オエスタッド峠の戦い
その経緯と戦いの連続性から「第二次ラダムの戦い」とも呼ばれるものの、実際の戦場はラダム平原より西に位置するオエスタッド峠であり、当然正式な名称は「オエスタッドの戦い」となるその戦い。
その規模から考えれば、「会戦」の名称を使用するべきところなのだが、後世の歴史学者の検討した結果「ラダムの戦い」に引き続き見送られることになる。
それについてはすべてが終わったところで話すことにして、戦いに入ろう。
その名のとおり、魔族軍はオエスタッド峠に布陣していた。
といっても、その名を冠した峠がある丘陵地帯につくられた街道を中心に丘の中腹に軍を配置し、「アザバの大森林」を抜けティーバル平原から進攻するブリターニャ軍を待ち受ける。
魔族軍の視界に入らない「アザバの大森林」での最後の打ち合わせで斥候から魔族軍の配置を聞いたグレナームは小さく頷く。
「まあ、私が魔族軍の指揮官でもあの地を迎撃場所に選ぶ。当然だな」
「高台から俯瞰的に平原に入る我が軍の戦力を把握し攻撃できるのだから」
「通常なら迂回など様々な方法でそれを避けわけなのだが、今回は予定通り進軍する。なぜなら……」
「敵を殲滅する。それ自体が目的なのだから」
だが……。
「……土塀と柵?」
さらに魔族軍の陣地手前には少しだけ土が積み上げられ柵が設置されていることが物見の兵から報告されると、リムリックの表情が変わる。
「土塀の高さはわかるか?」
「おそらく二ジェレトほどかと」
「まあ、それくらいあれば相応の防御にはなるな」
「では、そこを避けるように……」
「柵は全面に設置されていますのでそれは難しいかと」
「なるほど。つまり、我々はそれを突破しなければ敵陣に到達できないわけか」
「まあ、いつもの砦奪取と同じと考えればいいだろう」
物見の兵に報告に呻くリムリックにグレナームがそう声をかける。
「だが、予定していたより相当厳しいな。梯子も持ち込んでいないし」
「……わかっている。だが、どれだけ条件が悪くてもやるしかないのだ。我々にはそれしかない」
「そういうことだ。では、もう一度戦いの手順を確認する」
「前衛たる三集団が前進する。森を出た瞬間、突撃を開始したいところだが、さすがに一アケト近く走ってからの戦闘は厳しい。体力は温存させておかねばならない」
「進軍中、魔族軍の激しい火球攻撃は受けるだろう。だが、ここは耐えるしかない。こちらの魔術団からの攻撃は我々がまもなく土塀に取りつくところで開始。そうなれば、前衛部隊に対する攻撃は止む。そこを狙って突撃し土塀に取りつき魔族軍兵士と戦闘を始める」
「こうなれば、魔法攻撃を受ける心配はない。あとは力勝負」
「峠の頂上の占拠。ここまでが今日の目標とする」
「誰が一番乗りかを競争しようではないか」
「いいだろう」
「私も承知した」
三人の将、そして、アンディ・フレミングは前祝いの酒と称して注がれた酒を飲み干すとそれぞれの陣へ向かった。
その日の夜。
アリストはフィーネやファーブたちに会議の様子を語って聞かせていた。
「どう思いますか?」
むろん、それはブリターニャ軍の策の成否についてである。
「私が前線にいるのです。グワラニーも小細工をすることはできませんから、純粋にブリターニャ軍と魔族軍の戦いになるということになりますが」
「私が魔族軍の将であれば、絶対に疑うと思います。その配置は」
それがフィーネの感想となる。
「前回あれだけ叩かれていながら、魔術師の数が少なすぎる。どこかに魔術師を隠しているのではないかと」
「当然、隠れていそうな場所に火球なり氷槍なりを撃ち込みます」
「そして、あの男もそうすると思います。それについては?」
「実を言えば、私もそう思い、魔術師を束ねるアンディ・フレミングに尋ねてみました。その答えは戦闘が始まってしばらくの間、魔術師たちは戦場から遠く離れた場所で待機しているので被害を受けることはないとのことでした。さらに、その後攻撃された場所に移動するとのこと。さすがに敵を攻撃した場所に移動するなど想像もしないでしょう」
「たしかに。ですが、そういうことなら、最初にいた場所から攻撃してもいいでしょうに」
「まあ、それはフィーネや私だからできることで、ブリターニャ軍の魔術師は寄せ集めですから精度に問題があるのでしょう。下手をすれば、味方がいる場所に火球を降り注ぐなどということになりかねませんから目標が視界にある場所まで移動するということなのでしょう」
