夢食いの街
夢を見ない少女・ユナは、都市の片隅で静かに生きていた。 夢を見ることが当たり前の街で、彼女は異端だった。 ある夜、夢を喰らう男・レイと出会ったとき、都市は彼女の命を欲しがった。
夢と命、愛と犠牲。 都市に夢を差し出すことで、彼女が選んだものとは――。
第一章:夢なき者の街
朝になると、街は動き始める。
空が白み、塔の先端に光が集まっていく。誰もそれを気にしない。
けれど私は、毎朝それを見ている。
眠りから覚めた瞬間、無意識に窓辺へ向かう。
理由はわからない。ただ、そうしてしまう。
この街では、夢を見ることが当たり前だ。
夢を見ない者は、この街では異端だ。
人々は夜になると夢を見て、朝には忘れている。
夢の内容を語る者はいない。語る必要がないのだろう。
夢は、街の一部になって消えていく。
私は夢を見ない。物心ついた頃からずっとそうだ。眠っても、何も浮かばない。
真っ暗な中で目を閉じているだけ。
誰にも言ったことはない。言っても、理解されないと思ったから。
それでも、私はこの街の変化に気づいている。
夜が明けると、空の色が微妙に変わる。
街灯が消える瞬間、何かが吸い込まれていくような感覚がある。
人々が見ていないものを、私は見ている気がする。
街中でも学校でも会社でも、誰もが普通に振る舞っている。夢の話は出ない。
けれど、時々、誰かの目が遠くを見ているように感じることがある。
何かを思い出そうとしているような、でもすぐに諦めてしまうような目。
私は違う。思い出すものがない。
けれど、何かが足りないという感覚はある。
胸の奥に、言葉にならないものが沈んでいる。
怒りでも悲しみでもない。ただ、何かがそこにある。
夜になると、私は街を歩く。人通りの少ない道を選んで、静かに歩く。
街灯の下を通ると、頭の上で何かが揺れる。風かもしれない。
けれど、それ以上の何かがある気がする。
その夜、私はふと立ち止まった。
足音が止まると、街の音が聞こえてきた。
遠くで何かが動いている。誰かが私を見ているような気配。振り返っても、誰もいない。
私は夢を見ない。けれど、何かが始まろうとしている。そんな気がした。
第二章:夢をくれる男
夜の街は静かだった。
部屋の空気が、なぜか重く感じられた。
眠れないまま、私は外に出た。
理由は、あとから考えても見つからなかった。
ただ、部屋の空気が重く感じられて、じっとしていられなかった。
人気のない路地を選んで歩いた。足音だけが響いていた。
空は澄んでいて、街灯の光が地面に落ちていた。
見慣れた風景。何も起きないはずの夜だった。
なのに、彼はそこにいた。 曲がり角の先、街灯の下に立っていた。
見知らぬはずなのに、どこか懐かしい気がした。
彼の瞳は、琥珀のように深く、夜の空に似ていた。
その奥に、微かに揺れる光があった。
まるで、塔の先端に集まる朝の光のように。 私はその光を見たことがある。
けれど、なぜか胸がざわついた。
それは、夢の始まりではなく、何かを喰らう予兆のようだった。
冷たさと温もりが混ざったような色。
それは、遠い記憶の底に沈んでいた光のようだった。
私は夢を見ない。
でも、あの瞬間だけは、夢の中にいるようだった。
彼は何も言わず、ゆっくりと近づいてきた。
不思議と怖くはなかった。 むしろ、誰かを待っていたような気がした。
彼の手が、私の手に触れた。 指先が重なるだけで、胸の奥が熱を帯びた。
何かがほどけて、何かが満ちていく。
驚き。
戸惑い。
そして、静かな喜び。
それが何なのかは、まだわからなかった。 でも、確かに何かが動き始めていた。
彼は微笑んだ。
その笑顔を見たとき、私は初めて「夢」というものを感じた。
それは映像でも音でもなく、ただ胸の中に広がる感覚だった。
彼の声は、静かで優しかった。
けれど、どこか遠くから響いてくるようだった。
耳ではなく、胸の奥に届く声。 それは、夜の静けさに溶けるような響きだった。
私は目を閉じた。 眠っているわけではない。 でも、何かが始まったと感じた。
彼と交わした言葉は、ほとんど覚えていない。
会話よりも、彼の存在そのものが強く残っていた。
それまで空っぽだった場所に、何かが芽生えた気がした。
そして、彼は去っていった。 振り返ることなく、静かに歩いていった。
私はその背中を見送った。 胸の中には、まだ熱が残っていた。
