第三の選択
ブリターニャ王国の王都サイレンセストの中心に建つ王城。
ブリターニャの軍民ほぼすべての中核施設がすべて含まれるカムデンヒルという別名でも呼ばれるその王城の広い敷地の東端にポツンと建つ「黄金の胸」という非常に魅惑的な名がついてはいるものの、その名にふさわしい特別な雰囲気もなければ、王城内の建物らしい華やかさもない、大きさだけが取り柄のようなこの世界ではごくありふれた二階建ての木造家屋。
その建物の主であるこの国の第一王子はここを留守にすることが多いのだが、それでも十代から二十代前半の五人の女性がここ専属の住み込みメイドとして雇われ、彼女たちを指揮する執事とともに日々働いていた。
そして、この日。
彼女たちはいつも以上に張り切って仕事をしていた。
なにしろ彼女たちの主が久々に王都に戻って来ていたのだから。
そして、こちらも当然のことではあるのだが、主が帰ってきたそこには朝から多くの客がやってきていた。
だが、その男がここに住み始めてからずっとこの家の執事を務めるブルーノ・ドゥルイゼランという名の白髪の男は、主の命に従い丁重だが断固たる態度でそのすべてを追い返していた。
それがたとえ相手が爵位持ちの貴族であっても。
「よかったのですか?ポントアーペント伯爵は母上の紹介状を持参してやってきたようでしたのに……」
隣からやってきた、外見は心配を装っているものの、中身は大量の皮肉でつくり込まれていたその声に、とても屋敷とは呼べないその建物の主であるアリスト・ブリターニャは明るく答える。
「もちろん。それに話を聞かなくても彼の話す内容などわかっています。彼がバリントア公爵に近くドルランログ伯爵とは縁戚関係にあることから疑いようもなく要件は王族会議においてジェレマイアを支持してくれというもの。そして、私の言質を取った場合に彼に与えられるものは、侯爵の地位か、それと同等となるしかるべき権力。その証拠に王宮内ではケチな男として有名なあの伯爵が従者ふたり分の土産を持参したのですから」
「なるほど」
その日の早朝別宅から転移魔法を使ってやってきた使者によってもたらされた知り合いからの手紙を手にしながらアリストが口にした皮肉たっぷりのその言葉に相手は口元に笑みが零れる。
「それがわかっていながらその土産を取り上げただけで話も聞かずに追い返すとは本当にお人が悪いですね」
「誠実が服を来たようなこの私を詐欺師の頭目のように扱うとは実に失礼な物言いではありませんか」
「ですが、これまでの実績を考えれば、自称、他称、真実。そのどれもが詐欺師の頭目にふさわしいと示しているように思うのですが」
「まあ、その言葉を明確に違うと否定できないのはとても残念なことではあります」
アリストは二階の自室に設けられた蔀戸の親類のような構造をした木戸の隙間から怒り心頭で引き上げる自身の新たな被害者となった伯爵を見送りながら笑みとともにその言葉を口にする。
そして、そのアリストと楽しそうに会話を交わすのは、隣に立つ幼さは残るが十分に美人の部類に入る女性。
アリストとともに紅茶をひとくち含んでからその女性が口を再び開く。
「それにしても伯爵は鈍感ですね」
「と言いますと?」
「屋敷の外で待つ私の従者」
問いに答える女性の言葉は非常に短かった。
だが、相手にはそれで十分だった。
やってきた言葉を確かめるようにもう一度外の様子を眺めながら笑みを含んだ女性の口が開く。
「あれを見れば兄上には先客がおり、現在その誰かと会談中だということはすぐにわかります。さらに、私の従者の服には私を示す特別な紋章があります。少しでも注意力を働かせればその相手が誰であるかというところまでわかります」