「……その程度の策であの男を出し抜こうというは考えが甘すぎると思います。あの男ならこちらの策を完全に読み切ったところで、それを利用した完勝する策を用意していることでしょう。そして、今度大敗するようなことになればブリターニャ軍は立ち直れないくらいの損害を被ります」
「そう考えたら、今更ではありますが、戦いをやめるのが一番だと思います。そうすれば、少なくても立ち直れないような損害は出さなくても済みますから」
持ち込んだ清酒を口に含みながらフィーネがそう言うと、そのフィーネを見やりアリストは苦笑する。
「残念ながら止まりませんね。あとは彼らに勝ってもらうしかありません」
「もちろん私もこの策を実行すれば多くの損害が出ると思っています。ですが、多くの戦死者が出るのと、勝ち負けは別のものです」
「そして、ブリターニャはどうしても勝利が必要なのです。そのためにどれだけ損害が出ようが」
三日後、ブリターニャ軍がようやく動き出す。
予定から二日間遅れとなる。
準備万端整ったはずの状態からの延期にはむろん理由があった。
あの日の深夜、右翼軍司令官アルビン・リムリックから出された提案を残るふたりが承諾し、部隊配置の変更をおこなったのだ。
そして、その提案とは……。
我々を散々コケにした魔族の小僧がいる魔族軍左翼を集中して叩くべき。
具体的には、今回の策の肝である魔術師を魔族軍左翼に対峙するブリターニャ軍右翼に偏重して配置する。
これによって、魔法攻撃を開始する第一波で敵左翼に配備された魔術師を圧倒し大打撃を与えられる。
もちろん左翼、中央は数的に不利にはなるが、右翼よりも攻撃開始を遅くすることによって、劣勢な左翼を救おうとした敵の意表を突くことも可能という利点もある。
当然アリストにもこの提案が届けられ、アリストは承知する。
心の中でこう呟きながら。
……おそらくグワラニーは私への備えから中央部隊付近にいる。
……つまり、彼らのグワラニーへのお返しは空振りに終わるだろう。
……だが、この一部隊に偏重した攻撃に敵左翼は対応できず傷つく。
……結果的にはより良いものになったといえるだろう。
再編成を終えティーバル平原に姿を現したブリターニャ軍の戦力はこのようなものとなる。
前衛。
アルバート・カーマーゼン率いる左翼集団は将兵六十五万八千三百二十一人、魔術師四千三百九十五人。
バイロン・グレナーム率いる中央集団は、将兵五十八万二千六百八十二人、魔術師七千百七十三人。
アルビン・リムリック率いる右翼集団は、将兵五十一万四千三百六十八人、魔術師三千四百二十七人。
そして、この時間的余裕を利用して攻城用の梯子を多数用意し、各集団に配置する。
後衛。
左翼は貴族たちより提供された魔術師二万七千八百三十六人。
中央は陸軍より補充された魔術師のうち二万二千九百二十三人。
そして、右翼。
魔術師長アンディ・フレミングが直卒する魔術師は前回の生き残りの千三十六人と陸軍がかき集めてきた魔術師二万六十一人。
アルチュール・グレンメイ率いる海軍魔術師団三万八千四百六十二人。
アドラール・スカーレット率いる宮廷魔術師団五千百十二人。
当然ながら、ブリターニャ軍が草原に姿が現すのを待っていたかのように魔族軍の上空に無数の火球が浮かび上がる。
むろん、これに対する対策も講じてある。
「散開せよ」
そう。
編成上、ブリターニャ軍前衛の魔術師は数が少ない。
当然攻撃を完全に防ぎきるのは不可能。
そうなれば、一つの火球で多数の損害を出すことを避けるしかない。
さらに、森を出た瞬間に魔族軍の攻撃が開始されることを想定し、通常は最後尾に配置する魔術師を最前列に配置するという対策も講じている。
「十分に善戦といえるでしょう」
アリストはその様子を眺めながらそう呟く。
そして……。
完璧な防御魔法を展開し、続いて魔力を頼りにある人物の位置を探り、それを発見し終えたアリストは自分の横に立って前方を睨みつけている純白の甲冑を身に着けた女性に目をやると、女性の口から言葉が漏れ出す。
「……いますね。中央集団の後方。つまり、私たちと同じ位置です」
「お嬢がいるということはグワラニーも中央でしょう。老人は敵右翼のようですね」
「ここまではすべてがアリストの想定どおり」
