10. 諏訪先生の怒り
「これと、これとこれ。それからこれも。全部英語科資料室へもっていっておいてね。よろしくね、中野さん」
傷ついた心を癒すような、聖母さまみたいに、優しい笑顔。でも、その言葉の端々には、傷口をグリグリ抉るような、サタンさまが見え隠れしている。
「あの、これ全部ですか?」
わたしは机の上におかれた山のような、資料とプリントに呆然とした。すると、諏訪先生のサタンさまが、むくむくと起き上がり聖母さまの笑顔を剥ぎ取っていく。
「反省の色が見えないようね? いいのよ、中野さんにだけ『単語書き取り千問』の宿題をどっさり出してあげても。それで、悲鳴を上げても、先生助けてあげないわよ」
諏訪先生の、さりげなく淡いルージュが、ニヤリと歪む。先生は、お世辞抜きでとっても美人。スタイルもよくって、顔立ちも整ってる。それだけじゃなく、賢いし、優しい。男子からも女子からも憧れの的で、デキル女! ってかんじ。でも、今わたしの目の前にいる諏訪先生は、世にも恐ろしい顔をしていた。悪いのわたし。先生の授業中居眠りしちゃった、わたしが悪い。
この国には「仏の顔も三度まで」って言葉がある。わたしは、今まさにその言葉を実感していた。
ここのところ、魔法の勉強と迫り来る夏季定期試験の勉強に、板ばさみになって、睡眠時間を大幅に削っていた。トイフェルはわたしを待ってくれないように、夏休みを前に立ちはだかる巨壁が小さくなることはない。結局、わたしはどちらの勉強もサボるわけには行かない。
そうして奪われていく睡眠時間を、先生の授業中に取り戻す羽目になってしまった。英語はあんまり得意じゃない。魔法の言葉よりも、ずっと耳になじみやすい横文字だけど、普段から聞きなれない言語は、やっぱり何を言ってるのか良く分からないことに変わりはなく、民族と文化の壁を感じてしまう。そうすると、次第にまぶたが重くなってきて……うとうと。
何度か、通りをはさんで隣の席の綾ちゃんが、ペンでわたしの小脇をつついて、起こしてくれたけれど、すぐにそれも効果がなくなってしまう。
「中野さん。おはよう。わたしの授業が楽しくないからって、居眠りは感心しないわよ」
と、一回目は優しく諭された。
「中野さん。またまた、おはよう。良く眠れたかしら?」
二回目はやや、棘のある口調で、皮肉をぶつけられた。そして、三回目。夢と現の狭間で舟をこいでいたわたしは、俄かに気配を感じた。どこかトイフェルにも似た、禍々しい気配。
目を開けると、眼前に先生が仁王立ち。クラス中の視線がわたしに集まっている。
「中野さん。いい度胸してるわね。もっと、大人しくて真面目な女の子だと思ってたけど、先生の勘違いだったみたい。放課後、残りなさい。逃げたら承知しないわよ!」
ホントは、大人しくて真面目な子です、なんて言い訳できる雰囲気じゃない。先生の放った一言は、まるで雷が落ちたみたいに、わたしの頭をがつんと打ち据えた。クラスのあちこちから、くすくすと笑い声が漏れてくる。諏訪先生の放った雷に打たれて感電したわたしは、恥ずかしさのあまり、パッチリと眼がさえてしまった。
ふと、隣の席を見ると、ぶっちょうづら眼鏡くん、こと阿南くんが迷惑そうにわたしを横目で見る。フォローなんてしてくれそうにもない。ホントにヤなやつ。
そんなヤなやつのことはさておき、先生の怒りに触れてしまったわたしは、放課後、大量の荷物を英語科資料室へ運ぶ手伝いをすることとなった。
綾ちゃんは「手伝おうか?」と言ってくれたんだけど、こんなことで迷惑をかけたくない。一緒に祝福されしものと戦う、と決めた以上、この先綾ちゃんにどんな迷惑をかけるか分からない。それに、先生を怒らせたのはわたしが悪いんだ。そのツケはちゃんと自分で払わなきゃ。
と、格好つけてみたものの、予想以上に荷物は重かった。しかも、両手がふさがり、視界も悪い。こんな状態で、廊下の角を曲がったら、誰かにぶつかってしまうかもしれない、と思ったその矢先、わたしは廊下の角で、出会い頭に誰かとぶつかってしまった。
