27. 志高家の秘書
イルリヒトは地下室で、お父さんはリビングでお留守番。ヴェステンは、お父さんの壊滅的な料理を食べるのが嫌だと言って、旅行の間ずっと猫のフリをすることを条件にわたしについてきた。今頃お父さんはお仕事中かな、イルリヒトは退屈してないかしら、とビーチパラソルの下に座って、めいめいに泳いだりビーチバレーして遊ぶみんなの、楽しそうな声を聞きながら、ふとそんなことを思った。
つむぎちゃん家の別荘の裏手には、丘を下る細い路地があり、ぐるりと廻ってプライベート・ビーチに出る。中学生のわたしたちにはもったいないくらいの、ステキな浜辺。周囲を大きく崖に囲まれていて、前方は大きく開けており、白い砂浜と青い海が切り取られた、どこかパノラマ写真のような風景だ。
体育座りなんかして、のんびり、ぼんやりと空を眺めていると、時間を忘れてしまいそうなくらい、うっとりしてしまう。不意に、そんなわたしの足元にビーチボールがころころと転がってくる。
「中野っち、ボールとって!」
例の大きな荷物を苦しそうに背負ってきた隣のクラスの子が、今は可愛らしいピンクのパレオがついた花柄の水着に身を包み、わたしに向かって手を振る。どうやら彼女の荷物の中には、砂浜に日陰を作る赤と白の縞々模様したパラソルが入っていたらしい。
わたしが立ち上がってボールをとると、彼女はわざわざわたしのところまで受け取りにやってくる。
「ありがと。中野っちは泳がないの?」
「うーん、泳ぎたいけど日焼け止めクリーム忘れちゃったから」
えへへと、苦笑しながらわたしはボールを手渡した。
「そうなの? 夏の日差しは女の子の肌の大敵だよっ。そうだ、中野っちの肌に合うかどうか分かんないけど、わたしの貸してあげよっか?」
「ありがとう。でも今は、いいや。ここでこうしてぼんやりしてるのも楽しいから」
「ふーん。分かった。でも、泳ぎたくなったらいつでも言ってね。せっかく海に来たんだし」
そう言うと、彼女はニコニコとしながらビーチボールを手に、みんなの下へと駆けていった。わたしはしばらくその後姿を見届けてから、小さくため息を吐いて、パラソルの下に腰を下ろした。
「実は泳げないって、正直に言ったら?」
わたしの隣で丸くなっていた、ヴェステンがニヤリとする。
「うるさいな。キミは猫のフリしてなさい。もしも、誰かに聞かれても、わたしフォローしてあげないからね」
「図星だね。泳げないくらいなら、和歌ちゃんのお誘いに乗らなきゃよかったんだ。ぼくたちには、こんなところで遊んでいるよりも大事なことがあるんだ。今までぼくたちの知らなかったことや分からないことが、あんまりにも多すぎる。特に、あの男の子は怪しい。それを調べることこそ、こんなところで遊ぶことより優先され……」
「もうっ! こんなところにまで来て、そんなこと言わないでよ!」
わたしは、いやいや擦るみたいに頭を振って、膝に顔をうずめた。すると、ヴェステンは呆れたようにわたしのことを睨んで、すっと立ち上がると、炎天下の下へと歩き出す。そして、二、三歩砂浜に足跡をつけると振り返って、
「ぼくは泳ぎに行っちゃうからね。トーコはそこでぼんやりとしてなさい」
まるでわたしの口調を真似るみたいに言うと、あっかんべーして、ヴェステンはみんなの居る波打ち際へと走っていった。すぐに、波打ち際は黄色い悲鳴に埋め尽くされて、「可愛い、可愛い」とみんなにもみくちゃにされるヴェステン。もしかして、ヴェスってば、プレイボーイ?
