魔女と王女
「兄上にひとつ尋ねてもよろしいでしょうか?」
王宮に関わる者であれば知らないはずがないその顔によって当然のように王城からふたりだけでこっそりと抜け出すことに失敗し、護衛を連れるという条件でようやく門番たちから城門を出て散策しながら目的地へ行く許可が下りたアリスト・ブリターニャとホリー・ブリターニャという王族の兄妹。
ということで始まったその散策。
王族の女性なのだから当然ともいえるのだが、こうして王都の繁華街を歩くのは初めてだった妹はあまりの物珍しさにキョロキョロと通りに並ぶ店を眺めていたのだが、しばらくいったところで隣を歩く兄にその言葉をかけ、相手が小さく頷くのを確認すると本題に関わる言葉を口にする。
「その店の名である『ハルワアケボノ』とはどのような意味があるのですか?」
「それですか……」
普段ならあり得ないくらいに歯切れの悪い兄を妹は不思議そうに眺める。
「もしかして意味がないということなのですか?」
「オーナー曰く、意味はあるそうです。ただし、それはこの世界のどこでも使われていない言葉でもあります」
「使われていない言葉?」
「魔族の言葉でなければそうなります。可能性が高いのは彼女の造語という選択肢なのですが、彼女の家に伝わる秘密の呪文なのかもしれません」
呪文。
もちろん文字である以上それは誰でも読みことはできる。
だが、それを唱えて効果が発動するのは特別な者だけである。
そして、その呪文をあえて店名に使用するということは……。
「その方も魔術師なのですか?」
「そうです。しかも、大変優秀な」
「……なるほど」
ホリーが口にした言葉は短く単純なものであったが、その心中がそれと同じくらいに単純なものかといえば違う。
だが、そのような感情に関しては特別に鈍い感性しか持ち合わせていない彼女の兄は妹の色々なものが混ざり合った複雑な心情などわかるはずはない。
そのすべてをスルーし、すぐに次の言葉を口にしようとしたのだが、それを遮ったのはふたりを取り囲むようにして歩く護衛隊の隊長オレリアン・リスカヒルだった。
「殿下。少々揉め事が起こっているようです」
もちろん目の前に起こっていることなので、アリストもホリーも認識している。
リスカヒルの言葉を聞いたふたりが少しだけ表情を変えたのは、そのトラブルの当事者のひとりを知っていたから。
もっとも、アリストは魔術師だけが持つ能力によってはるか遠くからもう一方の存在も感じてはいたのだが。
アリストは妹に顔を向けて口を開く。
「いったい何をやっているのだろうね。アイゼイヤは」
「そうですね……」
そして、兄にそう問われた妹は言いかけた言葉を一度止めて好意的なものが一切含まれない表情で確認するようにその当事者たちを眺め直し、表情と同じくらい好意的ではない表現でそれに答える。
「……おおかたあの女性を口説いて失敗し、逆上しているのではないでしょうか。なにしろ相手の女性は噂どおりの容姿ですから」
その言葉と表情が示すとおり、ホリーが同じ歳の腹違いの弟でもあるその当事者アイゼイヤを嫌っていたのは事実である。
だが、口にしたその言葉がホリーの偏見に満ちたものなのかと言えばそうではない。
実兄となるファーガスと違い、玉座にはまったく興味を示さないアイゼイヤだったのだが、その代わりのように兄の数十倍執着していたものがあった。
女性である。
兄ファーガスがため息交じりに口にした言葉を借りれば、その様子は「女と見れば見境なく声をかけるまるで盛りがついた猫」となる。
たしかに彼の弟は既婚未婚関係なく声をかけていたのだが、「銀髪で胸が大きい美しい」女性だけをターゲットにしていたのだから、兄の言葉は半分だけが正しいといえるだろう。
つけ加えれば、アイゼイヤが「銀髪で胸が大きい美しい女性」をターゲットにしているのは言うまでもなく、「銀髪の魔女」に関係している。
つまり、その女性と強引に関係を持つことで、この世界でもっとも有名な女性ともいえる「銀髪の魔女」を自分のものにするという出来もしない欲望を満足させていたのだ。
そして、そのときにアイゼイヤの口から最初に出てくるものとは、彼が唯一自慢できるこの世に生まれ出たときから持つ肩書であり、その結果として当然やってくるその悪評は諸々の障壁を超えてかすかではあるものの王宮にまで届いていた。
「……まあ、どうやらそのようですね」
