祭りの残り香 Ⅳ
コンラード・ホルム。
それがこの日の交渉に備えて三日前にこの地にやってきたノルディア側の使者である見栄えのしない中年の男の名である。
このような場合には偽名を使うことが常道に思えるのだが、ホルムがわざわざ実名を名乗ったことには彼なりの理由があった。
それは、万が一囚われの身となったとき。
交渉相手。
そして、交渉する内容。
そのすべてが最高級の機密事項だ。
なにか不都合なことが生じた場合、偽名であれば、ノルディア側は「そのような者は我が国には存在しない」というひとことでホルムをただちに切り捨て、無関係を装ってすべてが終わりとなるが、本名であれば、さすがにそうはいかない。
つまり、偽名であるときより数段階生存率が高くなる。
長く国家間の秘密交渉に携わった者だけが知る経験と知恵ということであろう。
さて、彼の舞台となる交渉場所であるが、クアムート城攻略戦時にノルディア軍が本陣を置いた地にグワラニーがつくらせた仮設とは思えぬ建物となる。
その一室となる豪華な装飾が施された部屋。
そして、その上座となる場に置かれた手の込んだ細工がされた木製の椅子。
それに座るホルムは魔族の国の都であるイペトスートからやってくるという交渉人を待っていたのだが、実を言えば今のホルムは極度の緊張の中にいた。
この日から始まる本交渉を手際よく進めるためのものとなるこれまでの事前交渉は予想外に和やかに、そして順調に進んでいた。
これから始まる本交渉で決まる身代金の額も含めてすべての目的があっという間に決着できると思えるくらいに。
だが……。
まさか魔族側が多額の経費に音を上げ、捕らえた者全員をさっさと引き渡したいと本気で思っているなどとは爪の先ほども考えなかったホルムは、交渉があまりにも順調に進んだためにかえって魔族側がこの交渉のどこかにとんでもない落とし穴を用意しているのではないかを疑っていた。
そして、ホルムを送り出したノルディア国王や側近たちの疑いの度合いはその更に上をいく。
帰国した者たちの報告で王弟と王子たちが捕らえられたのは間違いない。
だが、これまで捕らえた者はすべて殺してきた魔族がこのような取引を持ち掛けてくるというのは実に怪しい。
もしかして、金だけを毟り取って約束を反故にしノルディアをガタガタにするつもりではないのか。
そういうことであれば、王弟たちの返還交渉をするために出向いた高官を捕虜の列に加えようと画策していることだってありえる。
捕虜のひとりを連絡役として使って送り届けられたグワラニーの手による自国語の捕虜リスト及び親書を読んだノルディア国王はすぐに罠でないかと疑った。
そして、王の意を受けた側近たちが思いついたのがホルムの起用だった。
その冴えない見た目に反し間違いなくその男は有能な外交官ではあるが、出自は後ろ盾もいないただの下級貴族。
そのホルムなら王の意図を汲み粘り強く交渉ができるうえに、万が一命を落としても派閥力学には一切影響を与えることはない。
いざとなれば責任をすべて押しつけて切り捨てることも可能。
選民意識が強く平民や下級貴族を道具程度にしか思わぬノルディアの大貴族たちが考えそうなことである。
もちろんそのような裏事情をホルム自身も十分に承知しており、敢えて本名を名乗ったのも根本にはそのことがあったからと言っていいだろう。
だが、切り捨てられる可能性があることを知りながらホルムがその役を引き受けたのは、事前に示された成功報酬の筆頭にある男爵位の授与と、それに続く領地と莫大な金品の存在だけではない。
いうまでもないことだが、それがたとえどれだけ高価なニンジンでも、手に入れられる可能性がゼロであれば、それは単なる見本。
よく言って空手形でしかなく、成功報酬などとは呼ばない。
そして、もちろんそのようなものに釣られて成功の可能性のない仕事を引き受けるのは愚か者というのがどの世界においても常識である。
だが、そちら側の住人ではないはずのホルムはその仕事を引き受けた。
