいい男の人に声をかけても、彼はまったく気付かずに通り過ぎようとする。まるで、わたしの声も聞こえていなければ、姿も見えていないみたいに。
「ちょっと! 無視しなくてもいいじゃないですかっ」
思わず乱暴な口調にになってしまいつつ、わたしは男の人の腕を掴もうとした。その時、彼がやってきた暗闇の方で、ドアの音が鳴り響く。やたら重苦しい音で、その扉がどれくらい大きくて頑丈か想像つくくらい。
「待ってくれ! マルティン! 俺の話を最後まで聞いてくれ!」
足早に追いかけて来たのは、やっぱり奇抜な格好をした外国の男の人だった。こちらも、歳のころは二十歳くらい。すらりと背が高く、精悍な顔に良く似合う髭を蓄えていた。多少装飾のついたローブを身にまとい、三日月をひっくり返したような形をした帽子を被っている。
これは一体なんだろう。外国の仮装大会……? なんて思っていると、背の高い男の人は、恰幅のいい男の人……マルティンさんの腕を、強く掴んで引きとめた。
「離してくれ。僕はキミの言葉にこれ以上耳を傾ける気はない。もうすぐ講義の時間が始まる。学生たちはみな、僕を待っているんだ」
マルティンさんは、振り返ると背の高い男の人にそう言い放ち、無理やり引き止める手を振り解いた。その顔には、傍から見ても「忌々しい」と書いてあるみたいだ。
「少しだけでいいんだ、聞いてくれマルティン。お前の言う神学論は正しい。信仰を集めていた教会が腐敗し、拠り所を失った信仰は混沌としている。信じるべきは教会ではなく、神だ。しかし、お前の言うように『聖書』が混沌から人々を救うことにはならない。それは人の心を『聖書』というロープで束縛するだけだ」
「だから、科学が人々の心を救うというのか? それこそ、『数』と『式』による束縛だ。確かにキミの言葉を借りれば、科学は素晴らしい。あらゆる生活を、理論と実証によって幸福に導いてくれる。豊かにもなる。しかし、人の心は乱れやすい。その人の心を守るのは神によって与えられる、規律と理性だ。その規律と理性の源泉は、この『聖書』を信じることのみで得られるのだ」
そう言うと、マルティンさんは手に持った、赤い本を背の高い男の人に突きつけた。その表紙には、横文字のタイトルと、金の刺繍で十字架が描かれていた。
「まして、キミの言う『錬金術』などまやかし、いや……」
マルティンさんは、そこで一拍置くように息を吸い込むと、鋭く背の高い男の人を睨みつけた。
「悪魔の所業!! この神聖なる、ヴィッテンベルグ大学の学び舎にふさわしくない!! 今すぐに、荷物をまとめて、ここより立ち去るがいい」
「何をっ!! マルティン、貴様っ!」
悪魔の所業と罵られた、背の高い男の人は、怒りを露にしてマルティンさんの襟首に掴みかかった。ところが、マルティンさんはひるむ様子もなく、次に彼が口元を緩めて、吐き出した言葉に、背の高い男の人は絶句してしまった。
「キミは悪魔に魅入られているのだ。その汚れた魂で、あの娘の心まで悪魔の力で手に入れるのか? ぼくは知っているぞ、キミがあの美しい街娘を好いていることを。愚かにも、高価な宝石や花束を送り彼女の気を引こうとしているそうではないか……」
「な、なぜ、それを!」
「実はな、彼女の兄上ヴァレンティン殿から相談があったのだ。ヴァレンティン殿は、たいそう迷惑しておられたよ。『錬金術』などと言う、誇大妄想にも似つかぬ悪魔の所業を吹聴して廻る、神を、聖書を冒涜する男が、妹の周りをうろついているとな」
マルティンさんの言葉に、背の高い男の人は消沈してしまい、襟首を掴んだその手を力なく離した。マルティンさんは、ため息を一つついてから、乱れたローブの襟首をただし、また睨むような鋭い視線を向けた。しばらくの間、二人の視線は無言でぶつかり合う。その間に挟まれるように、わたしはどうして言いか分からず途方にくれていた。
何故か、ふたりとも目の前に居るわたしに気付かないで、よく分からないことを言いながら罵り合っている。わたしは首をかしげるほかなかった。
沈黙と睨み合いの緊張を最初に破ったのは、マルティンさんの方だった。
「キミは以前、クラークフで禁忌の魔術『シュバルツ』を習ったそうじゃないか……。それで、悪魔と契約でもしたのだろう?」
「そんなバカな。俺とて、信仰心は持ち合わせている。悪魔と契約などするわけがないではないか」
「どうだかな……」
マルティンさんは鼻で笑うと、踵を返した。
「キミがあの美しい娘を、手に入れることは出来ないだろう。そして、手に入らなければ、お前は悪魔に娘の心を手に入れたいと頼むだろう。それは同時に、娘を不幸に落とすことになる。予言ではないぞ、同郷のよしみ、そして、同じ大学で学んだ者として、学友たるキミに忠告しているのだ。お前の恋は成就しない。あの美しい娘を不幸にしたくなければ、大人しく故郷にでも戻り、キミの好きな『錬金術』にでも、没頭したまえ」