その噂はアリストの耳にも入っており、目の前に起こっている状況を鑑みれば、妹の言葉は事実から一ミリもはずれていない。
「それで、いかがいたしますか?殿下」
直後にアリストのもとにやってきたリスカヒルのその言葉は暗に仲裁に入るべきという提案であった。
だが、アリストが発した言葉はリスカヒルの期待と妹の予想とはまったく違うものだった。
「いや。しばらく見物させていただきましょう。私たちが出張るのは決着がついてからで十分です」
「ですが……」
その言葉に妹は驚き、兄を見やる。
「まあ、見ていればわかります」
妹から漏れ出る負のオーラを軽く受け流した彼女の兄はその謎に満ちた言葉を口にすると、口元に笑みを浮かべながら腹違いの弟をおもしろそうに眺め始める。
母親は違うとはいえ、同じ父親の血を受け継いだ弟による蛮行を放置するという兄の言葉にホリーはもちろん納得はしていない。
納得しないがとりあえずそれに従うことにしたホリーは、男と争う、いや、どちらかと言えば男をあしらうと言ったほうが正しい高飛車の言葉を続けざまに口にする銀髪の女性を眺める。
そして、装飾こそ少ないものの、その素材は一見しただけでも高価だとわかる、ただの町娘のものとは思えぬ服を身に纏うその若い女性の腰に異物があることに気づく。
細身の剣。
たしかに、この国であれだけの長さの剣を持つ女性は少ない。
ホリーたち王族だって護身用に持っているのは短刀のみ。
つまり、女性は自らの剣の腕にそれなりの自信があるということを示す。
だが、所詮女性。
ひ弱なアイゼイヤはともかく残り四人は王子の護衛なのだから当然それなりの力はある。
しかも、女性は剣を扱って戦うには不似合いなあの身なり。
さすがに数の差は埋めるのは難しいように思える。
……それなのになぜ?
思考が行き詰まり、それに比例してホリーの表情が険しくなる。
そこにあらたな言葉がやってくる。
「どうやら、あの調子では交渉決裂は避けられませんね。さて、アイゼイヤはこの後どうするのでしょうか?」
ホリーの思いとは裏腹に楽しそうにその言葉を口にした兄に妹は不機嫌さを隠さないまま言葉を返す。
「当然彼女を害するのでは?要求そのものが理不尽ではありますが、こんな大勢の前で王子と名乗っての要求を拒まれれば大いなる恥となります。『はい、そうですか』とそのまま引き下がるという思考をアイゼイヤは持ち合わせていないでしょうから」
「なるほど」
妹の言葉に頷いたアリストは少しだけ間を開けてから呟くように短い言葉をつけ加えた。
「……そういうことであればやはりあまりいい結果にはなりそうにはないですね。……もちろん彼らにとってということにはなりますが」
……できれば穏便に済ませてもらいたいものなのですが……。
……相手が王族であろうとそれはやはり無理でしょうね。
……この程度の相手に対しても諍いが始まる随分前から最高位の防御魔法を展開しているということは彼女自身もやる気満々である証拠。
……そして、わざわざあの剣を持参しているということは、最初からこうなることを予想、いや、それこそが目的であった可能性だってあります。
……まあ、どちらにしても、ことが始まればすぐに決着がつきます。
……アイゼイヤが望まぬ形で。
ブリターニャの第一王子は、これから腹違いの弟のもとにやってくる嘲笑に塗れた大いなる悲劇を想像しながら、心の中が憐れみの言葉を口にした。
もちろんその間にもその時は刻一刻と迫っていた。
実際に剣を交える前の前段階、すなわち舌戦が始まっていたのだ、
「おい。もう一度機会をやる。俺のものになることを承知しろ」
「くどいですよ。私はあなたのような下品で馬鹿な子供の相手などしている暇などないと、この前から何度も言っているでしょう」
「馬鹿な子供?ブリターニャ王国の王子であるこのアイゼイヤ・ブリターニャに向かって失礼な物言いだぞ。女」
「笑わせてくれますね。王子というのなら王子らしく女性を誘ってみなさい。あなたがたやっていることは力と金でなんとかしようというその辺に山ほどいるゴロツキそのものですよ。それとも、それがこの国の王族の流儀なのですか?」
「なんだと……」
「名前から察するに、あなたの母親は正妃ではありませんね。もしかして国王はあなたの母親を今あなたが口にしているような脅しと金でモノにしたのですか?そういうことなら、父親の流儀に従っているだけともいえるのであなただけに罪はないと言えるのかもしれません。ですが、残念ながら私は金に目が眩んで自らを王に売ったあなたの母親ほど安っぽくありません。私を誘いたいのなら、もう少し上品で気の利いた言葉を使っていただきたいものです。もちろんその前に王子と名乗るにふさわしいだけの貢物を持ってこなければなりませんが」