実は大臣から魔族からの書状を見せられ、その交渉を任せたいと言われたホルムは、すべてを天秤にかけた。
そこから導かれたのは交渉成功の予感。
それこそホルムがこの困難な仕事を引き受けた理由である。
「仕事が終われば、爵位持ちの貴族になる。祝いの準備をして待っているように」
ホルムは家族に自信満々にそう言って魔族領に向かっていた。
だが、今のホルムは自分の判断が間違っていたのではないか動揺していた。
「お待たせしました。そして、初めまして、ホルム殿。交渉官のエビスです」
妄想の世界を迷走するホルムより少しだけ遅れてそこに現れたもう一方の当事者たるグワラニーは当然のように偽名を使う。
グワラニーは実名ではなく、この世界ではまったく意味を持たない六十年前に住んでいたある国の首都に存在する地名を偽名として使ったことを後に苦笑いしながらこう説明している。
「……クアムートの援軍を率いた者ではなく王都から来た単なる交渉人という肩書を使っているうえ、そもそもホルムなる男とはこの交渉かぎりで縁切れになるのだから本当の名を名乗っても構わなかったのだが、一応偽名を使った。だが、まさかそれがすぐに役に立つことになるとは思わなかった」
さて、その自己紹介から始まった本格的な交渉だが、厳しいやりとりはまったくなかったものの状況は一方的なものとなる。
そもそもこのような交渉は市場などで日常的におこなわれる値引き交渉よりもはるかに両者の力関係がはっきりと現れる。
つまり、強力な手札となる王族三人を含む大量の捕虜を持つ魔族側が圧倒的有利。
しかも、一方はどれだけ支払っても一刻も早く交渉をまとめ上げ捕虜を母国に連れ帰りたいと思っている。
そうなれば、本来ならお互いが少しずつ歩みよるはずの交渉が、譲歩をするのはノルディア側だけという茶番に成り下がるのは当然の成り行きと言えるだろう。
これまで多くの場所で披露した交渉テクニックを使う場面がまったくやってこない一方的な展開に控室に戻ったホルムは大きなため息をつく。
毎日がその繰り返しとなる。
そして、時間が過ぎ本格的交渉が始まって十日目。
グワラニーが交渉開始と同時にノルディア国内にこっそりと仕込んでいたあの一手がついに効果を表す。
状況報告に一時的に王都に戻り、魔族側には間違いなく捕虜返還の意志はあるが、交渉の早期妥結と身代金の大幅値引きは並び立たないことを報告しようとしたホルムの言葉を遮った直接の上司である外務大臣アンセルム・ベルコーク伯爵が口にしたのはその結果であった。
「予定変更だ。平民どもも含めて捕虜になっている者全員を取り戻すように交渉し直せ」
もちろんホルムはその指示を心の中で喜ぶ。
より多くの同胞を救える。
さらにいえば、ホルム自身もこの交渉で平民と同じ扱いだった下級貴族。
王族や爵位を持つ大貴族の捕虜分だけは身代金を支払うという当初の方針に良い感情を持っていなかったのは当たり前のことである。
だが、そのような心情などどこにも出すことなく、いかにもという顔をつくったホルムがその理由を問う。
ホルムのその言葉に本物の仏頂面で応えた大貴族の男が口にしたのは、まさにグワラニーが示した計画そのものだった。
「……それにしても三十人とは多いですね。彼らはどうやって逃げたのですか?」
露骨な交渉引き延ばしをおこなっていた魔族の目的が何であったかを察したホルムが口にした再びの問いに外務大臣を務める大貴族の表情はさらに険しくなる。
「魔族が余計なことをしたのだ」
「……もしかして逃亡の手助けをしたということですか?」
ホルムの誘いの言葉に目の前の男が重々しく頷く。
