星屑の咆哮 14
星辰は、共に一体の魔物を見据える仲間たちと目を合わせる。
圧倒的な脅威を前に、緊張している者、呼吸を整えている者、冷静な者、怯えている者、敵意を露わにする者、不敵な笑みを浮かべている者、それぞれとうなずきあった星辰は、短槍を構えなおす。
キサナの力を授かり、しっかりと休息をとった七人は、さらなる力を求めて暴れている魔猪と、深い森の中で対峙していた。
魔猪の体高は三メートルをゆうに超えており、その全身からは、魔力を含んだ独特な獣臭や、威圧感を放っている。
「あの牙、気をつけろよ」
根元の直径が二十センチはあるであろう、前に突き出た魔猪の牙を指差して、凛斗は全員に注意を促す。
例え和楓のような体格の持ち主でも、あんなものに刺されれば、ただでは済まない。
しかし、あれだけの大きさの得物なら、動きも読みやすく、対処も簡単だ。
「いいんですね、星辰さん!? ほんとに、ほんとに撃ちますからね!?」
「うん、お願い佳蓮! みんな死なせないからね」
木の上を陣取っている佳蓮は、星辰の合図とともに、限界まで引き絞った弓で矢を射る。
佳蓮が威嚇のために放った鏑矢によって、膠着状態が崩れる。
巨躯を使った突進に巻き込まれないように、星辰たちはその場を飛び退く。
やはりイノシシなだけあって、初速はかなり早いが動きは単純だ。
「すご、身体めっちゃ軽い!」
「これが、生物としての格が上がるってことか」
星辰と桜夜は顔を見合わせる。
以前とは、身体の反応速度が圧倒的に違う。思考した直後に身体が動くというよりは、思考している最中に身体が動いているような感覚だ。加えて、筋力も底上げされているのか、一足で飛び退ける距離が飛躍的に伸びている。
「また来ますよ!」
「動きを止めない限り、満足に攻撃もできないか……」
常に木の上を移動し続けながら、矢で攻撃をしている佳蓮からの警告に、星辰たちは唾を飲む。
弓を扱う佳蓮と千春はともかく、律空の言う通り星辰たちは近づくことさえままならない。
迫りくるイノシシを紙一重でかわした律空は、空中で身を翻して薙刀を振り下ろす。
皮膚はかなり硬いが、決して刃が通らないわけではない。
律空の体重が乗った薙刀は、腹部の皮膚と脂肪を切り裂く。
「肉にまでは届かないか……」
「でも痛いもんは痛いみたいだぞ」
脂肪が裂けたことにより、肉の一部が露わになる。
大きなダメージを与えられたわけではないが、千春の言う通り、効いてはいるようだ。
「まずはあの鎧みたいな皮膚と、牙をどうにかしないとね」
「和楓さん、一撃であの牙は折れるか?」
「一撃でとなると、少し厳しいな。なにか思いついたのか」
「おれの刀を使ってイノシシの動きを停める。その間に攻撃できればと思ったんだが」
鎖の耐久値のこともある。そう長い時間は拘束できないが、突進をかわしながらチマチマと皮膚を削っているよりは数段マシだ。桜夜は仲間たちに自分の考えを伝えながら、木に刀を打ちつけて準備を進めている。
律空が薙刀で傷つけた左の脇腹が、桜夜の鎖の届く範囲に入るように誘導しなくてはならない。
桜夜は星辰におとり役を頼むと、鎖で輪を描きながら機会をうかがう。和楓はその様子を見守っている。
「こっちだよ、イノシシ! 追ってこーい!!」
魔獣を召喚した星辰は、凪沙と一颯と共に魔獣の視界に入る。
挑発に乗った魔猪はその場で何度か足踏みをすると、星辰に向かって再び走り出す。
