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灯籠渡の浪人  作者: 川蝉
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第二章 竹林の廃寺

「……」


 気が付くと僕はお寺の境内の中に立っていた。目の前にあるお寺の本殿はすでに朽ち果てており、その表面には濃い緑色の苔が多く、中から幾本も木が伸びている。人間が離れてからすでに数十年の年月は過ぎていそうだ。

 お寺の周りには向こう側が見えないほどに竹藪が鬱蒼と茂っており、辺りにはむせ返りそうになるほどの植物の青臭い匂いが充満している。


「ここは……ん?」


 ふと自分の前に地面に突き刺さる一本の日本刀。その日本刀だけは背景に見える朽ち果てた寺に似つかわしくないほどに綺麗で、その刀身は光を鈍く反射している。まるで昔話に出てくる伝説の剣みたいだ、なんてのんきに考えてしまった。


「……抜けって、ことかな……」


 恐る恐るその柄を掴む。硬い紐で幾十にも巻かれたそれは軽く握っただけでも滑らなそうだ。それを両手でつかんで、軽く力を込めてみる。すると予想よりも簡単に刀は持ち上がる。更に力を入れるとすぐに刀は地面から抜けた。


「……」


 つい見惚れてしまうほど、その刀身は美しい。黒い鉛色の刀身に白銀の刃が波打つように文様を描いている。見ているだけで刃が研ぎ澄まされているのが分かる。


『試練だ。全てを失いし者よ。』


 突然寺中を震わすような大声が響き渡る。今度の声は確かに男の声だった。それも老齢の大男のような、そんな気がする声。声と同時にまわりの竹藪がざわざわと音を立て、そこから吹き付けるような強風が吹いた。風と共に飛んできたのは大量の笹の葉。それらは僕の目の前、寺の廃墟と僕の間でぐるぐるととぐろを巻くように塊ができ始める。

 

『我を倒し、全てを取り返す意志があると示して見せよ。』


 そのとぐろは一度大きく膨らんだ後、急に風が止む。舞い上がっていた笹の葉がひらひらと地面へと落ちていく。そんな緑色の紙吹雪のような葉の奥に、何かが立っている。

 白と黒の着物。くすんだ色の頭巾。そしてその頭巾の奥に見える、般若の面。見上げるほどに高い背丈のそれは手に薙刀を持ち仁王立ちで僕を見ている。

 少しだけ後ずさりする。その大きさに圧倒されただけじゃない。この巨大な僧兵の持つ独特な雰囲気に気圧されてしまった。


『さあ、奮え!』


 般若の僧兵の大音声が響き渡り、それを言い終わる前に刃の部分だけで僕の背丈分はありそうな程の薙刀が振り下ろされた。


「っつ!」


 避けられたのは奇跡に近い。何も考えず咄嗟に後ろに飛び、そのまま尻もちをついた。さっきまで自分が立っていたところには薙刀の刃が地面を穿っている。あんなものの直撃を受けていたらどうなっていたのか。たとえ痛みを感じないとしても、背筋が寒くなるような思いだった。


『よく避けた!だがまだまだよ!』


 薙刀が持ち上がり、今度は真一文字に横に薙ぎ払われる。地面に倒れる自分の高さのその剣戟に対して、僕は刀をたてて受け止めようとした。


「ぐぁっ?!」


 しかし当然受け止めきれるはずも無く、僕の体は薙刀の衝撃をそのまま受けてしまい、いとも容易く宙を舞った。そして再び地面に落ちる。それでも勢いは微塵も弱まらず、なすすべなく地面を転がった。全身に響く痛み。さっきの道では何も感じなかったのに、ここでは感じる。関節が軋み、全身を打ち付けられたその感覚が少しだけ懐かしいと感じてしまった。


「はあっ、はあっ、はあっ、し、試練って、こんな……」


 あんな怪物を倒せというのか。背丈は四から五メートルはありそうな大男。その腕力も僕より遥かに強い。あんなのと、この一本の日本刀で戦えというのか。

 あまりにも無謀な試練。相変わらず混乱している頭で必死に考えを巡らせても、自分があの怪物に一刀両断される光景しか思い浮かばない。


『ふんっ!』


 再び振り下ろされる刃をギリギリで避ける。明らかに体は重く動きにくくなっている。さっき地面から抜いた日本刀は武器はおろか杖にすらなっておらず、投げ捨てるタイミングも無く握っているだけになり果てている。