高らかなマルティンさんの笑い声が、廊下に響き渡る。背の高い男の人は、悔しそうにぎりぎりと歯噛みした。マルティンさんはひとしきり笑うと、石畳に靴音を鳴り響かせながら、去っていく。
「待てっ! 待ってくれ、マルティン! マルティン・ルター!!」
背の高い男の人は、マルティンさんを引きとめようと手を伸ばし、声を枯らして叫んだけれど、マルティンさんはそのまま廊下の先の闇に溶け込むように消えていった。
どこかで聞いたような名前……そう思っていると、三度わたしの目の前に眼の眩むような光が走った。三度目ともなると、さすがのわたしもなれたもので、素直に瞳を閉じる。そうして、しばらくしてから眼を開けると、わたしは星が無数に輝く夜空の下に立っていた。
宝石のちりばめられた夜空から視線を落とし、キョロキョロと辺りを見回す。どうやら町みたい。でも、ビルもなければ、お店を飾る電飾も、車も走っていない。それどころか、どう見ても日本の建物じゃないレンガの家屋が、煙突を夜空に突き出して、道の両脇に並んでいた。テレビで見たことのある、ドイツの古い町並みによく似ている。
「どうしても、妹に付きまとうというのなら……」
近くで重苦しい声がした。わたしはその声を辿って、通りを横切る路地裏に向かう。さっきまで居た、大学の廊下と同じくらい薄暗い路地裏に、二人の人影。一人はさっきの背の高い男の人だ。そして、もう一つの人影は、とても筋肉質な体つきをした男の人。その人も、やっぱり見慣れない服装をしていたけれど、わたしは衣装よりも、その人の手に握られた、ギラリと光る短刀に眼を奪われてしまった。
やっぱり、ここでも、路地裏に突然現れたわたしのことに、二人ともまったく気付いていない。
「何をするつもりだ、ヴァレンティン殿」
「気安く俺の名を口にしないでもらえるか? 悪魔に呪われては適わないのでな」
ヴァレンティンと呼ばれた筋肉質の男の人は、笑った。だけど、その眼は据わっていて、けして笑ってなんか居ない。
「呪ったりなどするはずがないじゃないか。俺は悪魔と契約などしていないのだ。それなのに、なぜ、ヴァレンティン殿は邪魔をする」
「邪魔? 邪魔とは人聞きの悪い。悪魔と契約していないヤツが、『錬金術』だの、禁忌の魔術だの怪しげなことをするはずがないと、マルティン殿は仰った。そんなヤツに、大事な妹を渡すくらいならば、ここで始末してくれるっ!」
ヴァレンティンさんの握る短刀に、凶暴な殺意が宿る。とんでもない場面に出くわしちゃった! わたしは慌てて、二人を止めようと右手を探った。だけど、そこにはこうもり傘がない。そうだ、ソフィを助けるために、砂浜に投げてきたんだ。
「死ねっ!!」
やけに低くて、くぐもった声でヴァレンティンさんは短刀を突き出した。空を切り裂く音。短刀の先端が、背の高い男の人の肩先を切り裂いた。白いローブの袖に血が滲む。
「やむを得ないか」
微かに、背の高い男の人の口がそう動いたような気がした。その瞬間、ヴァレンティンさんの頭上に、ぽっかりと暗闇の空間が開く。そして、そこから短刀よりも鋭い鉄のつららが、いくつも降り注いだ。
わたしは思わず眼を伏せた。鼓膜を振るわせるほど大きな、ヴァレンティンさんの悲鳴。その直後、ぐしゃぐしゃと、鉄のつららが何かに突き刺さる音が聞こえてきた。眼を開いて見る勇気はない。そこにあるものを、見る勇気はない。
「すまない……ヴァレンティン殿。そなたを殺すつもりはなかったんだ」
背の高い男の人の、悲痛な声が聞こえる。喉の奥から、やっと絞り出したみたいな声だった。その声に混じって、小さな歩幅の足音が近づいてくる。そして、足音は少し距離を置いて泊まった。
「お兄さま……?」
ヒャッと息を呑む、女の人の声。とても澄んだ綺麗な声。だけど、すぐにその声は、大きな悲鳴に変わった。
「きゃああっ、お兄さまっ!!」
悲鳴の後、わたしは四度目の光に包まれた。目は閉じたままだったから、そんな気がしただけかもしれない。そして、あたりから悲鳴の音が遠ざかっていった。その代わり、不気味なほどの静けさが、耳に痛い。強く閉じていた瞳を開くと、また別の場所にわたしは立っていた。さっきまでの、町並みに変わって、どこかの家の部屋みたいだった。
やっぱりここも薄暗くて、眼を凝らさなきゃ、足元もよく見えない。しばらくして暗がりに眼が慣れてくると、そこがひどく殺風景な部屋であることに気付いた。
ここがリビングであることを示すような、角のかけた木の食卓。その上には、空になったワインのボトルと、倒れたグラスが一つ。椅子は二つだけ。そのほかには、小さな可愛いアンティークのタンスがあって、少し離れた場所に小さな火が揺らめくだけの、灯りにも暖房にもならないようなこぢんまりとした暖炉があった。