「まあ、目の前に広がっているその光景にさえ気づかないくらい頭の中は約束されたその成功報酬とやらのことで一杯になっていたということであれば、目論見が脆くも崩れたことが原因で眩暈を起こし堀に落ちねばと、ささやかながら伯爵の将来を心配をしたくなりますね」
「私がいない間に王族随一と謳われる毒舌はさらに磨きがかかったようですね。ホリー」
「お褒めに預かり光栄です。兄上。ですが、私はあくまで二番目。名誉ある王国随一の毒舌家の地位は兄上の上から動くことはありません」
その女性とはアリストの十歳年下の妹。
名をホリー・ブリターニャといい、母親もアリストと同じ正妃アマリーエ・ブリターニャで王の四女という立場にある。
ちなみに彼女の言葉にあったジェレマイアはふたりの実弟となる。
「……ところで、朝食は一緒だったのですか?」
視線を話し相手に移したアリストはその相手である自らの妹に対していつもと同じ丁寧な口調で尋ねるものの、その言葉には肝心の「誰と」という単語が抜けていた。
だが、アリストにとっても、尋ねられた相手にとっても、それが誰を指しているのかなど自明の理だった。
そして、それを答えるホリーには目の前にいる兄がその誰かの何を知りたいのかということもよくわかっていた。
上品な笑みを浮かべるアリストの妹の口が開く。
「もちろん。そして今日の母上はことのほかご機嫌でしたよ。具体的に何があったのかまではおっしゃってはいませんでしたが、昨日によほどうれしいことがあったようですね」
その言葉を口にしたホリーの言う昨日あったこと。
それは彼女の兄がノルディアから持ち帰った情報を披露した際の出来事を示しているのは疑いようもない。
妹の言葉にアリストも彼女に負けない上品さを漂わせた笑顔で応じると、もう一度口を開く。
「まあ、見た目のうえではそうなりますね」
「何があったのか聞かせてもらってもよろしいですか?」
「もちろん」
妹であるホリー・ブリターニャからのリクエストに快く応じ、意味を含んだ笑みを口元に残したままアリストは昨日の出来事を詳しく語り始めた。
そして……。
「どうでしたか?」
「ひとことで言ってしまえば、予想通りの内容ですね」
「母上としたら、ライバルがともに自ら階段を転げ落ちていったので、どちらに転んでも自分の息子が次の王になると思ったのでしょう」
「ホリーから聞いた母上の喜び具合を考えれば、間違いなくそうでしょうね」
「ですが、兄上の話を聞くかぎり、私には父上が母上と同じように考えているようには思いませんが」
……さすが。
……その場にいたわけでもなく、たいして詳しくもないあれだけの言葉を聞いただけで核心に辿り着くとは。
妹の言葉にアリストは心の中で感嘆の声を上げる。
……弟たちの誰かにこれほどの洞察力があれば、父上はすぐさま王太子に任じていたでしょうね。
アリストは心の中で最高級の賛辞を贈り終わると、もう一度口を開く。
「おそらく母上の手に入れたものはあの場で起こったことの上澄みだけだったのでしょうから、そう思うのも仕方がないといえるかもしれません。ですが、父上の心情はホリーの言葉どおりで間違いないでしょうね」
アリストはまず絶妙な表現で妹の言葉を肯定し、補足するようにさらに言葉を続ける。
「ダニエルとファーガスに父上が失望したのは間違いないと思われます。ですが、ここでふたりを切り捨てていいとも思っていなかった。本人たちがどう受け取ったのかはわかりませんが、父上の最後の言葉はもう一度機会をやるから出直せと言ったものに違いありません。そして、その場にいながらひとことも発しなかったジェレマイアにも父上は不満を持っている。というより、それ以上の不満を持っていると思って間違いないでしょう」
王位を狙うふたりはとりあえず自身の意見を口にした。