「きさま。言わせておけば……。もういい。マクネイヤ。この女を殺せ」
「し、承知しました。ネイス。おまえがやれ」
一番触られたくない部分を狙い撃ちしたような女性の挑発。
そして、それにまんまと乗ったアイゼイヤの言葉によって遂に五対一の戦いが始まる。
だが、さすがにこれだけ多くの目がある中で剣を持っているとはいえ、たったひとりの女性に王国の兵四人が一斉に斬りかかっては後々物笑いの種になりかねない。
そう考えた彼らのリーダーであるアンガス・マクネイヤが指名したのは護衛兵の中で一番若いアラン・ネイスだった。
「承った」
指名されたネイスは鼻息荒く、すぐに行動を起こす。
剣を抜き、ゆっくりと近づく。
だが、女は動じない。
黒味を帯びた笑みを浮かべてネイスを眺めるだけだ。
やがて、ネイスは立ち止まる。
一振りでケリをつきそうな距離に迫ったにもかかわらず腰にある剣を抜きもせず腰に手をあてたままの女をネイスはいやらしい目で舐めまわす。
そう。
口にはしないものの、ネイスも考えていることもアイゼイヤのそれとたいして変わらぬものだった。
そして、自らの欲望を実現するためにはこの件を首尾よくケリをつけなければならない。
「女。今ならまだ間に合うぞ。殿下の言葉に従いありがたく殿下の所有物になり可愛がってもらえ」
だが、ネイスの言葉に応えるように開いた女の口から流れ出したのは彼ら全員の予測と期待を大きく裏切るものだった。
「……つまらぬ言葉を言う暇があったらさっさと来なさい」
「なんだと」
「聞こえなかったのですか。では、もう一度言います。安心しなさい。命だけは取らないであげますから早くかかって来なさい。稽古をつけてもらうつもりで」
「ふ、ふざけるな」
その言葉にかっとなったネイスは前言撤回といわんばかりに女性に斬りかかる。
いや。
斬りかかろうとしたはずだったのだが、剣を持ったまま彼はうめき声を上げて前のめりに地面に倒れ込む。
「何が起こった?」
「私にもわかりません」
「私も……」
目の前で起こったことにもかかわらず、その瞬間を見逃したマクネイヤは仲間に尋ねるが、誰一人として何が起こったのかを目撃したものはいない。
だが、女性の右手には先ほどまで腰にあったものがある。
そして、血が噴き出したネイスの額。
これが何を意味しているかは言うまでもない。
目の前の女性はそれを鞘ごと引き抜いて彼の額に強烈な一撃を食らわせた。
目にも止まらぬ速さで。
剣の心得がほとんどないアイゼイヤを除く全員が思った。
強い、いや、早いと。
一方、倒れ動かなくなったネイスに蔑むように一瞬だけ目をやったその女性は立ち尽くす男たちを冷たい視線で眺め、視線以上に冷たさを感じる声で彼らの耳に言葉を流し込む。
「この程度の相手ならひとりずつは面倒です。一度に来てください。それとも、怖気づいてこられませんか。そういうことならこちらから行って差し上げますが」
それは間違いなく強者が弱者を誘う挑発の言葉である。
男たちは瞬時にそれを理解した。
絶対に勝てない。
だが、このまま逃げ出すわけにはいかない。
なにしろ自分たちは王子とその臣下だと名乗っているのだから。
三人の視線が彼らの主に注がれる。
名誉ある撤退の指示を期待して。
だが、やってきた言葉は……。
「どうした?早く女を殺せ」
彼らの不幸。
それはその場で唯一彼我の力の差を理解していなかった者が彼らの主だったことだろう。
主の言葉に退路を断たれた彼らは、半ばあきらめ、残る半分は幸運だけをあてにした勝利を期待し、目配せをし終わると、怒号とともに今度は同時に女性に襲い掛かる。
だが、気合と根性を乗せた怒号だけで圧倒的な力の差が埋まるほど世の中は甘くない。
結果は当然彼ら自身が予想したものとなる。
自らに傷ひとつつけられぬどころか、触れることさえできぬまま地面に倒れた男たちを見下ろした女性がもう一度口を開く。
「たわいもない。末端の者とはいえ王族の警護をおこなう兵がこの程度とは先が見えましたね。この国も」
立ち上がろうとしたアンガス・マクネイヤの顔を踏みつけたその女性が視線を向けたのは残ったひとりだった。
「さて、王子」