一度でも食らえば致命傷を負うことになる攻撃だが、動作は至って単純で、加えてこれで三度目の突進だ。さすがに動きのパターンが読めてきた。
星辰の誘導はうまくいき、魔猪は桜夜の射程内に入る。
桜夜の刀は露出した肉を穿ち、木と魔猪を繋ぐ鎖は、桜夜の手の中を勢い良く滑って、ピンと張り詰める。
手綱を引かれたように動きを止めた魔猪は、強引に身体を動かそうとするが、刃が肉に触れる痛みで悲鳴を上げる。
動きは止められたものの、頭の位置が高いせいで、牙に向かって斧を振り下ろすことはできない。
凛斗は魔猪の左前足に槍を突き刺し、引き抜いた勢いのまま身体を半回転させて、遠心力の乗った石突で傷口を殴りつける。
反対の右側では、律空が前足の皮膚を傷つけると、星辰は力任せに短槍を差し込む。
同時に襲い来る痛みに、立っていることもままならない魔猪は、その場で膝を折る。
佳蓮の放つ矢が、魔猪の眉間や鼻筋に降り注ぐ中、和楓は斧を構える。
牙を目掛けて力いっぱい振り下ろした斧だが、あまりの牙の強度に勢いが殺されてしまう。
あと半分と言ったところで、斧の動きは完全に食い止められてしまい、引き抜くことも、押し切ることもできなくなってしまう。
殺意に満ちた魔猪の目が、和楓を捉える。
このまま斧を握っていれば、魔猪が暴れた拍子に地面に叩きつけられてしまうだろう。この状況で丸腰になるのは避けたいが、命には代えられない。
和楓が得物から手を放そうとした瞬間、千春の怒号が辺りに響く。
「和楓、手を離すな! 力こめろ!」
佳蓮に倣って木の上から仲間を援護していた千春は、七メートルはある木の上から、和楓の斧に向かってためらいなく飛び降りる。
千春からの衝撃を受けたことで、完全に動かなくなっていた斧が動き出す。左の牙が根元から完全に折れた魔猪は、残った牙や鼻を使い、埋まっている岩を投げ飛ばして、怒りのままに暴れている。
このままでは双刀の鎖が千切れるか、固定に使っている木が倒れてしまう。
星辰は暴れている魔猪の腹部の下に滑り込むと、勢いのまま股下を潜り抜けて、今にも柄尻から鎖が千切れそうになっている刀を引っこ抜き、桜夜に投げ返す。
その直後、星辰の全身に強い衝撃が走る。
桜夜に武器を返すために魔猪から目線を逸らした瞬間に、助走なしの強烈な体当たりを見舞われた星辰は、受け身をとる間もなく木に激突し、あまりの衝撃で身体が動かせなくなってしまう。
温かい液体が額を流れ、星辰の着物に赤いシミを落とす。
魔猪は折れた木の根っこや岩を掘り起こしては、辺りに撒き散らしている。
星辰を助けに向かおうとする桜夜たちだが、大量の飛来物を避けきれず、ひとり、またひとりと地面に崩れ落ちる。
魔獣たちは迫りくる魔猪から主を庇うように、星辰の前で立ちはだかり、唸り声をあげている。
凪沙と一颯には目もくれず、魔猪は突進の姿勢に入る。
早く動かなければ、後ろの木と魔獣の巨躯に挟まれて、身体ごと潰されてしまう。
このままでは死んでしまうことを、頭も身体も理解している。しかしあんなに軽かった身体は、今ではピクリとも動かない。
「おれが旅を始めたんだ……死んでも、みんなの事、護らなきゃ……」
いま自分が死んでしまえば、次は倒れている仲間たちに標的が移ってしまう。
それを防ぐためにも、早くいい案を考えて魔猪を倒さなくてはいけない。
「槍は、あそこか……」
魔猪に弾き飛ばされた時の衝撃で手放してしまった短槍は、気絶している桜夜の近くに転がっている。手は届きそうにない。
