美食家が集う料理屋
「ところで……」
自らが口にしたものは一朝一夕で成し遂げられるわけではないことを十分に理解しているアリストはその話をそこであっさりと切り上げ、まったく別の話題を口にし始める。
「公的な目的以外でやってきた方々がこの国の食事をどのように評価しているのかをホリーは知っていますか?」
もちろん知っています。
と言いたかったところだったが、さすがのホリーもこれには簡単には答えることができなかった。
様々な目的でこの国にやってきた旅人が各自の好みや懐具合によって自由に選ぶことができる市井の食事をどう思っているのか。
そのような国政にはまったく関係のない情報は王宮の奥にいるホリーの耳まで届くはずがない。
そうなれば、自らの舌を頼りにそれを探り当てるしかない。
だが、放浪癖のある兄と違い、正真正銘の箱入り娘であるホリーが知っている食事とは、毎日口にしている王宮で出されるものだけである。
「……悪くはないと言ったところでしょうか」
答えられる精一杯のものであるその言葉を口にしてからホリーは兄の顔を伺うように見てから心の中で呟く。
……どうやら違うようですね。では……。
世界一美味しい。
ホリーがそう言い直すことを思いとどまったのは、目の前にいる兄がこのような言い方をするときは大抵否定的な言葉が続くということを思い出したからだ。
ということは、正解は……。
この世界で一番まずい。
「随分悩んでいるようですね。では、ひとつ手がかりを」
正解には裏口から辿り着いたものの、その理由がわからず今日一番難しい顔をして考え込む妹を楽しそうに眺めたアリストはそう言ってヒントを与える。
「もちろん私も食していますからよく知っていますが、我が国の王宮で供される料理はたしかに悪くないです。いや、堅苦しくて楽しくはありませんが、味だけでいえば十分に美味しいと言えるものです。では、それをつくっている者は?」
「もちろん王宮専属の料理人です。なんといっても彼らはフランベーニュやアリターナで、あっ……」
そこまで言ったところで、ホリーはあることに気づく。
「そのとおり。自国の料理がこの世界最高、と言わなくてもそれ相応の水準にあれば、王宮の料理人になれる条件に他国で修行していることなどというつまらぬ一項が加わることはないでしょう」
「つまり……」
「この国を訪れる者、特に国の中央に位置し国境の向こう側の影響を受けにくい王都にやってくる者の不満は料理のまずさです。特にその味付け。私も多くの国を旅して初めてわかったのですが、この国の料理はハッキリ言っておいしくない。まあ、王都の料理屋で我が国の料理を十分に堪能していたおかげで、他国に行ってその土地の者でも避けるようなただ同然の料金とそれに見合う劣悪な味の料理を出す料理屋に入っても満足でき、そこから発生する問題に巻き込まれずに済んだのですが。ちなみに、知り合いの某国出身の方はまだ食べたことがない魔族たちの料理を除けば、我が国の料理はこの世界で一番まずいと言っていました」
「……なるほど」
心の中で多くのことを考えていたホリーの一番の疑問は、もちろん兄がなぜこの話を唐突に持ちだしたということだ。
驚くほど真剣にそれを考えるホリーの表情にたまらずアリストは笑いだす。
「この話の裏側には特別なものは何もないです。実は料理のまずいことで有名なこの王都に、なんとやってくる外国人の多くが立ち寄る店があるのです。それどころか、その店を目的に我が国にやってくる者さえいる。しかも、そのなかにはかの国の一流料理人も含まれているそうです」
「それで、その方々の評判は?」
「……評判が悪かったのなら、そのような噂はあっという間に消えますが、どうやらその巡礼地はいまだ賑わっているようです。というか、評判はますます高まっているそうで、女性を中心に最近はその店に通うこの国の者も現れ始めたのだとか」
「なるほど……」
とりあえずその短い言葉を返してから、ホリーは再び思考の森に分け入る。
この世界で食の国といえば、間違いなくフランベーニュとアリターナ。
だから、王都で人気を博す店で供されるものとなれば、その二か国の料理と考えるのが一般的。
だが。その店の料理の目当てにサイレンセストまで他国の一流料理人がやってくるという言葉はそうでないことを示している。
なぜなら、フランベーニュとアリターナの料理人は自分たちがつくるものこそ最高峰であると信じているから。
つまり、他国の郷土料理ならともかく、先達によって生み出され、さらに創意工夫と努力によって極められた自分たちがつくる芸術作品のまがい物を供する店の料理を食するためにわざわざ他国にまで出かけることなどありえない。
そして、それはおそらく独自の料理体系を構築しているノルディアの料理人も同じこと。
つまり、その店で出されている料理とは我が国と国境と接せするノルディアとフランベーニュ、それにアリターナの料理ではない。
……ですが、そうなると困ったことがひとつ。
……フランベーニュとアリターナの料理人さえ虜にするような料理を持つ国。さらにその最高級の料理が本国ではなく料理がまずいと評判の我が国にあるとはどういうことなるのでしょうか?