だが、ジェレマイアは同じ場で何も口にしなかった。
父王の目には、それはただ存在し、競争相手が脱落、消えるのを待っているように見えた。
むろんそれを肯定する要素など皆無。
アリストの言葉は言外にそう言った。
ホリーは小さく頷いたところでこう問うた。
「ですが、自分独自の意見とまではいかなくても少なくてもジェレマイアは兄上に賛成の意を示すことくらいはできたはずです。なぜジェレマイアは兄上の意見に賛成の意を示さなかったのでしょうか?」
「可能性はふたつ」
「ひとつは、ジェレマイア自身が私の言葉を理解できていなかった。そういうことであれば、調子よく相槌を打っていたのはいいが、万が一自分に振られたら何も答えられない。それを避けたのだと思われます」
「……たしかにそうなった場合には最悪ですね。何も考えずに賛意を示したということになりますから。それで、もうひとつは?」
「ジェレマイアが私を王位継承権の競争相手だと思っているから」
アリスト曰く、自分以上の洞察力を持つというその妹はアリストの言葉をすぐさま理解した。
……あのジェレマイアがそのようなところまで気が回るはずがありません。間違いなくこれは誰かの入れ知恵でしょうね。
ホリーはその候補者の顔を思い浮かべる。
その誰ものがそれを考えそうな者ばかりである。
「我が弟ながら情けないかぎりです」
「それは否定できないし、おそらく父上も、勘違い甚だしいものであったものの、自らの意見を堂々と口にしたファーガスや、目的はともかくファーガスの提案に含まれる問題点をすぐに指摘したダニエルのほうがジェレマイアよりも上と見ているでしょうね。母上にとっては残念なことでしょうが」
兄は妹の言葉に笑いながらそう応じた。
久々に会った兄に、兄妹の情以上の特別な感情を滲ませた熱い視線を送りながらホリーは口にしない言葉で兄がこれまで語った言葉を咀嚼する。
そして、それを口にする。
「それでは兄上が王太子ということで決まりではないですか?」
もちろんその言葉を口にしたホリーは本心からそう思っており、彼女の兄もそれをよく知っている。
アリストは心の中でこう言葉を返す。
……私と弟たちというなかですぐに次の王を選ぶとなれば、この国のための最良の選択肢はおそらくホリーの言うとおりなのでしょう。
……だが……
アリストはそこで思考を止め、その先を実際の言葉にするため口を開く。
「ありがたいお言葉ですが、必ずしもそうとも限りません」
もちろんホリーは兄が言いたいことにすぐに辿り着いた。
能力の差は歴然としているにも関わらず、父王は第一王子である兄以外の者が王太子にふさわしい能力を手にすることを期待している。
そこから導き出されることなどひとつしだけ。
その事実に怒り、そして葛藤しながらもホリーは答える。
「父上は兄上を王にする気がない」
「そういうことになります」
「ですが……」
納得できずにさらに言葉を続けようとしたホリーを兄が止める。
「気にすることはありません。私にとってそれは実にありがたいことなのですから」
「いいえ。そうはいきません」
「兄上がそう思うのは自由ですし、父上がどのような理由でそのような判断をしたのかもわかりませんが、私にはそれがこの国のためになるとは思いません。兄上は他の方々が玉座に座り、その結果この国が消えてしまっても構わないと思っているのですか?」
ホリーの言葉。
それは奇しくも以前アリストがひとりごとのように呟いたものと同じだった。
「……国が消える。ですか」
自らと同じ結論に辿り着いた妹の真剣な表情にそれまで笑みを浮かべていたアリストも少しだけ表情を変える。
「ホリーは私以外の王子が王になれば本当に大国であるブリターニャが滅ぶと考えているのですか?」
