第9話 監視対象は有明
その日のルナティック・インにはいつもとは違う張り詰めた空気が漂っていた。客のいない店内はBGMすらなく静まり返っている。それはまるで開店休業、これから訪れるであろう客すらも拒絶せんとする雰囲気だった。
メイドたちもまたしかり、バックヤードに籠りっきりの待宵やカウンターに立つ眉月の口数の少なさはいつものことだったが、ムードメーカである望月の顔にも緊張の色が浮かんでいた。
「新月、入ります」
学校の制服からメイド服に着替えて今日も新人メイドの新月を演じるミエルが目にした光景は有明だけがモップ掛けに精を出している姿、それはまるで彼女の仕事ぶりを他の皆が監視しているように見えた。
ミエルが望月に指示を仰ぐと客席のテーブルを拭いて回るように命じられた。どうやら客足が一段落しているこの隙に店内の清掃をしてしまおうという思惑だろうが、命令口調の望月にいつもの明るさはまったく感じられなかった。
一方、有明は客席周りを拭き終えるとそのままバックヤードへ続く通路へとモップを向ける。すると望月がそこに立ちはだかって彼女に作業の終了を命じた。
「ここはもういいよ、とりあえず裏庭の流しでモップを洗ってきて。それが終わったら次の仕事をお願いするから、よろしく」
有明は望月が立つ背後に見える壁、それは以前に見た回転扉をカムフラージュしたあの壁だが、その様子を気にしながらも命じられた通りモップ片手に渋々と店を出ていく。アーチウインドウの向こうを有明の揺れるポニーテールが過ぎていくのが見えた。
ミエルもまたテーブルを拭きながら望月の背後に見えるあの部屋へと通じる隠し扉を気にしていた。するとその視界の片隅に、有明が出て行くのと同じタイミングで眉月がバックヤードの奥へと消えていくのが見えた。
店の裏手には小さな庭があり、そこに流しとゴミ箱がある。例の隠し部屋を探ることはできなかったが、有明こと明日葉晶子はこれを好機と考えてモップを洗いながらゴミ箱を探ってみようと考えた。
実はこれまでも彼女は店から出るゴミから証拠を得られないかと考えてそれを入手せんと試みていた。しかし結果はまったくの空振り、捨てられていたのはただの紙屑ばかりだった。
あれだけの紅茶を提供していながら茶葉がまったく捨てられていないのはなぜだろう。やはりこの店で出すお茶には知られたくない秘密があるに違いない。晶子の心の中で店への疑惑は募るばかりだった。
よし、今日こそ見つけてやろう。そう意気込んではみたものの、晶子が裏庭にやって来たとき既にそこには眉月の姿があった。彼女は何をするわけでもなく、ただ有明がモップを洗い終えるのを眺めていた。
そう、眉月は有明、いや、明日葉晶子の挙動を監視していたのだった。
有明が意気消沈の表情で戻って来るのと同じタイミングで眉月もまたカウンターに戻って来た。そんな二人のただならぬ様子からミエルも晶子こそがが監視対象になっていることを悟った。
やはりあの苗字だ、誰が見たってそれはわかる、晶子の正体は既にバレているに違いない。しかしそれは彼にとって僥倖とも言えよう、なにしろ彼女を囮にして自分は命じられた仕事をこなせばよいのだから。晶子のことが気になっていることは否定できない。しかし今はミッション優先、ミエルは努めてそう考えるようにしていた。
有明が戻って来るなり望月は彼女をバックヤードに呼びつけた。新月もカウンターを拭きながら聞き耳を立てる。すると望月はチラシが入った籐のカゴを有明に手渡して命じた。
「有明、三丁目の駅前でこれを配って欲しいんだ」
有明は黙ってそれを受け取ると小さな声で「はい」とだけ言って扉に向かう。これで探りを入れる手立ては絶たれてしまった。そのときの彼女の顔は明らかに落胆していた。
カウンターの中では表情ひとつ変えずにカップを磨く眉月が、バックヤードではパソコンにつきっきりの待宵がいる。望月は何かを見張るように有明が出ていったばかりの扉を見つめていた。
テーブルを拭きながら三人のメイドを観察するミエルの耳に月夜野が奏でる優雅な音色が聞こえてきた。
「そうか今日はあの部屋に客を入れてるんだ。どうりで店がピリピリしてたわけだ。それで晶子もやたらと隠し扉を気にしていたのか。挙句の果てに厄介払いの外回り……ってことはやっぱ彼女の正体はバレてるってことだ」
ミエルは自分に疑いがかけられていないことに胸をなで下ろしつつも、しかし晶子の身が心配になるのだった。
もたもたといつまでもカウンターを拭いている新月の視界にバックヤードから顔を見せる待宵の姿が映る。新月はなるべく気取られないよう注意しながら聞き耳を立ててみた。しかし待宵と眉月の間には手信号にも似た符牒があるようで、言葉を交わすことなく二人は揃って店の奥へと消えていった。
望月はそんな二人の様子を気に留めることこともなく先ほどから神妙な面持ちで待機している。やがて聞こえてくる月夜野が奏でるスピネットの微かな音色、しかしゆったりとしたその旋律とは裏腹に店の中に漂う不穏な空気にミエル自身の緊張感も高まっていくのだった。