旅立ちの日の朝
そして、遂にその日がやってくる。
クアムートの草原には剣士九千、戦闘工兵一万二千など二万五千近い遠征部隊が勢ぞろいし、その周辺に数倍の数となる彼らの家族が集まる。
このような出征する兵士たちを家族が見送る光景は、実を言えば魔族の世界ではあまり見かけないものである。
「……よかったのですか?」
一時の別れを惜しむ兵士と家族の様子を眺めるグワラニーにかけたバイアの短い言葉には、変な里心が生まれ、士気に影響しないかという意味が含まれている。
そして、それはその心配から魔族軍のなかではこれまでこのようなことをおこなわれてこなかったという経緯を知っているからであり、当然ながらその相手もそれは知っている。
だが、それを知りながらそれをおこなう理由をその相手は知っている。
いや。
おこなわなければならない理由を知っていると言ったほうが正しいだろう。
その男が口を開く。
「もちろん万全の準備はした。だが、それでも我々がこれからおこなうのは殺し合い。我々だけが一方的に相手を殺すわけではない」
「マンジュークでの戦いの間だけのつもりで出かけていって、二度と戻ってこない者も出ることを想定しなければならない」
そうなっても悔いがないようにする。
男はその言葉を飲み込み、それに応じるように相手の男が言葉を口にする。
「三日間の休暇を兵たちに与えたのもそういうことなのですね」
「そうなってしまえば、何をしようが心残りがないはずはないのだが、できる範囲のことはやってやるべきだろう。まあ、すべてが私の自己満足にはなるだけなのだが……」
少しだけ感傷的になったふたりだったが、そこに老人と幼女という微妙な組み合わせの別のふたりが姿を現わすと、すぐにいつもの冷静そのものという表情に戻る。
「ここに来たということは、準備はできたということですか?魔術師長。それから副魔術師長」
そう。
グワラニーの言葉のとおり、やってきたのは彼の部隊の魔術師長アンガス・コルペリーアと、彼の孫娘でもあるデルフィンである。
かわいらしい笑顔で挨拶をする少女の隣に立つ仏頂面の老人が表情に相応しい言葉を吐き出す。
「一応確認しておくが、本当に一度に全員の転移をしてもいいのだな」
「もちろんです」
当然のように返ってくるその言葉にとりあえず頷いた老人の問いはさらに続く。
「では、ついでに聞いておく。当初の予定では司令官業務を引き継ぐ本隊。それから下準備をする戦闘工兵だけを先に送り込み、準備が整ったところで残りをマンジュークに転移させるということになっていた。それを変更し、二万人以上の部隊をまとめて山岳地帯へ転移させる気になったのはなぜだ?さすがに手間を惜しんでということはあるまい。ということは、それなりの意味があるということだろう。いったいそれは何だ?」
老人の言葉は正しい。
やることもない兵たちを大量に送り込んで無駄に食料を消費するよりも、クアムートで訓練していたほうが百倍よいと説明していたのが、計画の変更を決めた当の本人だったのだから。
老人の問いに対してその男が口を開く。
「まあ、諸々のことを考えれば、変更しないほうが圧倒的に利点はあるのは変わらないのですが、私が敢えてそれをおこなう理由。それは……」
「現在マンジュークに駐屯している部隊に、我々の力を見せつけるためです」
つまり力の誇示。
間接的にはガスリンに対する示威行動。
「なるほど。承知した」
言外で語られたそれは十分に納得できる理由であったため老人はその短い言葉でこの話を打ち切るが、グワラニーは続きとなるものを口にする。
「それに我々の転移先になるのは現在他の部隊が駐屯している山岳地帯にある狭い平坦地ではありません」
「そういえば、そうだったな。山岳地帯の麓の草原。大部隊を転移させるには都合のいい場所だ。だが、それと同時に何もない場所でもある」
「ですが、広くということは、使い勝手の良い場所ということを示します。ここにベースキャンプを……」
「ベースキャンプ?」
「……現場から離れた拠点という意味のブリターニャ語です。まあ、簡単に言えば補給基地です」
思わず出てしまったその言葉を突っ込まれ、何事もなく説明したものの、グワラニーは心の内で大汗を掻いていた。
そして、さらに追及を受けないように素早く話を進める。
「ここを拠点に戦闘工兵は仕事場となる『バルクマン・コーナー』に向かい、その日の作業終了後、こちらに戻る。ガスリンの子飼いどもと無用な諍いをしなくて済む」
「そして、他の部隊は現場の空気を感じながら訓練ができるわけです」
「だが、そのベースキャンプとやらから『バルクマン・コーナー』までは相当離れているだろう」
「そこは魔術師の皆さんの出番です」
「……まあ、そうなるだろうな」
魔術師がおこなう転移先を覚え込む慣熟訓練を利用しながら戦闘工兵の移動もおこなうということ。
これならこの時点で現在駐留している魔族軍の拠点近くに転移できる魔術師が少なくても問題がない。
そこで切り上げた老人は視線を動かす。
「それにしてもあれを転移させるとは考えたな……」
老人が苦笑いしながら眺めた先にあるもの。
木製の仮設住居。
すでに組み立てられた状態にある。
「さすがに快適というわけにはいきませんが、それでも廃坑で横になっている現守備隊の兵士よりはいいでしょう」
「それに我々には常においしい食事が用意される」
「……すべて承知した」
「では、準備でき次第転移作業を始める」