魔都への帰還 Ⅱ
アリストの言葉と視線によってつくられた緊張と沈黙が支配する場。
それを破るようにその場にいる全員の頂点に立つ者が口を開く。
「……アリスト。弟たちの無礼な言葉に気分を害したのはわかるが、礼儀を教えてやるのはそのくらいにして早くノルディアから持ち帰った土産話を私に聞かせてくれないか」
「承知しました」
短い時間であったはずなのにその何倍もの時間を針の筵で過ごしているような感覚に陥っていた王子たちを救い出した王のその言葉に、一瞬の間をおいてから応じたアリストは弟たちをもう一度眺め直し、それからもう一度口を開く。
「まず……」
それに続いてアリストの口が流れ出したのは、ノルディア王が額に汗して語ったノルディアにかけられた嫌疑を否定する言葉。
もちろん、そこから肝になるいくつかの情報を削り落とし、どんなに疑い深い人物にも差しさわりのないものにしか聞こえないように加工されているものであるのだが。
「なるほど」
すべてを聞いた王が再び口を開く。
「……だが、そういうことであれば形はどうであれ、やはりノルディアは対魔族連合軍から離脱するということになると思うのだが」
……そのとおり。
アリストは誰にも聞こえない言葉で父王の言葉を肯定する。
だが、実際のアリストは王のその言葉に首を横に振る。
「いいえ。私に語ったかの王の言葉を使えば、対魔族連合から離れるのではなく不本意ながらノルディアからは積極的には動けなくなっただけ。そして、ノルディア王からは誤解が生じないようにこの点を特に強調して陛下に伝えてくれと念を押されました。我が国は絶対に裏切り者にはならないと」
「なるほど」
アリストの言葉に王は黒味を帯びた笑みを浮かべる。
「ノルディア王も必死だな。では、ノルディアが魔族と休戦条約に調印したという話については何と言っていたのだ?」
「魔族に捕らえられた者の中に三人の王族がおり、彼らを確実に取り返す必要があったためその期間だけ停戦したのは事実だが、それはその期間だけのことであり、指摘されるようなそのような恥知らずな条約を魔族と結んだ事実はないとノルディアの王はきっぱりと否定しました」
「つまり、捕虜が帰ってきた現在は戦闘状態にあるということなのか?」
「形のうえでは。ただし、先ほど言いましたように魔族に支払った身代金がとんでもない額であり、大幅に低下した戦力を回復させるのは相当先になり現有戦力で攻めるのは困難であるため防御に徹しているとのことです」
「魔族は?」
「罠を疑っているのか、停戦がまだ続いていると勘違いしているのか知らないが一向に攻めてこないと。軍を再建する時間が必要な自分たちにとってはありがたいことだとノルディア王は言っていました」
「実際に戦闘になっていないのなら、やはり秘密の休戦条約はあるかもしれないな。それで、おまえはノルディアには戦線に復帰する意思はあると思うか?」
アリストは心の中では別の言葉を口にするものの、すぐにその言葉を飲み込むとアリストは薄い笑みを浮かべて口を開く。
「我々人間と魔族はお互いに相いれない存在。それはまちがいないでしょう。ただし、彼らの主力である人狼軍と同行していたエリート魔術師団が壊滅してしまいましたので、本格的に攻めに転じるのはそれらの再建が終わってからになるでしょうが」
「敗残兵で攻勢に出てもただ兵士を減らしてしまうだけ。そうなっては、逆にこれまで苦労して手に入れた占領地まで奪い返されるかもしれないということか。なるほど筋は通っている。それで、ノルディアの現状を見聞きしたおまえはそれにはどれくらいの時間がかかると思う?」
「軍の再建だけを考えれば数年。ただし、捕虜を返還するという魔族の奇手とそれに対する法外な要求によってノルディアの国庫は空にされています。しかも、その影響で国内は思いのほか荒れています。軍の再建の前に国の財政と秩序を立て直さなければならないでしょうから、最低でもさらに五年は必要ではないかと」
「つまり、その間は北方から魔族を脅かすことはできないということか?」
「そうなります。ただし、魔族も戦力的に大軍を仕立てて遠征する余裕などないでしょうから睨み合いが続くものと思われます。まあ、その頃には魔族の王都に到達しているはずである我々にとってはそれで十分でしょう。それに、陛下ももともとそのようなつもりだったのが、フランベーニュに乗せられたノルディアが強引に連合に参加してきたわけですから差し引きがマイナスということはないでしょう」