「つまり、このままいけば賭けは私の勝ちということになります。フィーネ」
「そうですね」
皮肉の色が多分に含まれたアリストの答えにフィーネはそう答え、そのままさらに魔力を探る。
そして、あることに気づく。
「……なるほど」
そう呟き、ニヤリと笑う。
……あれが前回に引き続きブリターニャ軍の右翼に戦力が集中されていると思ったのなら単なる偶然ということになります。
……ですが、そうでなかった場合はどうなるのでしょうか。
……こちらの動きを完全に読み切ったということになります。
そして、思い出す。
あのときのグワラニーの言葉を。
……もしかして、あれは餌だったのでは。
……あり得ますね。あの男なら。
……そして、そういうことなら、この後に第二幕も用意されているということになります。
……なにしろ、ここまではこちらの思い通りの展開。いかにも策が順調に推移していると思えます。
……ですが、相手があの男に限ってはこれこそが罠の前兆なのですから。
……そういうことです。アリスト。
「戦いは始まったばかりです。勝ちを確信するのは早いでしょう」
ブリターニャ軍の各集団は五アケト、別の世界の単位で幅五十キロメートルに散開して進んでいる。
むろん、この状態であれば各個撃破のチャンス。
これまでの戦いなら魔族軍は大喜びで草原に飛び出してくるだろう。
だが、この散開はあくまで火球対策。
そして、魔族軍が戦場に乗り込んでくれば一瞬で状況は変わる。
乱戦に持ち込み、そのまま敵陣になだれ込む段取りである。
それは魔族軍も理解している。
当然動かない。
戦場には降り注ぐ火球を避けつつ黙々と歩くブリターニャ軍兵士たちだけが存在する。
異様な光景である。
むろん魔族軍の攻撃はブリターニャ軍最前線の魔術師に集中するわけなのだが、魔術師の排除が終わり、集団全体に攻撃範囲を広げるとその異様さがさらに増す。
「草原の三分の一を進んだところで、魔術師の加護がなくなったか」
「だが、兵士はほとんど残っている。この調子でいけば、相当数が土塀に取りつける」
中央集団を率いるグレナームは安堵と不安の感情が混ざりあった言葉を呟く。
だが、この直後、状況が一変する。
それまで上空に火球を発生させ、それをブリターニャ軍に降り注いでいた魔族軍の魔術師の一部が、目の前に火球発生させ、地を這うような弾道で火球を放ち始めたのだ。
火球直線状にやってくる火球はもちろん非常に脅威だ。
だが、それに気を取られていると降ってくる火球の餌食になる。
この二種の類の弾道を持つ火球攻撃を大規模に実施したのは、「アルジェルマ平原会戦」でグワラニー軍が最初で、初めて見るブリターニャ軍は大混乱に陥る。
当然ながら、魔術師がいなくなったブリターニャ軍に有効な対応策はない。
進撃速度は一気に落ちる。
そして、最初の転機がやってくる。
ブリターニャ軍の先頭が草原地帯の半分ほどまで進んだところで、魔族軍の魔族軍の魔法攻撃が弱まる。
いや。
上空からやってくる火球が消え、直線状に飛んでくる火球のみの攻撃となる。
まもなく、魔族軍の上空に火球が現れる。
だが、それは遥か遠方に飛んでいく。
一瞬の二百倍の沈黙後、さらにもう一撃。
さらに同じ程度の沈黙後にもう一撃。
そして、五撃目。
そこでブリターニャ軍左翼と中央の遥か後方から氷槍で応戦が始まる。
その瞬間、ブリターニャ軍の前線で指揮を執る三人は一斉に顔を顰める。
「馬鹿か」
「あれほど応戦をするなと念を押していたのに」
「攻撃は転移魔法で避けるようという申し合わせを忘れたのか?」
三人が味方の軽挙に怒り狂う。
「だが、本命は右翼。精鋭は揃えている彼らが残れば問題ない」
しかし……。
十三撃目が遠方に飛んでいった直後、リムリックは炎と氷の衝突でできた閃光を睨みつけ、言葉を吐き出す。
「なぜ?なぜ反撃するのだ?」
そう。
残っていた右翼の魔術師団も反撃を始めたのだ。
そして、それは魔法戦で先手を取るというブリターニャ軍の前提が完全に崩壊した瞬間だった。
ブリターニャ軍の前線指揮官たちが一斉に舌打ちをした魔術師の軽はずみな行為。
むろん彼らの目にはそれ以外には見えないわけなのだが、左翼や中央に配属された貴族に雇われた魔術師や、陸軍所属ながら見習いのような者たちならともかく、宮廷魔術師たちまで加わったエリート集団のはずの右翼の魔術師まで応戦を始めたのはなぜか?