「痛てぇな! 前見てあるけよ、中野!」
赤くなった鼻先を押さえて、わたしの前に現れたのは、ヤな奴……阿南くんは、わたしのことを睨みつけながら、鼻声で怒る。
「仕方ないでしょ、荷物多すぎて、前見えないんだもん」
「知らねーよっ、そんなこと」
ぷいっと、そっぽを向いて阿南くんは歩き出す。
「ちょっと、待ってよ! 手伝ってくれても良いでしょ。女の子が重たい荷物を持って困ってるんだよ、素通りするなんてあんまりだよ」
「なんで、俺が? 授業中に居眠りなんかして、諏訪先生を怒らせたお前が悪い。身から出た錆ってやつだろう?」
「それは、そうだけど。阿南くんは、隣の席なのに、一度も起こしてくれなかったじゃん」
「起こしたよ、五回も。憶えてないとか言わせねえ」
振り返った阿南くんの瞳が、キッと厳しくつりあがった。そういえば、綾ちゃん以外にも、誰かに肩を突付かれたような気がする。ホントに夢現で憶えてない。
「ご、ごめん……憶えてない」
申し訳なくて、俯くと、阿南くんは小さく「どっちが、あんまりだよ」と言いながら、ため息を吐き出してわたしの方に歩み寄ってきた。突然、わたしの両腕にかかる重さが、三分の一になる。
「手伝ってやるよ。仕方ねえから」
両腕にどっさりと荷物を抱えて、阿南くんが言った。笑ってもいないし、怒ってもいないような表情。仏頂面と言うよりは、無表情に近い。そんな顔して、阿南くんは歩き出す。
「ほれ、さっさと資料室へ持っていかないと、諏訪先生に見つかったら、また雷が落ちるぞ」
「う、うん。そうだね」
わたしは、阿南くんの突然の優しさに、戸惑いながら、彼の後を追いかけた。廊下を曲がって、階段を降りて、渡り廊下を越える。隣の校舎に入って、一番奥から二番目の部屋が、英語科資料室。英語の授業で使う教材や資料が保管してある部屋だ。
その部屋へたどり着くまでの約五分間。「ぶつちょうづらメガネくん」は、まるで貝のように、ずっと口を真一文字に結んでいた。お話したいとか、そういうつもりはないけれど、そんな風に黙っていられると、何だか却って緊張してしまう。
そういえば、男の子と二人並んで歩くのなんて、初めてだ……って、余計なことが頭をよぎる。そうやって見れば、阿南くんは背も高いし、顔立ちもかっこいい。仏頂面さえしていなければ、メガネも知的で似合ってる。体育の授業のとき、ちらっと見たけれど、スポーツも得意みたい。きっと、女の子からモテモテさんなんだろうな……。
「中野、鍵は?」
突然、わたし頭の中に、阿南くんの棘付きの声が反響する。
「わひゃいっ!」
「なんだよ、その変な返事は? それよりも鍵。資料室の鍵がないと、中には入れないぞ」
そう言って、阿南くんは片手で荷物を抱えて、空いたほうの手でドアを引いた。ガチャガチャという音はドアに鍵が掛かっている証拠だ。
「鍵なら、諏訪先生から借りてるよ。後で返してねって言われてる」
「だったら早く開けろよ」
眉をひそめる阿南くんに、わたしは、頭に浮かんだ雑念を払って、荷物を廊下に置き、スカートのポケットから鍵を取り出した。オレンジ色のキーホルダーには「英語科資料室」と書かれている。
鍵を開けて資料室へと入る。資料室なんて場所に足を踏み入れるのは、初めてだ。きっと、阿南くんも同じだろう。部屋の窓は、遮光カーテンに塞がれ、薄暗い。部屋の壁は、棚が敷き詰められている。その光景は、どこかわたしの家の地下室を思わせた。
「電気、点けるね」
そう宣言してから、わたしは壁に手を当てて、電灯のスイッチを探した。パチパチっと点滅して、天井の電灯が灯る。部屋が明るくなると、ますます何だか狭く感じてしまう。
その最大の理由である、部屋の壁を埋め尽くす棚には、シールが貼られ、そこに収めるものを分類していた。どうやら、先生から託された資料を片付けるには、ちゃんと分類どおりに収めなきゃいけないみたい。わたしたちは、そろって軽くため息を吐くと、資料を手に、棚の扉を開けた。
