黒い聖女
マナテアが、歩みを止めた。
「私が魔術を使えるようになったのは、十歳の時でした」
彼女は、体の前に差し出した自分の掌を見ていた。ダリオも足を止める。
「祝福されし者……」
ダリオが呟くと、マナテアは激しく首を振った。
「何が祝福されし者なのでしょう。本当に祝福されし者なら、大切な者を守ることだってできるはずです……」
叫ぶように絞り出した彼女の肩は震えていた。彼女は、大切に思っていた誰かを守れなかったのかもしれない。
祝福されし者は、能力と前世の記憶に目覚める”覚醒”よりも前に、魔法の才に恵まれた者だ。神より特別の祝福を受けた者だと言われている。それでも、記憶の覚醒が早まることはない。覚醒の時期は、若干ずれることもあるが、普通は十六歳で覚醒を迎える。十歳で祝福されし者となるのはかなり早い。ダリオほどではないものの、異例の速さだ。
ダリオが祝福されし者となったのは、ウルリスと出会った七歳か八歳の時だった。ウルリスの真似をして魂を出し、同時に消耗していた自らの体を回復させるために治癒を使った。
ウルリスを思い出したことで、雪の舞い散る中、ウルリスを失った時の記憶が甦る。あの時、ダリオは何もできなかった。ウルリスは、いろいろなことを教えてくれた。生きるために必要なこと、薬のこと、魂のこと。しかし、何故か戦う術は、簡単な剣術しか教えてくれなかった。
マナテアは、あの時のダリオと同じように、自分の無力さを悔やんでいるのかもしれない。
「お嬢様は、仲の良かった弟君を白死病で失われたのだ」
先頭を歩いていたゴラルが、マナテアを見つめていた。やはり、そうなのだ。
「それで、白死病に抗うのですね……」
彼女は、過去の無力な自分を否定するためにチルベスに向かっているのだろう。それを察したことで、ふと思い出した。常に喪服を身に纏い、白死病が発生した各地の町に行き、治療にあたる女性がいるという話しだった。
「もしかして”黒い聖女”というのは……」
急に金属を滑らせる音が響いた。ゴラルが剣を抜き放った音だ。剣先が、ダリオの眼前に突き付けられていた。
「それ以上、その言葉を口にするのなら、その首をはねるぞ!」
それが単なる脅しでないことは、ゴラルの顔を見れば分かった。
「やめて」
マナテアが、力ない様子で、ゴラルの腕に手を伸ばしていた。
「彼の言葉は、蔑んでの言葉ではないでしょう」
どうやら、”黒い聖女”は蔑称のようだ。
「ごめんなさい。悪い意味で使われているとは知りませんでした」
「そうでしょうね。知っていたら、本人の目の前で口にしないでしょう」
どんな意味で使われている言葉なのか、聞きたいと思ったが、とてもそんなことは口にできない。本当に首をはねられそうだ。
「私がチルベスに行ったところで、命を救うことが出来るのは数人でしょう」
彼女は、緩い歩みを再開しながら呟くように言った。
「毎日、魔力が尽きるまで治療に努めても、助けられる人は少ないのです。でも、だからこそ、一人でも多くの人を助けたい。だから、私は助かる見込みの高そうな人を治療します」
彼女は、うなだれたまま歩いていた。数人であっても、確かに助けることができるのだ。それは、誇って良いことであるはずだ。ウルリスを見て育ち、彼女に倣って生きて来たダリオにとっても、それは同じであるはずだった。ダリオは、彼女を元気づけたいと思った。
「薬での治療も同じです。全ての患者に少しずつ薬を与えていたら、一人も助けることはできません」
ウルリスもそうしていた。ダリオもそうしている。薬だけでなく、こっそりと使う魔法での治療でもそうだ。
「そうですか」
彼女は、そう力なく言って振り返った。彼女が何を言いたいのか、良く分からなかった。
「どうやって、助かる見込みの高そうな人を選んでいますか?」
真っ直ぐに見つめられ、ダリオは苦しかった。嘘を付かなければならないからだ。
「患者の状態と薬が効きそうかどうかで選びます。薬の効果が出やすい人と、出にくい人がいるのです」
本当は違う。ウルリスは、魂の強い者に治療を施しなさいと言っていた。ダリオが助かったのも、ダリオの魂が強かったかららしい。
「そうですか」
そう言って、マナテアは再び前を向いて歩き出した。
「魔法による治療では、一定の魔力を注げば、一定の効果が出ます」
それはダリオも知っていることだ。理由は知らなかったが、そう教えられていた。
「だから、患者の状態、生命力がより強く残っている人を治療したいのです」
彼女が「治療したい」と言うのは、どういう意味だろうか。それができないのだろうか。ダリオの疑問に彼女は答えをくれなかった。代わりに、後から声が響く。
「儂等は教皇庁の要請で治療に向かっている。ダリオ君に渡す馬代も、儂等がカルナスやチルベスで泊まる際の宿代も、全て教皇庁から支払われる。だから、治療すべき患者は、教皇庁の意向に従うべき、と考える者が多いのじゃ」
納得のできる理屈だった。しかし、それでもマナテアやアナバスが言おうとするところが理解できない。
「教皇庁は、より多くの人を助けようとしているのですよね?」
「そうではないな。教皇庁が治療し、生きながらえさせたいと考えているのは、より強い信仰心を持っている者じゃ……」
アナバスの言葉には、なおも分からない点があった。
「強い信仰心ですか? どうやって信仰心の強さを調べるのでしょう? 戒律を厳密に守っているかどうか確認するのですか?」
聖転生教会は、正しく生きるために守らなければならない戒律を定めている。戒律を厳密に守っている者が、正しく生きている者、つまり信仰心の強い者であるはずだった。
「ヌール派ではそうなるかもしれんな。だが聖転生教会では、教会に多く寄付を行った者が、強い信仰心を持っていると見なされる」
「え?!」
それでは、多額の寄付をすることのできない貧しい者は、信仰心に欠けていることになってしまう。
「お嬢様は、そのような教会の意向には関係なく治療をされる。それ故、先ほどの言葉のように、お嬢様に蔑みの言葉を向ける者がいるのだ!」
先頭から大きな声が響く。
「そういう言葉……だったのですね」
「喪服を着ているから、かもしれませんけどね」
マナテアが、皮肉っぽく呟く。
ウルリスを殺したのは聖転生教会に属する聖騎士だ。だから、教会関係者への警戒を解くことはできない。しかし、教会関係者の中にもいろいろな人がいるようだ。ダリオは、もっとマナテアの事を知りたいと思った。