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28. 水の乙女

 真夏でも、Tシャツにハーフパンツのラフな格好じゃ、少しだけ夜風が冷たい。坂道は、別荘の建つ丘肌をぐるりとめぐり、志高家のプライベート・ビーチへと続いている。わたしたちが、その坂道を全力で駆け下りると、白い砂浜は月明かりに照らされて、青白く光り輝いて見えた。

 ソフィを抱えた尾瀬さんは、ゆっくりとした足取りで海へと入っていく。着衣が濡れてしまうのも気にせず、腰の辺りまで水に浸かったところで、わたしたちの足音に気付き、歩みを止めて振り向いた。こちらに向けられる、ひどく濁って生気のない瞳に、わたしは思わず息を呑んだ。それは、人間の瞳なんかじゃない……。

「ソフィを、何処へ連れて行くつもりですか!?」

 わたしは、こうもり傘を構えて、叫んだ。

「ヴァイス・ツァオベリンの娘、目を覚ましたか。しばらくの間、そこでじっとしていてはもらえませんか?」

 尾瀬さんの口から零れ落ちた声は、男の人のものじゃなかった。女の人、それも大人の女性の透き通った声。尾瀬さんは、再び海の方を向くと、両手に抱えたソフィを、水面にそっと浮かべた。ソフィが眼を覚ます気配はない。

「ソフィを返してっ!! 緑の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、風の矢となれ、ヴィント・プファイル!」

 魔法の言葉を唱えると、傘に刻まれた文字が淡くひかり、その先端からカマイタチ状の矢が、尾瀬さんの無防備な背中めがけて、飛び出す。すると、それに呼応するかのように、尾瀬さんのワイシャツに包まれた背中が、ぽこぽこと音を立てて歪む。奇妙な光景に驚いている暇なんかなかった。ワイシャツが弾けるように引き裂かれ、そこから透明な食指のようなものが現れた。

 食指はわたしの放った風の矢を包み込むと、あっという間にかき消してしまい、さらに眼にも留まらぬ勢いで、わたしの方へと伸びてくる。魔法を唱えている余裕はない、ととっさに判断したわたしは、砂を蹴って、すんでのところで食指をかわす。その拍子にわたしの肩に乗っかるヴェステンが、砂の上に派手に転がり落ちた。

「もうっ! この前からぼくは砂まみれだよっ!」

 ぺっ、ぺっ、と口の中に入った砂を吐き出しながら、ヴェステンが愚痴る。ほっとするのもつかの間、食指は急旋回して、再びわたしを追い立てる。

「フライセンっ!! ヴァッサー・バックラーっ!」

 ニヒツ・アーリエによって、わたしを包み込む水の盾。ううん、水のバリアと言った方がいいのかもしれない。四つの魔法様式の中で、唯一敵からの攻撃ベクトルを防いでくれる魔法「バックラー」の中でも、全周囲を包み込み守ってくれる、とても汎用性に優れた魔法だと習った。

 これで透明な食指を防ぐことができる、というわたしの予測とは裏腹に、透明な食指はわたしを包み込むバリアをやすやすと突き破る。

「どうしてっ?」

 まるでシャボン玉が弾けるように、水の盾が消え去ると同時に、透明な食指は、わたしの手首、脚、首筋に絡まりついた。その時、食指が水で出来ていることをわたしは悟った。だけど、次の手が思い浮かばない。きりきりと、締め上げてくる食指に、こうもり傘を落とさないようにするので精一杯だ。

「まさか、お前はっ!?」

 砂まみれのヴェステンがはっとなって、叫ぶ。再び、尾瀬さんがこちらを見遣り、口元に笑みを浮かべた。優しそうな人だと思っていたのを、前言撤回したくなるような、冷たい微笑み。そういうのを「氷の微笑」って言うんだと、わたしは初めて分かったような気がする。

