第10話 スパイは二人いた
正面の扉を緊張の面持ちで見つめる望月の背後を眉月が足音に注意しながら廊下の奥へと歩いていく。これからあの隠し部屋で行われる「おもてなし」なるものの正体が気になるミエルだったが、立ちはだかる望月のおかげでそれを探る術はなかった。
一方バックヤードでは待宵が狼狽の色を浮かべながら液晶モニターを見つめていた。
「どうしたね、待宵」
「眉月、これを見て」
画面には以前にも見たことがあるマップが表示されていた。そこでは今回も発信機を示すオレンジ色のマーカーが点滅している。
「有明はさっき望月に言われてチラシ配りに出ているでしょ。だから今ここにいる新人は新月だけ」
「対、対、あいつはさっきからカウンターを拭いてるよ」
「なるほどね。これで解ったわ、スパイは新月よ」
「ならば有明はどうね? あいつも怪しいよ」
「うん、それなんだけど、二人に関連性はないと思う。たまたま偶然が重なったんだと私は思うの」
「それはよろしくないね。今日は『おもてなし』の日、ルームにはお客がいるね」
「そうよ。月夜野の演奏が始まったってことはそろそろクールダウン、出てきたお客とあの子が鉢合わせなんて冗談じゃないわ。眉月、どうする?」
焦る待宵の話を腕組みしながら聞いていた眉月が「ウチに考えがある」と言って部屋を出ようとすると、待宵は一旦それを引き留めた。
「どうするつもり?」
「ウチが新月を見張る。これから上階の倉庫に連れて行く。そこで適当な仕事をさせて時間をつぶすよ。お客がみんな帰るまでね」
「大丈夫なの?」
「不用担心、有明のことがあってからこっち、香料は必要な分しか置かないようにしてるからね。今日の分は既に使い切ったし、残っているのはただのお茶とハーブだけ」
「わかったわ。ならば私は有明をなんとかする。こっちもこっちでお客とバッティングしないよう時間を稼がなきゃだし」
「明白了、そっちは待宵にまかせたよ」
「とりあえず三丁目の駅前で様子を見るわ。そこで有明がチラシを配り終えるたところを捕まえるの。あとは文具の補充だとか理由をつけて伊勢丹とか世界堂あたりを連れ回して時間をつぶして来る」
バックヤードから出て来た二人は望月に耳打ちするとすぐに待宵が店を出て行った。続いて眉月がミエルに声をかける。
「新月、これからあなたにお茶のこと教えます。ウチについて来て」
命令と言わんばかりのその口調にミエルは作業の手を止めて望月の顔色をうかがう。すると望月は相変わらず緊張した面持ちで眉月に従えと言わんばかりにミエルを見ながら小さく頷いた。
月夜野が奏でる音色を耳にしながらミエルは眉月の後に付く。とにかく隠し部屋が気になるミエルは後ろ髪を引かれる思いだったが今は命令に従うしかなかった。
二階の廊下には階段を挟んで二つのドアがある。右にあるドアはスタッフのためのロッカールームで、左側のそれは在庫品を置いた倉庫だと聞かされていた。そして二人はその倉庫なる部屋の前に立っていた。
眉月がエプロンのポケットから鍵を出してドアを開ける。室内には数台のスチール棚があってそれぞれにダンボール箱が収められていた。眉月はそこから適当なひと箱を床に下ろすと箱を開ける。その中身は缶に詰められた紅茶の茶葉だった。そして缶のひとつを手にすると前置きすらせずにいきなり説明を始めた。
「この紅茶はキーマンね、中国原産の紅茶。ウチはこれをベースにしていろんなハーブをブレンドする。でもレシピを教えるのはまだ先のことね」
それから眉月はまた別の箱を開けては次々とハーブを手にしてその効能を説明した。もちろん新月の理解度を確かめる素振りも見せていたが、しかしその実はルームの客が帰るまでの時間稼ぎに過ぎなかった。
長い講義がひと区切りしたとき、すでに月夜野の演奏も終わっていた。しかしそれでもなお眉月の講釈が続く。そろそろミエルの頭が飽和状態にならんとした頃、ついに下階から数人のものと思われる靴音が聞こえて来た。
「新月、聞いてますか?」
「は、はい」
レクチャーの内容などそっちのけで聞き耳を立てているミエルの思惑を見透かしたように眉月の突っ込みが入る。
「そろそろ疲れたか。ならば今日はここまで、辛苦了。さあ片付けるね。新月はそっちの箱を棚に載せてください」
こうして倉庫の片付けが終わったときには下階もすっかり静まり返っていた。そして眉月とともにミエルが店に下りて来たときには月夜野と望月が事後の一服、寄り添うようにして紅茶を飲んでいた。
「ただいま戻りました」
時を同じくして文具の入った買いもの袋を提げた待宵も戻って来た。脇目も振らずにバックヤードへと急ぐ彼女の後に有明も続く。彼女はチラシを配り終えて空になった籐のカゴを望月に手渡すと「失礼します」の言葉を残して上階のロッカールームに引っ込んでしまった。
程なくして上階から下りてきた有明だったが、彼女の終始無言で思い詰めた様子にミエルはまたもや不穏な何かを感じるのだった。