その理由に気づいたのは、アリストとフィーネだった。
「……やりますね。魔族軍は」
「ええ。あれだけやられたら応戦せざるを得ませんね」
そう。
魔術師団もその申し合わせの意味を十分に承知し、それを守ることが勝利に繋がることも理解していた。
だが、それでも応戦した。
いや。
応戦せざるを得ない状況に陥っていたのだ。
そして、その状況とは……。
ブリターニャ軍後衛、右翼。
「ここまで来るとこれは偶然ではなく、奴らは我々の位置を把握し攻撃しているとしか思えない」
「私もスカーレット殿に同意する。そして、このまま逃げ回っているだけでは転移だけで我々は魔力のすべて失い、攻撃どころか対抗魔法を使えなくなる」
「逃げ切れないのであれば、対抗魔法を発動させて応戦するしかないだろう」
「スカーレット殿とグレンメイ殿もそう思うか」
「ああ。左翼も中央も同じ理由で応戦し始めたのだろう」
「やむを得ない」
「次の一撃が迫ってきたら対抗魔法で応戦する」
「承知」
そう。
魔族軍の火球攻撃は、ブリターニャ軍の魔術師たちがいる場所に目掛けて飛んでいたのである。
むろん、魔術師団を指揮するアンディ・フレミングはこの事態も想定していた。
前衛に魔術師の数が少ないことから、敵はおそらく後方に魔術師を配置していることに気づく。
そして、その位置を特定するため、火球攻撃をおこなってくる。
もちろん視界の外にあるため、敵の居場所を把握しないまま攻撃し、こちらが慌てて対抗魔法で応戦したところで位置を特定するつもり。
そのような攻撃が自分たち布陣している場所にやってくることなどあり得ぬが、万が一、魔族の攻撃が当たりを引いた場合は転移魔法で移動し、対抗魔法は使用しない。
だが、それはあくまで偶然の出来事に対応するためのものであり、何度もそれが続くことなど想定していない。
そして、それが続く現状は魔術師にとって都合の悪いある事態が生じる。
転移魔法は魔力の消費量が大きい。
並みの魔術師であれば数度の転移で魔力がカラになる。
ブリターニャ軍右翼に集められたエリート魔術師でも十回も転移をおこなえば、魔力消費量が少ないオールドスタイルの攻撃魔法である火球も数度も撃てば弾切れとなるのだ。
そうなる前に動くしかないという判断は魔術師として正しいものといえるだろう。
「……火球接近」
「対抗魔法を発動せよ」
「氷槍。放て」
ブリターニャ軍の前衛、中央集団の後方。
「……老人とその孫ですね」
その中心でアリストは絞り出すように言葉を吐き出す。
「あれだけの離れた場所にある魔力の出所を正確に把握できるのはそうはいないですから」
「そして、ふたりが指示をして火球を撃ち込んでいるのでしょうが。最初に飛ぶ数発の火球で位置を調整しているのでしょうが……」
それはアリストの、敗北感のようなものが滲み出したものだった。
……そう。軍に同行する平均的な魔術師でも勝てる方法を考える思考は軍を率いている者でなければ出てこない。まして、私やアリストは自分ひとりですべてを完結できるのから尚更です。
……アリストが指摘した最初の数発が水先案内人役を担っている者が放ったものということでしょうか。
……そして、当たりを引けばそこに残りが攻撃する。素晴らしいアイデアです。
アリストの隣でフィーネは心の中でそう呟いた。
理由はともかく、始まってしまえばもう止まらない。
そして、ブリターニャ軍の魔術師たちはすぐに気づく。
敵の数が圧倒的であると。
対抗魔法では防ぎきれなかった火球がブリターニャ軍の陣地に次々に着弾し火付近にいた魔術師を巻き込んで火災を発生させる。
そして、それによって防御の穴は大きくなり、さらに差は広がる。
「……フレミング殿。残念だが負け戦だ。全滅する前に離脱すべき」
「そのとおり。フレミング殿……」
「軍所属の魔術師の指揮官として最後まで戦場に留まる選択もある。だが、ここにいるのはブリターニャ軍の主力の中の主力の魔術師。ここで我々が全滅したらブリターニャの運命は終わると言っていい。これが最終決戦ならともかく、戦いはまだ続く。国の守護を任された者として自身の名誉のためだけにその選択をするのは間違っている。立て直しがで可能なだけの戦力が残っているうちに撤退すべき。戦場離脱の汚名は私も共有する」
「スカーレット殿だけではなくもちろん私も汚名を甘受する。だから、ここは撤退しよう。フレミング殿」
アルチュール・グレンメイに続き、アドラール・スカーレットからも撤退の進言を受けたアンディ・フレミングは長い沈黙後、口を開く。
「各隊、戦闘を停止し至急戦場離脱せよ。皆、王都で会おう」
ブリターニャ軍の後衛から魔術師の痕跡が消えた直後。