わたしは、もう一度ため息を吐いて、青い空と青い海の綺麗なコントラストをぼんやりと眺めていた。たしかに、ヴェステンの言うことは一理ある。わたしたちが知らない事実が多すぎる。わたしは、前世のトーコの記憶を持っていないし、ヴェステンも肝心要なことは何も知らされていないみたい。そして、イルリヒトは低級なトイフェルで、やっぱり大事なことは知らない。結局、わたしたちには情報が、著しく欠如していた。それを見つけることは、世界のために大切なこと。
ただ、それでもわたしは、お休みが欲しかった。夏休みだからって言うだけじゃない。引越しする三ヶ月前、『あんなこと』があってからずっとバタバタしっぱなしだった。引越ししてからも、新しい生活に慣れることや、青天の霹靂のようにわたしの身に降りかかった、魔法のこと、トイフェルとの戦いに追い立てられて、この半年間わたしは世界で一番忙しい十三歳だったに違いない。だから、ゆっくりとした時間の中で、ぼんやり、のんびりしたかった。それがダメだ、なんて言う権利は、ヴェステンにもないはずだよ。
そんなことを考えながら、さざなみに耳を傾けていると、唐突にわたしの火照った頬に、冷たいものが当てられて、おもわず悲鳴を上げた。
「きゃっ! 冷たいっ!」
「わっ! ご、ごめんなさい、トーコ」
わたしの悲鳴と同時に、背後で声がした。振り向くと、水着姿のソフィが両手いっぱいに、缶ジュースを提げて立っていた。冷たいものの正体は、缶ジュースか、なんて思っていると、ソフィの後ろから、うらやましくなるようなスタイルに良く似合う花柄の水着姿のつむぎちゃんが、やって来る。
「そんなに驚かなくても、いいじゃない、トーコちゃん。さっき、お父さまの秘書が、これをもってきてくれたのよ。はい、トーコちゃんにもおすそ分け」
つむぎちゃんは口元に手を当てて苦笑しながら、籐の籠に入った缶ジュースをわたしにくれた。お礼を言うと、つむぎちゃんはニッコリ笑って、波打ち際ではしゃぐみんなの所へ、ジュースを持っていく。わたしは、缶ジュースの蓋を開けて、一気に渇いた喉に流し込んだ。冷たさと、オレンジの甘酸っぱい味が、体の芯にまで染み渡って心地いい。
そんなわたしの傍で、ソフィは余りの缶ジュースを、パラソルの下のクーラーボックスへと仕舞いこむと、さっきまでヴェステンが丸くなっていた場所に体育すわりする。彼女の水着も水を一切被っていなかった。ドイツ人の血を引く彼女の肌はとっても白くて、夏の紫外線には、わたしたち以上に弱いらしい。
「ヴェスくんは?」
ソフィが辺りを見回して尋ねる。わたしはジュースに口をつけながら、空いた方の手で波打ち際を指差した。ヴェステンは、たくさんの女の子にかこまれて、遠目にもまんざらでもないと言う顔をしている。猫のフリも板についたもので、いつもの「ワルブルガの使い」のプライドは何処へいっちゃったの、とツッコミを入れたくなるほどだ。ホント、男の子って分かんないよ。
「ヴェスくんて、もしも、人間の男の子だったら、すごくカッコいいのかな」
「それはないよ。口うるさいだけの、小生意気なやつだよ、きっと」
プイっとそっぽを向いてわたしが言うと、ソフィは楽しそうに微笑んだ。ソフィは、笑うとすっごく可愛い。女の子のわたしが言うんだから、間違いない。ソフィが笑うと、ますます綾ちゃんに似ている気がする。どこがどう、と言うわけじゃなくて、可憐で柔らかな雰囲気がそっくりなのだ。
そう言えば、綾ちゃんは今頃どうしてるだろう。連絡が取れなくって、誘わなかったことを知ったら、怒るかな。仕方ないよ、と笑って許してくれるかもしれない。でも、それじゃわたしの気が重くなってしまう。なにか、お土産でも持って帰れればいいんだけど……。
「よしっ!」
わたしは飲みかけの缶ジュースを砂に、勢いよく突き刺した。そして、背伸びをしながら立ち上がる。海に遊びに来て、水着が乾いたままなのは、どう考えたって面白くない。