凪沙と一颯だけでは魔猪を退けることはできないし、魔獣士の持つ〝従える力〟がキサナと反発するせいで、星辰ひとりでは禁術を使うことすらできない。
「一瞬だけでいいんだ、神様……みんなを護って……」
星辰は目をつむり、キサナの姿を思い浮かべる。
たったひとり分の魔力と命では、満足に召喚することすら叶わないかもしれない。それでも今の星辰は、奇跡が起こると信じて、全てを差し出すしかないのだ。
「星辰……星辰!」
意識を失っていた桜夜が顔を上げると、星辰の身体が、灯篭と同じ温かな光に包まれていた。星辰を魔猪から庇っていた凪沙と一颯も、光に溶けて、星辰の周囲を漂っている。
桜夜には、星辰が何をしようとしているのかはわからない。それでも止めなければいけないことは確かだ。
桜夜は必死に星辰の名前を呼ぶが、うまく声が出ない。
「くそ、くそ……っ!」
猛る魔猪を前に、星辰は目をつぶったままだ。
このままでは星辰が死んでしまう。
魔猪が地面を蹴ると同時に、桜夜は力の入らない身体を気力だけで動かして、とっさに星辰と魔猪の間に割って入る。
魔猪の牙が、桜夜の背中から腹を深く穿つ。痛いなんてものじゃない。気を抜くと、今にも意識が途切れそうだ。
桜夜の血と絶望を浴びて、涙を浮かべている星辰と目が合う。悲痛な叫び声が聞こえるなか、桜夜は十二年前のことを追想していた。
とても寒かったあの冬、まだ星辰と桜夜が、律空と出会う前の頃。村では病が蔓延していた。
身体が弱く、しょっちゅう寝込んでいた幼少期の桜夜もその病に罹り、長い間、生死の境をさまよっていた。
「死なないで!」
熱にうなされている桜夜が諦めそうになる度に、涙を浮かべて叫んでいる星辰と、窓を隔てて何度も目が合ったのを覚えている。
きっと時間と体力が許す限り、星辰は桜夜に声をかけ続けていたのだろう。
星辰に帰るように、せめて家に入るように促していた母親の声も記憶に残っている。
桜夜が風邪を拗らせる度に見舞いに来て、こちらの体調も考えずに、満足するまで今日の出来事を話してから帰る星辰に、何度救われたことだろう。
早く星辰と一緒に遊びたくて、苦手な薬も沢山飲んだ。星辰がそばに居たから、諦めずに済んだんだ。
──言いたいこと、いろいろあったはずなのに、何も思い出せないな……。
視界が暗くなると同時に、身体が温かさで包まれ、耳元で星辰の祈るような言葉が聞こえてくる。
「桜夜、死なないで! おれが絶対に死なせないから、だから、死なないでっ」
まるで子供のように泣きじゃくっている星辰の声を聞いて、桜夜は一つだけ、言いたかった言葉をようやく思い出す。
「お前の声、ほんとにうるさいよ……」
抱きしめた桜夜の身体から力が抜けたのを感じた星辰は、覚悟を決める。
死ぬことに比べれば、五感のどれかが無くなることくらい安いものだ。
「キサナ、おれの魔力、ある分だけ持って行っていいよ。だから今すぐ来て!」
星辰は魔猪の牙から桜夜の身体を、躊躇いなく引き抜く。
星辰はその体勢のまま、自力で立つことすら叶わない桜夜の身体を抱きしめて、禁術を発動させる。
星辰を包み込んでいた光が、桜夜の身体にまとわりつく。
桜夜の足がふわりと地面から離れると、閉じていた目が確かに開く。
「魔力を使って魔獣に実体を与える仕組みを利用して、このデカい傷をふさぐとは、考えたな星辰」
「おれの魔力も魂もいくらでも渡す。だから、桜夜も、誰も死なせないで」
桜夜の姿をしたキサナは、口端を上げて、不敵な笑み浮かべる。