「そうだな。当初の予定に戻ったと思えば問題はない」
疲弊したノルディアを放置し、敵との緩衝地域に使う。
やや強引に王を説き伏せたアリストのこの策は、実をいえばグワラニーの構想とほぼ同じだった。
もちろん、双方とも予想こそすれども、実際に相手がそれを主張していたのかは確認してはいなかったのだが、この世界を代表する策士ふたりが期せずしてそれを目指すのだから、それは良策であったのは間違いない。
だが、そこに割って入り、その策に異議を唱える者が現れる。
「いいえ。さらに良い策があります」
終わりかけたアリストと王の会話に強引に割り込んできた言葉の主は四男だった。
「……ふむ」
王が眉間に皺を寄せたのは、これからやってくる言葉をある程度察したからだ。
渋々と言わんばかりの表情の王が口を開く。
「ファーガス。何か言いたいことがあるのか」
「はい。陛下」
もちろんこちらもすでにそれを察したアリストは表情こそ変えないものの、心の中で盛大に黒味を帯びた言葉を吐きだす。
……適当な理由をつけてノルディアに乗り込み、ノルディア領を経由して彼らの代わりに我々が北方を攻めるというもの以外にはない。
……いかにも戦争屋に取り囲まれたファーガスが考えそうなことだ。
……だが、それは使い物にはならないと、私はもちろん、父上もとうの昔に捨て去った策。
……北方から攻めるその軍をファーガスが率いて魔族領を蹂躙し、その成功によって王位に一気に近づきたいという思惑なのでしょうが、まったくの浅知恵です。それは。
……なにしろ、それを実行すれば、大軍を無駄死にさせたと王太子昇格レースから転げ落ちることになるのですから。
……もちろんファーガスひとりが階段から転げ落ちるだけであるのなら、私も止めませんが、彼の愚策のおかげで多くの者が飢え死にすることになるのですからここは動かざるをえませんね。
心の中で口にした自らの言葉を思い出しアリストの表情が少しだけ緩む。
……戦争屋。
……たしかにファーガスの取り巻きような輩を表すには適切な言葉ですが、フィーネが使う独特な表現を無意識に私も口にしてしまうとは。
心の中で自嘲気味に笑う彼だったが、自らに向けた視線があることに気づく。
その相手は父王。
アリストは小さく頷く。
その視線の送り主である彼の父王は彼の同意の仕草に同じように小さく頷くとおもむろに口を開く。
「わかった。では、聞こうか」
そして、王に促されたファーガスが自信満々に口にしたのは、まさにアリストが想像したとおりのものだった。
……一見すると、壮大に見えるが、少し考えればその策には大穴があることに思い至る。
……重臣たちの大部分はいずれそこに近づく。
……それに対して弟たちはその外見の華麗さだけに目がいって終わりだろうな。
ファーガスの主張を始まる前から看破していたふたりのうちのひとりは内なる言葉を呟く。
……まあ、とにかく……。
……ファーガスやその取り巻きが考えるものなど、やはりこの程度。
……そういうことであれば、父上がこの案を採用するかと言えば……。
アリストは王の顔を凝視し、王の心の内を探る。
表情から王がその策を許可するとは思えず、事実上ケリがついたのだから余計なことを言って面倒なことに巻き込まれないようにするため、アリストは様子見を決め込むことにした。
だが、同じように王がファーガスの提案を快く思っていないことに気づきながらアリストとは逆にここが相手を叩く好機に捉える者がいた。
次男ダニエル。
第一王子のアリストが王太子即位競争から零れ落ちた場合、順当にいけばもっとも王太子に近い人物である。
実をいえば、この第二王子も当初その問題点に気づかなかったものの、王と兄の表情からそれを察して逆進し、父と兄にだいぶ遅れてそこに辿り着く。
すべてをまとめ上げた男が口を開く。
「ファーガスに尋ねる」
ライバルからのものである金属的と表現できそうなその声に露骨に嫌な顔をしたファーガスだったが、さすがに王の前ということもあり、嫌であっても応じざるをえない。
「……なんでしょうか?」
表情を変えることなくファーガスが応じると、彼の兄にあたる男がもう一度口を開く。
「おまえの策には肝心な部分に問題があるがそれはどうするのだ?」
「問題?どこが?」
「言うまでもない。おまえはノルディア領を通って北方から魔族領に攻め込むというが、ノルディアが自国領を我が軍が通過することなど簡単に認めないだろうが」
