終幕への序章
それからほどなくアリストは父王カーセル・ブリターニャの呼び出しに応じて王宮へ向かう。
むろん要件はフランベーニュが魔族と全面停戦したことに対する対策について。
当然文官を統括する宰相アンタイル・カイルウスも呼ばれる。
そして、アリストの強い希望により軍最高司令官アレグザンダー・コルグルトンと海軍出身の副司令官ベネディクト・レーンヘッド、陸軍司令官に任命されたアルバート・カーマーゼンもそこに加わる。
「宰相。現在まで手に入れた情報を話せ」
王の言葉に応えるようにカイルウスは状況の説明に入る。
「あのベルナードが占領地を放棄し撤退した?しかも、それを魔族は追撃もせずに見送っただと?」
「ということは、停戦は完全に本物ということなの?か」
それは軍関係者にとって衝撃的な内容だった。
そして、それとともに専門家である彼らはすぐに気づく。
「ということは……」
「間違いないだろうな」
「フランベーニュはベルナードの軍をブリターニャへ向けてくる」
自分たちブリターニャの全軍を敗走させたという拭い難い苦い記憶だけではなく、最後の最後まで魔族軍との戦いで優勢を保っていたという事実を知るカーマーゼンが漏らした言葉に残るふたりも同意するように頷く。
「問題はフランベーニュ軍がブリターニャ領に踏み入ってくるかということだが……」
「来るでしょうね」
コルグルトンが呟くように口にした問いにアリストはそう答えた。
「我々だって、魔族との戦いが終われば、この世界の覇権を賭けて戦うつもりなのです。当然彼らも自分たちにとって都合の良い状況が生まれれば動く。そして……」
「彼らにとって目障りな存在が魔族と戦いを始めた瞬間。それが彼らの望んだ状況。間違いなく行動を開始することでしょう。あれはその布石」
「であれば、フランベーニュとの国境の強化を早急におこなわねばなりますまい」
「それだけでは厳しいでしょうね」
「ベルナード将軍自身が歴史に名を残す名将であるうえ、その配下もグミエール将軍をはじめとして有能な者ばかり。さらに兵たちも精強。そもそも数が違う。ことが始まればあっという間にこのサイレンセストまでやってくることでしょう」
「まあ、ベルナード将軍は規律に厳しいそうですから、どこかの軍のような兵士でもない女性や子供を害する野蛮な行為がおこなわれることはないでしょうが」
「では、どうすれば?」
「簡単なこと。魔族殲滅の前にベルナード将軍の軍を叩く」
アリストがそう言った瞬間、軍幹部たちの顔色が変わる。
彼らの頭の中には前回のフランベーニュ領侵攻時の大敗の記憶がある。
あの時は有能な指揮官と強兵を多数揃え、さらに策も完璧なものを用意した。
それにもかかわらず結果は多くの指揮官と百万以上の精兵を失った歴史的大敗。
最低十年はかかるというその再建がやっと始まった現状での再攻勢は勝ち負け以前に物理的に不可能。
三人の軍幹部は顔を見合わせ、代表であるコルグルトンがわざとらしい咳払いで仕切り直しをおこなうと、口を開く。
「王太子殿下。その意図は十分に理解できますが、実際問題として……」
「攻勢は難しいと言いたいのでしょうね。まして、相手がベルナード将軍となればなおさらです」
コルグルトンの口から流れ始めた言葉をそう言って遮るとアリストはさらに言葉を続ける。
「ベルナード軍を叩く役は私と私の護衛が引き受けます。軍にお願いしたいのはベルナード将軍を私の前に引きずり出す役。この程度ならさすがに今の軍でもできるでしょう」
妄想にも思えるベルナードと二百万以上の軍を叩くというアリストの言葉だが、それが現実可能であることはすでに証明されている。
そして、そこでベルナードと彼の軍を消滅させれば心配の種は完全に消える。
だから、それについてとやかく言う気はない。
問題はその次の言葉である。
私の前にベルナード将軍の軍を引きずり出す役。
その程度ならできるでしょう。
つまり、囮。