「王太子殿下。後衛の魔術師長三人が殿下にお会いしたいと参上しています」
アリストの公的な護衛隊長アイアース・イムシーダの声とともにアンディ・フレミング、アルチュール・グレンメイ、 アドラール・スカーレットの三人が姿を現す。
三人を代表して、宮廷魔術師で魔術師の格として最上位にあるアドラール・スカーレットが一礼後口を開く。
「王太子殿下はご存じだとは思いますが、魔族軍の攻撃が激しく、魔術師として戦線の維持が厳しくなりました。取り返しのつかない事態にならぬ前に戦線の離脱を決め、部下たちは王都に退避させました」
「それにあたり王太子殿下にも退避のお願いを……」
宮廷魔術師であるアドラール・スカーレットとしては、王太子を戦場において逃げ帰るわけにはいかないのだから、これは当然の言葉だろう。
だが……。
「魔術師団の後退について承知しました。あのまま戦っていたら完全にすり潰されますから」
「ですが、この戦いはまだ終わっていない。私は決着がつくまで残ることにします」
「ですが……」
さらに懇願の言葉を口にしようとしたスカーレットを右手で制したアリストは三人を見やる。
「ご心配なく。ここにはこの世界で指折りの魔術師がふたりいますので魔族の供物になることは絶対にありませんので。そういうことで……」
「皆さんは王都に戻り、自らの責任を果たしてください」
少々の冷たさを纏ったアリストの言葉と視線に追い立てられるように三人が消えたところでアリストが冷たい視線を動かしたのはこの部隊の指揮権を持っているアイアース・イムシーダだった。
「もう少し前に進みましょう。戦いの様子が見えるように」
むろん、アリストのもとにも火球はやってくる。
だが、見えない壁に阻まれ、そのすべてが四散する。
あまり見ることがない光景に護衛の兵士たちはその度にどよめきの声を上げる。
アリストはその様子に少しだけ微笑む。
「さて、魔術師は戦場から離脱しましたが、前衛はまもなく敵陣に取りつきます。そうなると、魔法でなぎ倒すことができなくなります」
「つまり、ここからが本番というわけです」
自らの陣を敵陣から二十アクトまで進めたアリストはまずアルビン・リムリック率いる右翼、続いてバイロン・グレナームの中央集団が敵陣に向かって突撃を開始した最前線を見つめながらアリストは独り言のようにそう言った。
だが……。
ブリターニャ軍右翼集団。
「……リムリック将軍。ロスベリー将軍より報告。土塀の前に深い堀があるとのこと」
遠方からはその存在が確認できなかったのだが、魔族軍は自軍陣地につくられた土塀の前方に堀をつくっていた。
深さは二ジェレトから三ジェレト、幅は二十ジェレト。
そして、その堀はブリターニャ軍兵士が初めて見る構造をしていた。
なんと堀の底に仕切りがあるのだ。
「水は?」
「水はなく。地面が見えているとのこと」
「後ろから味方が押し寄せているのだ。堀があるからと言って引き返すわけにはいかない。全軍突入し、梯子をかけ土塀を登れと伝えろ」
同じ頃、中央集団も……。
「堀がどうした。突破し、土塀に梯子をかけろ。そして、その先は魔族軍陣地。一番乗りした部隊に褒美を出すぞ。全軍突入せよ」
司令官バイロン・グレナームのその一声とともに、兵士たちは雄叫びとともに次々に飛び込んでいった。
その様子を土塀の上から並んで眺める男がふたり。
「……懐かしい光景だ」
「まあ、私にとっては苦みのある光景と言えますが」
男のひとりは横に立つ男を話しかけるともうひとりの男はそう応じる。
「もっとも、あの時私は罠の存在を感じ、外で待機していましたので実際には見ていないのですが」
「さすが」
そのふたりとは、グワラニー配下の将軍アンブロージョ・ペパスとアーネスト・タルファだった。
そして、ペパスの言う懐かしい光景とは、言うまでもなくクアムート城攻防戦の最中に起こった出来事を指している。
「……まさか、あの光景をもう一度見られるとは思わなかった」
「それを言うのなら私など、あれを内側から見ることになるとはあのときは想像もしていませんでした」
「私を含めてノルディアの将兵は誰一人、あの時、あのような罠があるとは思いませんでした。もちろん、それによって自分たちが何も出来ぬまま敗退するなど」
「彼らも同じでしょうね。しかも、今回は土塀が高い。あれこそがこちらの防御の主たるものと考えているでしょう。まさか、堀に飛び込んだ後に本当の罠がやってくるなどとは思わないでしょう」
そして、別の場所でも同じような会話が……。
「まさか、ここであの時の手を持ちだすとは思わなかったぞ。グワラニー殿」
その場にいる中では特別年長となる男は自分の我が子ほどの違いのある若者にそう声をかける。
「もしかして、奇術のタネがなくなったのか?」