 その後も避けるのが精いっぱい。薙刀が振るわれるたびに地面を穿ち、空を切る。


「はっ、はっ、はっ、はっ!」


 可能な限り怪物との距離を開ける。少し息を整えたい、少し体力を回復したい。少しでも状況を整理できる時間が欲しかった。しかし怪物はそんな僕の思惑を見透かしたかのように、その体躯からは想像もできないほどの軽やかな身のこなしでふわりと飛び上がった。まるで重量を感じさせないその身のこなしから、振り下ろされたのは地面を砕くほどの剣戟。薙刀の刃が空を斬る音と地面を砕く音が寺中に響き渡る。


『どうした。逃げてばかりでは我を倒すなど果たせぬぞ。』

 

 怪物は僕を真っすぐと見下ろして言う。般若の面には幾筋もひびが走り、その目は赤く光っている。


『それとも、貴様の意志はその程度だったということか?』


 その言葉は鼓膜だけで無く僕の胸を打ち付けてきた気がした。

 僕は刀の柄を強く握りしめる。渾身の力を込めて、強く。そして構える。こんな日本刀なんか使ったことはない。誰かと本気で戦うなんて、そんな経験はきっと生前も無かっただろう。だからこれは適当でいい加減なものだ。両手で柄を握り、その剣先を真っすぐと怪物に向ける。

 でも気持ちは本物だ。

 体が震えるのは、武者震いか恐怖か。もうそれを抑える気もない。


「……違う…!」


 喉の奥、腹の底から絞り出した声は怪物に向けたもの。怪物の言葉に反論するためのもの。


「僕は、僕は戦う…! 取り返さないといけないものがあるんだ…!」


 続く言葉は自分に対するもの。カタカタと震える体に喝を入れるための言葉。

 目の前の怪物を見ると今でも怖い。到底、敵う気がしない。それでももう逃げるのは嫌だった。

 どうせもう戻ることはできない。戻ったところで僕はもう死んでいるんだ。だったら、それだったら―――。


「当たって、砕けろだ…!」


 僕の言葉に表情の変わらないはずの般若の面が笑ったような気がした。


『よう言うた!』


 怪物の声が響き渡り、薙刀を振るう。空を切る薙刀が生む風だけで体が押される。それを押し切るように怪物に向かって一気に踏み込んだ。荒れ果てた石畳の地面を蹴り、再び自分に向かい真一文字に斬りはらわれる刃をしゃがんで避け、そのままの勢いで刀の切っ先を怪物の腹へと突き立てた。


「ぐうっ?!」


 腕に伝わる硬い感触。まるで力任せに壁に突き立てたような予想外の衝撃に、腕から全身にびりびりと痛みが走る。


『そうだ!それでいい!』


 頭上から大音声が響いた刹那、僕の体は再び宙を舞った。どうやら怪物に蹴り上げられたようだ。成すすべのない暴力に、状況を理解する前に僕の体はもう一度地面に叩きつけられ転がっていた。

 回転を止めて立ち上がろうとするが、体はさらに重くなる。耳に響くのは全身の関節があげる悲鳴の音。地面についた腕は情けなくブルブルと震え、地面に落ちた刀を握る力すら入らない。

