フィーネ
フランベーニュ王国南西部。
森林の中に佇むと表現するには豪華すぎる広大な敷地に建つその巨大な屋敷はそこにあった。
「おはようございます。フィーネ様」
家族と共に朝食をとるため自室から食堂に向かう金色の長い髪を靡かせた若い女性と廊下で顔を合わせたこの周辺一帯を領有する一族に長年仕える執事長が丁寧な挨拶をおこなう。
「おはよう。エリアス」
この一族で一番気さくなフィーネという名のその女性が明るい声でそれに応える。
フィーネ。
もちろん彼女は勇者たちと旅をしているあの女性と同一人物である。
つけ加えて説明すれば、フィーネ・デ・フィラリオが彼女のフルネームである。
ちなみに、この世界では名前、名字の順に表記されるので、勇者たちが呼ぶフィーネとは彼女の名前の部分となる。
それから、もうひとつ。
この世界では男女を問わず生まれた順がその最初の文字でわかるようにつけられるのが一般的である。
フィーネでいえば、最初の文字は「F」なので、フィラリオ家現当主の六番目の子となり、実際に彼女には兄が四人とひとりの姉がいる。
もっとも、この法則は法的に強制されたものではないため、一族にとって不吉な文字は飛ばして命名する、理由はさまざまであるものの特定の文字から始まる名前だけをつけるなど、多くの例外が存在する。
さらに仕事をするうえで便利であると本名とは別の呼び名を使用する者も多い。
そのため名前だけですべてを判断するのは必ずしも正しいとは言えないことはここで明記しておこう。
さて、せっかくこの世界の理のひとつを紹介したのだ。
ついでに勇者一行の残りのメンバーの名もみておこう。
まずはアリスト。
彼の正式な名はアリスト・ブリターニャ。
その名の通り、正真正銘のブリターニャ王カーセル・ブリターニャの第一子かつ第一王子である。
さらに彼は現王の正妃の子であり、能力はもちろん血筋的にも完璧な後継者といえる。
次はマロとブランの兄弟剣士。
その方式に照らし合わせれば、兄弟が入れ替わりそうなものだが、この逆転現象には当然理由がある。
実をいえば、マロのフルネームはアリスト・マロリージャ。
つまり、名前はアリストとなる。
だが、いうまでもなくこのグループにはアリストの名を持つ有名なアリスト・ブリターニャがおり、この小さなパーティにアリストと名乗る者がふたりいるのは便宜的にあまりよろしくない。
一国の王子が実名のまま冒険者チームに加わるとさまざまな不都合が予想されることもあり、すぐさま自らが改名すると申し出たアリスト・ブリターニャの言葉を「そのほうが面白い」という謎のひとことで謝絶したアリスト・マロリージャが即興的に思いついたのが名字のマロリージャを軽く捻ったマロという名だった。
もちろんその時はとりあえずという気持ちしかなく、さらに良い名を思いついたらすぐに改名するつもりであった。
だが、使っているうちに愛着が沸いたので現在も使い続けている。
これがマロ本人による理由となる。
だが……。
それはマロが照れ隠しに言っていることであり、本当の理由は別にあるというもうひとつの説が存在する。
「かわいいじゃないの。マロって。私はいいと思うけど」
そう。
ある女性からのそのひとこと。
それマロが改名しない理由のすべてである。
もちろんマロ本人はその女性が出発点となるその説を完全否定するものの、仲間全員が女性の側に立って押し切り、この件については公式には決着がついている。
もちろん本人には甚だ不本意な形で。
結局、真の理由はどちらなのかはわからないままなのだが、改名はおこなわれないまま現在に至っている。
そのことだけが判明している真実である。
そして、最後は勇者であるファーブなのだが、彼もマロと同様本名とは別の名を呼び名として使っている。
五人の姉を持つ彼の本当の名はファーナ・ブラウナであり、ファーブという名は、アリスト、兄弟剣士のふたりとともに彼が魔族の王を討伐する旅に出るにあたり、自らの名を盛大に省略しつくり上げたものである。
しかし、この名にはマロ以上に誇れぬ裏事情があった。
以前酔いつぶれる寸前の本人がうっかり口を滑らせパーティの仲間に明かしたところによれば、本来は冒険者らしいもっと響きがよく強く聞こえる名を名乗るつもりでいた。
だが、そんなことを躾に厳しい母親が許すはずがない。
「あなたは私たちがつけた名を名乗れぬような後ろめたいことを始めるのですか」
それを知れば母親なら間違いなくそう言うだろう。
そう考えた彼が、考えるのには不向きな頭で長い時間悩んだ末に、ようやくひねり出したのが、母親にバレた時に言いのがれができるように聞きようによってはファーナ・ブラウナとなるファーブだった。