「尾瀬さん……? トーコちゃん? 何をなさっているの? ソフィ?」

 不意にわたしたちの背後で、震えた声が聞こえた。食指に絡まられて、後ろを振り向くことは出来ないけれど、それがつむぎちゃんの声だと言うことだけは分かった。

「黄の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、土隆の剣となれ、エーアデ・シュヴェーアトっ!!」

 やっとの思い出、締められたのどの奥から、魔法の言葉を吐き出した。すぐに、傘がかちこちの岩のような剣に姿を変えた。だけどそれを確認する余裕もなく、わたしは必死に手首を振って、食指を切り裂いた。切り裂かれた食指は、ただの水に変わる。

「トーコっ、大丈夫? 怪我はない?」

 咳き込むわたしの元に駆け寄ったヴェステンが、心配そうにわたしの顔を覗き込むものだから、強がって笑顔を見せてやった。

 そして、振り向くと、やっぱりそこにはつむぎちゃんが居て、足元から震ながら、彼女の瞳はじっと尾瀬さんに釘付けだった。

「つむぎちゃん、逃げてっ!!」

 わたしは力いっぱい叫んだ。その声に弾かれるように、つむぎちゃんはビクッとなる。二、三歩後ずさりするけれど、恐怖と困惑に支配された足元はおぼつかず、短い悲鳴とともに、つむぎちゃんはその場にしりもちをついてしまった。

 もう一度、尾瀬さんの背中がぐにゃぐにゃと歪む。それが、再び食指の伸びてくる合図で、しかもその狙いが、つむぎちゃんだと感じたわたしは、土の剣で砂浜を叩いた。バーン! と派手な音を立てて、砂が一気に舞い上がり、わたしたちの姿を隠すカーテンを作ってくれる。そのカーテンを背に、わたしは腰を抜かしてしまったつむぎちゃんの元に、全力で走った。

「つむぎちゃん、こっちっ!!」

 戸惑いを隠せないその手を引っ張って、わたしは手近な岩陰に滑り込む。やがて静かに砂のカーテンは収まり、あたりに潮騒の音だけが残された。どうやら、尾瀬さんはわたしたちのことを探しているみたい。

「ヴェステン……あいつ何? 水のお化け?」

「近いかも。メーアヴァイパー。水の乙女って呼ばれてる、中級トイフェルだよ」

 声を潜めながら、ヴェステンが言う。

「水の乙女って、尾瀬さん男の人だよ? それとも、ドイツじゃ男の人のことも『乙女』って言うの?」

「そんなわけないでしょ。トーコもあいつの声聞いたでしょ? あれは『擬態』だよ。メーアヴァイパーは、水の魔物だから、いろんな姿に変化(へんげ)することができる。男にも、動物にだって……それを水で出来た自らの体に映しこめば何にだってなれるんだ。だから、あれは本物の尾瀬さんって人じゃない」

「それじゃあ……!」

 言いかけた言葉を飲み込む。メーアヴァイパーが自分の体に、コピーしたい相手を映しこむためには、その人と接触しなければならない。そうだとしたら、本物の尾瀬さんは、すでにこの世にはいないかもしれないと、想像したくないものを見せ付けられたような気がして、背筋を悪寒が駆け抜けた。

 いやいや、そんなことはない。絶対、あっちゃダメなんだ。

「おトイレに行こうと思ったら、尾瀬さんがビーチへ降りていくのが見えて……どうしたんだろうって、追いかけてっ、追いかけて来たの……だって、夕方から尾瀬さんの様子が変だったから、わたし、わたしっ」

 つむぎちゃんは、岩陰で小さくうずくまったまま、全身を小刻みに震わせていた。無理もない。憧れの人が、ソフィを攫い、おぞましい姿を見せたのだ。これが現実だとしたら、怖くて仕方がなくなる。わたしは、そっとつむぎちゃんの背中をさすりながら、そっと、こうもり傘の柄を掴んだ。

「聞いてつむぎちゃん、あれは尾瀬さんなんかじゃないの。詳しい話をしている暇はないけれど、これは全部夢なの。つむぎちゃんは、今すっごい悪夢を見てるの。でもね、目が覚めたら、全部夢だったって分かるはずだよ」