「やったのは平民や下級貴族の捕虜の世話をしていた魔族の兵士だ。世話をしているうちに情が移ったなどと魔族らしくもないことを言いだし、我々と魔族の交渉内容を捕虜どもに喋ったうえに、いらぬ知恵までつけて知り合いの魔術師に頼んでノルディア国境近くまで送り届けたらしい。その結果現在国中が大騒ぎだ。このままこの状況を放置しておけば収拾がつかなくなるうえに国外にも話が伝わり各国から干渉が入るのは避けられない。その前に必ず交渉をまとめ上げろ。こうなったら金額など二の次だ。確実に王弟殿下たちが戻ってくるのなら奴らの望む額を払うことを約束してもかまわん」
「……それはつまり相手が要求する満額でもよいということですか?」
もちろんベルコークの言葉は、この交渉相手から身代金を大幅値引きするという言質を引き出すことは困難と思っていたホルムにとって願ったり叶ったりともいえるものだった。
「陛下は王弟殿下と王子たちが戻って来なかった場合には我々関わった者全員を厳罰に処すると言っているのだ。陛下の願いを叶えるためには王宮はもちろんノルディア中から金貨が消えてもこの際仕方がないだろう。そちらについてはこちらでなんとかする。とにかくおまえは魔族との話をまとめてこい」
むろん、翌日ノルディア側の全面白旗で交渉は決着する。
そして、交渉最終日。
つまり、返還交渉成立の証する文書にサインするその日である。
「それにしても、皆さんは我が国の言葉が堪能なのですね」
捕虜返還協定の署名文書の交換後に催されたとてもささやかとは言えない宴。
勧められるままに酒を飲み、ほろ酔い気分になったホルムが思わず口にした言葉に目の前の男は薄く笑う。
むろん心の中では情報収集を怠るホルムの属する世界を盛大に嘲った。
だが、口を開き、流暢なノルディア語として現したのはそれとは無縁の言葉だった。
「皆さんと交渉するため必死に覚えたのですよ……」
グワラニーが口にしたのはその差しさわりのないひとこと。
そして、警戒心を煽るようなことにならぬよう、さりげなく、だが、確実にその話題から離れる。
「それよりも、もう一杯いかがですか。これはあなたの国でも相当な地位の方しか口にできないものと聞いていますよ」
そう言ってグワラニーはフランベーニュ産の特別な年につくられた封が切られていない葡萄酒が入った土器をホルムの前に掲げる。
見た目はともかく、相手は間違いなく魔族。
警戒心がなくなったわけではない。
だが、緊張を強いられた交渉が終わった解放感と、すでに体に入り込んだ大量のアルコールがホルムの心にあったそれを押しのける。
「いただこう」
更なる一杯を口にした男を笑顔とともに眺めながらグワラニーは心の中で呟く。
……いい具合に赤くなってきた。
……そろそろよさそうだな。
自らはまったく口にしないまま相手にはどんどん酒を勧め、目の前の男の注意力が大幅に下がったことを確信したグワラニーは過度といえるくらいに華美に演出されたその宴席を設けた目的のひとつを実行に移す。
「ところで、クアムートを包囲していた軍を率いていたかの将軍の武勇伝をお聞かせ願えますか?」
この時点でグワラニーは捕虜たちへの誘導尋問からその男がタルファという名の平民出身の将軍であるという情報は得ていた。
さらにタルファはクアムート侵攻の先陣として、大軍を率いて不可能に思えたあの山岳越えを敢行し、クアムート完全封鎖の成功に導いた傑出した人物であることも。
それから、その為人も。
だが、グワラニーはまだ情報は欲しい。
そう。
今後ノルディア軍と戦うときの障害になると思われるその男の情報は多いに越したことはないのだから。
酒の席での話であっても、立場が違う、まして権力に近い者の話であれば、新しい情報が得られるかもしれない。
だが、ホルムの口から飛び出したものはグワラニーにとってはまったく予想外ともいえる言葉だった。
やや顔を顰めた男が口を開く。
「……あなたはノルディア軍の恥さらしであるその全裸将軍タルファの何が聞きたいのですか?」
触れたくもない汚物を押しつけられた。
そのような不機嫌さが滲み出す男の言葉にさすがのグワラニーも戸惑う。
その言葉にどのような意図があるのかを把握しないまま話を進めるわけにはいかないと判断したグワラニーは少しだけ違う方向に攻め手を見出すことにした。
