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第13話 明日葉晶子の家庭の事情

 大きめにカットされた豚肉と大雑把に切った野菜たちを圧力鍋に放り込む。あとはコンソメスープですべてが柔らかくなるまで煮込むだけだ。

 火が通るのを待ちながら賽の目に切ったトマトに卵を落としたココットをオーブンで焼く。そしてサラダはカットしたアボカドにフレンチドレッシングをかけたもの、バスケットにはスライスしたバケットをたっぷりと。かなりボリュームたっぷりのこれが今夜のメニューだった。


 明日葉あしたば晶子しょうこは高校二年生、東京は東中野のマンションで兄と二人暮らしだ。その兄に早期退職の声がかかったは今からちょうど三か月前のことだった。勤続年数にそぐわぬ額の退職金を提示されはしたものの、その実はリストラだ。しかしそれを悪く考えるのではなく好機と考えてこれからの前途を祝おうというのが兄妹きょうだい二人で決めたことだった。


晶子しょうこ、お前はしっかり勉強して大学に行くんだ。金なら心配いらないぞ、毎月の養育費と俺の給料からも積み立てしてるんだ、大丈夫さ」


 ポトフは晶子の得意料理、そのスープに薄切りのバケットを浸しながら兄は笑みを浮かべながらそう言った。



 八歳年上の兄であるあきらが高校を卒業するのを待って彼らの両親が離婚した。周囲からは平和に見える家庭だったが実態は典型的な仮面夫婦、それが父親の不倫発覚とともに崩壊した。

 その後は親権やら慰謝料やらと弁護士を介してのドロドロとした交渉が続くが、その過程で母親の不貞行為までもがあぶりだされてしまう。そんな二人に愛想をつかしたあきらは妹の晶子(しょうこ)を自分が引き取ると主張する。そして多感な時期に両親のダブル不倫という現実を見た彼女が兄に同意するのは至極当然の流れだった。

 一家離散の顛末は、十八歳を迎える晃には養育費相当の一時金が、晶子には父母の双方から毎月養育費が支払われることに決まった。慣れ親しんだ家も処分されることが決まると同じタイミングで晃は部屋を借りて晶子と二人で独立する。そしてその後に続く不毛な訴訟合戦に兄妹きょうだいがかかわることはなかった。

 こうして新生活を迎えた晃は進学をあきらめて就職する。そして自分が得た一時金と晶子の養育費には手を付けることなく妹の将来のためにそれらを蓄えていたのだった。


 そんな兄、あきらが死んだ。

 交通事故によるあっけない最期、あまりに突然のことに晶子しょうこにはそれが現実とは思えなかった。その結果、悲しみよりも疑問と疑念が彼女の心を占めることになる。

 リストラされた後の兄はすっかり人が変わってしまっていた。いや、最初は彼なりの前向きさで求職活動に励んでいたのだ。しかし度重なる不採用にその心も徐々に荒んでいった。

 やがて兄は家でぼんやりと過ごすことが多くなっていく。時折出かけることはあっても着替えすらせず部屋着のまま、そして帰宅してからもただただ寝転がっているばかりだった。

 こんなのは兄ではない、なんとかしなくちゃ。晶子しょうこは真相を確かめようと奮起する。出かけた先でいったい何をしているのだろうか、まずは追跡してみよう。兄の後を追って東中野駅から地下鉄に乗り新宿駅で別の路線に乗り換える。そしてたどり着いた先は新宿三丁目駅、改札を出て数分も歩いたところに目的の場所はあった。


Lunatic(ルナティック) INN(イン)


 古ぼけた木製看板に書かれた店の名からはそれがどんな店であるか高校生の晶子しょうこには想像もつかなかったが、アーチウインドウ越しに見える薄暗い店内を行き交う店員の姿でそこがメイド喫茶であることはすぐに理解できた。

 兄はあの中にいる、今すぐ乗り込んで確かめたい。しかし今の自分には何の策もなければ準備もできていないのだ。晶子は仕方なく兄が店から出てくるのを待つことにした。


 そろそろ日が傾き始めた頃、店の中から微かな音色が聞こえて来た。


「あれはピアノじゃない……えっと、そうだ、チェンバロだ。前に音楽の授業で聴かされたっけ」


 そんなことを考えながら晶子しょうこは建物の傍ら、最も音がよく聞こえる位置に立って兄を待った。優雅な音色が途絶えてからさらに小一時間が経った頃、メイドが店の扉を開けると一人また一人と客たちが舗道に降り立つ。そして数人が店を出た一番最後に兄の姿があった。

 しかし今ここで声をかけるのはまずい、待ち伏せしていたのがバレバレだ。とにかく駅に着くまで様子を見よう。そこでならいくらでも言い訳ができる。晶子は兄に気取けどられないよう距離を保ちつつ彼を追跡した。


「お兄ちゃん!」


 駅へと続く地下道の入口の前で晶子しょうこは兄に声をかけた。突然の呼びかけに振り向いた彼の顔に生気はまるで感じられなかったがワンテンポ遅れたタイミングでスイッチが入ったのだろう、その目に光が戻って驚きの顔を見せた。


晶子しょうこ、何をやってるんだこんなところで。それにこんな時間に私服なんて……学校は、学校はどうしたんだ?」


 晶子しょうこの私服姿、デニムのショートパンツにTシャツとスウェット地のパーカー、足元は黒のスニーカーというその出で立ちを目にした兄、あきらの開口一番がそれだった。しかし彼女はその問いに答えることなく兄を詰問した。


「お兄ちゃんこそ、どうしちゃったの。あたし知ってるんだよ、お兄ちゃんがヘンなメイド喫茶に行ってること。今だってそうでしょう?」

「……」


 答えることなく無言の兄に晶子しょうこはなおも問い続ける。


「就職活動はどうしたのよ! いっつも、いっつも家でぼんやりしてるし、そんなのお兄ちゃんじゃないし。まさかあの店のメイドさんに……」

「うるさい、黙れ!」


 晶子しょうこの言葉が終わるのを待たずに兄は妹を一喝する。そして「寄るところがある」と言い残したまま夕暮れの新宿に消えていった。


 晶子が兄と交わした、これが最期の会話だった。その晩、兄、明日葉あしたばあきらは帰宅することなく、そして翌日には帰らぬ人となるのだった。


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