奇術師現る
旧魔族領で現在は魔族領に侵攻中の連合軍のひとつフランベーニュ王国が入植を進めるロシェという名の町。
いつもと同じ静かに迎えたその日の早朝、突如二百人を超える完全武装の魔族兵が現れる。
対する町の守備兵の数は前線からかなり離れていることもあり、野盗を追い払える程度の戦力である三十にも満たぬ数。
魔族の戦士一名を倒すのに最低でも人間の兵三名は必要とされるこの世界で、人間側が魔族の二割にも満たないこの戦いはあまりにも分が悪い。
しかも、兵力差を埋める優秀な魔術師もいない。
当然のようにあっという間に守備兵は駆逐される。
残りは非武装の入植者二千人。
いつもなら、ここからこの世界の習わしともいえる勝者が敗者に対しておこなう凄惨な儀式が始まる。
それによって人間に捕らえられた魔族は「この世に存在してはいけない忌まわしき存在」として女子供を含めてすべて殺される。
もちろん魔族にとって「卑しい存在」でしかない囚われた人間にも奴隷として魔族領へ連れていかれる者以外は同じ運命が待っているわけなのだが、この日に限り、それはやってこなかった。
「住民はすべて広場に集めました。さて、これからいかがいたしますか。グワラニー様」
王都から派遣された監督官が使用していた執務室から群衆を見下ろすように眺めるグワラニーに側近の男バイアがそう問いかけると、表情を変えることなくグワラニーが答える。
「もちろん予定通り」
「承知しました。ウビラタンとバロチナをここへ」
外見からもはっきりと魔族とわかるふたりの部下を呼び出し、短い指示をおこなってすぐに下がらせると、グワラニーはその場に残った男に声をかける。
「やっとここまで来たな。バイア」
「そうですね、グワラニー様。と言いたいところですが、そのやっととはいったいどちらのことを指しているのでしょうか?」
感慨深そうに口にした自らの言葉に、薄い笑みを浮かべて問いかける男の真意をもちろんグワラニーは理解している。
「もしかして、本来は上位種であるあのふたりが私の指示に従順に従うようになったことを言っているのか?」
自らも重きを置くそちらを口にしたグワラニーの言葉に男は頷く。
「グワラニー様が用意した今回の策は完璧です。ですが、作戦が完璧であっても正確に実行されなければそれは……グワラニー様の言うところの『砂上の楼閣』となります。ですから、実際のところ彼らがグワラニー様の指示に従うかどうかこそがこの策の本当の肝だったともいえます」
「そうだ」
男の言葉にグワラニーが頷く。
「特に家族や友人を人間どもに虐殺された者にとってはすぐにでも報復したいと気持ちを抑えるのは大変なことだからな。それで、本当に起きていないのか?それは」
「いいえ。さすがにゼロというわけには。ただし、それを起こした者はすぐに警備を任せていたコリチーバが処断したとのこと。被害者の前で」
「よろしい。だが、手駒が少ない我々にとって人員の損出はやはり痛い。今後同じようなことが起きないように規律の順守をもう一度徹底させろ。それから、ウビラタンたちの仕事が終わり次第この町を離れるわけだが、そちらの準備はできているか」
「もちろんです。我々は今日中にあとふたつ町を落とさなければいけないのですから、このような小さな町など仕事が終われば用済みです」
「よろしい。……それにしても、多くの人を騙し悪事を働くことがこんなに……楽しいものだとは思わなかった」
グワラニーはそう言って笑い、もうひとりもそれに続いた。
それからまもなく魔族たちはその言葉どおりせっかく占領したこの町を放棄して姿を消す。
その町で一番高い塔の先端に彼らとは無縁な国の旗を掲げて。
その不思議な出来事が起こる少し前。
「我々はアリターナ王国に降伏した魔族である。そして、我々は現在の主人であるアリターナ王の命によりこの町を占拠しにやって来た。本来なら人間は皆殺しにするところだが、現在は人間側についているため特別に見逃してやるから我々の気が変わらぬうちに退去せよ。なお、温情により食料と野盗から身を守る程度の武器の携行は許可する」
集められた入植者に向かって、選民意識が強い彼らが絶対に使用しないはずの人間が使う彼らの呼び名である「魔族」という単語とともに完璧なアリターナ語とたどたどしいフランベーニュ語でそう言ったのは警備兵を易々と殲滅した実戦部隊の指揮官ウビラタンとバロチナだった。
その後、入植者たちは二グループに分けられ、ひとつはフランベーニュ王国の砦に、もうひとつをそれより半分ほどの距離にあるアリターナ王国の砦に向かうように指示される。
それぞれのリーダーに手渡された手紙とともに。