「そ、その全裸将軍とはどういうことでしょうか?」
目の前の男が口にした言葉にあったそれを取り出し、わざとらしいくらいに驚きながら問うたグワラニーの言葉に答えるためホルムはもう一度口を開く。
そして、これまでで一番というくらいに饒舌になった男が猛烈な勢いで語ったのは、クアムートで見事な撤退戦を披露し、勇者たちの助力はあったものの多数の兵士を全滅の危機から救い、英雄として奉られているはずのタルファが帰国後にどのような扱いを受けているのかということだった。
……笑えないな。それは。
ホルムが半ば怒り、もう半分で相手を嘲りながら語ったそのすべてを聞き終えたグワラニーは心の中でそう口にした。
……たしかに戦いの後に捜索した者たちがノルディア軍のものと思われる高級甲冑を多数発見している。
……だから、甲冑を脱ぎ捨てて逃げたのは間違いないだろう。
……だが、重い甲冑を着たままで疲労困憊の者たちがパラトゥード隊の追撃から逃れて勇者たちがいたバベロまで辿り着いたかといえば、絶対に無理だった。
……では、戦えばよかったのかといえば、そういうわけではない。
……すでにクアムートを落とすことは不可能になりそこに留まることは戦略的に意味をなさず、応戦しようにも、もはや味方は敵を撃退するだけの戦力を有していない。
……その状況で戦っても多少の敵を道連れにして全滅するだけ。
……もちろんそれによって守られる幾ばくかの名誉はある。
……だが、自らの自己満足、いや自己陶酔だけで無駄な戦いをおこない、預かった多数の部下を死地に追いやることが指揮官の仕事ではない。
……たとえ戦場から逃げ出した者という不名誉を甘受してでも残った戦力をできるだけ多く本国に連れ帰り再戦に備える。
……それこそが敗者側の指揮官がやるべきことであり、タルファはそれを完璧にやり切った。
……つまり、あれは最善の一手。
……それなのに多数の兵たちを生きて帰国させたタルファが地位を奪われ蟄居させられているだけはなく、周辺の住民から本人だけではなく家族も「国辱」として日々迫害を受けているとはどういうことなのだ?
……それにクアムートでの大敗はタルファの敵前逃亡が原因ということも納得できん。
……もちろん一軍の将としての責を問われるのは理解できる。また、クアムート攻略部隊の幹部で生き残ったのが彼ひとりであるのなら、実際のものより責任が重くなるのもよくあることだ。だが、タルファがクアムートの包囲を解き撤退したのは趨勢が決まってからであり、ノルディア軍の大敗の原因ではないだろう。
……それなのに、そのことを知っているはずの助かった兵士まで加わってタルファを叩いているとはあり得ない話だ。
心の中でそこまで呟いたところで、グワラニーは苦みを帯びた笑みを浮かべる。
……どのような理由かは知らぬがあれだけ有能な将軍を自ら捨て去るとはノルディア王とは相当な愚かな者。
……まあ、万が一、再びノルディアと戦うことになった場合でも、あの男が軍を指揮する可能性がなくなったということは、我々にとってはありがたいことではあるのだが。
そうやって一応の結論に達したところでグワラニーは別のアイデアを思いつく。
……いや。このままあの名将がただ朽ち果てるのを眺めるというのはあまりにも勿体ない。
……ノルディアがいらないというのであれば、我々が有効活用しようではないか。
薄い笑いを浮かべたグワラニーが口を開く。
「ホルム殿。ひとつ提案したいことがある」
もちろんその後グワラニーが口にした内容はホルムの酔いを一気に覚ますのに十分過ぎるものだった。
翌日、調印したはずの捕虜引き渡し文書を一時保留し大急ぎで王都に戻ったホルムが手にしたグワラニーからの提案。
それは……。
クアムート城を包囲し、我が国の民や兵士を苦しめたタルファを我が国に引き渡すのであれば、受け取る身代金からそれに相応しい額を割り引いてもよい。
ノルディア王都ロフォーテン。
