第34話 それは二人が大人だから
ミエルの話を聞き終えた晶子は暗闇の中ですっかり黙り込んでしまった。これまでの彼女ならば彼の話の端々にツッコミを入れてくるのだろうが、しかし今はミエルの胸元を掴んだままずっと口をつぐんだままだった。心配になったミエルが潜めた声をかける。
「晶子、晶子……大丈夫?」
「フンッ、変態女装男子の身の上話なんてあたしにはどうでもいいことだし」
「よかった、いつもの晶子に戻ったみたい」
「あのね、あんな話の後にどうリアクションしろってのよ。ほんと困るし、ずるくない?」
「ご、ごめん」
「いちいち謝らないで!」
徐々に晶子の語気が強まってきたそのときだった、上階からバタバタと階段を下りる足音が聞こえてきた。家捜しは終わったのだろうか、目的のものは見つかったのだろうか、いずれにせよ彼らがこの部屋に入ってこないようにと、今はひたすら祈るばかりだった。
幸い彼らがここに入ってくることはなかった。が、しかし事態は急変する。ルームの向こうから聞こえてきたのは彼ら二人とはまた別の足音だった。乾いたドアベルの音に続いて一人、二人、遅れてもう一人、全部で三人だ。外では何か会話が交わされているのだろうが、残念ながらミエルたちが隠れているこの場所にその声は届かなかった。
このままでは五人を相手にすることになるかも知れない。暗闇の中でミエルはできるだけ潜めた声で晶子に確認する。
「晶子、晶子」
「何よ、聞こえてるし」
「君のそのスタンガンはまだ使えるかな」
「ちょっと待って、今やってみるし」
晶子は太股のガーターベルトに挟んだスタンガンを手探りで掴むとそれを目の前に持ってきてスイッチを入れてみる。一瞬の閃光と軽い破裂音、二人の網膜に白い残像が残った。
「よし、まだ使えるみたいだね。もしあいつらがこの部屋に入って来たらそいつで応戦を頼む」
「ミエルはどうするのよ」
「大丈夫、ボクには多少の心得があるから。だけどもし相手が眉月だったらヤバい。あいつは中国拳法を使うんだ、ボクの技なんか全然通用しなくってさ」
「それでやられて捕まっちゃうなんて、マジ、ダサいし」
「う、うるさいなぁ、とにかくここから先はボクもいっぱいいっぱいなんだ」
「いいわ、ついでにあんたのこともあたしが守ってあげるし」
「うん、そのときはよろしく。それじゃ、行くよ」
ミエルと晶子はカムフラージュされた扉を押し開けてルームへと飛び出した。しかしそこもまた窓のない空間だった。暗闇の中でミエルがスマートフォンの画面を床に向けて起動すると、ほんのりとした光が二人の足元を照らす。ミエルは忍び足で店へと通じる隠し扉の前に身を寄せるとその場にしゃがみこんで外の様子に聞き耳をたてた。
くぐもった声でボソボソと交される会話の内容はほとんど聞き取れなかったが、どうやら言い争っていることだけは理解できた。会話の中に明らかに日本語ではない単語が混じっているのがわかる。中国語だ。それに聞き覚えのあるあの声は、そうだ、眉月だ。なるほど、彼女の中国拳法は伊達ではなかったんだ。
しかしこれは厄介なことになった、眉月相手に晶子を守り切ることができるだろうか。ミエルの鼓動はますます高まり、緊張で身体も強張った。
最悪の事態に備えて身構えるミエルだったが、扉の向こうではすべてが片付いたようでドアベルの乾いた音と店から出て行く靴音が事態の収束を表していた。続いて車のドアを開け閉めする音が遠く聞こえる。あとはこのまま立ち去ってくれることを願うばかりだ。
それにしても解せないことがあった。それは最後の足音だ。その数は三人だったのだ、五人ではなく。消えた二人は待宵とあの男に違いない。彼らに一体何が起きたのだろうか。しかしこれ以上関わり合いになるべきではない、晶子を連れてさっさとこんな所からは立ち去るのが賢明だ。
ミエルがひとりでそんなことを考えているときだった、再びドアベルが乾いた音を鳴らす。続く靴音が扉の向こう側で止まる。暗闇の中でミエルと晶子は息を潜めて身をすくめた。
「ドンッ!」
すると突然の打撃音、思わず声を上げそうになる二人は同時に口に手を当てていた。続いて扉の外から眉月の声。
「ウチらは無駄な殺生はしないね。おまえたちはまだ子どもだから今回は見逃してやる。もう二度とウロチョロするな、よいね!」
抑えた口調にかえって凄みを感じさせる捨て台詞とドアベルの音を残して眉月は店を出て行った。
もう大丈夫だろう。ミエルはルームの回転扉を恐る恐る押しながらわずかな隙間から様子を覗う。窓から差し込む街路灯の光がモノトーンを描く店内に人影はなく静まり返っていた。ミエルは晶子の手を引いてもう二度と訪れることがないであろうこの店を後にした。
店の前では横付けされた白いミニバンのフロントグリルが街路灯に照らされて下卑た輝きを放っていた。ギラギラしたクロムメッキのすぐ上にある異変に気付いたのはミエルだった。彼はその惨状を晶子に見せまいとしたが、敏感に異常を察した晶子は彼を押しのけてフロントガラスの前に立ってそれを覗き込んでしまった。
彼女が見た光景、フロントガラスの向こうには血まみれの海斗と待宵の姿があった。
「ま、待宵! し、信じらんない。さっき殺さないって言ってたのに」
「それはこの二人が大人だからだよ、それもボクたちとは違う世界の。さあ、行こう。これ以上見ていてはいけない、こんなもの」
ミエルは動揺して足元がおぼつかない晶子の手を引いてできる限りこの場から離れようと靖国通りの交差点を目指した。
力なく手を引かれながら晶子は震える声でつぶやいた。これまで張りつめていた気力が切れてしまったのだろう、ミエルの手をギュッと握り返した晶子の手もまた微かに震えていた。
「ねえ、ミエルはいつもこんな怖い仕事してるの?」
「晶子、こんなことになってしまってごめん、本当にごめん」
「答えになってないし。それにミエルが謝るなんて意味不明だし」
「だってボクが捕まりさえしなければ……」
「ほんとよ、ほんとにダサ過ぎ。でもあいつらはそういう世界の人なんだし、ミエルが気にすることじゃないし」
「だけど……」
「だ――か――ら、あんたはあたしを止めようとしたし。なのに見たのはあたし。だからそれはあたしの自己責任なの。死体なんて見たの初めてだし、同じ店の人だったし。マジでしばらく夢に出て来るかもだけど、でもそれも全部自己責任だし」
ミエルは強がる晶子をなぐさめようとその小さな肩に手を掛ける。しかし彼女はその手を振り払って声を上げた。
「やめてよ、そういうの。変態になぐさめられるほど落ちぶれてないし。あたしはひとりで生きていくし、自己責任だし、だから……だから、バ、バカにしないでよ、バカにすんな……」
強がっていた晶子はミエルの肩で震えながら涙を流した。それでも声を上げることがなかったのは、それは彼女なりの精一杯の強がりだった。