もちろん拒否権などあろうはずもない住民たちは魔族たちに駆り立てられるままに避難を始め、見えないところから監視しており逃亡した者が出たら即座に全員を殺すという魔族の指揮官の言葉に操られるようにその指示に背くことなくアリターナ王国の砦には翌日、フランベーニュ王国の砦に向かった住民も翌々日には何事もなく全員が目的の場所に到着した。
だが、話はそこで終わりではなかった。
いや。
実はそこからが今回の本番だったと言ったほうがよいだろう。
なにしろグループのリーダーから渡された例の手紙を目にした双方の砦の指揮官はすぐさま軍を動かし、ロシェの地で三日間にわたり激闘を繰り広げたのだから。
「我がアリターナ王国はロシェの地を頂くことに決めた。異議がある場合は我が先兵として派遣した降伏し現在は我が国の配下にある下賤な魔族兵などではなく正規兵が堂々とお相手いたすので、この手紙を受け取ってから二日以内にフランベーニュ国旗を先頭に掲げ堂々と軍を向かわせたし。攻撃がない場合には貴国はこの占領を認めたものとする。なお、入植者の半数は占領の証しとしてそちらに送ったが、残りの半数はアリターナ本国に送り奴隷として使わせてもらう」
「我らは国王より秘密の勅命を受けた者。フランベーニュ王国が我が国の占領地域の不当占拠を画策しているという情報を掴んだため行動を起こし、その拠点となるロシェの占領には成功したものの、フランベーニュ王国の反撃を受ける可能性が高いため大至急救援を請う。なお、公式には魔族である我々が王の配下になってはいるという事実はないため我々はまもなく姿を消すが、町の占領の証しとして塔にアリターナ国旗を掲げるので国旗が見えればまだ再占拠されていないと思われたし。追伸。入植者の半数はこれから殺すが、残りはそちらに捕虜として送ったのでご随意に活用されたし。また、有能な指揮官殿には余計な助言だとは思うが、我らが王の配下になっていることは王からの公式宣言が出されるまで他言無用となる極秘事項であり、万が一漏れるようなことがあれば王から厳しい罰があることをお忘れなく」
十日後。
「あの程度の陳腐なトリックで仲間割れを起こすとは彼らの連合とやらもたいしたものではなさそうですね」
「まったくだ。統一国家である我々とは違い、相手は所詮利害が一致しただけの寄せ集め。相互不信の種を植えつけることはできるだろうとは思ってはいたが、まさかこれほどの成果が得られるとは思わなかった。だが、とにかく我が国に侵攻した国が隣国同士で小競り合いを始めてくれたのは実にありがたい。これで侵攻の速度はだいぶ遅くなるだろう」
ほぼ無傷の兵とともに王都郊外の館に帰還し、現在は不眠不休で働いた疲れを癒している、あの二通を含む連合国が次々に小規模な戦いをおこなうきっかけとなった多数の手紙の執筆者はその策の成功をあらためて噛みしめていた。
グワラニーと共に部下たちに連合国の言葉を教え込んだ今回の黒幕のひとりが笑いを堪えながら言葉を続ける。
「ところで、ウビラタンとバロチナのふたりから再出撃はいつになるのかと問い合わせが来ておりますが、なんと答えておきますか?」
その言葉にその男は驚き、苦笑いしてしまう。
「……四日間休みなしで働いたというのにまたすぐに働きたいとは勤勉だな。彼らは」
「ですが、勇者登場以来敗戦続きだった我々にとっては痛快極まりない今回の大戦果の立役者になったわけですから、当然部下たちの士気は高い。その熱が覚めないうちにさらなる戦果を挙げたいと思うのは兵を預かる指揮官として当然のことではありますが……」
その口に物が挟まったようなその物言い。
それから、そこで語られなかったこと。
それこそが男の意見。
そして、それは男の上司の意見でもある。
「次の作戦のために準備を兼ねてしばらく休養を取るとでも言っておけ」
「それがいいですね。まさかこれから同業者が大量に涌いて出るから、あとは任せるとはやる気満々の今の彼らには言えませんから」
「そういうことだ。だが、勤勉なウビラタンたちには悪いが、我々だけが戦果を挙げ続けたら将軍たちに妬まれてしまう。戦果を譲ってやることも組織には必要なのだ。それに……」
「所詮今回の策は詐欺の一種。種さえわかれば対策はいくらでもある。つまり、今後はこのような戦果は期待できない。だから、損害のわりに戦果が得られないものに少数の兵しか預かっていない我々は関わるべきではない」
「先駆者として、そして完璧な勝利者として名が残る我々は傷つかず、さらに我々が参加しない戦いで将軍どもが失敗すれば我々の価値はさらに上がる。しかも、休める。いいことずくめだ」
グワラニーはそう言って笑い、もうひとりの男も彼と同じ種類の笑いでそれに応じた。