その中心にある王宮内。
そこにいるのは四人の男。
その中心にいる人物が口を開き、その情報を持って魔族領から戻ってきた男に言葉をかける。
「ホルムよ。身代金を値引きしてまで手に入れたいというタルファを魔族どもはその後どうするつもりだと言っているのだ?」
玉座に座るその男の言葉に俯いたままで赤らめ顔のホルムがアルコール臭の漂う言葉で答える。
「たっぷりと辱めたうえに公開処刑。そして、城門に首を晒すと。そのため生きたまま引き渡すことを要求しています」
「……英雄として奉られているのならともかく、そのような扱いをしているのなら我々に引き渡しても問題ないのではないかとも」
そして、グワラニーが口にした値引き額は……。
「魔族どもは、望みが完璧に果たされるのであれば、現在の妥結額の十分の一で署名し直しても構わないと申しております」
つまり、九割引き。
それでもとてつもない金額ではあるが、それでも大幅なプライスダウンであるのは間違いない。
「それは悪い話ではないな」
「そのとおり。ハッキリ言えば魔族どもが要求し締結した身代金の額は我が国の支払いできる上限を超えている。もちろんその十分の一でもその状況は変わりませんが国辱を生きたままくれてやるだけで要求額が十分の一になるのならそうすべきと考えますが」
懐刀でもある外務大臣を務める男に続いて宰相の地位にあるアンドレアス・ラクスエルブ侯爵が口にした言葉に王は重々しく頷く。
つまり、王もそれと同意見だということだ。
王の口が開く。
「タルファには死後名誉を回復してやるとでも言って現地で魔族に首を撥ねられることを納得させよ」
その約束は間違いなく反故にされる。
もちろんホルムだけではなく、その場にいる全員がそれに気づいたものの、口には出さない。
つまり、暗黙の了解だ。
外務大臣ベルコークがもう一度口を開く。
「ホルム。陛下の裁可はいただいた。その条件でもう一度証書を交わせ」
「……ところで、魔族側はタルファの家族も一緒に引き渡すことを条件のひとつとして要求しています。それについてはいかがいたしましょうか……」
上司である外務大臣アンデシュ・ベルコークから指示を受けたホルムは暗にその部分について再考を求めた。
もちろんそうなれば、グワラニーが指定した条件の完全履行ではなくなるのだが、そこは値引き額を減らすことで妥協できるよう交渉すればよい。
そして、自分ならそのような形で妥結させることはできる。
それがホルムの腹積もりだった。
だが、返ってきた言葉は非情そのものだった。
「家族も咎人同然なのだ。気にすることはない。一緒にくれてやれ。だいたい家族だって残されてもいいことなどひとつもないのだ。一緒に死ねるのは本望だろう」
もちろんホルムも誇り高きノルディア軍人にあるまじきタルファの醜態には憤っている。
だが、さすがに幼子を含む家族まで巻き添えにすることに何の痛痒も感じない王や重臣の側に立つ気にはなれない。
王や大臣にとって、平民の命などこの程度のものなのだ。
そして、我々下級貴族の命も。
自らの暗い感情と唾とともに吐き出したいその言葉を飲み込んだホルムが再び口を開く。
「承知しました。それで、もうひとつの条件については……」
「その者が人間種であるのならそう目立つことはないだろう。その魔族が本人確認をしたいというのならタルファのもとに案内してやれ。とにかくここで抉れたら弟たち三人は帰って来られなくなる。くれぐれも賓客として扱うように。だが、現在でも魔族は我々の敵。我々が魔族を王都に呼び込んでいるなどと周りの者に気づかれぬように。護衛は口が堅い近衛を手配する」
「承知いたしました。陛下」
そして、その返答はすぐさまクアムート城に伝えられ、グワラニーは嬉しそうに側近に伝えるものの、相手はあきらかに好意的はない表情を浮かべる。
「結構なことです。ですが、グワラニー様自身が出向くのはいかがなものかと」
そして、その直後、表情にふさわしいそのような言葉がやってくる。
