17. イルリヒトの幻術
ゲシュペンストに首を絞められて、遠くなっていく意識の中で、ぼやけた視界に浮かぶ星空の隅っこに輝く、小さな六等星の光と、ノルデンさんの顔を重ね合わせていた。
お人形さんみたいな真っ白な肌、青い瞳、金色の髪。ドイツ人のハーフと言うこともあってか、おおよそ、日本人離れした顔は、女の子のわたしから見ても、思わず見とれて今うほど綺麗だった。だけど、まるでそんな容姿とは正反対に、どこか頼りなく震える肩、総てに自信なさげな顔つき、怯えきった視線。
結局、ノルデンさんがヨハネスなのか、聞きだすことは出来なかった。だけど、あのノルデンさんが、こんな恐ろしい魔物を呼び出して、世界を混沌に変えようとするはずがない。根拠のない自信だけど、わたしたちに「ありがとう」と弱々しい声で何度も頭を下げる、ノルデンさんの姿は、あの夜に見たヨハネスの、余裕と傲然に満ち溢れた態度や雰囲気なんて、微塵も感じられなかった。
「あ、阿南くん、来ちゃだめ、逃げて……っ」
息が出来なくなることが、これほど苦しいとは思わなかった。それでも、朦朧とする意識の中で、必死に最後の力を振り絞った。ゲシュペンストの僅かに透き通った体の向こうで、驚き戸惑う阿南くん。どうして、こんな深夜に彼がこの場に居合わせたのか、彼が落とした紙袋には一体何が入っているのか、気になることは沢山あるけれど、そんなことよりも、ゲシュペンストの悪意が、阿南くんに向く方が怖い。トイフェルだとか、魔法だとか、そんな世界と無縁の友達を巻き込みたくはない。
「人間の子か。邪魔だ、去ね」
ゲシュペンストが小さく呟いた。そして、わたしの首を絞めたまま、ぐるりと首だけを百八十度回して、阿南くんを睨みつける。
「な、中野を放せ! 化け物っ!」
阿南君の声が少しだけ上擦っている。それでも、果敢にもゲシュペンストに向かって叫んだ。すると、ゲシュペンストの顔が、俄かに揺らめき、凶悪そのものの笑みに変わる。その笑顔に、わたしは全身の血が引いていくのを感じた。
だめ! わたしなんか放っておいて、今すぐ逃げて! 叫びたいのに、声が出ない。傘を持つ手から力が抜けていく。
「イルリヒト、あの子どもを焼き殺せ!」
ゲシュペンストの命令が、静けさを纏った田園の空気を振るわせた。カンテラを持つ右手がまるでロボットのアームのように反転し、そして、カンテラの扉が開く。再びオレンジ色から青色に変わったイルリヒトはカンテラの扉から、ごうっ、とうなり声を上げて、阿南君めがけて噴出した。
「うわあっ!!」
驚いた阿南くんが、とっさ身をかがめる。だけど、イルリヒトの炎はそれを追尾するかのように、ぐにゃりと地面めがけて曲がり、またたくうちに、阿南くんの体は青い炎に包まれた。
「取るに足らないものよ、無力なり、人間の子。灰燼と成り果てた、運のなさに泣くが良い」
静かなゲシュペンストの口調は何処までも抑揚がなかった。しかし、言葉の端々に、享楽の笑みが見え隠れしている。わたしは必死でもがいた。うそだ、うそだ! 阿南くんがっ、死んじゃう! 炎に包まれ、焦げていく阿南くんの姿を見つめながら、わたしはいつの間にか涙を流していた。心の内側がとても重くて、冷たくて、痛い。息苦しいんじゃない……。
ずん、と頭の奥で何かが弾けた。体中が言い知れぬ感覚に捕らわれていく。わたしのただならぬ気配を察したのか、ゲシュペンストの顔が俄かに曇って、まるで触れてはならないものを払いのけるように、わたしの首を手放した。
「憎悪……」
ゲシュペンストが、しげしげとわたしの顔を見る。どれほどわたしの顔は怒りに歪んでいただろう。こんなにも怒りに心とらわれるのは、あの時以来……。そう、三ヶ月前のあの日以来だ。
ようやく息が出来るようになったわたしは、咳き込みながら、こうもり傘を構えた。