恐怖のあまり、逃げ出すこともできないアイゼリアに近づきながら、彼よりも少しだけ年長と思われるその女性が装飾の少ない鞘から剣を抜く。
「あなたには特別にこれを使ってあげましょう」
さすがにこの状況になれば、それが何を意味するかは鈍感なアイゼイヤにもわかる。
もちろん力の差は歴然である。
だが、自分はこの国の王子。
無駄だとはわかってはいるが抵抗をせずに終わるわけにもいかない。
最後のあがきを示すために剣に手をかけようとしたアイゼニヤの耳にそれまでよりも数段階トーンの低い女性の声がやってくる。
「剣に手が触れた瞬間に死にますよ。殿下」
それはまさに人心を惑わす魔女の囁きといえるものだった。
……死にたくない。
一瞬だけ沸き上がった覚悟はその言葉によってあっという間に崩れさり、アイゼイヤは操られるように手を戻すと、その代わりに必死に動かし始めたのは口だった。
「や、やめろ。私はこの国の王子だ。王子を害するというのは大罪だぞ」
たしかにこの国の法のひとつには王族を傷つけた者には特別な罰を与えるとある。
つまり、アイゼイヤの言葉はまちがってはいない。
だが、この場に及んでのその言葉はこの騒動を遠巻きして眺めていた群衆から失笑を生み出すだけだった。
もちろん、彼に対峙する女性にも。
「なるほど」
その言葉とそれを口にした者を嘲るように黒い笑みを含んだ口はさらに言葉を続ける。
「王子が平民を理不尽な理由で殺すのは罪にはならないが、その逆はたとえ正当な理由があっても大罪とは随分不公平な法です。ですが、そのような法があるというのなら仕方がありません。裁判では私を辱めようと五人の男が襲ってきたのでたまたま手にしていた剣で応戦し返り討ちにしたところ、その中に王子がいたと主張することにしましょうか」
「そんな言い訳が通じるはずがないだろう」
「それはやってみなければわからないでしょう。それに少なくても数を頼りに女ひとりに襲いかかり、返り討ちにあった事実は残ります。たとえあなたが一番の不出来な者であっても王子は王子。その王子とその家来がそんな醜態を晒したとなればこの国の王族の名に泥を塗ることになりますので、それはそれで楽しみではあります。もっとも、それがどれほどの不名誉なことになっていようがその時にはすでにこの世の住人ではないあなたにはまったく関係のないことではあります。まあ、そういうことで……」
「……そろそろこの世とのお別れの時間が来たようです」
その言葉とともに女性は愛剣を軽く振る。
そこからやってきた冷たい振動が顔にあたるとアイゼイヤはもう耐えられない。
そこに残っていたのはただただ助かりたいという気持ちだけだった。
「ま、待て。待ってくれ。条件を言ってくれれば何でも叶える。これは本当だ。それで手を打とう。もちろん今後付きまとうことはしない。だから、命だけは……」
「命乞いとは見苦しいですよ。殿下。あなたがこれまで弄んだ女性たちに心の底から詫びながら死になさい」
嘲りに見た言葉を口にし終わると、その女性が一見すると人の目を楽しませるためにつくられたガラス製の最高級の工芸品のようではあるが、実際にはそれとは真逆の目的を持つこの世界では光石と呼ばれる最高硬度を持つ貴石のひとつに自らだけが使用できる魔法をかけてつくった刺突剣を涙ながらに懇願する王子の前に突き出す。
誰もが数瞬後には王子の最期がやってくると確信したとき、少し離れた場所にいた品のある男性からそれを制する声がかかる。
「その辺で許してやってはいかがですか?」
「ア、アリスト兄さん」
恐怖のあまり失禁していたアイゼニヤは涙声で仲裁を買って出たその人物の名を口にした。
まさに彼にアイゼニヤとっては地獄で仏。
「……出てくるのが早すぎます」
そして、女性の口から洩れたその言葉を待つまでもなく、当然ながらもう一方にとってそれは最悪のタイミングとなる。
露骨に見せた不機嫌な顔と誰にも聞こえぬ声で口にしたその盛大な嫌味とともにその女性が渋々剣を引くと、ふたりの関係を知らないギャラリーたちからざわつきが起こる。
もちろんそのことによって最悪の事態が避けられたと安堵した者もいなかったわけではないのだが、やはりそこにいた大部分の者にとって自分たちの平穏な生活を乱す振舞いを繰り返してきた王族のひとりが法によらない無慈悲な裁きを受ける瞬間を目にするのは溜飲を下げる絶好の機会である。
その機会が失われたことを彼らがどう思うかなど確認するまでもない。
