20. ありがとう
青木さんたちがいっせいに、わたしの顔を見た。先日もノルデンさんをイジメてた三人組だ。一人は、ノルデンさんの金色の髪を引っ張り、もう一人はお掃除用のデッキブラシの先でお人形さんみたいな顔をつつく。そして、最後の一人、青木さんがお腹につま先を抉りこんでいた。そんな三人の目つきの悪さと言ったら、トイフェルよりも悪辣かもしれない。
「何よ、あんた?」
青木さんがグループを代表するかのように、わたしの方へずいっ、と歩み寄ってくる。
「イジメとか、すっごく幼稚だと思うんだけど。恥ずかしくないの?」
「なんだって? カンケーないだろ、あんたには。ちょっとノルデンと遊んでやってただけだよ」
「遊んでるようには見えないけど。ノルデンさん、泣いてるじゃない。それの何処が、遊んでるって言うのよ。先生呼ぶよ!」
なるべく、青木さんたちを鋭く睨みつけるような視線で、彼女たちの悪行を糾弾する。すると、イジメッ子の一人が、突然何かを思い出したように、手を打って「あっ!」と言った。
「あんた、この前先公を呼んだやつでしょ!?」
どうやら、わたしの声に聞き覚えがあったみたい。でも、実際には先生を呼んではいない。ノルデンさんを助けるために、嘘をついた。まんまと騙されたのは、自分たちがやましいことをしていると言う、後ろめたさがあったから……と、考えるような殊勝な心がけがあれば、イジメなんて、ダサいことしたりなんかしないだろう。
「あんた他所のクラスのヤツなんだから、カンケーないでしょ? さっさと帰りなよ。それとも、ノルデンと一緒にずぶぬれになりたいの?」
ぐいっと青木さんが顔を近づけてわたしにすごむ。他の二人も、ターゲットをわたしに切り替えて、不良さんたちがそうするように、わたしを取り囲んだ。
「青木さんたちの方こそ、義務教育で退学になりたくなかったら、二度とノルデンさんをいじめないことね」
「はぁ? あんた、何サマのつもり?」
「わたしは、ソフィの友達だよ」
そう言って、わたしは青木さんに気付かれないように背中で右手を開いた。
「青の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、水流の矢となれ……ヴァッサー・プファイル。固定」
聞こえないように小声で魔法の言葉を呟く。こうもり傘を持っていないから、威力を発揮することは出来ないけれど、イジメっこにはそれで十分だ。
「何、ブツブツ言ってんのよ。キモイんだよっ!」
別の一人がデッキブラシを振り回す。その竹で出来た柄がまっすぐわたしの二の腕を叩いた。鈍い音と、痛みが駆け上る。思わず「きゃっ!」と悲鳴を上げるわたしを見て、青木さんの顔が醜く歪んだ。
「善人面して、余計なことに首突っ込んでると、痛い目みるわよ」
「どっちが?」
わたしは痛みをこらえて、青木さんの顔を睨みつけた。その拍子に、もう一度魔法の言葉を唱える。
「青の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、水流の矢となれ……ヴァッサー・プファイル。固定。契約の名の下に、総ての呪文を解除する、全解放」
すると、青木さんの頭上から、バケツをひっくり返したような大量の水が降り注いだ。ほかの二人の頭上にも、ザバーッと音を立てて水が落ちてくる。何事が起きたのか、青木さんたちはしばらくきょとんとしていた。そりゃそうだ、水道もホースも頭上にはないのに、水の塊が落ちてきたのだから、呆然としても仕方がない。
「もっとずぶぬれになりたい人、手を上げて。ノルデンさんが受けた痛みの分だけ、嫌ってくらい、水におぼれさせてやるから」
形勢逆転を感じたわたしは、ここぞとばかりにない胸を張って、前に歩み出た。わたしが水を降らせたんだと、ようやく理解した三人組は、薄ら寒いものを感じたのか、僅かにブルブルッと震えて、青ざめた顔をする。いい気味だ、と内心に思ってから、どこかヴェステンのサディスティックさに影響されているような気がした。飼い主が飼い猫の影響を受けるとは、これいかに、ってかんじ。
「お、おぼえてろっ!!」
青木さんが、まるで時代劇の悪党が言うような、お決まりの科白を吐いてから、わたしを押しのけて、お手洗いから逃げ出した。それに続いて、デッキブラシを落っことした一人が、悲鳴を上げて逃げていく。取り残された最後の一人は、あたりを見渡して、半泣きの状態で脱兎のごとく走り出した。