名前にかかわる勇者たちの恥ずかしい黒歴史まで披露したところでそろそろ話を本筋に戻すことにしよう。
「フィーネよ。また出かけるのか」
「もちろんですとも」
食事が終盤に差し掛かったところでようやく切り出した自らの問いかけに娘がそう即答すると、父親アルベール・デ・フィラリオの表情がみるみるうちに険しいものとなる。
実を言えば、彼の娘フィーネは外見だけは非常に良いためそれに騙され寄ってくる男は多く、必然的に縁談話を持ち込まれることも多かった。
だが、今回持ち込まれたものはその中でも別格といえるものだった。
この国の第三王子の正妃。
もちろん第三王子であるから、その上にふたりの兄がおり、さらに第一王子はすでに王太子に任じられているので彼が玉座に座る可能性は低いのだが、それでも王族の一員であることは変わりない。
名門ではあるものの、やや落ち目のフィラリオ家、そして自らに箔をつけたい父親はぜひともこの縁談をまとめたい。
そのためにはまず放浪癖のあるこの次女を屋敷に留め置かなければならない。
だが、これがなかなかの難題だった。
性格をはじめとして様々な問題を抱えるその娘だったが、そのなかでも一番に厄介なのは彼女が魔法を使えることだった。
つまり、転移魔法を使いふらりと出かける。
魔法を使えない家中の者は呆然とそれを見送るだけなのだ。
さらにそこに驚くべき武芸の才が加わる。
つまり、力ずくで抑え込むことは不可能なのだ。
そうなれば、あとは父親の威厳だけが頼りとなる。
焦りからか父親の言葉につい力が入り本音が漏れる。
「半分勘当しているとはいえ、おまえもこの国の十大貴族のひとつであるフィラリオ侯爵家に籍を置く者。そして、何よりも清き身であるべき未婚の者。同行しているという下賤の者たちといかがわしい関係になっていることはないだろうな」
……あらあら、貴族の当主様とも思えぬ随分直接的な表現ですね。
……しかも、こんな朝から。
父親の言葉を心の中で盛大に嘲笑した娘が口を開く。
「いかがわしい関係?それはいったいどのようなものなのか私にはさっぱりわかりません。具体的にそれはどういうものなのかを教えていただけますか?」
もちろんフィーネは父親が何を言いたいのかは十分に理解している。
だが、あえて何も知らない乙女のように問うたのはもちろん父親に対する嫌がらせ以外の何物でもない。
「それは……」
当然ながら朝食の場でそのようなことを言えるはずも口ごもる父親を黒い笑みを浮かべながら眺める娘は心の中で呟く。
……一応私の好みを答えておけば、私は年下の知的でかわいい子なのですが、年下というだけで戦闘以外にはなんの取柄もない三人など私の好みではありません。まあ、アリストに関しては田舎貴族の娘である私ではつり合いが取れないくらいの身分ですし、頭も切れますが、なにしろ年上。しかも、十歳近くも。当然失格です。
……そもそも私の仲間のことを心配する前に妹を品定めするような嫌らしい目で眺める自分の息子たちをあなたはどうにかすべきではないのですか。
「……フィーネ。実を言うと……」
完全に手詰まりになって渋い表情を見せる父親に代わり口を開いたのは母親アンジェリークだった。
「第三王子ダニエル殿下の代理人の方からフィーネを妃にしたい旨の話が届いているのです。しかも、正妃。これはあなたにとっても悪い話ではないでしょう」
……なるほど。そういうことでしたか。
フィーネはようやく父親が何を焦っていたのかを理解した。
……久々にやってきた王族との結びつき。是が非でもその縁談をものにしたいというわけですね。ですが……。
勇者たちと旅に出てからはほとんどの時間をこの館とは違う場所で過ごすフィーネだったが、世情に疎いというわけではない。
もちろんその第三王子のことも噂の範囲ではあるが知っている。
……馬鹿が揃った王子の中でも最高の馬鹿と評判ではありませんか。その男は。
……血筋と顔の良さだけが取り柄という年上の男の嫁などつまらないだけでしょう。
……お断りね。
……いいえ。
フィーネの頭に閃いたのはもちろん負の要素だけで出来上がったたくらみである。
……ここでこの縁談を断っても、また次の縁談が持ち上がる。どっちみちその気はないのだから、虫よけ代わりにその縁談をしばらく放置して別の話が持ち上がらないようにしましょう。
……それに、黙っていれば、相手は気を引こうと色々貢物を持ってくるかもしれません。
……これはいい。
……破談にするのはタップリ貢がせてからでも遅くはないでしょう。
黒い笑みを浮かべたフィーネの口が開く。
「それは素晴らしい話です。ですが、私はそのダニエル様のことはあまり存じあげませんのですぐに返事を口にするわけにもいきません。その方が私に対してどの程度の好意を持っているか見極めてからの返事とさせていただきます」