だが、相手は名前から次期国王と思われる第一王子。
さすがにその不満を大っぴらに口にするわけにはいかない。
大部分のギャラリーのささやかな反感などまったく気にする様子がないその人物は女性にはほとんど注意を払うことなく、そのすべてを向けたのは自らの弟にあたる男だった。
ブリターニャ王国第一王子という肩書を持つその男は笑みを浮かべながら口を開く。
「我が親愛なる弟アイゼリア。まず君に問おう。私はたった今ここに来たので、どのような経緯で君が女性に刃を突き付けられ涙ぐむだけではなく民の前で尿を漏らすという実に情けない姿になっているのかがわからない。君はいったいここで何をしてそのような王族にあるまじき醜態を晒すことになったのか教えてくれるかな」
やってきたその言葉を聞いた弟は顔を顰める。
だが、アリストのこの言葉から肝心な部分だけを抜き出せばある重要なことが浮かび上がる。
アイゼリアはその部分に辿り着くと心の中で小躍りする。
アイゼリアはこの好機を最大限に利用しようと性能の悪い頭をフル回転させる。
すべての算段を自分の都合だけで完結させたアイゼリアは口を開く。
形勢を逆転できることを確信して。
「視察のため偶然ここを通りかかったところ、この女に突然誹謗中傷を受け……」
「誹謗中傷?」
「そうです。この女は私の母と我々王族を侮辱したのです」
「穏便にことを収めるため謝罪を求めたのですが拒否され、止むを得ず……」
「剣を抜いたものの、逆にやり込められて泣いて命乞いをしたというわけですか」
「たしかに厳しい立場にはなっていましたが、どちらに正義があるか裁判で決めようではないかと提案しただけであり、平民の女ごときに命乞いをするなどという恥知らずなことはしておりません」
「なるほど。ですが、五人の男で女性ひとりに挑むというのはどうなのでしょうか。しかも、この様子では四人は彼女に叩きのめされ、あなたもあと一歩だったように見えますが」
「それは面目ありません。少々油断をしていました」
「油断していなければ勝てたと?」
「当然です。ですが……」
「たしかにこの女の剣技はそれなりのものがありました。そして、この国と王族を侮辱する数々の言葉。おそらくこの女は他国から派遣された暗殺者」
「なるほど。それが本当なら大問題ですね」
アイゼイヤの言葉を聞き終えた彼の兄は真顔でそう言った。
だが、実際にはアイゼイヤの兄であるアリストが心の中で語っていたことは、それとはまったく違うものだった。
アリストは少しだけ笑みを浮かべるともう一度大きく頷き、いかにも弟の言葉に納得するような仕草をみせる。
もちろん兄のその様子にアイゼイヤは逆転勝利を確信した。
だが、アイゼイヤがその勝利の美酒に酔ったのもほんの一瞬のことだった。
兄が再び口を開く。
「なかなか面白い話を聞かせてもらいました。彼の主張はそういうものでしたが、この喜劇の一部終始を見ていたホリーは今のアイゼリアの話をどう思いましたか?」
アリストがそう言ってふり返ると、護衛の後ろから少しだけ幼さが残す若い女性が姿を現す。
その女性はまずアイゼイヤを露骨なまでに軽蔑するような目で眺め、それから兄をそれとは反対の感情を込めて見つめると口を開く。
「まあ、ほぼ嘘ですね」
「……ホリー……姉さま」
アイゼリアは絞り出すように目の前に現れた母親の違う同じ歳の姉の名を呼んだ。
もちろんアイゼリアにとって彼女の登場は予想外のことではあるが、それよりも問題なのは目の前に現れた腹違いの姉が自分たちの諍いの現場に最初から立ち会っていたということだ。
そして、それはさらに悪い状況を想像させるものだった。
疑いと願いを込めてアイゼイヤが姉に問う。
「もしかして、アリスト兄さんと一緒だったのですか?」
「もちろんです。私は兄上に案内してもらいここを散策していましたので」
……それはつまりアリストもホリーと同じものを見ていたということではないか。
アイゼイヤは心の中で大きな舌打ちをした。
それに気づかずペラペラと嘘を並べ立てた自分のおこないを後悔するものの、すべてが後の祭り。
確信した勝利から一気に奈落の底に落とされた口惜しさがたっぷりと滲み出した弟の顔を眺めていたアリストが口を開く。
「ようやくわかったようですね。そういうことで、今回の件を陛下に伝えるかどうかはあなた次第です。これまで迷惑をかけた方々に王族の一員にふさわしいだけの慰謝料を支払うこと。それから、これに懲りて今後はこのような王族の名に泥を塗る行為はおこなわないと約束できるのなら私とホリーは黙っていることにしますが、いかがで……」
