第28話 若松海斗は失敗した
頬に打ち付ける冷たい水が彼女を眠りから現実に引き戻した。呼吸する度に胸に軽い痛みを感じる。眉月こと悠然は軽い咳払いをすると不快な胸のつかえとともに唾をその場に吐き捨てた。
降り続く水にさらされながら周囲を見渡すと倉庫の床は一面の水たまりとなっていた。それに鼻を突く瘴気の如き焦げ臭さ、頭の回転が速い彼女はすぐにここで何が起きたかを察した。
スパイの新月を尋問している最中に突然乱入してきた有明、彼女が手にしたスタンガンでやられたのだ、不覚にも二発も喰らって。そしてこの火元は有明が蹴り飛ばしたバーナーだろう、それが炎上、筋書きはこんなところだろう。
しかしなによりまずは降りしきるこの水をなんとかしなくてはならない。悠然は消火弁が解放されたままになっているのを見つけると足元に注意しながら駆け寄ってすぐさまレバーを回した。
放水が止んで静まり返った倉庫を再び見渡すと、山と積まれた段ボール箱は全てが水に濡れていた。
「アイヤー、これは大損害ね」
悠然は火種のくすぶりがないことを確認すると箱の隙間に転がる青い缶を見つけて拾い上げた。これこそが失火の原因、彼女がつまらなそうにそれを放り投げると水音と金属音が倉庫の中にエコーして響き渡る。その音に少しばかりのイラつきを覚えながら悠然は倉庫の奥に用意された更衣スペースに向かった。
衝立だけで仕切られたそこには数台の衣裳ロッカーが並んでいる。彼女はそのひとつを開けると作業用つなぎが掛けられたハンガーを取り出した。
「幸運的、これは濡れてない」
悠然はずぶ濡れのメイド服を脱ぎ捨てる。スリムな曲線を描く美しい肢体は磁器のように白く滑らかだったが、それでもミエルを手玉にとれるくらいには鍛え上げられていた。彼女は濡れた衣服からつなぎに着替えると、靴もそれに合わせて安全靴に履き替える。最後に髪を掴んで引っ張るとお団子ヘアに代わって黒髪のショートボブヘアが現れた。彼女の髪はウィッグだったのだ。
「眉月はこれでお終い、已經不需要了」
そう言ってウィッグもロッカーの中に投げ捨てると、今度は別のロッカーを開けて濡れていない作業着をひと抱え見繕った。
今、悠然が立つ足元ではキャミソールとトランクスだけの月夜野と望月が未だ寝息を立てていた。彼女はすっかり冷たくなった二人の上に手にした衣類を適当にかぶせてやった。
「最後のお別れね、再見了」
悠然はひとりそうつぶやくと水浸しの倉庫を後にした、二度と振り返ることなく。
深夜の風は思いのほか冷たかった。悠然は寒空の中でこれからの策を考える。確保していた在庫が使いものにならなくなった。この騒ぎで倉庫に調査が入ることも必至、そう、若松海斗は失敗したのだ。彼女はそれを組織に報告してしかるべき手を打たねばならない。何はさておきまずは彼を追い詰めるのだ、彼自身に責任を負わせるために。
悠然は静まり返った深夜の住宅地をひとり職安通りを目指して歩いた。すると背後からヘッドライトの光が彼女を照らした。目の前の舗道に自分自身の長い影が映る。振り返ると黒いミニバンがハイブリッドのモーター音だけを鳴らしながら近づいて来た。
目を細めてフロントのナンバーを確認する。仲間の車だ。車が悠然の前で停まるとすぐに長身の若者が助手席から降りて来て彼女に駆け寄った。
「大姐、無事でしたか。迎えに来ました」
「小王か。どうした?」
「倉庫でスプリンクラーが稼働したので様子を見に来たら大姐がいました」
「通報が入ったのか?」
「いえ、通知を傍受したのです。すぐに消防もやってきます。早くここから去りましょう」
青年は悠然を後部座席に案内すると再び助手席に乗り込んで車を出すように命じる。黒いミニバンは深夜の住宅街を抜けると職安通りを越えて煌びやかな区役所通りを南に向かった。
「小王、店に寄って。ワカマツがいるかも知れない。ダメになった在庫の代金は払ってもらうね」
「明白了、でもヤツはもう逃げてるかも知れないですよ」
「そのときは連盟にケツを持ってもらうだけ。ウチらとあいつとは商売だけの関係、仲間なんかではないね」
ルナティック・インでのシノギはもう続けられないことは明白だった。明日にはトランクと呼んでいるあの倉庫に警察も介入してくるだろう。店のキャッシュフローは待宵こと美緒が一手に引き受けている、客観的に見れば主犯はあの二人だ。こちらは失った在庫と利益を彼らに補償させるだけでいい。あとはどうなろうと知ったことではない。それが悠然の組織と連盟なる組織における共通の認識だった。
車は靖国通りを左折して明治通りをやり過ごす。そのすぐ先の御苑大通りを超えたら左に見える路地を左折する。すると寂れた飲食店街に白いミニバンが停まっているのが見えた。
「大姐、ワカマツの車です」
「やはり来ていたか。ちょうどいい、手間が省けたね。小王、ちょっと手伝ってもらうよ」
車は海斗の白いミニバンの前に停まると、ゆっくりとバックして前を塞くように停車した。
「さあ、夜が明ける前に片付けるね」
そう言いながら悠然と部下の王は躊躇することなくルナティック・インの扉を開けた。