「トーコ?」

 ヴェステンが傍らで怪訝な顔をする。

「この喋る猫も、明日になればただの猫に戻ってる。だから、怖がらないで。何も心配しないで……」

 そうなだめつつ、わたしはそっと魔法の言葉を呟いた。

「ギューター・シュラーフ」

 風と水を応用した、眠りの魔法。目覚めたときには、すべてが夢だったんだと思えるほど、快眠を呼ぶことができる。つむぎちゃんはゆっくりとまぶたを閉じ、柔らかな砂浜の上に寝転んで、可愛い寝息を立て始めた。

「いつの間に、そんな魔法を覚えたの?」

「わたしだって、サボってるわけじゃないんだよ。ちゃんと勉強してるの。見直した?」

 そうでなくても大きな瞳を見開いて驚くヴェステンに答えると、わたしはそっと岩陰から顔を出した。

「きっと、トーコの素質だね。見直した」

 ヴェステンも、岩陰からそっと波打ち際の方を見る。

「でも、あいつは手ごわいかも。わたしの素質を信じるしかないのかな……」

 波打ち際では、尾瀬さんの姿をしたメーアヴァイパーが月明かりを浴びながら、ソフィを海面に浮かべ何かをしている。ここからじゃ距離があって、よく分からないけれど、メーアヴァイパーの指先が、すらすらと空中に文字を書いていく。ヴェスが尻尾で描く魔法の文字に似ている。そして、文字に連ねるように、幾何学模様の魔法円を描いた。

『わが主の命により、その封印されし記憶を呼び覚ませ』

 ヴェステンが眼を凝らして、魔法の文字を読む。

「あれは、何かの儀式の魔法円だ……。ぼくの知らない、白の魔法でも、黒の魔法でもない、トイフェルだけの魔法円だよ……」

 儀式と言う言葉が、薄ら寒い。わたしは固くこうもり傘を握り締めた。

「魔法とか、世界とか、祝福されしものとか、そういうものと関係のない誰かを巻き込みたくない。ずっとそう思ってるのに、思えば思うほど誰かを巻き込んじゃう。どうしてかな? こういうのをジレンマっていうのかな?」

「仕方ないよ。トーコが悪いんじゃないよ。少なくとも、つむぎちゃんに嘘を言って眠らせたのは、英断だった。そうやって少しでも、関係のない人を巻き込まないようにしたいって思うのは、前世のトーコも同じだった。その優しさは、キミがキミである証拠だと思うよ」

「ありがと、ヴェステン。とにかく、ソフィを助けようっ! 行くよっ!」

 わたしは、ヴェステンに声をかけると、つむぎちゃんの安らかな寝顔を見て、岩陰から飛び出した。走りながら魔法の言葉を叫ぶ。

「緑の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、風の槍となれ、ヴィント・ランツェ!!」

 傘を振れば、風の槍が砂埃を巻き込みながら、メーアヴァイパーの背中めがけて飛んでいく。更に、魔法を重ねる。

「フライセン! フランメ・ランツェ!!」

 巻き起こった炎の槍は、風の槍に取り込まれ、熱風と変わる。勢いを増したロケットのような魔法の槍は、真っ直ぐ、メーアヴァイパーの背中を貫いて、空中に霧散する。だけど、メーアヴァイパーは悲鳴を上げたりしない。槍の貫通した傷口は、ぽこっと音を立ててふさがり、そして、ドロドロと溶け出したかと思うと、それまで尾瀬さんの格好をしていたのが、透明な水で出来た美しい女性の形に変わる。それが、メーアヴァイパーの本当の姿だった。

「ヴァイス・ツァオベリンの娘……器の少女。逃げ出したかと思ったのですが」

 メーアヴァイパーは透き通った声でそう言うと、わたしの方に向き直り、手を伸ばす。また、水の食指を伸ばしてくるつもりだと、感じた。だけど、逃げ場はないし、ソフィを助けなくちゃいけない。