ブリターニャとノルディアの関係を考えれば極めて常識的な意見であったのだが、重臣たちの中から感嘆の声が上がったのはダニエルの言葉でようやくそれに気づいた者が少なからずいたことを示すものである。
そういうことも含めて、ここでやめておけば、王の次男に対する評価が幾分かは上がったかもしれない。
だが、相手が顔を顰める様子を目にしたダニエルは止まれない。
勢いのままにさらに言葉を続けてしまう。
「実現するかしないかをわからず勇ましいことを並べ立てるとは、まさに馬鹿の見本だな。おまえは」
「なんだと」
兄からのものとはいえ、さすがに大勢の前でここまで言われては相手も黙ってはいられない。
もともと気が長くない性格なうえにライバル関係ということもありお互いに嫌っている間柄。
父でもある王の前ということでなんとか保っていた偽りの顔から出来の悪いメッキが剥げ落ち、本性が姿を現す。
「愚かなのはあんただ。ダニエル」
「なに」
「そんなものは武力をちらつかせて認めさせればいいことだ。もっとも、ノルディア相手に大敗したあんたが言ってもなんの脅しにもならない。その点、俺はフランベーニュ相手に大きな戦果を挙げているので言葉に重みがある。そんなこともわからないのだから愚かと言われてもしかたがないだろう」
ファーガスの言葉。
これに関しては大部分が事実である。
まず次男ダニエルが武勇の人という話は一度も聞いたことがない。
もちろん指揮官として出陣しているのだから個人の武勇など必要はないのだが、指揮官の大事な資質のひとつである判断力の欠如も彼の弱みである。
しかも、ダニエルにはそこに目下の者の言葉には耳を貸さないという素晴らしいオマケもつく。
そして、ファーガスが指摘したエケレン峠の戦いと呼ばれるノルディアとの国境紛争では、肝心な場面で部下たちの助言を無視した司令官である彼の決定が致命傷になってブリターニャは無用な損害を出して敗北したとされている。
一方のそれを指摘したファーガスはといえば、対魔族の共闘が決まってからのものであるため、自身が主張するものより遥かに小規模な小競り合いに毛が生えた程度のものではあったものの、国土の南で国境を接するフランベーニュ王国との戦いで勝者として名を上げていた。
一瞬にして、立場が逆転したかに見える両者。
だが、ダニエルも負けていない。
黒い笑みを浮かべて口を開く。
そして、そこで明かされたのはこのような時のために手に入れていた情報だった。
「重みとは笑わせる。おまえは自軍の最後尾で震えていただけで実際の指揮は叔父のファーネス将軍がやっていたのだから、手柄というのならそれはおまえではなくファーネス将軍のものだ。どうだ。これについて言いたいことがあれば言ってみろ」
実はこれまた事実。
つまり、ファーガスはお飾りの指揮官に過ぎなかったのである。
さらにいえば、その勇ましい言葉に反して彼は極度の臆病であり、初陣となった戦いではなんと大勢の部下の前で失禁する醜態まで晒している。
もちろんこの失態についてはさまざまな方法で口止めはされているが、多くの兵の前で起こったこのようなことが外部に漏れ出すことを完全に防ぐことができないのはどの世界でも同じである。
そして、高額の報酬と引き換えにこの情報を手に入れていた次兄はライバルに対するトドメの一撃として使うためにこの情報を隠し持っていた。
だが、ライバルがさらに強烈な一撃を用意していることなど知らない四男は、このような場で都合の悪い話を持ちだされて逆上する。
両者の口からそれまでは抑えられていた言葉が次々と飛び出す。
「腰抜けの分際で他人の勝利にケチをつけるな」
「なんだと。兄である私に対してなんという口の利きよう。おまえは馬鹿というだけでなく常識も礼儀も知らない奴のようだな」
「無能なあんたにふさわしい言葉を使っているだけだ」
「言ってくれるではないか。ファーガス。だが……」
「腰抜けの臆病者とはおまえのことだろう。なんといっても……」
いよいよ機が熟したと見たダニエルがその話を口にしようとしたその時、それを遮るように言葉が差し込まれる。
「ふたりとも場所をわきまえぬ見苦しい兄弟げんかはその辺にしておけ」
王の言葉。
実を言えば、それによって四男は救われた。
ダニエルが父王の言葉に顔を顰めたのは当然相手を追い落とす絶好の機会を逸したためだった。
だが、四男はそんなことなど知るはずもなく、相手の表情を見た彼は有利だったのは自分で、トドメを刺される寸前に助けられたのはダニエルだと盛大に錯覚する。
相手を嘲るふたり分の心の声が同時に流れる。