「もちろんです。たしかにブリターニャは大国です。ですが、大国だからといって何をしても潰れないということはありません。それどころか、大国だからこそその大きさにふさわしい者がその頂点に立たなければならないのです。もっとも、私が気づいているようなことなど兄上はとうの昔に気づいているとは思いますが」
その言葉に笑みで応じたアリストは心の中でこう呟いた。
……いい機会だ。
……ホリーにだけは伝えておくことにしよう。
……このつまらぬ王位争いには、私でも、愚かな弟たちでもない、第三の選択肢があることを。
心を決め、それから少しだけ深く息を吸いこんだアリストの口が開く。
「では、それに対する解決策を教えましょう。もちろんそれは私が王になるというホリーの提案とは別のものです。そして、それこそがこの件に関するもっともよい解決方法だと私は考えるものです」
「伺います」
「それはホリー。あなたがこの国の王になることだ」
「……私……が王に……」
口から漏れ出した言葉の通り、もちろんそれはホリー本人が予想もしないものだった。
そして、それとともにホリーは知っていた。
それがこの国では絶対に実現不可能なものであることを。
青い瞳をいつも以上に大きくしたブリターニャの第四王女が口を開く。
「ありえません」
それはホリーにとっては当然すぎる答えだった。
だが……。
「なぜ?」
彼女の兄はその問いの言葉によって間接的にその言葉を否定した。
それに対してホリーは兄を正視して答える。
「それはこの国の王位は男性のものと決まっているからです」
「なぜ?」
再びやってきた同じ問い。
ホリーの口が再び開く。
「我が国の法典に『王は然るべき王子から選ぶべし』と記されているからです」
王は然るべき王子から選ぶべし。
その言葉がブリターニャの法典にあるのは紛れもない事実である。
だが、そのようなことは、ホリーに指摘されなくても、第一王子であり、知識の塊でもあるアリストは知らぬはずがない。
それにもかかわらず、わざわざ相手にそれを口にさせたのには当然理由がある。
そして、その理由がこれである。
「それを持ちだすのなら、その法典には最初に『魔術の才を持つ者は王位に就けない』という一文もありますよ。ということは、私はその時点で王位争いから脱落するはず」
「ですが、実際はそうなっていない。それどころか、この話が王宮の外に漏れ出した瞬間、私が王太子になることが決まるだけではなく、知るうる立場の者はすべて殺すと父上に釘を刺されている。つまり、王自ら法典を守る気がないと宣言しているのです。であれば、法典を根拠に王女が王位に就いてはいけないという話は通用しないともいえます」
「まあ、その前にその文言を『然るべき王の子から選ぶべし』と変えておけば完璧でしょうが」
ブリターニャ王国に住む者全員に等しく災いをもたらした忌まわしき魔術師王アルフレッド・ブリターニャ。
その災いが二度と起きぬよう設けられたその項目を持ちだした兄の論理は簡単には崩せない。
そこに法典の書き換えなどおこなわれた場合、完全に王子のみが王位を継げる根拠は消える。
たしかにそれは事実である。
「ですが、この国の王は軍を率いて戦う必要がありますが、女である私にはそのような経験がありません」
「そういうことであれば私もないですね。ブリターニャの軍を率いた経験は」
「それはこれから……」
経験すればいいことだと言いかけたホリーの言葉は止まる。
それはもちろん、ホリーがそう言えば、すぐに兄の口からやってくる言葉がわかっているからだ。
少しでも本気になった兄にその程度のロジックなど通じるはずがない。
「まあ、そういうことです」
ホリーが心の中で何を思っているのかを完全に読み切ったようなその言葉に続き、彼女のもとにやってきたのは兄の口から発せられた驚くべき宣言だった。