魔猪を肩越しに一瞥したキサナは、まとう光を足に集中させて、そのまま鼻筋に後ろ回し蹴りを見舞う。骨の折れる音が聞こえると同時に、咆哮が響く。
キサナは流れるような動作で、血みどろになっている牙に拳を叩き込む。
和楓の斧でさえ食い止めた牙は、いとも簡単にへし折られてしまう。
「所詮は畜生風情か。ワタシの魔力を取り込んでいながら、この程度か!」
キサナにアゴを蹴り上げられた衝撃で折れた魔猪の歯が、鈍い音を立てて地面に落ちる。
魔猪が悶え苦しんでいる間に、星辰は近くに転がっていた双刀と、自身の得物を拾い上げる。
腕に鎖を巻き付けた星辰は、暴れる魔猪に刀を投擲する。
キサナの攻撃を四方から食らい、骨を砕かれる度に暴れている魔猪に振り回される鎖の動きを利用し、星辰は木を蹴り、宙を駆け、少しずつ獲物と距離を詰める。
今までの星辰は例え相手が人間でなくとも、痛みを与え、傷つけてしまうことに、躊躇いを覚えていた。しかし今はそれがまるでない。
どうすれば命にまで届く痛みを与えられるのかを、ずっと考えている。
決して頭に血が上っているわけではない。
この畜生の命を奪うことが、大切なものを護ることに繋がるのなら、傷つくことも、傷つけることも、星辰は躊躇わない。
星辰は勢い良く木の幹を蹴り、魔猪の頭の真上をとる。
短槍を垂直に握った星辰は、魔猪の脳天に穂を突き立てる。しかし、命を穿つには力が足りない。
「キサナ、力を貸して」
「いいだろう」
キサナは魔猪の鼻筋から脳天まで跳ねると、落下する勢いのまま、短槍に向かって強烈なかかと落としを打ち込む。
豆腐に釘を刺すように、短槍は何の手ごたえもなく、魔猪の頭蓋に沈んでいく。
魔猪は甲高い断末魔を上げると、その巨体を横転させて、瞬く間に絶命する。
巻き込まれる前に、地面に着地した星辰は、誰の物かわからない大量の血を袖で拭うと、キサナに感謝を伝える。
「ありがとう、キサナ。みんな死なずに済んだよ。それから桜夜のことも、本当にありがとう」
「ワタシでもあんなこと思いつかない。自分の頭を褒めてやりな。ま、ワタシが去ったあと、この身体の穴がどうなるかはわからないがな」
穏やかな微笑みを浮かべる星辰の眉間を小突いたキサナの表情は、瞬く間に真剣なものに切り替わる。
「それよりも、いい機会だから忠告しといてやる。どうもお前は他者の感情に共感しすぎる節がある。大切なことではあるが、あまり呑まれるなよ」
「それって、洞窟の前で、おれが泣いた時のこと? じゃああれは、やっぱり──」
「さあな、それ以上は何も知らん」
キサナは星辰の質問を乱暴に遮ると、楔たちの様子を見るために、その場を離れる。
心に感情が流し込まれるような感覚に陥った星辰は、それが誰の感情なのかはわからないまま、山の神が洞窟の奥にいることを確信した。
しかし、今ならわかる。あれは誰かの感情ではなく、あの地に関わったすべての者──望まぬ役目を押し付けられ生贄や祈祷師、それから自分に畏怖の念を向ける者たちを受け入れることにした、キサナの感情だ。
「おい、全員のびてるじゃねーか。手、貸してやるから、こいつらまとめて連れて帰るぞ」
「キサナが律空と和楓と凛斗を運んでね」
「ワタシにデカいのばかり押し付けよって」
桜夜の身体に空いた大きな穴は、すっかりふさがっているように見える。
しかし、キサナの言う通り、キサナが桜夜の身体から去った後はどうなるかわからない。
一抹の不安を覚えつつ、星辰は仲間たちを抱えて、キサナと共に帰路につく。




