第32話 (閑話)黒衣の後見人
「とにかく火の元と戸締りには気を付けるのよ」
「母さんは心配性だなぁ。大悟だってもう中学生だ、それに今じゃキッチンで調理なんかしなくてもレンジでチンすりゃなんでも作れちゃうんだしさ、心配なんかいらないよ」
「それもそうね。それじゃお留守番をよろしくね」
「うん、いってらっしゃい、楽しんできてね」
「おおっ、お土産を楽しみにな」
そう言って大悟の両親は夫婦水入らずの温泉旅行へと旅立っていった。久々のドライブを兼ねた遠出に車好きの父親はえらく盛り上がっていた。しかしその数時間後にあんな知らせが届くことになるとは、こうして慌ただしく準備が進んでいる今になってもなお、大悟にはこれが現実ではないような気がしてならなかった。
ひょっとしたら父親の運転で二人揃ってここに現れるかも知れない。もしかすると今夜遅く自分が寝静まった頃に帰って来るかも知れない。そして明日の朝にはいつもと同じ朝食が自分を待っているのではないだろうか。
大悟は式の準備で慌ただしく行き交う人たちの姿をぼんやりと眺めながら、ひとりそんなことを考えていた。
通夜から一夜明けた今日は告別式、親類縁者の少ない小林家ではごく近しい身内だけで静か見送る意向だった。しかし永年勤続の褒賞が原因で起きた事故に会社も黙っていることはできず、結果として社葬の如き盛大な葬儀となってしまったのだった。
「大悟君、ここにいたのか」
加治と名乗るこの青年は大悟の父親がプロジェクトリーダーを務めるチームの若手社員だった。父をよく知る者として昨夜から事あるごとに大悟に声をかけてくれる。
「そろそろご親族の席に移動しておいてくれ。なに、面倒なことは会社の連中がやるからさ、とにかく君は座っていてくれればいいから」
親族、しかし両親亡き現在小林家は大悟一人になってしまったし、他に来ているのは母方の祖父母と母の妹である叔母さんと旦那さんである叔父さん、それにまだ小学生の彼らの息子くらいのものだった。
「ほんとに誰のための式なんだかわからないわ」
「いいじゃないか、こう言っちゃなんだけどこちらの持ち出しはない、お義兄さんの会社が全部仕切ってくれてるんだから」
「それもそうだけど、でも大悟君はどうするの? やっぱりウチで引き取ることになるのかしら」
「それについてはお義父さんから提案があったよ。とりあえず義務教育が終わるまでは面倒を見てくれるってさ」
「なによお父さんったら、娘の私には一言もなかったのに」
「それはほら、昨日の今日みたいなもんだし、とにかくお義父さんを責めないでくれよな」
「そうね、こっちも翔太の中学受験やらで大変だし、正直助かるわ」
潜めた声で語る叔父と叔母だったが、その内容は大悟にもまる聞こえだった。
そうか、自分は義理の祖父母の世話になるのか、確か田舎だった記憶があるけどどこだったっけ。でもできればこのまま今の家で暮らしたいなぁ。
大悟は涙を流して悲しむこともなく、やたらと冷静にな気持ちでこれからのことを考えていた。
「そういえば、あの人は来ないのかな」
大悟は誰に言うともなくそうつぶやいて会場内を見渡してみた。しかしそこでは皆一様に黒い服を着た大人たちが忙しそうに動き回っているばかりだった。
通夜の席にはいなかったあの人のことだ、今日こそはきっと現れるはずだ。どこかから話を聞きつけて、いつものように空気を読まない居丈高な態度で。
すると何やら外の駐車場のあたりがやたらとざわつき始めた。若手社員たちがなにやら騒がしい。
「おいおい、なんだよあの車」
「でけぇ――、長ぇ――、リムジンかよ」
「なあ、あれってベンツだよな」
「プルマンだよ、ベンツのリムジン。それも縦目のモデルなんて激レアだぜ」
「でもさ、純白のメルセデスなんて堅気じゃないよな」
「それな――」
白いメルセデス、それを耳にしたとき大悟はすぐに状況を察した。やはり来た、あの人だ。大悟は席を立つと足早にエントランスを目指した。
真っ白なボディーが斎場の車寄せに横付けされると左ハンドルの運転席からすぐさま初老の男性が降り立って後部ドアを開ける、慇懃に頭を垂れながら。若手社員たちが見守る中、車から出てきたのは黒いレースのロングドレスに身を包んだ妙齢の女性だった。頭には黒いつば広帽、同色のレースが彼女の顔を覆っている。その姿はまるで場違いなゴシックロリータ、もとい、ファンタジーの世界から飛び出してきた黒衣の女王のようだった。
「大悟ちゃん、久しぶりに会えたと思ったのにまさかのこんな場所なんて、お悔やみ申し上げるわ。この度はご愁傷様だったけど、でも心配は要らないわ、これからはこの薫子さんが大悟ちゃんの面倒を見てあげるから。だから、さあ、行きましょう」
するとその様子を見かねた大悟の親族が総出で駆け寄ってきた。
「薫子、あんたは何を考えてるの」
彼女の顔を見るなり大悟の叔母が声を荒げる。突然の声に忙しそうにしていた皆が一斉にこちらを注目する。その様子に慌てながら叔父と祖父母が怒り心頭の彼女をなだめた。
薫子と名乗るこの女性は秋津薫子、叔母の妹だった。今では新宿で事業を展開する女性実業家である薫子だが、自由奔放な性格で家を飛び出した彼女は親族の中でも浮いた存在だった。しかし大悟の両親とは良好な関係で、何かと理由をつけては小林家を訪れていた。
薫子の目当ては大悟だった。何をどう勘違いしたのか女の子が生まれたと早合点した彼女が箱一杯の女児向けのベビー服やらおもちゃやらを持ってやって来たのを皮切りに、大悟が男の子だと判ったそれからも遊びに来ては女の子の恰好をさせてかわいがるのだ。
ところが大悟の両親もそれを迷惑がるどころかむしろ面白がっていっしょに記念写真まで撮るありさまだった。そう、大悟には幼いころからどこか中性的な魅力があったのだ。
「ふ――ん、それが制服なんだ。やっぱ地味ね、公立中学のって。これからはまずこの薫子さんに相談すること。すぐに相応しいコーデをしてあげるから、いいわね、わかった?」
ほんとに人の話を聞かないし場の空気も読まない人だ。でもこんなときだからこそ変わらぬ薫子の態度に大悟はむしろ安心を覚えるのだった。
「とにかく行くわよ、車も待たせてるんだから」
「あ、あの……ボクはこれから……」
「何言ってんの、中学生の子どもに喪主が務まるわけないでしょ。お義兄さん、お父さん、そういうわけであとはよろしくお願いね」
「薫子さん……」
「薫子!」
周囲の困惑など眼中にない薫子は大悟の手を引いて無理やりリムジンの後部座席に放り込む。
「面倒な事務手続きはうちの久米川にまかせて頂戴。それではごきげんよう」
こうして大悟と薫子を乗せたリムジンはどうにも場違いな威厳を放ちつつ静かにその場を後にした。