「……それからここにはふたりしかいないのでそれに関わる大事なことも言っておきましょう。公平に見れば、ジェレマイアを含めて私の弟の誰もが能力的にホリーの足元にも及ばない。しかも、彼らの目的は王になることであり、王になって国をどのようにして良い方向に導くかについては興味がない。まあ、それはこれまでの彼らの言動からあなた自身も薄々感じていることでしょう。だが……」
その時の兄の顔は忘れない。
後にホリーが何度も語った言葉である。
この場には兄上と私しかいない。
それなのに、兄上はこの場にいない別の誰かに話しているような。
いや。
その誰かに戦いを挑むと宣言したような。
兄上の顔はそのような表現をすべきものだった。
「この国はどんな無能であっても男というだけで王になる権利を有す。その一方でどんな有能であっても女というだけ王になる権利が得られない。男か女かなどというどうでもいいことだけで無能を尊び有能を排除するような国は滅びても構わらない。いや、滅びるべきだと私は思っている」
ホリーは兄の言葉を聞いてようやく理解した。
父王がアリストを王太子にしない理由。
それはアリストに王という立場を与え権力を持たせたら、この国の秩序がひっくり返るから。
それはまさに妹を妻にしたというアルフレッド・ブリターニャによる国家崩壊の危機の再来。
伝統と秩序の上に立つ父王にとってそれは避けねばならぬこと。
……妹を妻?妹を妻……。
自らが無意識に使ったその言葉の意味を噛みしめるように復唱したホリーの顔は少しだけ赤くなる。
……憧れます。
……いやいやいや。今はその話ではなかった。
いつもの妄想に入りかけた自分の頬を叩き、先ほどの続きに急いで戻るとホリーは思考を続ける。
ホリーは兄が口にした先ほどの言葉をもう一度思い返す。
……それにしても……。
……私がこの国の王。ですか。
……おそらく兄上は本気。
……ですが、そうなるためには大きすぎる障害があります。
「どうやらホリーは障害となるものが大きすぎて自分が王になることなど不可能と思っているようですが、実はそうでもありません。それどころか意外に簡単な方法で実現できるのです」
ホリーの兄は再び彼女の心を読み切った言葉を口にする。
それから少しだけ意地悪そうな目でホリーを見つめるともう一度口を開く。
「私の言葉が正しいことはいずれわかります。まあ、それはそれとしてホリーにはそのための準備をしてもらいます」
「……何を、でしょうか?」
「まず今後は私の代理として多くの会議に出席してもらいます。その段取りは私がします。もちろん発言権などはありませんが、それでも現在この国にはどのような問題があり誰がどのようなことを考えているのか知る機会にはなります」
……いいでしょう。
……私にとって大事なことは、兄上がそれを望んでいるということ。
……そう。
……私にとって兄上の言葉がすべてなのですから。
そう。
わざわざ語る必要もないのだが、所々で漏れ出した心の声を聞けばわかるとおりホリー・ブリターニャはいわゆるブラコンである。
もちろんこの世界にはブラコンなどという概念は存在しないし、そのような呼び方も存在しない。
しかも、ホリー・ブリターニャの、兄に対する想いの深さは幼稚園の妹が小学生のカッコいい兄に憧れるレベルなので取り立てて騒ぐほどのものではないのだが、それでもホリーは二十歳に少しだけ届かない程度の年齢。
しかも、王女。
もし、ブラコンというその言葉を知るフィーネなどが彼女の様子を見たら大喜びでその言葉をホリーの兄であるアリストに向けて発することは十分に考えられる。
では、アリストは妹のその想いに気づいているのか?