やがて、三人の足音は廊下から消えうせて、お手洗いに静寂が舞い戻ってくる。だけど、その静寂を破るように、わたしの目の前でずぶぬれのノルデンさんが、わんわん泣き出した。
夕日の色が真っ赤に染まり、校舎の陰が濃くなっていくころ、ようやく落ち着いたのか、それとも涙が彼果てたのか、ノルデンさんは泣くのをやめた。わたしは、彼女が泣き止むまで、ずっと待っていた。傍にしゃがみ、ノルデンさんの背中をさすっていると、泣き止んだ彼女は、本当に吹けば飛んで行きそうなくらい小さな声で、「ありがとう」と言った。
「お礼なんて、いいよ。それより大丈夫? どこか痛いところはない?」
わたしが尋ねると、ノルデンさんは大丈夫、と声に出す代わりに小さく頷いた。でもとても大丈夫そうには見えない。前に会ったときよりも、もっと小さく縮こまり、所在なさげに泳ぐブルーの瞳は、わたしの胸をぎゅっと締め付けた。
『下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、速やかに帰り支度をして、気をつけて帰りましょう』
ドボルザークの「遠き山に日は落ちて」に合わせて、下校を促す校内放送が流れる。腕時計を見れば、いつの間にか、そんな時刻になっていた。
「ね、ノルデンさん。立てる? 家まで送って行ってあげるから」
そう言いながら、わたしはノルデンさんを立たせた。それから、彼女と一緒に教室まで戻り、鞄を取ってくる。そして、昇降口を出る頃には、夜の帳が折り始めた宵の空に、一番星がキラキラと輝いていた。
校門を出るなり、わたしたちの帰り道はまったく反対の方向だった。わたしの帰る道は、えんえんと歩けば繁華まで連なる、田園を走る一本道。ノルデンさんの家は、その道を逆方向に山の方へ行く道。その先には、新興のニュータウンがあって、「魔女の館」こと、わたしの家がある田園よりは、多少の賑わいがある。
でも、帰り道が反対だからと言って、憔悴しきったノルデンさんを一人にするのは、少し不安だった。
「あの……中野さん」
学校を後に、歩道を並んで歩いていると、隣を歩くノルデンさんが俯いたまま、小さくわたしの名前を呼んだ。わたしは、沈黙に耐えかねて夕空を見上げていた顔を下ろし、ノルデンさんの方に向いた。
「なあに?」
「どうして、二回も助けてくれたんですか? もしかしたら、青木さんたち、中野さんのこともイジメるかも知れませんよ」
「心配ご無用! あんなやつら、さっきみたいに、ちょちょいのちょいで、やっつけてやるから」
立てた人差し指を振りながら、わたしはノルデンさんにニッと笑いかけた。でも、ノルデンさんはまだ何処か不安そうな顔をしている。
「でも、関係ないのに。ブラシで叩かれたところ、大丈夫ですか?」
「大丈夫、平気だよ。あのね」
ホントはすこしだけ痛みが残っているけれど、こんなの何でもない。わたしは、歩みを止めて星空を見上げた。徐々に夜へと移り変わる空に、数え切れない星がきらめく。そのうちのもっとも儚く、今にも消えてしまいそうな微弱な光を放つ六等星を見つめながら、
「わたし、ホントはノルデンさんが悪いやつかもしれないって思ってたの。最初会ったとき、ホントはそのことを問いただすつもりだった」
と言うと、ノルデンさんも足を止め、初めてわたしの方を見て、驚きの眼を向けた。
「わたし、人を見る目には自信があるの。そんで、きっとわたしの前で泣いてるこの子は、わたしが疑ってたような女の子じゃないな、って確信した。でもさ、一瞬でも悪人じゃないかって疑ったのは間違いないんだよ。それって、イジメなんかやってるあいつらと変わりない。だから、わたしがノルデンさんを助けたのは、行きがかりとかじゃなくって、ホントは『ごめんなさい』の代わりなんだよ」
「そんな……謝るだなんて」
「それでも、納得いかないとしたら……、わたしがソフィと友達になりたいからって言うのじゃダメかな? 友達になるのに、理由なんて要らないと思うんだけど」
やや強引かなとも思いながら、わたしは、もう一度満面の笑みをソフィに向けた。ソフィは、少し潤んだ瞳で、ほほをピンク色に染める。
「それとも、わたしなんかが友達じゃいや?」