 痛い。関節が砕け骨が割れ、筋肉がちぎれる。そんな錯覚を覚えてしまうほどに、痛い。


「はあっ、はあっ、こんのっ!」


 激痛を大声で誤魔化し、乱暴に刀を掴み上げ、無理やり体を起き上がらせる。地面に足をつき、力任せに体を起き上がらせる。


「まだ、まだぁっ!」


 もう一度怪物に向かって駆け出す。怪物の薙刀の攻撃を避け、今度は怪物の足を刀で切り付けた。その感触はやはり硬い。木を切りつけたみたいだ。


『ふんっ!』


 怪物の蹴りを避けてもう一度足を斬る。果たしてこの攻撃に意味があるのか分からない。それでもやるしかない。怪物の足を避けながら何度も斬りつける。

 怪物の懐に飛び込んで分かったのは、この怪物は大きすぎるせいで動きが読みやすい。だから冷静に動きを見ていれば避けることが出来なくはない。怪物が僕から距離をとるように離れ、薙刀が振り下ろされる。身を躱して避けて、今度は薙刀を握る腕を斬る。大丈夫だ。見えてる。

 勝てる。倒せる。

 そうだ。僕は勝たないといけないんだ。もう戻るところなんか無いんだから。

 これ以上体を斬っても意味はない。だったら狙うはあそこだけだ。


「はっ、はっ、はっ、はっ!」


 怪物の顔を睨みつける。

 あそこを。あの首を斬れば。根拠の無い確信に痺れた腕に力を籠める。怪物は大きい。あの首を斬るには手段は一つだけだ。


「すーはー…すーはー…!」


 呼吸を整えて、わざと刀を下した。目では怪物を見据えたまま。斬って見ろとでも言わんばかりに頭をがら空きにした。


『もう限界か!』


 怪物が再び跳躍する。振り上げた薙刀の刃は真っすぐと僕に向かっている。


「すー…はー…すー…はー…」


 深呼吸を繰り返し心を落ち着かせる。

 周囲から音が消える。怪物の姿がスローに見える。


『さらばだ!』


 怪物の薙刀が振り下ろされる。渾身の力で地面を蹴り、その刃を避ける。刃は地面を穿ち、怪物の動きが一瞬だけ止まった。僕はその薙刀の柄に足を踏み込んだ。このまま駆けあがり、首を斬る。もうそれしかない。

 薙刀の柄はその上を走るにはあまりにも細いが、意地で蹴り駆けあがっていく。


『面白い!』


 怪物は僕の奇策に愉快そうな声をあげると、地面に穿った薙刀を勢いよく持ち上げた。


「っつ!?」


 それと同時に僕の体も勢いよく打ち上がった。完全に薙刀に乗っていた僕に抵抗する術はなく、そのまま空高く怪物の頭よりも高い場所へ。

 計画は早くも崩れ去り、僕の体はどうすることもできない空中に投げ出された。

 やるしかない。


「っ、うわぁぁ!」


 刀を持ち直して頭上高く振り上げた。さっきの怪物と同じ体勢。狙うは怪物の顔面。体が落ちていくのに任せて、力の限り刀を振り下ろす。

 最後に僕を見上げた般若の面は、やっぱり笑っていたような気がした。


 腕に伝わる感覚。果たして僕の剣戟に効果は合ったのか。それが分かる前に僕の体は地面に落ちていく。


「ぐっ、がっ!」


 僕の体には落下の衝撃を和らげるだけの力も残っては無くて、僕がこうして地面に叩きつけられるのは三度目だった。今度はすぐに体を起こす。怪物の反撃を警戒して、そして僕の渾身の一撃の効果を確かめたくて。

 怪物はその場に立ったまま動かない。般若の面は地面に膝をつく僕を静かに見下ろして、何も言わない。


「……?」


 奇妙な沈黙が数秒続いた後に、不意に怪物の般若の面に音を立てながら大きな亀裂が走った。亀裂は面をまっすぐと縦に割れるように走り、そして音と破片をまき散らしながら砕け散った。

 

「あ……」


 その面の下にある顔。どんな恐ろしい顔が出てくるかと思っていたが、そこにあったのは何の飾りも無いのっぺらぼうのような木の表面だけだった。斬りつけた時の硬い感覚、あれは本当に木だったからなのか。

 

『よくやった!!』


 これまでに無い程の大声が寺中に響き、その音に全身がびりびりと痺れる。その声と同時に怪物は崩れ落ちる。操り人形の糸が切れたかのようなその様は、先ほどまで軽快に動き回っていたとは思えないほど呆気なかった。