「……それは会ってもよいということなのですか?」
「会いに来いという程度ならご遠慮申し上げますとだけ言っておきましょうか。ということで、まずは王子の私に対する想いはどの程度のものなのかを目に見える形で示してもらいたいとお伝えください」
言葉は着飾っているが、何を言っているのかは誰の目にもあきらかだった。
父親は苦悶の表情を浮かべて天を仰ぎ、母親は夫のその顔に落胆し、話を進めるため仕方なく娘に話しかける。
「さすがにそれは……」
「ダメなのなら、話はそこで終わりです。さて、食事も済んだことですし、そろそろ行きます」
「ねえ、フィーネ。もうすぐ勇者様が魔族の王を倒し、魔族もすぐに滅びると聞いたわよ。あなたがどこでどのような活躍をしているのかは知りませんが、もうあなたが出かけなくてもよいのではないですか?」
フィーネは母親の言葉を笑顔で応じる。
もちろん否と。
そして……。
「とりあえず先ほどの件は善処をお願いします。それと……」
「昨晩相談された件は、まちがいなく私の言うとおりに実行してください」
「では、行ってきます」
……そういえば言っていなかったのでしたね。私がその勇者と行動をともにしていることを。そして、その私の目から見ても、そう遠くないある日、魔族の王は勇者たちに討ち取られると思います。ですが、率直に言えば、魔族の王の討伐など私にはどうでもいいことです。
……その私にとってもっとも大事なこと。
……それは元の世界に帰る方策を見つけ出すこと。
……残念ながら今のところその手がかりは何も手に入れていません。
……ですが、一見すると中世ヨーロッパに思えるものの、よく見ればこの世界に存在する他の技術レベルからは想像できないものや、それまでの過程を一切無視して唐突に現れたオーパーツ的なものが実は多い。
……あれはほぼ間違いなく元の世界から持ち込まれたもの。
……そして、それは物や技術だけに止まらない。
……たとえば名前。そして、前触れもなく突然始まった貴族制度だってそのひとつ。
……もちろん普段何気に使っている言葉もそこに含まれます。単語こそそれらしいものですが、日本語に準じたような文法や、定冠詞のあの有名な規則はないなどおかしな点が多い。まあ、そのおかげでいまだ理解できない魔族の言葉を除けばそれほど苦労せずにどの国の言葉を使いこなせるわけですが。
……つまり、それらはどれもこれもヨーロッパの伝統に根ざしているように見えて実は底が浅い。それどころか使用方法に間違いがあるものも多いです。
……さらに本物のヨーロッパ人なら使わないような言葉や言い回し、それにことわざが多数存在する。
……そのことから推測すれば、おそらくそれを持ち込んでいるのはヨーロッパとは縁のない者。
……さらにいえば、日本人以外は絶対に使わない和製英語や外国から伝来したものの日本独特の意味を持たせた言葉やことわざ、習慣までこの世界には存在している。
……極め付きは千の次に万に該当する単位がある数字の数え方はヨーロッパにはないはず。
……このことから、かなり前のこの世界にやってきて多くの知識をこの世界の人間に伝えたのは日本人である可能性は十分にあるということです。
……そういうことなら、単語はフランス語やイタリア語でも、文法は日本語を流用しているということも納得できます。
……そして、もうひとつ。不思議なことに遠い昔に彼らによって持ち込まれたはずのそれらの知識や技術は皆私にとってなじみのあるもの。それはここにやってきた日本人は転移した年代に関係なく元の世界では私と同時代に生きていた者である可能性が高いということを示しています。
……つまり、この世界にやってきた彼か彼女かはわかりませんが、その人物に会うことさえできれば、話は意外に早く合うはず。そして、彼らだって私と同じ思いを持っているはず。
……つまり、情報共有ができる。
……そういうことで、今の私が第一にやるべきこと。
……いうまでもなく、それは一刻も早くこの世界で現存する日本からの来訪者を見つけること。
……そのために私は外の世界を歩かなければならないのです。
……ありがたいことに、私を含めてパーティメンバーは強い。安心して行動できるうえに多くの場所へ行き、そこで多くの人と接触する。
……私の目的を果たすにはまさに最適。
……だから、何があっても彼らと旅することをやめるわけにはいかないのです。
……もっとも……。
……元の世界に戻れたとして、私がこちらで過ごした二十三年間が元の世界でどのようにカウントされるのかはわからないのですが。
……浦島太郎。いいえ。浦島花子になるようなことだけは避けたいものです。