「も、もちろん承知……ぜひそれでお願いしたい」
兄の言葉が終わらぬうちの即答。
もしここでそれを拒むようであれば、ふたりの王族から今回の不祥事の話が即座に王の耳に届けられることになる。
そうなれば、アイゼイヤは王位争いをしている兄ファーガスの足を引っ張ることになり一族全員から白い目で見られ、愚かな道楽に費やす軍資金も手に入れられなくなる。
もちろんそれだけではない。
今回の件はもちろん、まだケリがついていない過去の不祥事の尻拭いもアイゼイヤ自身がおこなわなければならなくなるのだが、そのようなことをできるだけの能力が自らにないことくらいはアイゼイヤ自身も自覚している。
つまり、それ以外の答えを口にすることなどアイゼイヤにはあり得ぬ話だったのである。
弟の言葉に頷いた彼よりも数段、いや数十段は格上のこの国の第一王子がもう一度口を開く。
「最終的にはあなたがそれを実行できるかどうかによりますが、とりあえず了解しました。では、あなたは現在昼寝をしている有能な護衛とともに今すぐここを立ち去ってもらいましょうか」
「護衛とともに?」
「あなたが連れきたのですから後始末をするのは当然でしょう」
「ですが……」
嫌がらせの極みのような兄の要求に口に出せない怒りを溜め込んだアイゼリアに救いの手を伸ばしたのは意外な人物だった。
「心配は要りません」
その声の主がその言葉の直後指を鳴らすと、とても動ける状態ではなかったはずの男たちはまだ残る痛みに呻きながらゆっくりと立ち上がる。
死んではいないとは思ったが、たった今までそれに近い状態まで追い込まれた者が突然ここまで回復する理由などひとつしかない。
「……治癒魔法」
絞り出すようにアイゼリアが吐き出した言葉を肯定するように彼の兄にあたる男が頷く。
「よくご存じですね。そのとおり。そして、それはよかったですねとも言えます。なぜなら、これほどの高度な治癒魔法が使えるということは彼女が少しでも本気になり魔法を使っていたらあなたがたは一瞬で黒焦げになっていたでしょうから」
「とにかく、彼女の気が変わらぬうちに退散するのがよいでしょう。このあとの交渉は私が責任を持っておこないますから」
色々な意味でこの場にとって招かざる客だったアイゼイヤとその取り巻きが群衆からの嘲笑と盛大な拍手に送られながら姿を消し、その群衆もリスカヒルたちによって強制的に散らされるのを見届けてから、凛として立つ女性に近づいたアリストが声をかける。
「本当に災難でしたね」
その言葉にはすぐさま返答がやってくる。
ザ・不機嫌と言わんばかりの香りを漂わせて。
「まったくです。と言いたいところですが、実はそうではなかったのです。あの男は私の店に来て度々愛人になるように要求してきました。当然私がそのような要求呑むはずがありません」
「ですが、あの男は下がらない。それどころかあの男の言葉はだんだんと脅迫の色合いが濃くなってきました。もちろん私ひとりであればあの程度の輩何十人来ようが問題ありません。ですが、私の店で働く者たちはそうはいきません」
「となれば、選択はふたつ。当然そのひとつは即座に捨てましたので私が採るべき道はひとつだけ。そういうことで今日私はきっちりとケリをつけるためあの男を探していたのです。それが店から離れたこの場所に私がいた理由です」
「当然ながらこの場で私とあの男は偶然出会ったのではなく、私がその見えるようにあの男の前に現れたのです。つまり、計画どおり。それなのに、あなたはあそこで声をかけただけではなく、あと一歩まで追い詰めていたあの男を放免してしまいました。つまり、あなたは私の計画を台無しにしたということです。災難ということであれば、それはあなたが現れたこと。ということでしょうね」
相手からやってきた長い苦情の言葉をすべて聞き終えたアリストはため息をつくと、わざとらしく困った表情をつくる。
「そうは言っても彼は王族。ブリターニャ王国の王族でもないあなたが彼に制裁を加えるわけにはいかないでしょう」
つまり、王族を裁くことができるのは王族のみ。
アリストは言外にこの世界におけるきわめて常識的なことを口にした。
もちろんアリストはこの女性がこれで納得するとは思っていない。
そして、それはすぐにやってくる。