「これが、神への冒涜と言うのなら、俺に降りかかる災難はなんだ!?」
暖炉の淡い光に影を作り、呟くのは、やっぱりあの背の高い男の人だった。男の人は床にしゃがみこんで、先の尖った石で、木の床に何かを描いている。ただの石じゃないみたい。蛍のように緑色に光る石。
「どうだ、これが『錬金術師』としての俺の成果だ! この『賢者の石』で、俺は俺の災難を振り払う!!」
背の高い男の人はそう叫んで、「賢者の石」を床にたたきつけた。その瞬間「賢者の石」で木の床に描かれた魔法円がまぶしく輝いた。これでも、ヴェステンに教わって、いくつもの魔法円を知っているつもりだった。だけど、光り輝くその魔法円はわたしがこれまでに見たことのある、どんな魔法円よりも複雑で大きかった。
「出でよ、崇高なる魔界の王よ、悪魔の王よ! 我が望みを聞き入れたまえ!」
その声に呼応するかのように、部屋中が地震に見舞われたように激しく揺れた。だけど、揺れれば揺れるほど、魔法円の輝きは増していく。やがて、揺れが収まると、魔法円から黒い影が現れた。それが何かを、言葉にすることは出来そうにもないくらい、とてもおぞましくて気味が悪い。
「汝、二十四の歳月、我に従え! されば、我が肉体と魂を総て、汝に与える。契約の言葉は『Verweile doch Du bist so schon!』。刻よ止まれ、汝ほど美しきものはいない!」
背の高い男の人は、必死に叫んだ。その瞳は、何処までも果てしなく黒く淀んで、まるで何かに取り付かれているようにも見えた。影がニヤリと笑ったような気がする。メーアヴァイパーの氷の微笑とも違う、もっとずっと、邪悪な微笑みだった。
怖い、ものすごく怖い。魔法円から現れた影も、狂気の瞳をした男の人も、何もかもが怖くて、体中がガタガタ震え始める。わたしは逃げ出したいと思った。だけど、この部屋の何処にも出入り口がない。窓もない。息が苦しい。もがいても、あがいても、全身に粘りつくような感触がする。足が重い。腕が重い。
「ソフィっ!!」
目の前が、ぐるぐると廻って、ふたたびそこは海の中。わたしの目の前には、光の届かない海底へと引きずり込まれていくソフィの姿があった。わたしの指先が、ソフィの指先に触れてる。あと少し……。あともうちょっと! わたしは必死に手を伸ばして、ソフィの手のひらを掴んだ。力いっぱい、ソフィの体を引き寄せる。
「ソフィ、しっかりして、死んじゃダメだよ!」
わたしは泳げないことも忘れて、必死に海面を目指した。頭上には、まん丸お月様が輝いている、あれを目指せばいいんだ。
「ぷはぁっ!!」
海面に出ると同時に、わたしは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「トーコっ!! トーコっ!!」
浜辺から、ヴェステンが必死にわたしを呼ぶ。わたしは随分沖に流されたことを知って、少しゾっとしながら、ソフィを抱えて浜まで泳ぎきった。もう二度と水泳なんかしないぞ、と心に誓って。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
ヴェステンが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。なんだか、泣き出しそうな顔をしている。そんなヴェスの顔を見てると、わたしの心は少しだけきゅんとした。
「大丈夫。案外泳ぐのって簡単だね。食わず嫌いだったみたい。それより、ソフィ?」
わたしは砂浜に横たわるソフィの顔に頬を近づけた。人工呼吸の仕方はよく分からないけど、とにかく呼吸の確認。すると、頬に僅かな風を感じる。むしろ、眠ったままと言った方が正しい。ホッとすると、全身からちからが抜け落ちていく。
「よかった! ソフィ、ぐっすり寝てる」
安堵しながらわたしは、ソフィの隣に寝転がった。ずっしりと疲れが体を襲う。でも、ここで寝ちゃうわけには行かない。何もなかった風を装うために、岩陰で眠らせたつむぎちゃんを背負って部屋に行き、ソフィを背負って、坂道を二往復すると言う。重労働が待ってる。
わたしは、気合を入れるために全身で、伸びをした。ふと、その右手が何かに触れた。わたしはそっとそれを拾い上げて、星空にかざした。つやつやした、とても綺麗な星型の貝殻だ。
「きれい……。ねえ、ヴェステン。これを綾ちゃんのお土産にしようと思うんだけど、どうかな?」
わたしが尋ねると、ヴェステンは呆気にとられたような顔をしながら、少しだけ笑って、
「いいんじゃない? きっと綾なら喜ぶとおもうよ」
と、言った。
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