企てが成功しなかったばかりか王の不興を買うという失態に、不機嫌の見本のような表情で黙りこくるふたりの王子から興味なさそうに視線を動かした王が目をやった先はふたりの兄にあたる男だった。
「せっかくだ。ファーガスからの提案についてのおまえの見解を聞こうか。アリスト」
「まあ、率直な意見をいえば、それはやめたほうがいいですね」
王の問いにその人物は柔らかいがきっぱりとした口調でそれを否定する。
その瞬間、先ほどの失態を少しだけ取り返した気になったダニエルは大きく頷き、逆に恥の上塗りをされた格好となったファーガスは怒りで顔を真っ赤にする。
アリストは弟のひとりに視線を向けて呟いた瞬間、それはやってきた。
「その理由は?」
もちろんそれは返ってくるだろうとアリストが予想した言葉。
だが、その言葉を口にした相手はアリストの予想とは違う人物だった。
父王。
アリストもこれには驚く。
訝し気にその人物を見たアリストは王の視線が弟たちに向いていることに気づく。
王の言葉をそう理解したアリストは薄い笑みを浮かべる。
アリストが口を開く。
「もちろん補給の困難さ。具体的には貧弱な補給路」
「貧弱な補給路?」
さらに続く王の言葉にアリストが頷く。
「うまく交渉すれば、脅さなくても我が軍がノルディア領内を通ることは可能でしょう。ですが、それは通ることができるだけであってかの地の物資を我が軍のものとして利用するのは無理です」
「どういうことだ?」
「まず戦線を維持しているノルディア前線の備蓄と彼らに対するその補給計画は自軍を賄うだけで手いっぱい。食料を我々に分け与えるほど余裕はないです。そのうえ、ノルディアは国内が荒れ、すべてのものが品不足になっており食料を含むすべての物資が高騰しています。現地調達は無理ということです。つまり、我々は魔族領に送り出した自軍の補給を調達から輸送までノルディアの協力なしでおこなわなければなりません。しかも、前線までの補給線はとんでもなく長いうえに一年の半分を雪と氷で閉ざされています。これではとても補給は続かない。そうなれば……」
結末はわかるだろうとそこまでで言葉を切ったアリストはその場にいるひとりにチラリと眺めた。
それはファーガスを冷たい目で眺めたアリストだけではなく、実は父王も同じ気持ちだった。
だが、残念ながらそうはならなかった。
その口が開き、言葉が勢いよく流れ出す。
「物資は現地調達が第一。我々が奴らの代わりに攻め入るのだから本来はノルディア側に供出させるべきだが、そういうことであれば高くても買うしかないでしょう」
……これは驚いた。
それは嘲り以上の感情をもってそう言わざるを得ない言葉だった。
……補給路の維持よりも調達費用が問題だと考えているとは。
まさに親の心、子知らず。
アリストの説明に納得せず、失地を回復するためなおも自説に固執するように兄と王の会話に再び割って入ってきたファーガスの言葉にアリストは冷たいと表現したほうがいい視線とそれに相応しい言葉を言葉の主に投げ返す。
「高値でも買う者がいれば、品物はさらに値上がりします。それによって絶対に必要な食料でさえ多くの者にとって手が出せないものになります。その反感はまずノルディア王室に向きますが、我々が買い上げたことが要因だとわかれば燻っていた反ブリターニャの心に火がつきます」
「では、この際ノルディア全体を占領してしまえばいいではないですか?そうすれば、すべての問題が解決する」
さすがのアリストもこれには本気で驚き、その言葉を口にした弟を見た。
……表情から察するにどうやら心の底からそう思っているようですね。
その心の声とともにアリストが纏う空気は急激に変わる。
そして、それとともにその言葉も強いものになる。
「それをやったら我々はノルディアとの完全な戦闘に突入し、魔族とノルディアの二正面作戦を強いられる」
「まだある。弱体化している、戦意が落ちているといっても同盟関係であったはずのブリターニャがそれを破り、突然ノルディアに攻め入ってきたとなれば話は別だ。相当な抵抗が予想される。そして、ノルディアと戦うということは対魔族の予備部隊として控えさせていた軍の多くをノルディアに回すことになり、主戦場である東部方面において我々は予備軍なしで魔族と戦うことを意味する」
「さらに、ノルディアとの戦闘に勝利しても、今度は占領地の民を飢えさせないようにあり余っているわけでもない我が国の食料をノルディアに配る必要が出てくる。もちろんそれをおこなわないとなれば大規模な暴動が起き、我々はその鎮圧にかかり切りとなり北方から魔族領に侵入するという当初の目的がいつまでも実現しない」