いや、餌と言ってもいい。
もちろん勝利のためならそのような役でも喜んでおこなう。
だが、その言い草はない。
公的な場でここまで言われてはブリターニャ軍の幹部としてひとこと言わねばならない。
たとえ王太子であっても。
再びふたり分の視線が集まった男が口を開く。
「王太子殿下に申し上げます」
「たしかに現有戦力でできるのは王太子殿下のお役立つ程度なのかもしれません。ですが、その役を担う者の多くは生きて帰ることはならないのです。さすがにその言い方は死んでいく兵士たちへのものとしてはやや乱暴に思うのですが……」
「自尊心に満ちた言葉。感服します。ですが、その自尊心を尊んだ結果が毎回の大敗と大損害。今の軍には私の言葉に意見できる立場にないことを自覚してください。そして……」
「私の指示通りに動き、兵を死なせてください。それが軍の指揮官であるあなたがたができる唯一のことです」
「そういうことでまずベルナード将軍の部隊が国境に展開する前にこちらの配備を完了してください」
「もちろん二百万の敵を迎撃できるように」
その言葉とともにその日の会議は終了するが、収まらないのはコルグルトンたちである。
王の前ということもありその場ではなんとか耐えたものの、軍幹部たちの専用酒場で酒を飲み始めるとその怒りは爆発する。
「それだけの力があるのなら、囮など使わず自身が出向いてベルナードを仕留めてくればいいだろう」
「というより、これまでの戦いでのその力を使えば、我が軍があれだけの損害を出すことなく済んだではないか」
「そのとおり。だが、『オエスタッド峠の戦い』でも我々があれだけ攻撃を受けている中、助ける様子は全く見せなかった。その時は自身を守るだけで精一杯なのだと思ったが、あの様子では単に助ける気がなかっただけということになる。もしかしたら、ブリターニャ軍兵士が死ぬことを王太子殿下は望んでいるのではないか……」
次から次へと出るアリストへの不満。
それが一段落したところでコルグルトンが大きいため息をつく。
「だが、陛下が何も言わないということは王太子殿下の言葉を承諾しているということだ。ということは、我々は王太子殿下の理不尽な命令に従わざるを得ない。たとえ納得いかなくても」
「まさにアルフレッド・ブリターニャの呪いだな」
「まったくだ」
アリストによる軍幹部に対する強圧的とも言える強引な自らの計画の押しつけ。
むろん父王もアリストの変化に気づく。
現状を考えれば、難敵ベルナードに対する対応は軍ではなくアリストとその護衛達がおこなうべき。
そして、弱体化した軍ができるのは囮役くらい。
アリストのこの指摘は間違っていない。
だから、アリストの主張を否定しなかった。
だが、以前のアリストならもう少し冷静で表現も間接的であった。
「……あの場では言わなかったが、あれは少し表現が悪かったな。アリスト」
ふたりだけになった父王はアリストを諭すようにそう告げた。
「急いでいるのはわかる。だが、焦りは禁物だろう」
「相手があの男であるのならなおさら」
そう言って父王はアリストを見やる。
そして、父王のその言葉から一瞬よりもかなり長い間をおいてアリストは薄い笑みで応じる。
「……全くそのとおりです。状況が悪くなる一方だったので少し熱くなっていました」
「コルグルトン将軍たちには次の会議で謝罪することにします」
「それがいいだろう。だが、おまえの言うとおり、魔族との戦いで前のめりになったところで背をベルナードに突かれたら目も当てられない。まずベルナードを叩くという計画自体は間違っていない。計画はそのまま進める」
軍幹部が計画の素案を持って参内してきた翌々日に開かれた会議の冒頭、アリストは三人の軍幹部に昨日の非礼を詫びる。
そこから始まった会議はむろんアリストが示した計画に則ったものが提示される。
だが、それを見た瞬間アリストの表情は再び厳しいものへと変わる。