残念ながら答えはノー。
この世で起こったすべての出来事を遠い昔から知っているかのような驚くべき知識と洞察力を持つアリストだったが、その能力のなかで唯一人並み、いや、人並み以下なのが恋愛という分野だった。
とりあえず他人に関してはその感度は十分に働くのだが、それが自らに関するものになるとなぜか急降下する。
つまり、アリストは妹がどれだけ潤んだ瞳で自分を見つめても絶対に気づかぬタイプの男なのである。
ホリーにとってはそこが魅力のひとつらしいのだが……。
「ところで……」
自らが口にしたものは一朝一夕で成し遂げられるわけではないことを十分に理解しているアリストは王位に関する話をそこであっさりと切り上げ、まったく別の話題を口にし始める。
「公的な目的以外でやってきた方々がこの国の食事をどのように評価しているのかをホリーは知っていますか?」
もちろん知っています。
ここはそう言いたいところだったのだが、さすがのホリーもこれには簡単には答えることができなかった。
様々な目的でこの国にやってきた旅人が各自の好みや懐具合によって自由に選ぶことができる市井の食事をどう思っているのかなどという国政にはまったく関係のない情報は王宮の奥にいるホリーの耳まで届くはずがない。
そうなれば、自らの舌を頼りにそれを探り当てるしかない。
だが、放浪癖のある兄と違い、正真正銘の箱入り娘であるホリーが知っている食事とは、毎日口にしている王宮で出されるものだけである。
「……悪くはないと言ったところでしょうか」
答えられる精一杯のものであるその言葉を口にしてからホリーは兄の顔を伺うように見てから心の中で呟く。
……どうやら違うようですね。では……。
世界一美味しい。
ホリーがそう言い直すことを思いとどまったのは、目の前にいる兄がこのような言い方をするときは大抵否定的な言葉が続くということを思い出したからだ。
ということは、正解は……。
この世界で一番まずい。
「随分悩んでいるようですね。では、ひとつ手がかりを」
正解には裏口から辿り着いたものの、その理由がわからず今日一番難しい顔をして考え込む妹を楽しそうに眺めたアリストはそう言ってヒントを与える。
「もちろん私も食していますからよく知っていますが、我が国の王宮で供される料理はたしかに悪くないです。いや、堅苦しくて楽しくはありませんが、味だけでいえば十分に美味しいと言えるものです。では、それをつくっている者は?」
「もちろん王宮専属の料理人です。なんといっても彼らはフランベーニュやアリターナで、あっ……」
そこまで言ったところで、ホリーはあることに気づく。
「そのとおり。自国の料理がこの世界最高。とまで言わなくてもそれ相応の水準にあれば、王宮の料理人になれる条件に他国で修行していることなどというつまらぬ一項が加わることはないでしょう」
「つまり……」
「この国を訪れる者、特に国の中央に位置し国境の向こう側の影響を受けにくい王都にやってくる者の不満は料理のまずさです。特にその味付け。私も多くの国を旅して初めてわかったのですが、この国の料理はハッキリ言っておいしくない。まあ、王都の料理屋で我が国の料理を十分に堪能していたおかげで、他国に行ってその土地の者でも避けるようなただ同然の料金とそれに見合う劣悪な味の料理を出す料理屋に入っても満足でき、そこから発生する問題に巻き込まれずに済んだのですが。ちなみに、知り合いの某国出身の方はまだ食べたことがない魔族たちの料理を除けば、我が国の料理はこの世界で一番まずいと言っていました」
「……なるほど」
心の中で多くのことを考えていたホリーの一番の疑問は、もちろん兄がなぜこの話を唐突に持ちだしたということだ。
驚くほど真剣にそれを考えるホリーの表情にたまらずアリストは笑いだす。
「この話の裏側には特別なものは何もないです。実は料理のまずいことで有名なこの王都に、やってくる外国人の多くが立ち寄る店があるのです。それどころか、その店を目的に我が国にやってくる者さえいる。しかも、そのなかにはかの国の一流料理人も含まれているそうです」
「それで、その方々の評判は?」
「……評判が悪かったのなら、そのような噂はあっという間に消えますが、どうやらその巡礼地はいまだ賑わっているようです。というか、評判はますます高まっているそうで、女性を中心に最近はその店に通うこの国の者も現れ始めたのだとか」
「なるほど……」
とりあえずその短い言葉を返してから、ホリーは再び思考の森に分け入る。
この世界で食の国といえば、間違いなくフランベーニュとアリターナ。
だから、王都で人気を博す店で供されるものとなれば、その二か国の料理と考えるのが一般的。
だが、その店の料理の目当てにサイレンセストまで他国の一流料理人がやってくるという言葉はそうでないことを示している。
なぜなら、フランベーニュとアリターナの料理人は自分たちがつくるものこそ最高峰であると信じているから。
つまり、他国の郷土料理ならともかく、先達によって生み出され、さらに創意工夫と努力によって極められた自分たちがつくる芸術作品のまがい物を供する店の料理を食するためにわざわざ他国にまで出かけることなどありえない。
そして、それはおそらく独自の料理体系を構築しているノルディアの料理人も同じこと。
つまり、その店で出されている料理とは我が国と国境と接せするノルディアとフランベーニュ、それにアリターナの料理ではない。
……ですが、そうなると困ったことがひとつ。
……フランベーニュとアリターナの料理人さえ虜にするような料理を持つ国。さらにその最高級の料理が本国ではなく料理がまずいと評判の我が国にあるとはどういうことなるのでしょうか?