それが夢なのか、恋なのか、わからなかった。 でも、確かに何かが変わった。
部屋に戻っても、眠れなかった。 けれど、以前の眠れなさとは違っていた。
目を閉じると、彼の瞳が浮かんだ。 彼の声が、耳の奥に残っていた。
それだけで、心がざわついた。
私は夢を見たのかもしれない。 それがどんな形だったかは、まだはっきりしない。
でも、何かが始まった。 それだけは確かだった。
第三章:街の飢え
夢を見るようになってから、身体に変化が出始めた。 最初は気のせいだと思っていた。
朝起きると、喉が乾いている。肌が冷たい。
鏡を見ると、目の奥の光が少し薄くなっていた。
それでも、夢は美しかった。
彼がそばにいる夢。
手を取って、何かを囁いてくれる。言葉は覚えていない。
でも、胸が温かくなる。それだけで十分だった。
夢を見るたびに、彼の存在が濃くなる。
現実でも、彼は変わらず優しい。
夜になると現れて、私の手を取る。何も言わず、ただ見つめてくれる。
その瞳の色が、少しずつ変わっている気がした。
最初は琥珀だった。今は、もっと深い。暗くて、吸い込まれそうな色。
どこかで見たことがある。 そう思った瞬間、街の空を思い出した。
夢が吸い込まれていく塔の先端。 彼の瞳は、あの光に似ていた。
私は夢を見ている。
でも、何かを失っている。
声が出しづらくなった。 歩くと、足が重い。
彼に話しかけようとしても、言葉が出てこない。
それでも、彼は微笑む。 「大丈夫」と言う。
その声を聞くと、安心してしまう。 けれど、心の奥で何かが警告していた。
ある夜、彼が言った。
「君の夢は美しい。街がそれを欲しがっている。」
レイは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「僕は……夢喰いなんだ。」
私は息を止めた。
「君の夢を育てて、街に渡している。それが、僕の役割なんだ。」
言葉が頭に入ってこなかった。
彼が何を言っているのか、理解したくなかった。
でも、理解してしまった。
胸の奥が冷たくなる。
彼が与えてくれた夢は、私の命を削っていた。
それでも、私は彼を憎めなかった。
怒りと悲しみと、愛が混ざっていた。 私は、どうすればよかったのだろう。
「でも、君を守りたい。夢を止めれば、街は君を見放す。けれど、君は生きられる。」 私は黙っていた。
彼の言葉が、優しさと残酷さを同時に含んでいた。
夢を止めることは、彼との時間を失うこと。
でも、夢を見続ければ、私は少しずつ消えていく。
その夜、彼は去った。
私は何も言えなかった。 ただ、胸の奥が痛かった。
夢の中で彼に触れるたび、身体が冷えていく。
それでも、私は夢を見たかった。 彼に会いたかった。
街は何も言わない。
けれど、私は感じている。 街灯の光が、私の夢を吸い上げている。
空が、私の命を少しずつ奪っている。
それでも、私は止まれなかった。
第四章:愛と拒絶の境界
レイの手が震えていた。 それに気づいたのは、彼が私の手を取ったときだった。
いつもと同じ優しさ。けれど、指先が冷たくて、少しだけ力が弱かった。
彼は何かを迷っていた。 それは、私にも伝わってきた。
「君の夢は、街にとって特別なんだ」 彼はそう言った。
その声は静かで、どこか苦しそうだった。
私は黙って聞いていた。 彼が何を言いたいのか、もうわかっていたから。
夢を見るたびに、私は少しずつ弱っていった。
肌は薄くなり、声は霞み、目の奥の光が弱まっていく。
それでも、夢の中で彼と過ごす時間は、私にとってかけがえのないものだった。
夢の中の彼は、現実よりも近くにいた。 その温もりが、私を支えていた。
でも、私は知っていた。 その夢は、街に吸われている。
私の命と引き換えに、街が輝いている。
街灯が灯るたび、空が色づくたび、塔の先端が微かに輝く。
その光は、誰かの夢の残響を吸い上げているようだった。
街は静かに、けれど確かに、命の光を喰らっている。
それでも、街は美しかった。夢の犠牲の上に、静かに輝いていた。
「夢を止めれば、君は生きられる」 レイは言った。
「でも、僕たちはもう会えなくなるかもしれない」 私は彼の瞳を見た。
その奥に、街の影が揺れていた。
彼は街の声を聞いている。 それでも、私を守ろうとしている。
私は選ばなければならなかった。