「だが、タルファ将軍が我々の受け取る身代金の九割引きに値するか確かめる必要はあるだろう。そして、ノルディア人に紛れて行動するためには人間種でなくてはならないだろう」
「それは理解しております。であれば、グワラニー様の代わりに同じ人間種の私が行きましょう」
「なぜ?」
「もちろんグワラニー様の代わりはいないからです」
「柄にもないことを言うな。それに代わりがいないと言うのなら、その言葉は私だけではなくバイアにだって当てはまる。だいたい私だって命は惜しいし、道半ばのこんなところで死ぬ気などまったくない」
「心配するな。絶対に崩れない完璧なほけ……備えを考えている」
「デルフィン嬢を同行させる」
今回の捕虜返還交渉を始めるにあたり、グワラニーはノルディア側にいくつかの条件を提示していた。
交渉をおこなう者はひとり。
武器の持ち込みは認めない。
交渉人は魔術が使えない者しか認めない。
もし、交渉人が魔術を使える者であることが発覚した場合、交渉は即座に中止し、交渉人及びすべての捕虜を斬首とする。
当然、ノルディア側も今回のタルファへの謁見について承諾するにあたり同様の条件を提示する。
タルファへの面会をおこなう者はエビス、つまりグワラニーひとりで、その場にはノルディア側の担当者が同席する。
魔族領からロフォーテンまでの移動はノルディア側の管理下でおこなう。
武器の携帯は認めない。
グワラニーはノルディア側が出した条件のほぼすべてを飲むが、少々の魔法が使える妹を同行させたいと申し出ると、その場で承認される。
ノルディアの代表であるホルムがグワラニーの申し出をあっさりと承認したのはむろん交渉決裂を恐れたことが主な理由である。
だが、魔法を扱えるといっても小娘ひとりの力などたかが知れている。
つまり些細なことだと判断したのも紛れもない事実である。
……彼女がクアムートでの大惨事の張本人であるなどとはノルディア側は想像もしなかっただろうな。
……まあ、それを想像しろという方が無理なのだが。
グワラニーはホルムが口にした承諾の言葉を聞きながら心の中で苦笑いした。
その時のことを思い返したグワラニー少しだけ笑みを浮かべ、それから口を開く。
「……どうだ?完璧だろう?」
そう言って納得させたバイアを留守居役に指名したグワラニーは、その日の夜に諸事情により将来結婚することを約束した少女とともノルディア王都ロフォーテンに姿を現わす。
「エビス兄さま。ロフォーテンは随分大きな町なのですね。建物をすばらしいです。それに人も多くて賑やかです」
少女が口にした、いかにも田舎から都会に初めてやってきた者が言いそうなその言葉にグワラニーは薄い笑みを浮かべる。
……まあ、王都イペトスートを含めて魔族の国にはここより大きな町はないのだからこの反応は仕方がない。
心の中でそこまで呟いたところで、グワラニーは自らがかつて住んでいた場所を思い出す。
……この程度でこれほど驚くデルフィン嬢ならこの世界の住人では絶対に想像できない異様な高さの建物が林立し、見たことがないものが走りまわり、夜も昼間と変わらぬくらいに明るいあの光景を見たら卒倒するのでないか。
……いや。甘いものが好きなようだから、この世界には存在しない様々な菓子が並ぶ店に入ったときの方が卒倒するかもしれん。
少しだけ昔を懐かしみ、それから自らが置かれた現状では起こる可能性が非常に低い未来にも思いを寄せたグワラニーが口を開く。
「せっかくロフォーテンに来たのだ。ここで一番おいしい菓子屋に連れて行ってもらうことにしようか。アリス」
「……はい」
デルフィンをこの世界でもありがちだが、実は元の世界にいたときに好んで読んでいた物語に登場する少女のものから採ったものである偽名で少女を呼んだグワラニーの言葉。
同行していたホルムがすぐさまそれに応える。
「では、王都で一番高級な菓子店である王室御用達の称号を持つ『シャンペゴット』に行きましょうか」
