第3話 鬼警部と男の娘
新宿一丁目、ここは新宿御苑を間近に望むマンションやオフィス利用の雑居ビルが立ち並ぶエリアである。繁華街の喧騒から離れたその一角に建つ都市計画から取り残されたような古ぼけた小さなビル、彼は今そのエントランスの前に立っていた。
「あら、ミエルちゃん、おはよう。出勤前からもうメイドさんなんて、今日はずいぶんと気合が入ってるわね」
言葉こそオネエであるが見た目は浅黒く日焼けした大柄でマッチョな男が声をかける。そんな彼を愛想笑いでやり過ごすと大悟はこれから向かう五階建ての最上階を見上げて呼吸を整えた。
さあ、ここからは小林大悟ではない、ミエルの時間だ。
「おはようございます!」
いつものように元気よく挨拶すると、窓を背にしたデスクには彼の叔母を名乗る女性、通称「ママ」が、革張りの応接ソファーには東新宿署の相庵警部が彼を待っていた。
「おはようございますとはご挨拶だな、ミエル」
「あ、相庵警部、ご、ご苦労様です」
「おう」
警部は相槌を打つと目の前の茶をすする。続いてママが開口一番、呆れた声を上げる。
「ちょっとミエルちゃん、何よその恰好は。お店の衣裳じゃないし、それに髪も地毛のままじゃないの」
「いえ、これは、その、ちょっと……」
「まあ、いいわ、お仕事よ。とにかく適当に座って頂戴、これから貞夫ちゃんが説明してくれるから」
東新宿の鬼鉄と呼ばれる相庵警部を「貞夫ちゃん」と呼ぶのは新宿広しと言えどもこの女だけである。彼女は複数の飲食店を経営する傍らでその顔の広さを生かしてコンサルタント会社を経営していた。もちろんコンサルなどとは名ばかりで実際は潜入や囮を使っての調査等々、いわゆる事件屋を生業としているのだった。そのため警察からもマークされてはいるが、そこは持ちつ持たれつの間柄で相庵警部とも絶妙な関係を築いているのだった。
そしてミエルこと彼、小林大悟はこの「ママ」の下、その風貌を生かしてあるときは英国風パブのメイド、またあるときはコスプレパブの男の娘、そしてこの事務所では調査員の真似事をしているのだった。
「ところでミエルよ。お前は未成年だよな。なのに夜の店でヘルプなんざやってる。しかしこれまでお咎めはあったか?」
この男がこうして警察権力を盾にしたような言い回しをするときはいつも決まって無理難題を持って来る。ミエルは毎度の嫌味に辟易しながらもおとなしくご機嫌を伺うのだった。
「い、いえ、いつもお手数をおかけしてます」
「よ――し、いい子だ。それじゃあ早速本題に入るか」
相庵警部は自分が座るソファーの向かいを指さす。ミエルは小さなため息とともに警部と差し向かいになった。
警部は何枚かの写真を並べて事件のあらましを説明した。
場末の飲食店街にあるメイド喫茶を出てすぐに客が車にはねられた。被害者の名前は明日葉晃、妹と二人暮らしのサラリーマン、不幸なことに彼は即死だったが、しかしこれがただの人身事故とは思えない。そこで警部は部下を連れて件のメイド喫茶を訪ねるも、店に不審な点はなく早々に引き上げざるを得なかった。
「確かにこりゃ単なる人身事故だ、それだけのことだ。だがな、俺は引っかかるもんを感じるんだ。被害者のおぼつかない足取り、それにハーブティー、もうこれだけでな、ビビッと来ちまうんだよ」
店の名はルナティック・イン、メイドが紅茶を振る舞う店で、ここ最近は特に人気で常に予約でいっぱいとのことだった。
「小川の野郎、『月のお宿なんて雰囲気ありますね』なんて言ってやがったが、月は月でもルナってのにはよくない意味があるんだ。ミエル、お前は現役の高校生だ、ルナティックの意味は知ってるよな」
「ええ、確か狂気のとかそんな感じだったと思います」
「その通り。それでだ、その『狂人の館』に行ってみたわけだ」
「そんな、狂人の、だなんて……」
「ま、結果はさっき話した通り、けんもほろろ、さ。なんたって人気店だもんな、向こうさんも強気だ、とりあえず入店はできたがそこまでだったよ」
話の区切りで警部はお茶を一口、するとデスクに座っていたママも含み笑いを浮かべながらこちらにやって来た。
「そこでミエルちゃんの出番ってわけ」
「ボクにどうしろって言うんですか、警部さんだってダメだったのに」
すると相庵警部はジャケットのポケットから一枚の紙片を取り出してそれをテーブルに置いた。それはメイド募集のチラシだった。それを見たママはやんわりと、しかし異論も反論も認めないオーラとともにミエルに命じる。
「そういうこと。それじゃあとはこっちでいろいろ準備しておくからよろしくね。大丈夫、荒事ってわけじゃないし潜入して証拠を見つけるだけの簡単なお仕事よ」
「頼んだぜ、ミエル少年」
こうしてミエルはまたもや男の娘、それもメイドに扮しての潜入調査を命じられたのだった。