「……勝った…のか……?」


 再び寺に訪れる静寂。ここに来てようやく僕は寺を囲む竹林からの笹のせせらぎが聞こえてきた。そこで僕の体も限界を迎えて地面に尻もちをつく。ここに来て体中の筋肉と関節にもはや力が残されていないのを自覚できた。ここにきて全身を包み込むような激痛を改めて実感し始めた。


「ん…?」


 再び風が吹く。今度は僕の前、先ほどの怪物の所からだ。怪物の来ていた着物が風に揺れ、それはつむじ風のように一気に大きくなる。

 その風に煽られていた着物がふいに崩れた。ほろほろと、土や砂のように崩れ去り、つむじ風に乗って高く飛び上がっていく。次第にそれらの破片は真っ赤な花びらへと変わる。その光景はどこまでも幻想的で、つい見惚れてしまうほど美しかった。

 つむじ風は次々と怪物の体をほぐし小さくしていき、そして不意に止んだ。舞い上がっていた花弁がひらひらと地面に落ちてくる。それを目で追いかけて、気づいた。


 すっかり小さくなった怪物の体の上に、一匹の獣が座っていた。

 尖った耳。黄色と白の体毛。ふわふわに膨らんだ尻尾。面長な顔。その動物はどう見ても狐だった。狐は着物の上で乱れた体毛を整えるように毛づくろいを始めた。狐に化かされる、という言葉を覚えている。昔の日本人は狐や狸は人を化かして揶揄うことがあると考えていたらしい。当然バカげた昔話だと思っていた。

 でもそれは本当の事だったのかもしれない。


「ふう、久しぶりに楽しかったよ」


 毛づくろいを終えた狐は僕を見ながら当たり前のように言葉を話す。幼い少年、又は少女のようなその声はどこか嬉しそうだった。


「へ……」


 狐は呆然とする僕に向かって歩き出す。歩き方は普通の狐と同じ、四足歩行だ。よく見ればその尻尾は二本あった。


「最近はすぐに諦めちゃう人が多くて、こんなにちゃんとやり合ったのなんていつぶりだろうなぁ。あ、でも数年前に一人いたっけ」


 狐はてくてくと僕に近づいてくる。その口の動きと声は確かにリンクしている。間違いなく狐が喋っている。


「あの人も強かったなぁ。君もすごかったけど」


 狐は僕の目の前に来て止まり、座った。近くで見ても確かに普通の狐にしか見えない。


「え、あ、ぼ、僕が戦ってたのって、き、君、なの……?」


 僕の質問に狐はおかしそうに笑った。その笑顔はどこか無邪気な子供のようだった。


「うん。厳密に言うと僕が操る木偶人形だけどね。凄いでしょ」


「は、ははは…」


 得意げな声と表情。誇らしげに張る胸にはふさふさと白い毛皮が生えている。

 仮面の下の木。あれは人形だったのか。通りでいくら斬っても手ごたえが無かったんだ。僕はこんな小さな狐が操る人形に、こんなボロボロにさせられたのか。拍子抜けという言葉で足らないほどの拍子抜けに、余計に体の力が抜けてしまう。


「おっとっと、まずは君の体を治してあげないとね」


 狐はそう言うと僕にさらに近づいて、僕の足にそっと口を触れた。その瞬間、全身に感じていた痛みが消えていく。少しでも動かすと軋んでいた関節も、試しに腕を持ち上げてみたが痛みも感じずスムーズに動くようになっている。


「立てる?」


「あ、あ、うん」


 地面に足をついて立ち上がる。さっきまでの激闘すら忘れてしまいそうなほど、体は完全に回復している。


「よかった。では改めて」


 狐は前足の片方を口元に運んで咳払いのような仕草をする。


「おめでとう。君は最初の試練を達成した」


 狐の言葉にふと狐の背後にある塊に目を向ける。僕があれを倒した。改めて言われても実感が湧いてこない。


「君は旅に出ることを許された。自分自身を取り返す旅にでる」


 狐は僕の周りをぐるぐると歩き出す。


「その旅はきっと苦難に満ちたものになるでしょう。きっと僕よりも強い敵や、苦渋の決断を迫られることもあるでしょう」


 狐の言葉を黙って聞く。


「そこで君に、僕から贈り物を」


 狐はもう一度僕の目の前で止まると、くるりと尻尾を一度だけ回転させた。たったそれだけのはずなのに、周囲に強い風が巻き起こる。地面に落ちていた笹の葉が舞い上がり、僕の体を囲むように回りだす。今度は僕の体を中心につむじ風ができた。


