第一章 灯籠の道
「……。」
気が付いたら僕は一本の道の上に立っていた。
神社の参道のような少し歪な石畳で舗装され、その道の両脇には等間隔で石灯籠が並んでいるが、灯りはついていない。そしてその灯篭の下の地面には、まるで燃え盛る炎のように、空間を埋め尽くす彼岸花が咲き誇る。そして上を見上げれば満開に咲き誇る桜の木々が、道に覆いかぶさるようにその枝葉を伸ばしている。
どこかの神社か、お寺だろうか。それにしては道と木々の向こう側には何も見えない。夜というにも暗すぎる闇が辺りを満たしていて、聳える桜の枝葉がその闇から守ってくれているみたいだ。
「ここは……。」
呟きながら辺りを見渡し、後ろを振り返る。道はどこまでも続いていて、遠くの方で闇に飲まれている。背後の道の灯篭はどれも火が灯っているが、その奥に何があるかも分からない。僕はこの道を歩いてきたんだろうか。全く記憶にない。再び視線を前へ向ける。同じように道は果てしなく続いていて、その先を見ることはできない。
ここは、夢の中なんだろうか。到底現実とは思えない風景にそんな疑問が浮かんで自分の頬を自分で抓ってみた。頬を引っ張られている感覚は確かにあるが、痛みは感じない。抓っている指と指の間が短くなるほどに力を籠めるが、やはり何ともない。では夢なんだろうか。いやそれにしては、空間を満たす空気というか、光も闇も妙にリアルで生々しい感じがする。しかし、グニグニと抓っている頬は痛くない。
不思議な空間に突然に放り出され、僕の脳は状況の理解を諦めようとしていた。
『ここは人生の道。』
不意に響き渡ったのは聞いたことのない声。女性なのか男性なのか、子供なのか老人なのか、もしくはその全てを混ぜたような不思議な声に辺りを見渡すが声の主の姿は見えない。そもそも声は空間全体に響いて反響しているみたいで、その出所がどこかも分からない。
『これまでそなたはこの道を歩いてきた。』
その声にふと背後を振り返る。灯篭が等間隔で照らす石畳の道。ここを歩いてきた、と言われてもやはり記憶に無い。
『灯篭の火がそなたが歩いてきたことの証明。』
だから僕の目の前の道の灯篭には火が付いていないんだろうか。妙に冷静な頭でそんなことを考える。
『そして今、そなたは歩みを止めた。もう一度歩き出すことはもうできない。』
「え?」
その声につい声を上げる。歩みを止めたとはどういうことなのか。この声はさっきこの道は生命の道だと言った。そんな道で僕はずっと歩いてきたが、僕は歩みを止めたという。それが意味することは、つまり―――。
「ぼ、ぼくは、死んだって、ことですか……?」
僕の問いかけに声は答えない。しかし返事をする代わりかのように、一度だけ吹いた風が木々を揺らし音を立てた。
「……。」
死んだ。僕は死んだ?
あまりにも急な、あまりにも重大すぎる事実に理解が追いつかない。僕が死んだなんて信じられない。だって僕は現にこうして立っているじゃないか。この不思議な空間をちゃんとその目で捉えて、響き渡る声をその耳で確かに聞いている。こんなのは、死んでいては到底できないことだろう。
もう一度自分の頬を抓る。今度はさっきよりも強く、渾身の力を込めて。しかし痛くない。自分の肉を引きちぎるぐらいの力を込めても、感じるのはただ頬に触れているという軽い感触だけ。
痛みは体の危険信号という言葉を聞いたことがある。体に傷を負ったとき、体に何らかの不調が発生した時に人間はそれを痛みとして認識しているのだ。それは人間が生物として生きるために必要な能力。
それを感じないということは、もう必要無いということだ。
必要無いということは、それは―――。
「死んだって、こと……。」
『そなたの左右に灯る灯篭。それこそがそなたがその生命の中で最後にたどり着いた場所の証明。』
僕は視線をあげて自分の隣の灯篭を見る。石づくりの質素なその灯篭には仄かな灯りがゆらゆらと揺れている。その灯りを見ていると、何かが頭の中でフラッシュバックした。そのフラッシュバックの時に見えた景色はまるで壊れた映写機のようにノイズ塗れだったが、ある確信を得るには十分だった。
ぽろりと目から零れた何かが頬を伝う。手で拭ったそれは涙だった。
そうだ、僕は死んだんだ。
ああ、なんて呆気ないんだろうか。何も劇的な出来事も無く、人生観が変わるようなイベントも出会いも無く、僕はふと気が付いたら死んでいた。死んだことにすら気づかず、誰かも分らない声に教えてもらう始末だ。
呆気なくて、情けなくて、悲しい。そんな感情から零れる涙が一粒だけなのも、所詮その程度の人生だったということだろうか。