「お日様も随分傾いたし、わたしたちも遊ぼうっ!」
と、わたしが声を張り上げると、彼女は少しだけ戸惑ったような顔をした。でも、半ば強引にソフィの手を引っ張って、わたしは波打ち際まで砂を蹴った。
わたしたちにジュースを差し入れてくれた、つむぎちゃんのお父さんの秘書と言う人は、男の人だった。秘書という言葉だけで、勝手に女の人だと思っていたのは、ちょっと恥ずかしい。すらっと背が高く、鼻筋も通っていて、きっと秘書をしていなかったら、芸能人になっていてもおかしくないくらいカッコいいのに、とても物腰が穏やかで紳士。みんなが、思わずうっとりしちゃうのも、無理はない。
「あの、尾瀬さんは、彼女とかいるんですか?」
なんて聞いてる子も居るけれど、十歳以上も年下の女子中学生に言い寄られても、あんまり嬉しくないと思う。だけど、それまで女の子の中心にいたはずのヴェステンとしては、気分が悪いらしい。尾瀬さんが現れてからは、ずっと不機嫌で、にゃおとも言わない。猫にライバル心燃やされているなんて、夢にも思わない、そんな秘書の尾瀬さんの計らいで、その日の夕食は、庭から夕日を眺めつつのバーベキューとなった。みんな思い思いにおしゃべりしながら、お皿に乗せたお肉をつつく。
「つむぎさま……、バーベキューの材料は足りてございますか?」
わたしがつむぎちゃんと話をしていると、尾瀬さんが静かにやってきて、つむぎちゃんに言う。さま付けで呼ばれているところを見ると、やっぱりつむぎちゃんは良家のお嬢様なんだなって、思う。
「ええ、充分過ぎるくらいよ、みんなも楽しんでいるみたいだし」
「いえ、これも勤めですから。今夜は、私もこちらへ泊まれと、お父上さまから命じられておりますので、何か不足のものがあれば、申し付けてください」
「わかりました。ありがとう、尾瀬さん」
つむぎちゃんがお嬢様スマイルでニッコリとすると、尾瀬さんはぺこりと頭を下げ、踵を返し、バーベキューのグリルの方へ向かおうとする。その背中をつむぎちゃんは呼び止めた。
「尾瀬さん……何かありました?」
怪訝そうな、つむぎちゃん。だけど、尾瀬さんは眉目に優しそうな笑みを浮かべて「いいえ、何もございませんよ」と言って、そのまま歩いていってしまった。
「何、今の?」
わたしまで訝しくなってしまう。
「うーん、尾瀬さんの雰囲気がいつもと違うように思えたから……ちょっと気になったの」
つむぎちゃんにそう言われて、わたしはもう一度尾瀬さんの方を見た。尾瀬さんは、スーツにエプロン姿というちょっとおかしな出で立ちで、グリルの上のお肉や野菜が焦げ付かないように、調理を請け負っていた。つむぎちゃんの言う「いつも」を知っているわけではないけれど、いたって真面目で紳士的なカッコいい大人の男の人だと思う。
「もしかして、つむぎちゃんって尾瀬さんのこと、好きなの?」
ニタリ。ちょっと意地悪な気持ちになって尋ねると、つむぎちゃんはちょっとだけ赤くなって、
「好きとかそう言うんじゃなくて、尾瀬さんの誠実で真面目な人柄を人として尊敬しているのっ。もう、トーコちゃんの意地悪」
と頬を少しだけ膨らませて、否定する。だけどそういうのを、好きって言うんじゃないか、と思ったけどその言葉は飲み込むことにした。
やがて、太陽の光が消えて夜の帳が下りた空一面に、プラネタリウムのような星が瞬くころ、バーベキューはお開きとなり、それぞれの部屋へ遊び疲れた体を引きずって帰る。ふかふかのベッドに飛び込むと、もう動きたくないと体が訴えているみたいだった。
いつもなら、まだ宵の口と言う時間に、わたしのまぶたが重くなる。布団にもぐるのも億劫だ、と思っていると部屋の明かりは、ソフィが消してくれた。ソフィは疲れ果てたわたしに苦笑しながら、お行儀よく隣のベッドにもぐりこむと、顔だけわたしの方に向けて、そっと言う。