と問うと、ソフィは頭を強く左右に振った。
「い、嫌じゃないですっ。嬉しいですっ」
「じゃあ、その敬語みたいなのやめにしよう。それから、わたしのこともトーコって呼んで」
「うん」
ソフィの目じりから涙がこぼれる。それは、青木さんたちにイジメられて流す涙じゃなくって、嬉しさの表れだと、わたしは思った。
ふたたび薄暮の道を歩き出だす。すぐに、一本道は幾重にも分かれ始め、そのうちの一本が、規則正しく並ぶ街灯に導かれるように、丘と言っても良いような低めの山の斜面へと伸びている。そのちょうど左手にニュータウンがあり、いくつもの家が折り重なっており、夕食の灯りが星の瞬きに負けないくらい、たくさん光っていた。
「あの、ここまでで大丈夫。お家、反対方向でしょ? 帰るのが遅くなったら、トーコのお父さん、心配しちゃうといけないから……」
ソフィは分かれ道のところで振り返って、わたしに言った。
「あのね、友達になりたいって言ってもらったのはじめて。ずっと、この髪と目でみんなから嫌われてきたから。わたし、ドイツ人なんて、言ってもハーフだし、生まれたときから日本にいるから、ドイツ語なんてひとつも分からないの。変でしょ、こんななりしてるのに」
「そんなこと気にしないよ。だって、ソフィはソフィだもん」
「わたしはわたし?」
「そう。可愛いんだし、もっと自分に自信持って。ぐって、胸張ってたら、青木さんたちだって、尻尾巻いて逃げてくよ。そうしたら、友達なんて、たくさんできる。ま、わたしがソフィの友達第一号ってことで、それまで、ソフィのことはわたしが守るから。泣かないで」
「ありがとう」
と、またソフィは涙ぐむ。
「もう何回わたしに、ありがとうって言った?」
「十回以上……かな?」
「ありが・とう、だけに?」
そう言って、わたしたちは、薄暮の静けさをかき消すように笑いあった。ソフィの笑う顔は、可憐と言う言葉が一番良く似合うくらい、まるで野原に咲く白い花が春の風に揺れているように見えた。
「また明日」お互いにそう言って、家路へと分かれる。ソフィはずっと分かれ道に立って、わたしの後姿が見えなくなるまで、大きく手を振っていた。
友達が増えることは、とても嬉しいことで、暗い夜道を歩くわたしは、暖かい気持ちでいっぱいだった。いつもがこんな風に、嬉しい気持ちでいられたら、きっとどんなに幸せだろう。毎日を、ソフィや綾ちゃんたちと笑いあっていられたら……。
「あっ!!」
もうすぐ、家のある森が見えてくる頃、わたしは肝心なことを思い出して、思わず声を上げてしまった。そうだ、綾ちゃんに家で待ってもらうように、お願いしてたんだっけ! あれからもう、何時間も過ぎている。
わたしは、慌てて走った。くねくねした森の道を駆け抜けると、魔女の家と、近所の人たちが噂するわたしの家が見えてくる。リビングには灯りがついているみたいだけど、カーテンで仕切られて中の様子はよく見えない。「ただいまっ!」の声もそこそこに靴を脱ぎ捨ててリビングへ駆け込むと、笑い声が聞こえてくる。
「なんだ、トーコ。友達を待たせて、何やってたんだ!?」
そう言ったのは、ビールジョッキ片手に店屋物をつつくお父さん。その隣には、綾ちゃんとヴェステンが座っている。
「仕事から帰ってきてみれば、綾ちゃんとヴェスが寂しそうにリビングでうずくまっているから、驚いたじゃないか」
「ご、ごめん……色々あって、忘れてた」
わたしはバツが悪くって、困り顔になってしまう。
「おいおいっ! トーコっ! お父さんはお前をそんなヒドイ娘に育てた覚えはないぞ! コラっ!」
「にゃ、にゃーおっ!!」
ここぞとばかりに、お父さんとヴェステンが声を揃えた。もちろん、ヴェステンは猫のフリをしているから、何を言っているのかは良く分からないけど。
「ごめんなさい。綾ちゃん」
「い、いいのっ。気にしないで、トーコちゃん。おじさまに、夕飯ご馳走になったし。ヴェスくんも一緒にいてくれたし」
と言って、綾ちゃんはテーブルの上の、店屋物を指さした。だけど、「気にしないで」なんて言われても、友達の綾ちゃんを待ちぼうけさせてしまった、わたし自身の失態は、わたしの暖かくなった心を、一気に冷まして行った。
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