「わわわっ!」


 僕の体はいとも簡単に空中に浮かび上がる。風により持ち上げられるのは安定感が無く、慌ててフラフラとバランスを取ろうとするが、意味はない。

 つむじ風に乗る葉と花弁は次々と僕の体にぶつかり表面を覆い隠していく。振り払おうにも体も満足に動かせない。視線を下ろせば地面に座ったままの狐は、つむじ風にされるがままの僕を優しく見つめているだけ。

 体を包み込んでいた葉と花びらがはじけ飛ぶ。

 その下から出てきたのは、さっきまで着ていた服とは似つかない服だった。

 黒い着物と袴。その上から黒い甲冑を着たその姿は昔の武士そのものだ。腰には大小一つずつの日本刀を差し、体の周りに舞い散る花びらと相まって、自分が来ているものなのに異様に綺麗に見えた。


「……」


 そのままゆっくりと地面に落ちていく間、僕は自分の服装を呆然と眺めてしまった。もはや原理はどうなっているんだとか、こんなことありえないんだとか考えなくなっている自分の頭が怖い。


「その装束は長旅に耐え、苦難を乗り越える力を君に与えてくれる」


 自分の両手を持ち上げて見つめる。細長い板を縄でまとめたような防具が手首から肘までを覆い、二の腕は着物に小さな黒い板が等間隔で縫い付けられている。どちらもとても軽く、腕を動かすのに全く抵抗がない。

 胴体には大きな甲冑。緩やかな円形で胴体を覆っていて手で触ると、竹か鉄か分からないが硬く頑丈なことが伝わってくる。そしてこれも軽い。目で見るまで着ていることに気づかないほどだ。腰には、これは垂れ、だろうか。二枚の分厚い布が左右それぞれの太ももを隠すように垂れている。よくみればそれは太い糸で幾十にも編んでできているようだ。

 足には足首から脛にかけて手首と同じような板を縄で巻き付けたような防具をつけていて、その下に履いているのは草鞋だろうか、どうやら足袋もちゃんと履いている。

 頭には黒いフード。手で触ると、確かに布の触り心地だが鎖だろうか、硬い素材が編み込まれているようだ。


「……」


 武士のような、どこか不思議な恰好だ。黒一色のこの恰好はその色合いの割に非常に目立たず、もしこの恰好のままあの灯篭の道に戻れば自分でも自分が見えなくなってしまいそうだ。


「気に入った?」


 少し悪戯っぽい狐の声に我に返り、狐を見れば可笑しそうに笑っていた。


「次は、君が成すべきことを教えよう」


「は、はい」


 妙にかしこまってしまい、気を付けた姿勢をとる。甲冑が揺れてカチャカチャと音を立てる。狐の尻尾が再びくるりと回る。もう一度つむじ風が起こったが、今度はとても小さく、僕と狐の間の空中で赤い花びらが集まり小さな渦巻きを作った。かと思えばそれはいきなり大きく膨らんで僕と狐を囲うように回り出す。