「ありがとう、トーコ。トーコのおかげで、こんなに楽しい夏休みが過ごせる」
「そんな、わたしのおかげじゃ」
眠たい意識を押さえ込みながら、わたしは笑った。傍らのヴェステンは丸くなって、すでに小さな寝息を立てている。
「トーコ、わたしと友達になってくれて、ありがとう」
「うん……わたしも、うれしい……」
まるで溶け込むように、睡魔はわたしを眠りの世界へと引き込んでいく。なんだか、ゆっくり深く眠れそうな予感がする。「おやすみ」と言った言葉は、ちゃんと言葉になっていたか分からない。ただ、それ以上、瞳を開いていることは出来なかった。
そうして、どのくらいの時間が過ぎただろう……。羊の毛に包まれたみたいに柔らかくて、ふかふかした夢の世界にわたしは浸っていた。何だか雲に乗っているような気分。こんな眠りの世界なら、ずっと覚めないで居て欲しい、と思うのだけど、わたしの眠りは顔をペタペタと何かに突っつかれて、無情にも現実の世界へと、一気に引き戻される。
眼を開くと、わたしの顔の前にドアップのヴェステン。
「起きろ、トーコっ!!」
「なあに、ヴェステン? もう朝?」
寝ぼけ眼であくび交じりに、枕もとの時計を見る。バックライトに照らされたデジタル時計は、深夜二時を示していた。まだ、眼を覚ますには早すぎる時間。再びまぶたが閉じかけると、ヴェステンの先っぽだけブルーグレーの尻尾が、ぺちぺちとわたしの顔をはたく。
「寝ぼけてないで、起きてよ! 一大事っ! トイフェルだ!!」
「ええっ!?」
トイフェルと言う単語に、わたしの眠気が一気に吹き飛ばされた。慌ててベッドから跳ね起きると、ヴェステンの長いヒゲが、びりびりと震えて、トイフェルの襲来を知らせていた。
「大変っ! どうして、こんなところにまで、トイフェルが?」
と言いかけたわたしは隣のベッドにソフィが居ないことに気がついた。布団がめくってみると、僅かにさっきまでそこでソフィ眠っていたことを示す暖かさがあった。
その時、一際ヴェステンのヒゲが一際震えた。ヴェステンはひょいひょいと、ベッドをジャンプして、窓際に飛び乗った。そして、息を呑むと、
「トーコ、外見てっ!!」
と叫ぶ。わたしも慌てて窓辺に駆け寄った。その窓からは、ちょうど別荘の裏手にあるプライベートビーチへ降りる坂道が見渡せた。そこに、坂道を下っていこうとする人影がひとつ。眼を凝らし、夜の闇に慣れてくるとそれが誰であるか、はっきりとしてくる。
「あれ、尾瀬さん?」
「あいつが、抱えてるのって、ソフィだよっ!!」
すかさずヴェステンが叫ぶ。坂道に姿を消す尾瀬さんは、ちょうどお姫様を抱えるような格好で、ソフィを抱えていた。気を失っているのだろうか、金色の髪が風にふわふわとなびいている。ソフィを抱えた尾瀬さんは、真っ直ぐ、まだ暗いプライベートビーチへと向かっていた。
「どうして、尾瀬さんが、ソフィを!?」
「分かんないけど、あいつからトイフェルの魔力を感じるっ!」
「えっ、えええっ!! 尾瀬さんがトイフェル?」
「驚いてる場合じゃないよっ!! ソフィを助けなくちゃ! ヴァイス・ツァオベリンは正義の味方っ!」
ヴェステンはそういうと、窓際から飛び降りると、尻尾で魔法を唱え、部屋の隅に置かれたわたしの旅行バッグを開く。そして、中から黒いこうもり傘を取り出した。こうもり傘はそのまま、ヴェステンの魔法で、わたしの手元に届けられる。
「黒の魔法使いが呼び出した、魔界からの使者トイフェルをやっつけるのは、ヴァイス・ツァオベリンの使命だ!」
「うん、分かってるよ!」
わたしは力強く頷いて、傘をぎゅっと握り締める。そして、ヴェステンを肩に乗っけると、急いで部屋を後に、ソフィを攫った尾瀬さんを追いかけた。
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