「もちろんそれだけではない。我々がノルディアとの戦いを始めたら他の国にも動揺が広がる。フランベーニュに至っては奪われた領土を取り返す好機とみて我が国に攻め入ってくるかもしれない。当然そうなれば戦場がもうひとつ出来上がる。そして対魔族連合はあえなく崩壊する」
「つまり、我々にとってこの時期にノルディアと戦うことはいいことなどひとつもない。この程度のことも理解できないのであれば、私にはこの件についてファーガスと語るべき言葉はもうない」
「で、では、兄上はどうしろと」
「先ほど言ったとおり現状のままというのが選択肢の中で一番いいものだろう。たしかにノルディアが北方から攻めてくれれば敵を分散できるのだが、それができなくなくても、逆進した敵が突如我が国に攻め入ってくるよりも百倍よい。今はそれを押さえてくれるだけで十分だ」
「魔族どもがノルディア領に攻め入ってきた場合は?」
「そうなれば、ノルディアのほうから泣きついてくる。そのときは精一杯恩を売ってやればいい。そして、ロフォーテンあたりまで魔族を呼び込んだところで一気に叩く」
「……もっとも、魔族の中に少しでも気が利き、軍における補給の重要さを理解している者が北回りに進撃する場合に使えるのは極寒の悪路だけである事実に気づけば、補給能力を超えた大軍で遠征した場合の悲劇的な結末に辿り着くのはさほど難しいことではない」
……しかも、確実にそれを理解している者が魔族のなかにいることを私は知っている。絶対にそのようなことは起こらない。
……それどころか彼はノルディアの代わりにブリターニャがそこを通ってやってきた場合には私が考えたものと同じ手を使ってブリターニャを簡単に仕留めにかかるのは間違いない。たとえ防御が手薄に見えてもそれは罠。絶対に誘い込まれてはいけないのだ。
沈黙が再び支配する時間は意外に早くその終幕が訪れる。
兄の理論を崩すだけの言葉が見つからず歯ぎしりしながら黙り込む弟を憐れむように眺めていた王が口を開いたのだ。
「ファーガスよ。理解できたか」
「……はい」
とりあえずそう返答したものの、実のところ王の言葉はあまりにも短かったため何を理解したのかと尋ねられたのかはファーガスにはわからなかった。
だが……。
それがアリストとの差ということであれば、それはすべて環境と経験の差だ。
自分だってアリストと同じ経験を積んでいればアリストと同じ、いや、それ以上のものを出せる自信がある。
なんと言っても、自分はアリストにはない軍を指揮した経験があるのだから。
これが五歳年上の兄に見せつけられた圧倒的な能力の差を懸命に否定するファーガスの心のうちにあるものである。
だが、その声が聞こえる者がふたりいた。
ひとりはいうまでもなくアリストであるが、もうひとりは……。
「諸国を旅しているアリストと国内から出たことがない自分が同じような情報を得ているわけではないのだから判断に差が出るのは当然だと思っているおまえの気持ちはわからないでもない。だが、そうであっても考え方の基本がそもそも違うことは理解しろ」
その言葉を口にした父であるカーセル・ブリターニャだった。
さすがに自らの心の声が本当に聞こえたかのような父のこの言葉はファーガスにとってまったくの予想外のものだった。
あきらかに動揺するファーガスを冷ややかに眺める父王の言葉はさらに続く。
「まあ、おまえはまだ若い。今以上の高みを目指しているのなら、目の前のものにしか思慮が行き届かない現状を改善せよ。そのような者には民の統治などできないということを肝に銘じて」
そこまで言ったところで、王が視線を移したのはライバルの失態に喜びを隠せないと言った表情をしている次男だった。
「……それはおまえにも言えることだ。ダニエル」
「もちろん承知しています。陛下」
「……それならいいのだが」
疲れ切った表情を見せた王が口にした言葉はそれだけだった。
だが、この出来事のすべてを実際に目の当たりにした重臣たちは散開後囁きあった。
「……言いにくいことではあるが……」
「ああ。申しわけないが、あの方とふたりの実力は埋めようがないくらいの開きがある」
「というか、この国のことを考えれば、あの方以外の方が王になるなど考えられないことだ」
「そして、それは陛下も承知している」
「そうだな。私にもそう見えた」
その言葉はそれほど時間をおくことなく宮廷全体に広がっていくことになる。