夢を守るか、愛を差し出すか。
どちらを選んでも、何かが失われる。
私は迷っていた。 彼を失うことが怖かった。
でも、夢を見続ければ、私は消えてしまう。 命を守ることは、彼との時間を失うこと。 街が私の夢を喰らうたび、街は輝き、私は薄れていく。
それでも、彼の手の温もりは、私にとってすべてだった。
「最後の夢を、あなたに渡す」 そう言って、私は目を閉じた。
この夢が、私のすべてだった。
彼と過ごした時間、愛した記憶、命の残り火。
それを渡すことで、私は彼に残ることができる。 それが、私の選んだ愛の形だった。
その夜、私は夢を見た。
彼と過ごした時間。
笑ったこと、泣いたこと、手を握ったこと。
すべてが、ひとつの光になった。
朝になって、私はその夢を彼に渡した。
言葉ではなく、ただ手を握って。 彼は何も言わなかった。
でも、私の手を強く握り返してくれた。
その瞬間、街が輝いた。
街灯が星のように灯り、空が淡く染まった。
私はその光を見ながら、静かに目を閉じた。
胸の奥にあった熱が、ゆっくりと冷めていくのを感じた。
私は夢を渡した。 それが、私のすべてだった。
でも、後悔はなかった。 彼がそこにいたから。
彼は語らなかった。
ただ、私の手を握り続けていた。
街の声が遠くで囁いていた。 でも、彼はもう聞いていなかった。
第五章:夢の残響
夢を見なくなって、どれくらい経ったのか。
数えたことはない。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。 その繰り返しの中で、私は静かに生きている。
眠ると、何も浮かばない。 真っ暗な中で、ただ目を閉じている。
けれど、それが以前と違うのは、夢を知ってしまったことだ。
夢を見たことのある心が、私の中に残っている。 それは、消えない。
街は以前よりも明るくなった。 街灯の光が、少しだけ柔らかくなった気がする。
空の色も、どこか温かい。 誰も気づいていないかもしれない。
でも、私は知っている。 それは、私の夢の色だ。
あの夜、私は最後の夢を渡した。
それは涙のような光だった。
街はそれを吸い上げて、空に散らした。
今でも、夜になるとその光が見える。
星のように、街のあちこちに残っている。
レイの姿は、もう見えない。 でも、風の中に、彼の気配が残っている気がする。
誰も彼の行方を知らない。
私も、もう尋ねない。
でも、彼の気配は残っている。
歩くときの足の運び方。 誰かを見つめるときの視線。 沈黙の中に、彼がいる。
私は静かに生きている。 夢はない。 でも、感情はある。
街の喧騒の中で、私は静けさを纏っている。
それは、誇りのようなものかもしれない。
夢を差し出した者として、街に刻まれた存在。
誰も知らなくても、街は覚えている。
街灯の光が、私の夢の色を灯している。
塔の先端に揺れる光は、私が渡した最後の夢の残響だ。
街はそれを刻んだ。私という存在を、夢の記憶として。
夜になると、時々風が囁く。 それは街の声かもしれない。
「夢は消えた。でも、残響は続く」
そんなふうに聞こえることがある。
私はもう夢を見ない。
でも、夢を見たことがある。
それだけで、十分だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『夢食いの街』は、夢・都市・命・愛というテーマを、静かな幻想の中でそっと見つめ直す短編として描きました。
ユナの選択や都市の残響が、どこかであなた自身の記憶と響き合ってくれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
もしこの短編を気に入っていただけた方へ。近いテーマの拙作もあります。
『観測者ゼロ』――「選ばれなかった世界」の記録をめぐる物語
『眠りの果てに』――失われた恋と記憶の境界を見つめる物語
『構築中の世界で』――“作られた世界”に生きる意味を問う物語
『死後の恋人』――仮想空間で再会した恋のゆくえ
いずれも電子書籍(Kindle)として刊行しており、Kindle Unlimited 対象です。
詳細は作者ページ(プロフィール/活動報告)にまとめていますので、思い出したときにそっと覗いていただければ嬉しいです。
物語の余韻が、あなたの夜に静かに灯りますように。