「いえいえ。単なる出し惜しみです。魔術師長」
老人に笑顔でそう答えたその若者はさらに言葉を続ける。
「数を頼りに戦う王道、または常道と言われる戦い方は何度でも、いや、どのような場合でも有効です」
「ですが、小細工の類は同じ相手に二度使えません。まあ、同じ手を使うと見せかけて逆をいくという策もあるのですが」
「……そういうことでこの手はノルディアの、例えばタルファ将軍相手に使用すれば、簡単に見破られるわけです。ですが、幸か不幸か、ブリターニャ軍に対しては見せていない」
「しかも、少々手を加えてありますので、宴が始まるまで気づかれることはありますまい」
「後方にいながら、制止しないところを見ると、アリスト王子も気づいていないようですし」
「せっかく苦労して準備をしたのです。ブリターニャ軍の兵士諸君にはたっぷり楽しんでもらいましょう。こちらの盛大なもてなしを」
そう言った若者は、背後に積み上げられた樽に目をやった。
それから、自身が提案したこの世界に初めて登場した特別な堀をもう一度眺める。
……さて、いにしえの時代に考案され、多くの城で採用されたという障子堀の有効性をこの目で確かめさせてもらいます。
そう。
グワラニーは、この長大な堀をつくるにあたり、自身のルーツとなる国の戦国時代のアイデアを持ち込んでいた。
障子堀。
これがその名となる。
空堀の一種で、底を意図的に掘り残して障壁として移動を制限するものである。
これは日本の戦国時代に後北条氏の多くの城で採用し、小田原城の難攻不落伝説にもこの堀が大きく関わっている。
……もっとも実際の障子堀は見たことがないので、これが正しい障子堀のかわからない。そして、この堀を完成させた功は私の雑な説明を具現化した三人の戦闘工兵団の長ディオゴ・ビニェイロス、ベル・ジュルエナ、アペル・フロレスタのものだろう。
掘に入らなければ土塀に辿り着けないのだから、当然といえば当然なのだが、ブリターニャ軍の中央、右翼のふたつの集団は次々と堀へ飛び込んでいく中、アルバート・カーマーゼン率いる左翼集団だけは違う動きを見せる。
デヴェリル・ハインドン、クロフト・ギルフォード、ブラットン・ヘイティーズの三人が率いる先頭集団が掘の手前で進撃を停止したまま動かず、左翼部隊全体が停滞していたのだ。
「我々だけが出遅れている」
「先頭集団は何をしているのだ」
後続の部隊を率いる指揮官たちは喚き散らすものの、三人は涼しい顔で背後から聞こえる罵詈雑言を聞き流す。
さらに……。
「後続のレッドベリー将軍に突撃の催促が来ております」
「レミントン将軍からは、先陣を代われという伝令が来ています」
先頭集団の左側を担うデヴェリル・ハインドンのもとに次々と伝令の言葉を伝える者たちがやってくる。
だが、ハインドンは動かない。
後続部隊の伝令を呼び寄せると、薄ら笑いを浮かべてこう答える。
「先陣は我ら。後続は黙って待っていろ。そう伝えろ」
「行け」
「つまらないことで伝令を寄こすなとおまえたちの馬鹿上官に伝えろ」
凄まじい剣幕に追い立てられるように消えた伝令たちの背に侮蔑の言葉に投げつけるハインドンに副官カブラック・インベリーが近づく。
「ですが、カーマーゼン将軍にはこちらの意図を伝えておくべきでしょう。そうでなければ、痺れを切らした将軍から突撃命令が来てしまいます。そうなったら、さすがに我々も動かざるを得ません」
「わかっている。だが、それはギルフォードの仕事だ」
そう言って右側の集団に目をやる。
「……ギルフォードに言われなかったら、我々も突撃し、堀に飛び込んでいた。そして……」
「とりあえず、こちらからも出しておくか」
「カーマーゼン将軍に連絡する。伝令」
ブリターニャ軍左翼の先陣の右端。
こちらも後続から次々とやってくる突撃の催促を蹴り飛ばすデヴェリル・ハインドンに部下たちが声をかける。
「ヘイティーズ将軍。よろしいのですか?あれでは喧嘩を売っているようではありませんか?」
「かまわん。奴らは馬鹿だからあれくらい言わないとわからないのだ。それに……」
「後続の連中もすぐに我々の判断に感謝することになることだろう」
「とにかく、後ろで喚きたてる馬鹿な連中と違い、私には死ぬのがわかっていて、そこに飛び込むなどという変わった趣味はない。そういうことで……」
「待機だ。後ろがどれだけ騒ぎ立てようが絶対に動くなと部下たちに伝えろ」
そして、ブリターニャ軍左翼の先頭部隊、ひいては全軍の進軍を停止させたその男、先頭部隊の中心にいたクロフト・ギルフォード。
「……カーマーゼン将軍からの伝令が来ました。すべてを承知した。中央集団が魔族軍陣地への突入が確認できるまで待機することを各将軍に伝令を出す」