「赤の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、火炎の矢となれ……フランメ・プファイル! 固定! 赤の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、火炎の矢となれ……フランメ・プファイル! 固定! 赤の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、火炎の矢となれ……フランメ・プファイル! 固定!」
一気に三つの魔法を固定する。わたしの体がまるで鉄で出来ているみたく、重たくなる。だけど、この胸の痛みに比べたら、こんなの全然苦しくなんかない。
「緑の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、火炎の矢となれ……ヴィント・ランツェ! 固定! 契約の名の下に、総ての呪文を解除する! 全解放!」
呪文の言葉をくくると、わたしのこうもり傘が、今まで手一番強い光をあふれ出した。抑えきれないほどのエネルギーが、わたしの腕から傘の柄へと伝わっていく。そして、爆発するような激しい音ともに、杖の先から、炎を帯びた、風の槍が飛び出した。
「絶対許さないっ!! くらえ!」
「アレス・フライセンによる、結合応用……無駄なこと! 妾の体はいかなるものも通さない!」
ゲシュペンストの宣言どおり、渦を巻き炎を纏った、風の槍はその透けた体をすり抜けて、虚空に舞い上がり、パーンと派手な音を立てて飛び散った。
「そんな……」
急に体が動かなくなる。無詠唱のために、魔法を固定すると、待機させた魔法の分だけ、わたしの精神力を根こそぎ奪っていく。ヴェステンは、修行すれば、いくつもの魔法を固定できると教えてくれた。それらを組み合わせ、さらに強力な魔法を作り出す「結合応用」。わたしには、まだ早かったと言うのだろうか。
「大人しくなったか、愚かな娘よ」
ゲシュペンストが、膝を突き、肩で息するわたしの元に、ゆっくりと近寄ってきた。もう一度……。せめて、炎で焼かれた阿南くんの苦しみの分だけでも、と傘を持ち上げようとするけれど、身の丈にあわない魔法の力は、わたしの体からどんどん気力と体力を奪っていく。
落ち着いて。トーコ!
頭の奥底に響き渡る、誰かの声。あたりを見回しても、誰の姿もない。「誰!?」と問いかけても、返事はない。その代わり、一方的に。
落ち着いて。怒りにとらわれてはだめ! 憎悪は、シュバルツ・ツァオベライの入り口。しっかりと目を見開いて。阿南くんは死んでなんかいないわよ。
え? わたしは脳裏に響く声に驚きを隠せなかった。その時、田園の稲を揺らす風が吹いた。阿南くんを包み込んでいた、イルリヒトの炎が吹き消され、しゅるしゅるとゲシュペンストのカンテラへと戻っていく。そして、そこには、小さくうずくまる阿南くん。その阿南くんを包み込むかのような、薄い水のヴェール。
「ヴァッサー・バックラー?」
わたしは思わず呟いた。ふと視線を落とすと、阿南くんの足元にカードが突き刺さっている。そして、そのカードの文字が溶けていくように消えると、阿南くんを覆っていた水のヴェールも消えた。
「どう……なってるんだ?」
自分の手や体を見回しながら、呆然としつつ、ゆっくりと阿南くんは立ち上がった。何処にも怪我はない。服も髪も、焼け焦げてなんかいない。いや、むしろ無傷と言ってもいい。
「阿南くんっ!」
わたしは、嬉しさがこみ上げてきて、力いっぱい叫んだ。その声に気付いた阿南くんがわたしの顔を見て。
「中野? 何で泣いてるんだよ」
と、怪訝そうに小首をかしげる。
「べ、別に泣いてなんか」
いないよ、と言いかけて、わたしは頬を伝う冷たいものに気付いた。また涙が溢れてる。嬉しくて、阿南くんが生きてることが嬉しくて、涙が溢れてる。
「おのれっ! もう一人いるのか!?」
ゲシュペンストの横顔に焦りが浮かぶ。辺りを見回しながら、カンテラを構えるけれど、何処にもそれらしき陰は見えない。
イルリヒトの灯りは幻術の灯り。ゲシュペンストとは、その幻が作り上げた、偽りのトイフェル。イルリヒトの灯りを失えば、ゲシュペンストは、真の姿を現す。今よ! トーコ!!