「メーアヴァイパー! 尾瀬さんをどうしたの?」

「尾瀬……ああ、わたくしが擬態していた男ですか。それならば、今頃自宅で夢の中です。ご安心ください。わたしは『彼』と違って、無益な殺生を好みません」

 その言葉に、わたしは僅かに胸をなでおろした。つむぎちゃんの想い人は無事みたいだ。

「彼? 『彼』って誰だよっ!!」

 ヴェステンがわたしの肩に掴まって叫ぶ。

「いずれ、あなた方の前に現れるでしょう。ただ、『彼』はヨハネスさまにとても反抗的……それは、器の少女、あなたがよく知っていることだと思いますよ」

「わたし!?」

「ええ。でも、今はわたくしの邪魔をしないでください……!」

 メーアヴァイパーが微かに笑った。来る! 直感的にそう思ったわたしは、

固定(フェストレーグング)した魔法はあと二つ! お願いヴェステン!」

 と言いつつ、肩口のヴェステンの体を鷲掴みにして、メーアヴァイパーに向かって投げつけた。

「行けっ! 奥義ヴェステン投げっ!!」

「うにゃあっ!! それやめてっていったじゃんかーっ!!」

 悲鳴に尾を引きながら、ヴェステンが飛んでいく。すぐにヴェステンの体は、メーアの腕が変化した食指に絡め取られた。だけど、その隙をわたしは逃さない。

「契約の名の下に、総ての呪文を解除する! 全解放(アレスフライセン)! フランメ・シュヴェーアトっ!」

 魔法の言葉を叫びながら、わたしはメーアの懐に飛び込んだ。そして、二重にかけた炎の剣と化した傘をメーアのお腹に突き立てる。感触は、水の中に熱したフライパンをつけたような感じ。ジュッ! と水蒸気が巻き起こり、ややあって、メーアは食指に絡め獲ったヴェステンを離した。

「ぎゃああっ!!」

 メーアが悲鳴を上げる。水で出来た体は、炎の剣によって熱せられて熱湯になり、蒸発していく。

「器の少女……『彼』に逢うその日がきて、その優しき心が憎悪に満たされるのを、楽しみにしています」

 そういい残すと、氷の微笑を湛えたメーアヴァイパーは魔界へと消えていった。わたしは、全身の力が抜けていくのを感じながら、ヴェステンのほうを向いた。

「今度、ヴェステン投げやったら、綾に叱ってもらうからね!」

 再び砂まみれになった、ヴェステンがエメラルドグリーンの瞳で、わたしをにらみつける。だけど、すぐにヴェスの顔色が変わってしまう。

「あっ!! トーコっ! そ、ソフィがっ!!」

 ヴェスの叫び声に振り向くと、海面に浮かべられたソフィの体に、メーアヴァイパーの書き残した魔法の文字と魔法円が染み込んでいく。

「ソフィっ」

 わたしは慌てて走り出した。だけど、すでに時遅く、ソフィの体にすべての魔法の文字と魔法円が吸い込まれたかと思うと、ソフィはそのまま海中へと沈んでいく。わたしはこうもり傘を浜辺に投げ捨てると、勢いよく海に飛び込んだ。

「トーコっ、待って!!」

 後ろでヴェステンの呼び止める声が聞こえた気がした。でも、月の光も届かないような、真っ暗な海の底に沈んでいくソフィの体に、あと五センチ、手を伸ばせば届く。わたしは、自分がカナヅチであることも忘れて、必死にもがいて、手を伸ばした。

 後、三センチ……後、一センチ……。わたしの指先がソフィの指先に触れる。その瞬間だった、わたしの目の前にまばゆい閃光が走る。ちょうど、カメラのフラッシュを直視してしまったときのような、目の前が真っ白になる感覚。

 ああ、そうだ、わたしカナヅチだった……。ダメ、息が持たない! 閃光に眩暈する中、わたしは海中で意識が遠のいて行くのを感じた。

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