「アリストも知っていることだとは思いますが、あの男はこの王都で長い間王族という地位を利用して好き放題やっていました。それににもかかわらず今日まで野放しになっていた。つまり、この国の王族には自浄能力はない。そうであれば、私が女性の代表として女の敵であるあのクズに相応の報いをくれてやることになにひとつ問題はないと思いますが」
「お、おい」
リスカヒルが慌てるのは無理もない。
女性が口にした言葉には、第一王子であるアリストの名前を呼び捨てにすることから始まって、最後には王子のひとりをクズ呼ばわりするという王族に対する敬意など欠片ほども存在していなかったのだから。
だが、アリストが右手でそれを制す。
「彼女は私の知り合い。というより、そもそも今回の被害者です。そのうえ彼女の主張を否定するのは極めて難しい。構いません。それで、肝心のアイゼイヤの躾の件ですが、私が責任をもっておこない、それから償いは確実におこなわせるということを約束する。ということでどうぞご勘弁を」
「……ふたつあります」
アリストの提案に対してその女性が口にしたそれは、彼女がよく使う言い回しであり、当然ここには「問題が」という言葉が頭につく。
もちろんアリストはそれを承知している。
「どうぞ」
アリストの言葉に女性は頷き、それから問題点を口にする。
「ひとつはあの男がなかば自分の生業としていることをそう簡単にやめられるはずがないということ」
その女性のこの言葉は正しい。
この手の輩がやめると言ってそのような行為をやめた例など数えるほどしかないのはどの世界でも同じである。
アリストが少しだけ黒い笑みを含み直した口を開く。
「それについては同意しますが、そうなればアイゼイヤに待っていることはそれ相応の報いとなるのですからご心配なく。それで、もうひとつは?」
「身分を声高に口にしたうえにこれだけ派手に醜態を晒せば今日の出来事の詳細は他の兄弟の耳にも入るのでは?例えば次男とか」
顔には出さなかったものの、アリストは心の中で驚きの言葉を上げる。
その女性が口にしたその言葉。
それは言外にこれから起こると思われる問題を提示していたからだ。
その問題。
それはこれだけ話が大きくなれば、その男の耳に今日の出来事が届くことは避けられない。
そうなれば自分たちが黙っていてもこの醜態をその男が王に告げ、結局アイゼイヤは処分される。
そうなったとき彼は騙し討ちされたと誤解するのは間違いないというものだ。
次男というその言葉は、この女性が王宮の内情をよく知っているということを示すものなのだ。
もちろんアリストは話していない。
それをわざわざ調べるほど彼女はブリターニャの権力闘争に興味をもっていないこともアリストはよく知っている。
となれば、話したのはアイゼイヤということになる。
……なんのつもりでそんなことを話したのかは知りませんが、それだけでも彼は重罪ですね。
心の中でそう言ってから口を開いたアリストは少しだけ冷気を帯びた声でそれに答える。
「おそらくアイゼイヤの蛮行についてはとっくに知っていると思いますよ。ダニエルはあれでなかなかの情報通ですから。ですが、彼はそのカードを切らない。いや。正確には切れないのでしょうね。あのダニエルが今までアイゼイヤの悪行をどこにも持ちださなかったことがそれを証明しています」
「なるほど」
アリストの言葉に女性はそう応じ、それから少しだけ言葉を追加する。
「……もしかして、相手も同じ手札を持っているということですか?」
女性の返答を肯定するようにアリストは頷く。
「ほぼ間違いなくそうでしょう。母親を同じくするダニエルのふたつ年下の弟アールはアイゼイヤに負けないくらいの出来の悪い弟です。酒癖の悪く浪費癖のある彼があちらこちらで王族にあるまじき揉め事を起こしています。ですが、たとえそれが諍い中であってもファーガスの口の端に上がってこない。つまり、ふたりの陣営の間になにがしかの取り決めがあると考えた方がいいでしょう。そして、ジェレマイアとその後ろ盾になっている者がふたりの愚行について口を噤んでいるのも彼の側にも何かしらの弱みがあるからと考えるべきでしょう」
三竦み。
その言葉を頭に浮かべたところで女性の表情は急激に黒味を帯びる。
「本当にロクでもない人間しかいないようですね。あなたの兄弟は」
「まったくお恥ずかしいかぎり。まあ、あまり自慢できるものでもないので今話した身内の恥はここだけの秘密としてもらわなければなりません。その代わりというわけではありませんが、あなたが興味を持つような面白いお話をひとつお聞かせしましょう」