「それまで敵の動きに注視し、適時連絡せよ。とのことです」
「さすが、カーマーゼン将軍」
敵陣を睨みつけながら仁王立ちし、自身を狙って飛んでくる火球を軽く躱しながら、伝令の言葉にそう答えたギルフォードはニヤリと笑う。
「罠を見破られて頭に血が上った魔族の魔術師が我々を叩きに来る。すべて躱し、さらに奴らに恥を掻かせてやれ」
そう。
クロフト・ギルフォードは土塀の前に堀があることを知った瞬間、魔族軍が恐ろしい罠を用意していること看破し、先陣の指揮を執る同僚たちに伝令を出していたのである。
ただし、厳密にいえば、ギルフォードが想定していたのは本当に罠とは若干の差異があった。
ギルフォードが想定した罠。
それはこのようなものであった。
土塀に取りつくためには堀に入らなければならない。
だが、深い堀は一度入れば出られない。
掘を出るには土塀を登り切るか、元に戻るかの二択。
だが、後から続々と堀に飛び込む味方がいるので、事実上一択なのだが、堀の底から土塀の頂上までは最低でも三ジェレト。
梯子があるといっても相応の妨害があり簡単に登れない。
堀一杯にブリターニャ軍兵士が詰まったところで火球をお見舞いすれば、一撃で大軍の丸焼きが出来上がる。
これを防ぐには魔術師の牽制が絶対条件になるわけなのだが、ブリターニャ軍には魔術師がいない。
つまり、堀に飛び込むのは自殺行為。
おそらく魔族が執拗に魔術師狩りをおこなっていたのもこのためである。
「気がつかず飛びこむのはただの馬鹿だが、わかっていて飛び込むのは救いようのない馬鹿だ。私はそんな者になりたくない」
それがギルフォードの言葉となる。
そのブリターニャ軍左翼集団と対峙する魔族軍右翼部隊の司令官コンコール・グルバは進撃を停止したブリターニャ軍を睨みつけていた。
「来ませんね」
グルバの隣でその様子を眺めていた副司令官のひとりコダジャス・サルゲイロが苦笑すると、さらにその隣の男バレイラス・セプラが大きく頷く。
「つまり、こちらの策を看破したということなのでしょうが、中央のブリターニャ軍は堀に飛び込んでいるようですから、これは敵左翼の司令官の独断ということなのでしょう。有能ですね。敵司令官は」
「……いや。気づいたのは奴だろう」
つい最近剣を合わせたある男の顔を思い出したグルバは苦々しそうに言葉を吐き出した。
「……堀は近づくまでその存在に気づかれない。ということは、先頭集団が掘を発見した瞬間に罠に気づいたのだろう。そんな芸当ができるのは鼻の利く人狼である奴くらい」
「我々は堀だけでなく罠の内容を知っているから、堀に飛び込むブリターニャ軍兵士を笑っている。だが……」
「何も知らぬまま、堀を見てそこまで思いつくか?」
「命令があり、土塀の上で敵が煽りたてる中で」
「気づかないだろう。たとえ気づいても止まれない」
「なにしろ後ろから味方が押し寄せているのだから」
「罠に気づき、そして、あの場で止まれる。それだけで奴がそれなりの者だという証明だろう」
「ですが、あのままというわけにはいかないでしょう。堀に入らないというのであれば、火球で焼いてやるだけの話。先頭集団に火球を集中させ……」
「やめろ」
自身の左隣に立つ自身の副司令官の中で先任として最上位にあるアウデル・ナヌケの言葉を遮ったグルバはナヌケに視線を動かす。
「クロフト・ギルフォードを焼き殺すなど私が許さぬ。命令であったから仕方がないと思ったが、堀に入らないとなれば話は別だ。奴の首は必ず私が落とす」
「では、総司令官にはなんと伝えますか?」
「敵左翼は動かず。こちらに構わず火責めを進めてくれと言うしかないだろう」
「魔術師団には?」
「現在と同じ。弱める必要はないが、強化する必要もない」
「さて、どうする?焼き殺されていく味方を見捨てて撤退するのか?それとも、我々に横腹を見せて助けにいくか?クロフト・ギルフォード」
ブリターニャ軍の中央集団と右翼集団の大部分が掘に挑み、左翼集団は完全に進軍を停止した頃になって、アリストたちも前線の様子がおかしいことにようやく気づく。
「ブラン。前の様子はよく見てください」
アリストがそう言うと、三人の剣士の中でも特別視力の良い弟剣士は遠くを眺め直す。
「……梯子が掛かり、登っている奴はいるが、ほとんどのブリターニャ軍兵士はここからは見えない」
「魔族の土塀は意外に高いのか、それとも……」
「その前に大きな堀があるのではないのか?」
「ブリターニャ軍が後退する様子は?」
「ないな。さらに進む。あれは堀があっても突破できると踏んでいるのだろう」
「それよりも、おかしいのは左翼の連中だ。突撃せず、随分手前で待機しているぞ」
「止まって」いると?
