第7話 スパイがここにいる
閉店時間の午後十一時、店の二階にあるロッカールームで着替えを終えた新月と有明の二人が階段を下りてくる。
「みなさんお疲れ様でした、お先に失礼します」
まだまだ新人の二人は丁寧に頭を下げると揃って店を後にした。月夜野は笑顔でそれを見送ると、眉月と待宵にもお疲れ様の声をかける。しかし二人は揃って「まだ残務があります」と言いながらそれぞれの持ち場に就いて仕事を始めた。
今夜はもう閉店するつもりでいた月夜野と望月は困ったように顔を見合わせるも「火の元と戸締りに注意するように」とだけ言付けると、さっさと店の三階にある二人の部屋へと引き上げて行った。
階段を上がる二つの足音が静まるとしばしの静寂に続いて月夜野が奏でる音色が遠く聴こえてきた。それもまた彼女の祖父が残したもの、隠し部屋のとはまた異なるクラヴィコードなる小さな鍵盤楽器が乾いた旋律を響かせていた。
「まったく気楽な人たちだこと」
バックヤードから出てきてカウンターの前でぼやく待宵に眉月が熱い紅茶をいれる。
「そう言うな待宵。呑気な二人のおかげでウチらの計画も順調なんだから」
「確かにそうなんだけど、でもときどきイラッとするときがあるわ。だって面倒な事は全部こっちまかせ、それであの人は今夜もああしてお姫様気取りで望月を愛でてるなんて」
待宵はひと通りの不満を吐き出すと手にしたカップをカウンターに戻す。その中身はすっかり空になっていた。
「ところで眉月、あなたに見て欲しいものがあるの。ちょっと私のデスクに来てくれるかな」
そう言ってバックヤードに戻ろうとする待宵の腕を眉月が掴んで止める。
「待宵、もう誰もいないね。だから美緒で呼ぶよ」
「そうね眉月……ううん、悠然。ここからは本当の名前にしましょう」
河田美緒、それが待宵の本当の名前、そして眉月のそれは悠然、その名の通り彼女は中国人だった。そして二人はこの店を拠点としたある計画を実行せんとその背後に立つ者から命じられているのだった。
美緒は悠然とともにパソコンの画面を見つめていた。画面にはこの店周辺のマップが表示されている。
「それじゃ時間を戻すわね。とりあえず一時間、あとは三分刻みで状況が更新されるわ。さ、見ていて」
美緒がマウスを操作して再生アイコンをクリックすると、店の座標でオレンジ色のマーカーが点滅を始めた。そしてそれは経過時間が今からちょうど十分前を示したところで動き始める。次の三分で店の前の通りに、また次の三分で靖国通りに到達したそれはそこで動きを止める。その後、残り一分のところでマーカーは交差点を横断し、そこで消失した。
「見たでしょ、今の。おそらく信号を渡ったあたりで電源を切ったのよ」
「電源って、何の電源ね。いったい何か?」
「GPSよ。スマホのアプリかしら。でも仕事の最中はスマホ禁止だからもしかすると小型の発信機か何かかも。とにかく自分がこの場所にいることを誰かに知らせてるんだと思うわ」
「原来如此。それで美緒はあの二人のどっちかがスパイと思うのか」
「それでね、ちょっと面白いものを見つけたの。悠然これを見て、看一看よ」
美緒は最近覚えた中国語のワンフレーズとともにデータベースシステムを起動する。悠然はそんな美緒を微笑ましく思いながら一緒になって画面を覗き込んだ。
美緒はデータベースにアクセスするとおもむろにSQL文を打ち込んでそれを実行した。一瞬で現れる飾り気のないマトリクス表示の画面を悠然にも解るよう指差して説明する。
「これは店の会員データ、おもてなしの招待客よ。今ここに出てる名前をよく覚えておいてね。それでお次はこれ」
データベースの検索結果を最小化した次に表示されたのは履歴書をスキャンした画像だった。そこに貼付された顔写真、切りそろえられた前髪にポニーテールのその姿は今さっき帰宅した有明のそれだった。
「ほら、この子の名前をよく見て」
「明日葉……これは『あしたば』でよいか?」
「そうよ、この子の名前が明日葉晶子、そして事故で死んだ会員の名前が……」
「明日葉晃か、これは偶然ではないね」
「そうね、ウチの会員名簿には本人の情報しか載ってないけど有明はこの会員の身内、おそらく妹だと思う。スパイはこの子に違いないわ」
「それは厄介なことね」
「ただこの子が何をやろうとしてるのかまではちょっとわからないの。だから当面の間はここに余分な在庫なんて置かない方がいいと思うわ」
「明白了、美緒が言うの通りにするよ。ならばすぐにでも二階の倉庫に残してるストックは移動してしまうがよいね」
美緒はデスクトップに開いたウインドウをすべて閉じるとパソコンもシャットダウンする、待機中のアイコンを横目にまたもやぼやきながら。
「間抜けな月夜野がクールダウンもせずにラリッたままの客を送り出しちゃったもんだから、おかげで警察まで乗り込んでくるし挙句に今度はスパイよ。なのにお姫様は楽器鳴らして百合の世界、ほんとにあきれたものだわ」
「没問題、ウチらはやることをやって頂くものを頂くだけ。そうすれば美緒、あんたの彼氏も喜ぶ、一切都好ね」
「ならいいんだけどね……って、あ、もうこんな時間。月夜野に気付かれないうちに私たちも引き上げましょう」
「うん、美緒、辛苦了」
「お疲れさま、悠然」
私服に着替えた美緒と悠然が揃って店を後にする。静まり返った店の中には上階からの優しい音色、やがてその旋律が終わりを告げたとき、いよいよ月夜野と望月の艶めかしい息遣いが聞こえてくるのだった。