 その花びらの渦巻きを目で追っているとその表面に黒い影のようなものが浮かび上がる。それは墨で描かれた武者のように見える。


「君が成すべきこと。それは灯篭に火を灯すことだ」


 黒い武者に前に灯篭のような影が現れ、武者がそれに手をかざすと灯篭に火が灯ったように赤く染まった。


「灯篭は世界各地に隠されている。君はそれを探し出す旅に出る」


 黒い影の周りに世界が広がる。茂る草花。聳える木々。囂々と落ちる滝に、静かに雪が降る雪原。全てが黒い墨のような影なのにそこに世界があるのが分かる。


「そしてもし迷ったときは、蝶が君を導いてくれる」


「蝶?」


 狐と僕の間に花びらが小さな渦巻きを作り、それは数頭の蝶に変わった。鮮やかな紫色の大きな蝶は僕の体の周りをひらひらと舞い飛んだ。


「その蝶は君が成すべきこと、進むべき方向へ導いてくれる。大切にするように」


「は、はい...」


 蝶はしばらく飛んだ後、僕の顔の前でホバリングするように羽ばたき止まり始めた。なんとなくその蝶に手を伸ばすと、蝶の群れは僕の籠手に止まり静かに羽を閉じた。次の瞬間には蝶たちの体は籠手の鮮やかな紫の模様に変わっていた。ついその装飾を手で撫でるが確かに表面を掘り込んで作られたものにしか感じない。


「困ったときは心の中で蝶を呼べば導いてくれる。ただし蝶がしてくれるのは道案内だけ。道を切り開くのは、君が自分でやることだ」


「はい...」


 ふと見れば花びらの渦巻きに浮かび上がる水墨画のような影の武者の周りにも数頭の蝶が舞っていた。武者はその蝶に導かれるように歩き続ける。その歩みは勇ましく、堂々としていた。


「君がやるべきことは分かったかな」


「...灯篭に火を灯せば、記憶が戻るんですね」


 花吹雪の武者から狐へと視線を戻す。


「そう。ただし灯篭は一つじゃない」


「全部で、いくつあるんですか?」


「それは分からない。君自身で見つけ出すものだからね」


「...そう、ですか......」


 少し投げやりな狐の返答に不安を抱きつつも、どうしても確認しておきたいこと、出来るならば目を背けていたい不安を口にする。


「もし...もし、旅の途中で死んでしまうような事があったら、その時は......どうなるんですか?」


 僕の質問に狐は僕に歩み寄る。


「その時は君は元の宿命に戻るだけだよ」


「......今度こそ、死んでしまうという事ですか?」


 狐は少しの間黙った。


「そう。君は今度こそ本当に命が尽きる。全てを失ってね」


 狐の優しい口調に有無を言わさない迫力を感じ、同時にあの灯篭の道で体験した恐怖が蘇る。


「......」


 でももう決めた。行くしかないんだ。ここで怖気ついても何も変わらない。これが僕に残された最後のチャンスなんだ。僕が僕自身を取り戻すための。


「分かりました。僕は行きます」


 僕の返答に狐はにっこりと笑ったような気がした。僕と狐を取り囲んでいた花吹雪の風が一気に強まる。咄嗟に顔を腕で庇う。


「ではこれから君を異なる世界へと送る」


 目を開けておくことも辛く辛うじて少しだけ開いた瞼からは狐の姿がぼんやりと見えるだけ。風はどんどん強くなる。


「最後に一つ。これから旅立つ者への花向けを」


 狐の声と同時に体が浮かび上がる。地面を捉えられない足が頼りなくブラブラと揺れる。


「君の名前を教えてあげる」


「な、なまえ...?」


 なんとか瞼を開けて狐を見る。狐も僕と同じように宙に浮いているようだ。


「ツバキ。それが君の名前だ」


「つばき...」


 復唱してみたものの、まるで自分ではない誰かの名前を呼んでいるみたいだった。


「他人の名前みたいに感じるのは、自分で取り戻していないから。でも知らないと不便だからね」


 風はより一層強まっていく。ついに目を開けておくことすら辛くなり、目を閉じる。僕を取り囲む風と花びらの渦は鼓膜すらも乱暴に叩き、耳には突風は突き抜ける時の轟音だけが響いている。


「......応援してるよ」


 でも最後に狐が言った一言だけは何故かはっきり聞き取る事ができた。

 

 

* * *



「……へ?」


 気づけば僕は深い森の中に立っていた。

 大都会のビルのようにそびえ立つ巨木。空間を飽和するように響き渡る動物や虫の音。むせ返るような植物と土の匂い。


「……」


 僕は立ち尽くす。

 これが、僕の果てしなく長い旅の始まりだとは、この時はまだ理解していなかった。


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