「コルグルトン将軍。わずか二日間しか時間がなかったのだから計画が大雑把になるのは理解できるし、二百万のフランベーニュに対抗できる数を揃えた囮役を用意するようにと言ったのはたしかに私です」
「ですが、これはちょっと……」
提出された計画書にはこう記されていたのだ。
部隊は追加で徴兵した者で構成される。
つまりその大部分が戦いの素人ということである。
「ちなみに指揮官は?」
「むろんいます」
「それはいるでしょう」
「つまり、その程度ということです」
……一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れは、一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れに敗れる。以前フィーネはそう言いましたが……。
……一頭の羊に率いられた百頭の羊の群れですね。これは。
……まさに全滅必死の囮役にふさわしいのですが……。
……ですが、相手はベルナード。このような囮ではすぐにこちらの意図が看破されます。
「将軍。素人同然の者が率いる素人の集団であのベルナードを騙されると思いますか?」
「もちろんです」
「たとえ弱っていようが逃げる獲物を見れば追いかける。これが猟犬の習性。そして、追いかけ始めれば何があろうが簡単には止まれない。問題ありません」
……ベルナードを自分たちと同程度と判断したということですか。
……だから、軍に任せるなど……。
そう思いかけたところで、アリストは昨晩の父王の言葉を思い出す。
「だが、あまりにも脆いと罠の存在が露呈するように思うのだがそれについてはどう考える?」
「その可能性は全くないとは言いません。ですが、それは一線級を投入しても同じ。そうであれば経験を積んだ者を殺されるだけの目的に投入できません。我々には囮役に一線級の将兵を投入する余裕はありません」
「なにしろ魔族軍の大軍と対峙しなければならないのですから」
「戦力の温存を図りたいということですね」
アリストは三人の将軍に目をやる。
……本気か。
……グワラニーの部隊が相手になれば、あっという間に灰になるだけ。それこそ無駄な死。そうであれば、少しでも役に立つ死に方をすべきだろうに。全くわかっていない。
……言わねばならない。
だが、アリストがさらなる言葉を加えようとして瞬間、別の者から声が上がる。
「よろしい。それで進めよ」
それが父王の決定だった。
「いいな。アリスト」
「もちろんです。陛下」
父王の決定により、中途半端なものに成り下がった自身の策。
だが、それでも提唱者である以上、予定通りの戦果を挙げなければならない。
そのためには……。
「……こうなったら国境を超えてフランベーニュに入るべきだと思うのですが……」
その日の夜。
いつもの酒場でアリストはそう問うた相手はむろん勇者一行である。
そして、アリストが想定していたのはフィーネ。
だが、その問いに真っ先に答えたのはいつもは話に加わらないファーブだった。
「ダメに決まっているだろう」
「理由は?」
「アリスト。おまえが狙うのはベルナード率いる二百万。それを殲滅すれば、すぐにそれをやったのが俺たちだと知れる。たとえば、おまえがあの魔族とおかしな約束をしていなければ俺は何も言わない。だが、約束した以上、それを守らねばならないだろう」
「どうしても、フランベーニュ領内で魔法を使いたいのなら、あの魔族に許可を取るべきだ」
正論である。
アリストは苦笑する。
「さすが勇者というところですね」
「茶化すな。それに、約束を破ることを考える前にベルナードを目の前に呼び寄せる別の策を考えるべきだろう」
「違うか?」
これまた正論。
アリストの苦い笑みがその濃さを増す。
「たしかにファーブの言うとおりなのですが、それがないから裏道を通るべきかと尋ねているのです」
「囮役を準備し、ベルナード将軍の軍を攻撃し、盛大に負け後退すれば、それを追ってフランベーニュ軍が私の前にやってくる。ですが、この策は重要な問題点があります」