「なあ、中野……」
資料を片付けていると、唐突に沈黙を破って、阿南くんが口を開いた。わたしたちは左右の棚で、背中合わせに片付けていたから、背中越しに阿南くんの声が聞こえてきたことになる。
「綾と仲良くしてるのか?」
「は? え、何? 綾ちゃんとは仲良くしてるよ」
わたしは、予期せぬ名前の登場に驚きを隠せず、振り向いた。阿南くんは、わたしに背を向けたままだった。
阿南くんと綾ちゃんは小学生の頃からの幼なじみ。だから、阿南くんの口から綾ちゃんの名前が出きても、全然不思議じゃない。ただ、阿南くんの口調は、なんだか綾ちゃんのことを、ひどく心配しているみたいだった。
「そっか、だったらいいんだ。あいつと、これからも仲良くしてやってくれ」
「なにそれ? 阿南くんに言われなくても、綾ちゃんは友達だよ。どうして、そんなこと訊くの?」
怪訝な顔をして、阿南くんの背中に問いかける。すると、阿南くんは、いつもの仏頂面で、「片付けの手、止まってるぞ」と注意する。そして、しばらく沈黙が続いた後、
「あいつさ、バカだから」
と、まるで思い出すかのような口ぶりで話しはじめた。
「すぐに、他人のことを信用して、その人の力になろうとする。そいつに嫌われたくない一心で、無駄な責任感ばかり背負って、出来もしない頼まれごとを引き受けて、そんで、大失敗して、そいつに嫌われる。それでも、いつもヘラヘラ笑って、傷ついた心を隠そうとするんだ。俺がわざわざ、余計なことに首を突っ込むなって言っても聞かないくらい、お人好しのバカ。中学生になって、なんとかクラスに溶け込んでるみたいだけど、危なっかしいって言うか」
綾ちゃんが……。わたしは、片付けそっちのけで阿南くんの話に耳を傾けた。
「そういう性格だから友達、少ないんだよ、あいつ。友達と距離を保つってこと知らないんだ。基本、寂しがり屋なんだよ。なあ、中野は、綾に何か手伝ってもらったり、厄介ごとを引き受けてもらったり、してないか?」
阿南くんの質問に「そんなことないよ」と返そうとして、わたしは綾ちゃんとの約束を思い出した。一緒に、祝福されしものと戦おう。そう誓い合ったばかりだった。
「幼なじみとして、あいつのこと心配してるんだ。だから、たとえどんなことがあっても、あいつの友達でいてやって欲しい」
そういい終わると同時に、阿南くんは手に持っていた資料を総て片付け終わった。そして、戸棚の扉を静かに閉める。そして、わたしの方に振り向いて「頼む」と付け加えた。
「分かってる。わたしは、綾ちゃんのこと好きだし、ウチの猫も気に入ってる。何があっても、綾ちゃんと友達でいるよ。約束する」
わたしができる限りの笑顔で言うと、かすかに阿南の仏頂面が和らいだ。笑顔と言うには程遠いけれど、安堵の表情。
「でも、阿南くんって、綾ちゃんのことよく知ってるんだね。もしかして……綾ちゃんのこと好きなの?」
「はぁ!? 何言ってるんだよ、バカだろ、お前!」
冗談交じりのわたしの科白に、阿南くんの顔がすっと強張る。
「幼なじみとしてって言っただろ? それに、綾のこと気にかけてやるのは、約束なんだ」
「約束? 誰と約束したの?」
「お前の知らない人。それとこれとは、関係ない。まったく、もう!」
阿南くんはそう言うと、くるりと踵を返して資料室から出て行った。つかつかとリノリウムを蹴る足音が遠のいてく。阿南くんが綾ちゃんのことを好きかどうかは別としても、わたしは阿南くんの仏頂面という仮面の下の、優しさを垣間見た気がした。
なんだ、意外といいやつかもしれないね。
なんて、勝手に見直していると、わたしは阿南くんが手伝ってくれたことに、ありがとうを言っていないことに気がついた。慌てて資料室を出て、阿南君を追いかけたけれど、彼の姿はもう廊下の先に消えていた。
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