非公式なものであるが我が国の将来を左右する賓客であることには変わりない。機嫌を損なうことのないよう精一杯のもてなしをしろ。
それは王から直々に指示を受けたものであり、ホルムがその店の名を即座に口にしたのは少女が同行するのだから菓子を所望するだろうと準備をしていたからだ。
自らの予測が当たったホルムは心の中でほくそ笑む。
だが、ここでホルムにとって予想外のことが起こる。
いや、ここは予想外の出来事に出くわしたと言ったほうがいいだろう。
その出来事とは彼おすすめの店である「シャンペゴット」までもう少しというところで起こったものだった。
彼らが進む先にある高級店とはほど遠い庶民のなかでも貧しい者が利用する店と思われるパン屋の前に人だかりができ、そこから怒号が聞こえてきた。
ホルムの目配せによってグワラニーとデルフィンを取り囲む護衛の兵たちは無言のまますぐさま武器に手をやり、その少女は最高級の魔術を発動できるよう袖の中で杖を実体化させる。
一方、周辺の警戒とは裏腹にそれをそう重く捉えず、酔っ払い同士の喧嘩だろうと高を括ったグワラニーだったが、すぐにそれが大きな間違いであることに気づく。
「金貨二枚」
「……だが、パン一つに金貨二枚はさすがに高すぎるだろう。だいたい一昨日は銀貨十枚だった」
「悪いな。値上がりした」
「それでも……」
「そうか。そういうことなら特別に金貨一枚で売ってやる、その代わりにここで全裸になれ。得意だろう。人前で全裸になるのは」
あきらかに自らの立場を利用して店主が中年の男を甚振っている。
もちろんグワラニーもノルディアの物価が魔族の国よりも遥かに高いことは知っている。
……だが、パンひとつ買うのに金貨が必要というのはさすがに異常だ。
……しかも、周りの客も店主の横暴を止めることがない。
……まったくもって不快な光景だ。
「……あれが国辱タルファ。つまり、あなたの目的の人物ですよ。そして、あの店主の息子のひとりはクアムートで戦死しています」
厳しい表情で様子を見つめるグワラニーに気づいたホルムは店主がつけている喪章から導き出したその理由を説明した。
……そういうことか。
……真実を知らされていない者にとって、将軍の地位にありながらわが身可愛さに逃げ帰ったことになっている彼を憎む気持ちが生まれるのは当然だ。
……身内の者があの戦いで死んだとなればなおさらだ。
……だが、そうであってもさすがにあれはやり過ぎだ。
このようなことに関しては特別過敏に反応するグワラニーが救いの手を差し伸べようと口を開きかけた瞬間、男は要求された金貨六枚を置き、少し焦げた小さなパン三つを抱えて去っていく。
冷たい視線と嘲笑を背に浴びながら。
「なんとも御見苦しいものを見せしてしまい申し訳ございませんでした」
予定外の出来事に少々罰が悪そうに言い訳をするホルムの言葉を受け流すと、グラワニーはその店を指さす。
「いや。すべて貴国の事情ですから構わないです。それよりも、まずはあの店で買い物をすることにしましょう。代金はかなり足りないでしょうがこれでお願いしたい」
グワラニーはポケットから取り出しものを放り投げ、受け取ったホルムがそれをチラリと眺めると最上級の渋い表情をつくり、それからその意味を十分に噛みしめるように言葉を絞り出す。
「あれは元々庶民が通う店。通常の買い物でこれを出すのは……」
ホルムが受け取ったのはノルディア金貨。
一方、ノルディアの庶民の中でも最下層の者が利用するその店で売られる質の悪いパンは銀貨ではなく銅貨十枚が相場。
つまり、グワラニーの行為は子供相手の駄菓子屋で一万円を差し出すようなものである。
もちろんグワラニーもその程度のことは承知している。
そう。
これはいうまでもなく、胸糞悪い先ほどの一件に対するグワラニーなりの皮肉。
「では、まず手土産代わりにパンを大目に買い込んでもらい、釣りで肉と牛乳、それに果物を他の店で買ってもらいましょうか」