不意に強い風が吹いた。その風は道の左右から、上から、色々な方向から同時に吹き荒れて途端に嵐の真ん中に立っているような気分になる。それでも僕は呆然とその場に立ち尽くす。目や耳、鼻にも風は容赦なく吹き付けるが全く不快感はない。頬をつねった時のように何も感じない。
『しかし、その火は今まさに消えようとしている。』
風の中でも声ははっきりと聞こえる。
『そなたが歩んできた道が闇に飲み込まれる。歩いてきた証が消えていく。』
その声に呼応するように見えている道の範囲が狭くなったような気がする。
『そなたは、これまで歩んできた人生そのものを失う。』
道を照らす光がどんどん消えていき、闇が迫ってくる。途端に心の中に芽生える恐怖と、何かとても大切なものがどんどん目の前から消えていくような喪失感。
『そばたはどこで生まれて、どんな人生を歩んで、どうやってここまでやってきたのか。それらを全て失う。』
声は容赦なく言い放ち、光も容赦なく闇に呑まれていく。
やめろ。やめてくれ。どうして、どうしてそんなことをするんだ。自分の中の何か大切なものが消えていくのが分かる。大事に両腕で抱えていたものが、どんどんと抜け落ちていくのに何もできない、そんな喪失感と焦燥感が心を焼いていく。気づけば僕の呼吸は短く早く荒いものに変わっていた。
『これは止めることはできない。』
闇はもう目の前に迫っていた。今にも泣き喚きながら逃げ出したい。しかし体は言うことを聞かない。ただ意味も無く細かく震え、目の前に迫る闇を涙で潤んだ瞳で見つめることしかできない。
どうせ走れたところで、道の先だって暗闇に包まれているのだから無駄な努力なのだが。
『そなたは、全てを失った。』
その声を最後についに全ての灯篭の灯りが消えた。後に残されたのは、一筋の光も差し込まない暗闇。地面の石畳も、灯篭も、赤い彼岸花も、咲き誇る桜も何も見えない暗闇。
その暗闇の中で聞こえてくるのは自分の荒い呼吸と、がちがちと震える奥歯。震える以外に体を動かすことは出来ず、僕はただ虚無感と絶望に悶えることしか出来ない。
僕は気づいてしまった。
僕は僕自身の名前すら思い出せない。名前だけじゃない。誕生日も、血液型も、星座も、どこで生まれてどんな人生を歩んで、そしてどうやってここに来たのか。家族や友人の顔も名前も。何も覚えていない。
消えてしまったんだ。あの灯篭の灯りと共に。僕は僕自身の人生を全て失った。
喪失感はすでに消え失せていた。残ったのはひたすら虚無感と絶望。記憶が抜け落ちた頭と心に満ちるのはその二つだけだった。
どうして僕がこんな目に合わないといけないのか。もはやこれが夢かどうかすら、どうでもいいことだ。
死んだことにすら気づかず、そして今度は自分がどうして死んだかすら忘れてしまった。何もかも失った。今の僕は空っぽだ。命も、記憶も、人生も。何もない。
そうか。だから僕は暗闇の中に一人ぼっちで立っているんだ。今の僕を表すのにこれほどお似合いなものは無いのだから。
『しかし、火を灯していた灯篭は残っている。そなたは自身の手でその灯篭に再び灯りを灯すことはできる。』
闇の中から響いてきた声に、体の震えが止まる。
『そなたはそなた自身を再び取り戻すことができる。そなたにその意思があるのなら。』
変わることのない暗闇を見つめる。その暗闇に一筋の光が差し込んだような、そんな気分に変わる。
『一度消えた灯篭を再び灯すのは苦難の旅となるだろう。きっと今感じているもの以上の絶望と恐怖の旅となるだろう。だがその旅を乗り越えた先にそなたは自分自身を取り戻すことができる。』
黙って声を聞く。
『選択だ。全てを失った者よ。そなたは自身を取り戻すための旅に出るか?』
その声に僕は間髪入れずに答えていた。
「旅に出ます。僕は、僕自身を取り戻したい。」
何も迷うことは無かった。これ以上に失う者の無い僕にこれ以上怖いものなどない。どうせ空っぽなのだから。
『いいだろう。ではこれからその意志と力を確かめさせてもらう。』
吹いていた風の動きが変わり、僕を包み込むように吹き始める。
「わわっ」
風はどんどんと強くなり、僕の体は少しだけ宙に浮かんだ。
『この試練を乗り越えたならば、再び灯篭に火を灯すための力を与えよう。』
声がいい終わる頃には僕の体は完全に宙に浮かんで、流石に目を開けているのが辛くなるぐらいの風が吹き荒れていた。
「し、試練って、何をすれば…っ!」
風に翻弄されながら懸命に声を上げたが、やはり返答は帰ってこない。
『行け。失いし者よ。その力を見せてみよ。』
目を完全に閉じる前に聞こえた最後の言葉は、何故だかとてもやさしい気がした。