そう言ったアリストがニヤリと笑って語ったのはアイゼイヤの趣味とその理由だった。
「……つまり、あの男の究極の願望は『銀髪の魔女』をものにすることだったのですか?」
自らがそう表現したそのおもしろい話を聞き終えた女性の口から漏れ出したその感想にアリストが応える。
「上品さに欠けるその表現はともかく内容としてはそのようです。どうですか?なかなか興味深いとは思いませんか?」
「そうですね……まったく……」
その女性はその言葉とともに苦笑いする。
いや。
せざるを得ないという方が正しいのだろう。
その微妙な感情を含んだ笑みのまま女性が口を開く。
「……ある意味、彼の目的は不完全ながら果たせたとも言えます」
「まあ、その結果はともかく、とりあえずはそうともいえます」
「ですが、そういうことなら、やはり『銀髪の魔女』の代役にされた多くの女性のためにもここで厳しいお仕置きをしておくべきだったということも言えますね。知らないところで起こったこととはいえ、私にもこの件に関する責任があったということになるわけですから」
もちろんふたりの会話は当事者にしかわからない。
なぜなら、ふたりが共に勇者チームの一員で、この女性こそアイゼイヤがターゲットとしていた「銀髪の魔女」本人であることを知っているのはこのふたりだけだったのだから。
「まあ、とりあえずわかりました」
長い銀髪を靡かせた女性が再び口を開く。
今度は先ほどとはまったく違う種類の笑みを浮かべて。
「今はあなたの言葉を信じてそれで勘弁することにしましょうか。ところで、アリスト。それとは別なことを尋ねてもいいでしょうか?」
「もちろんです」
「そこの男たちが私の言葉に対して神経質に反応するのはあなたたち王族に対する忠誠心と自らの仕事だからと理解できるのですが、あなたの後ろにいる彼女にずっと睨みつけられる理由はわかりません。どうやら彼女は私があなたと話をすること自体が気に入らないようなのですが、もしかして彼女はあなたの愛人なのですか?」
さすが同じ女性というべきか。
一瞬でそれを見抜く。
そして、その女性が口にした言葉はもちろん先ほどのお返しとしてアリストへと送ったものだったのだが、期待した効果が表れたのはアリストとは別の人物だった。
「あ、愛人?」
それに過剰に反応して声を盛大に裏返し、さらにその「愛人」という言葉を自らに都合がいいように拡大解釈し、顔を真っ赤にしたのは当然アリストの妹。
そして、それを見て極めて常識的なものではあるものの、実は事実からは遠く離れた大いなる勘違いをしでかした彼女の護衛を務めるリスカヒルは王女とは別の意味で顔を真っ赤にする。
「おい。さすがにそれは失礼だぞ。こちらはホリー・ブリターニャ殿下。アリスト殿下の妹君だ」
「アリストの妹?」
「そうだ」
……ということは、彼女はブラコンということですか。
さすがにその女性がアリストの妹であることには驚いたが、リスカヒルの言葉で女性はその小喜劇の舞台裏を即座に理解した。
もちろんこの世界では通じないその言葉であるそれを実際に口にすることはなかったのだが。
……それにしても、これだけ完璧なブラコンは向こうでも見たことがないですね。
その心の声が滲む微妙な感情が染みわたる笑みを浮かべるその女性に、妹の想いがまったく通じていない鈍感な兄がこちらは無邪気ともいえる笑みを浮かべながら声をかける。
「まあ、残念ながらそういうことです。そして、ホリー。紹介が遅くなってしましましたが、こちらは……」
「アリシア・マリトッツォ」
「そう。そういう名前でした」
簡素すぎる自己紹介を、それに続いたアリストが微妙な言い回しで肯定する。
だが、それは元の世界で読んでいた本のヒロインの名と、こちらの世界にやってくる少し前に元の世界で大人気となっていたお菓子の名を組み合わせた偽名であり、もちろん彼女の正しい名はフィーネ・デ・フィラリオ。
もっとも、それも彼女にとってはこちらの世界限定のものではあるのだが。
その彼女フィーネが再び口を開く。
「それで、この国の第一王子とその妹は、護衛を伴ってどこに行くのですか?」
「言うまでもない。あなたの店ですよ」
「私の店?何のために」
「もちろん料理をいただきに、です。今日は妹も一緒ですし、先ほどの償いもあります。奮発して店で最高のものを提供してもらいましょうか」