……ですが、幸いにもこれは奥深きものは何もないとのこと。わからないのなら兄上に尋ねることが一番でしょう。
そう結論づけたホリーの口が開く。
「それは少々興味深いですね。それで、その店はどこの国のどのような料理を供するのですか?」
すぐにでもやってくるはずのものが一光年ほど遠回りをして忘れたころにやっときた感に思わず苦笑いしながらアリストがその問いに答える。
「フィ……その店のオーナーが言うにはヤバニという国だということです」
「……ヤバニ?ヤバニ?ヤバニ?」
思わずその国名を三度口にしてしまうくらいにホリーが驚き、そして戸惑ってしまうのも無理はない。
なにしろそのような国はホリーの脳内にある記憶の隅々まで探しても見つからない。
いや、そもそもこの世界には存在しないものなのだから。
それでも、ホリーは自分以上に多くの知識を持つ兄がそう言った以上、その国が存在するのだと、なかば強制的に肯定する。
そして、どうやったらそれが存在するのかを考え始める。
まるで、足りないピースでジグソーパズルを完成させようとするように。
再び迷いの森に彷徨い始めたホリーに救いの手を差し伸べるように兄の口が開く。
「どうやらヤバニとは彼女の頭のなかに存在する国のようです」
会ったこともないその女性に盛大にクレームを入れ、憂さ晴らしをしてから、心の中で起こったその出来事をなかったことにしたホリーが口を開く。
「なるほど。つまり、その料理とはその方が思いついた料理と……というか、その店のオーナーとは女性なのですか?」
言葉を言いかけたところであることに気づいたホリーは再び驚きの声を上げる。
そう。
この国において女性が組織にトップになっているというのは極めて珍しい。
もちろん庶民が通うような市場に並ぶ屋台程度なら女性が店主ということも珍しくはないのだが、話の内容からその店はそのようなものではなさそうだ。
そして、どのような大きさなのかはわからないものの、多くの客がやってくる程度のものとなると、店を出すにはそれなりの資金とコネがなければならない。
……ということは、そのオーナーとは貴族の奥様または、その愛人ということなのでしょうか?
……ですが、そうであれば、宮中で噂になるはず。では、その女性の後ろにいるのは大商人ということでしょうか?
思考が右往左往し、それに合わせて盛大に変化する妹の表情を面白そうに眺めながらアリストは言葉を続ける。
「ついでにいえば、本人の言葉を借りれば、その料理に欠かせない食材は彼女にしかつくれないものだそうです」
「資金を出しているだけではなく、料理もおこなうのですか?」
「現在は彼女がつくっているのは材料だけで、実際に店で料理を出しているのは彼女が雇った料理人ですね。まあ、料理人たちにつくり方は教えたのは彼女なのでしょうが。実を言いますと、私はホリーにその女性と会ってもらいたいと思っているのです。どうでしょうか?」
「私が?」
「はい。だめでしょうか?」
「も、もちろん問題ありません。是非」
突然やってきた兄の提案に、よからぬ想像と妄想の果てに心臓が破裂しそうになりながら、ホリーがどうにか答えると、彼女の想いなど届くはずもない鈍感な兄は嬉しそうに言葉を続ける。
「では、昼食がてら行ってみましょうか。その店……」
「『ハルワアケボノ』亭に」