「相手が用心深いベルナード将軍であること。さらに彼のもとに前回同様の状況を目の当たりにしているグミエール将軍がいる。このまま進めば私が待っているのではないかと疑う」
「この時点でこの策が成功する確率は大幅に下がるのですが、それでも進撃してきたのがブリターニャ軍の精鋭となれば話は変わります。負け続きであるうえにブリターニャはこれから魔族との決戦を控えている。そのような状況の中で一線級の部隊を囮として使う。ただの囮役に一線級の部隊を使うはずがない。すなわち、この侵攻は本物。たとえこれが囮でもこの一線級ならば叩く価値はある。追うべきと思わせる」
「ベルナード将軍を騙すにはこれくらいのこととやらなければならないのです」
「そうであっても、乗って来ない確率が半分」
「ですが、軍が出したのは徴兵で集めたばかりの素人兵。どうせ死ぬ囮役に貴重な将兵を使えないというのは軍幹部の主張ですが、これではベルナード将軍にこちらの策を看破され陣深くまで誘い込まれ袋叩きにあって終わりでしょう」
「ですが、これではただ兵を失っただけとなり提案者としては困るのです」
「それで、ファーブ」
「この状況を打破するにはどうしたらいいでしょうね」
「やめればいいだろう。その小細工を」
「まったくだ。つまらんことを悩んでいるものだ。アリストは」
ファーブらしい答えに続いたのは兄弟剣士の兄。
「そんなものは放っておき、魔族との戦いに行けばいいだろう」
「では、フランベーニュ軍が攻めてきたらどうするのですか?」
「叩けばいいだろう。そうなったときに」
「ブランの言うとおり。将来敵になるかもしれないからと言って殺し回っていたら、ベルナードどころかフランベーニュ軍の兵士全員を殺さなければならない。いや。アリターナもアストラハーニェもノルディアの軍人も全部殺さなければならない」
「いや。将来軍人になるのだから他国人はすべて殺さなければならないぞ」
「そして、殺戮王アリスト・ブリターニャの出来上がりだ。いい未来図だな。アリスト」
酒、肴となっていた肉の油によって口がよく回るふたりはあっという間に話のゴールまで辿り着く。
「こいつらの言うとおりだ。やめておけ。小細工はアリストの言う小細工職人に任せておけばいいだろう。おまえは奴と違い将来の王だ。王なら王らしく堂々とやるべきだろう」
「もっとも、今のアリストは王太子。そうであれば王の決定に従うべきでしょう。たとえ、それが失敗するとわかっていても。もちろん囮役がベルナードを連れてくる奇跡を信じて」
ようやく出番が回ってきたファーブがそう言うと、フィーネが皮肉交じりに言葉を加え、アリストを冷たい視線を送る。
……つまり、フィーネも反対ということですか。
「……わかりました」
アリストは大きなため息をつき、それから続きの言葉を漏らす。
「ですが、気が重いですね。提案者としては」
「まあ、死んでいく者を思う気持ちがあるだけ、徴兵した直後の兵たちを敵前に送り込み、それを痛痒に感じない軍幹部よりマシということでしょう」
「マシですか。しかも、比較対象があの三人。随分と低い評価のような気がしますが」
「いやいや、私はこれでも身内に甘いと評判になっています。当然甘々な評価です」
「ちょっと待て。どこが身内に甘い」
「そもそもフィーネが他人に甘いなどというそんな話聞いたことがない」
「そのとおり。『身内に厳しい』の間違いだろう」
「つまり、私の評価はもう少し高いということでいいわけですよね?」
「いや。それとこれとは別の話だ」
「そのとおり」
「というか、その点にはついてはフィーネの評価は本当に甘い」
話を締めるようにファーブがそう言ったところで全員が笑った。
……ほんの少し前まではこんなものは日常のありふれた光景だったのですが、本当に久しぶりのような気がしますね。
フィーネは薄く笑った。