……ですが、幸いにもこれは奥深きものは何もないとのこと。わからないのなら兄上に尋ねることが一番でしょう。
そう結論づけたホリーの口が開く。
「それは少々興味深いですね。それで、その店はどこの国のどのような料理を供するのですか?」
すぐにでもやってくるはずのものが一光年ほど遠回りをして忘れたころにやっときた感に思わず苦笑いしながらアリストがその問いに答える。
「その店のオーナーが言うにはヤバニという国だということです」
「……ヤバニ?ヤバニ?ヤバニ?」
思わずその国名を三度口にしてしまうくらいにホリーが驚き、そして戸惑ってしまうのも無理はない。
なにしろそのような国はホリーの脳内にある記憶の隅々まで探しても見つからない。
いや、そもそもこの世界には存在しないものなのだから。
それでも、ホリーは自分以上に多くの知識を持つ兄がそう言った以上、その国が存在するのだと、なかば強制的に肯定する。
そして、どうやったらそれが存在するのかを考え始める。
まるで、足りないピースでジグソーパズルを完成させようとするように。
再び迷いの森に彷徨い始めたホリーに救いの手を差し伸べるように兄の口が開く。
「どうやらヤバニとは彼女の頭のなかに存在する国のようです」
会ったこともないその女性に盛大にクレームを入れ、憂さ晴らしをしてから、心の中で起こったその出来事をなかったことにしたホリーが口を開く。
「なるほど。つまり、その料理とはその方が思いついた料理と……というか、その店のオーナーとは女性なのですか?」
言葉を言いかけたところであることに気づいたホリーは再び驚きの声を上げる。
そう。
この国において女性が組織にトップになっているというのは極めて珍しい。
もちろん庶民が通うような市場に並ぶ屋台程度なら女性が店主ということも珍しくはないのだが、話の内容からその店はそのようなものではなさそうだ。
そして、どのような大きさなのかはわからないものの、多くの客がやってくる程度のものとなると、店を出すにはそれなりの資金とコネがなければならない。
……ということは、そのオーナーとは貴族の奥様または、その愛人ということなのでしょうか?
……ですが、そうであれば、宮中で噂になるはず。では、その女性の後ろにいるのは大商人ということでしょうか?
思考が右往左往し、それに合わせて盛大に変化する妹の表情を面白そうに眺めながらアリストは言葉を続ける。
「ついでにいえば、本人の言葉を借りれば、その料理に欠かせない食材は彼女にしかつくれないものだそうです」
「資金を出しているだけではなく、料理もおこなうのですか?」
「現在は彼女がつくっているのは材料だけで、実際に店で料理を出しているのは彼女が雇った料理人ですね。まあ、料理人たちにつくり方は教えたのは彼女なのでしょうが。実を言いますと、私はホリーにその女性と会ってもらいたいと思っているのです。どうでしょうか?」
「も、もちろん問題ありません。是非」
突然やってきた兄の提案に、よからぬ想像と妄想の果てに心臓が破裂しそうになりながら、ホリーがどうにか答えると、彼女の想いなど届くはずもない鈍感な兄は嬉しそうに言葉を続ける。
「では、昼食がてら行ってみましょうか。その店……」
「『ハルワアケボノ』亭に」