三度、誰かの声がわたしの頭の中に響いた。どうやら、その声が聞こえるのはわたしだけらしい。「今よ!」の合図とともに、上空から、三枚のカードが空を切って降って来る。それらは、まるで鋭い刃のように風となり、三方からゲシュペンストのカンテラを狙った。
「ぎゃっ!」
風の矢がカンテラに当たり、その拍子に、あまりにも汚らしい声で悲鳴を上げたゲシュペンストは、カンテラを落としてしまった。割れる! わたしは思わず眼を伏せた。だけど、ガラスが割れる特有の音はしない。そうか、ガラスのカンテラといっても、イルリヒトを閉じ込めておくケージ。つまり、魔法のガラスで出来たカンテラは、普通のガラスのように割れたりなんかしない。
幽霊の姿は、幻術。イルリヒトの炎が見せる幻術。真の姿は、醜い老人の姿。
「ひいぃっ! 見るな、ワシの姿をみるでないぞ!」
怯えたように、ゲシュペンスト、ううん、違う。ザントメンヒェンと呼ばれる魔物が顔を隠す。シワだらけで背中の曲がった、おじいさん。ただれたような目をして、歯もいくつか抜け落ちている。だけど、異様に鼻が長く、耳の先端も尖っている。三角の帽子、老草色のツナギ、そして、背中には、大きな袋を背負ったザントメンヒェンの姿は、ある種幻想的に、薄ら怖さを秘めた、ゲシュペンストの姿とはあまりにかけ離れていた。
ふと、わたしはまだ魔法を固定していたことを思い出す。そう、ゲシュペンストの姿を見つけたときに、予め固定していた魔法は、水の盾ともう一つ。
「フライセン! フランメ・ランツェ!」
狙いも定められないまま、わたしは残された総ての力を集めて、固定しておいた魔法を解放した。傘に刻まれた魔法の文字が淡く輝き、傘の先端から炎の槍が飛び出す。
「おのれーっ!! ここは退散じゃっ!」
ザントメンヒェンはそう言うと、突然背中の袋を手にとって、中から一握りの砂を掴み出した。そして、それを地面に叩きつける。ぼんっ! そんな音がして、あたり一面に土煙が巻き起こった。その噴煙に飲み込まれた炎の槍は失速して、地面に落っこちた。
『愚かな娘よ、イルリヒトは他日、必ず返してもらうぞ』
少しずつ晴れていく煙の中からザントメンヒェンの声がしたかと思うと、その姿はとっくの昔に、どこかへと消えうせていた。見れば、わたしの足元には、イルリヒトの入ったガラスのカンテラが転がっている。ゲシュペンスト(改め、ザントメンヒェン)はやっつけられなかったけど、もう一つの目的、イルリヒトは手に入れられたみたい。
安堵すると、もう起き上がってほど、全身から力が抜けていく。
「中野! おいっ、大丈夫か? しっかりしろ」
阿南くんがひどく慌てた声でわたしの元に駆け寄ってきた。そうだ、阿南くんは一部始終を見ていたわけだから、色々と説明しなきゃいけない。魔法のこととか、きっと「CGだよ」なんて誤魔化すことは出来ない。当たり前だけど。それに、あの声。わたしの頭の中に響いてきた声は誰だったんだろう。助けてくれたお礼を言わなくちゃ。いっぱいやることがあるのに、急に安堵が眠気を誘う。
「おおーいっ! トーコ!」
「トーコちゃんっ!!」
遠くで、ヴェステンと綾ちゃんの声がする。きっと全力で走って駆けつけてくれたんだ。大丈夫、イルリヒトは手に入れたよ……。大丈夫だから、少しだけ眠らせて……。
三日分の寝不足と、魔力を使い果たしたわたしの体が、思考を止めて、ゆっくりと眠りの世界に落ちていった。
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