「ああ。何かを警戒しているようだが、あんなところで何を警戒しているのだろうな?」
「……しまった。そういうことか」
ブランが何気なくつけ加えた言葉を聞いた瞬間、アリストは理解した。
罠の存在、そして、それがどのようなものなのかを。
「あれは間違いなくなく罠。逃げ場のない堀の中に誘い込んで一撃で仕留めるという。左翼部隊はそれに気づき急停止したのでしょう」
「中央と右翼に撤退させなければ大変なことになる。イムシーダ。伝令を……」
だが、遅かった。
「アリスト。前方に火の手が上がっている。あれはまるで火壁だ」
ブランの声にアリストはその様子を睨みつける。
「やってくれたな。グワラニー」
アリストが呻き声を上げた少し前。
「敵の左翼が進撃を停止して動かない。いくら待っても動かないので宴を始めてくれとのことだが、どうする?グワラニー」
ブリターニャ軍兵士で溢れかえる堀を嘲りの色が濃い視線で眺めながら魔族軍西方方面軍司令官アフォンソ・モンテイロは隣に立つグワラニーに問うと、若い男は苦笑いで応じる。
「すべてが完璧というわけにはいきませんね。ですが、三分の二の敵が罠に入ったのです。よしとしましょう」
つまり、攻撃を開始すべきということである。
モンテイロは頷く。
「では、宴を始める。狼煙。黒一」
その瞬間、後方から次々と樽や麻袋が前方に運ばれる。
五ドゥア後。
「狼煙。黒二」
「落とせ」
「我々からの贈り物だ。受け取れ。ブリターニャ」
樽が次々に掘に投げ落とされる。
むろん、直撃を食らった者はただでは済まない。
麻袋、さらに藁束。
そして……。
「狼煙。赤一。魔術師。前へ」
「狼煙。赤二。攻撃開始。火球準備。放て」
堀の上空に列を成して現れた火球が落下し、一瞬後、堀は火の海となる。
まるで薪をくべた暖炉のように。
これがブランの見た火の壁である。
樽の中身は油。
さらに堀の底には燃える石、燃える泥。
助燃材としては申し分ないだろう。
そこに油を詰めた土器が投げ込まれる。
火の中で身動き出来ないブリターニャ軍兵士目掛けて。
さらに魔術師が火球の第二撃、第三撃を掘に落とす。
深さが二ジェレトから三ジェレト。
魔族軍陣地へ続く四ジェレトある土塀はもちろん、甲冑を着込んだまま急傾斜の土手を上がって逃げるのも事実を不可能。
そこに油を撒かれ、火をつけられたのだ。
まさに一網打尽。
「リムリック将軍。こうなっては救いようがありません。撤退命令を……」
目の前の光景を睨みつけたまま動かない上官を副官であるボードン・ヴェントナーが声をかける。
「これだけ負け、兵士たちを殺して指揮官である自分だけが逃げ帰られるか」
「私は残る。おまえたちだけが撤退せよ」
「承知しました」
だが、ヴェントナーが目配せしたのは、力自慢の兵士五人。
「リムリック将軍はたった今負傷した。おまえたち。将軍を抱えて後方へ走れ」
リムリックも相応の技量を持った戦士。
だが、さすがに五人の男に抑え込まれてはなすすべがない。
拉致されるように運ばれていく。
その様子を見送ったところでヴェントナーは声を上げる。
「生き残った者はただちに撤退せよ。これは司令官の命である」
「王太子殿下へ伝令。右翼集団は敵の攻撃により崩壊。リムリック将軍は負傷。残兵は後退する」
同じ頃、その大部分を失った中央集団も敗走が始まっていた。
その中にはグレナームの姿もあった。
「王太子殿下にこの醜態をお詫びしないうちは死ぬわけにはいかない」
王太子一行がいる場所に走る。
一度だけ振り返る。
「いったい我々は何と戦っていたのだ」
他の二集団が完全崩壊したなか、カーマーゼンが指揮するブリターニャ軍左翼集団は健在だった。
カーマーゼンはまさに火壁と表現できる遠くの光景を睨みつけていた。
「将軍。こうなっては我が部隊だけで挽回するのは不可能。引くしかありますまい」
「ああ」
側近のケープ・ネザーホールの言葉にカーマーゼンは大きく頷く。
「伝令。我が軍はまもなく戦場離脱するので殿下もすぐに後退するようにと王太子殿下に連絡」
伝令が消えたところで、カーマーゼンはネザーホールを見やる。
「この前のように掃討戦に出てくると思うか?」
「そうすれば反転攻勢に出て、混戦状態のまま敵陣までなだれ込むこともできるが……」
「敵もその程度のことはわかっているでしょう。つまり……」
「ないということか。まあ、そうだろうな」
カーマーゼンは苦笑いすると、再び伝令を呼ぶ。
「先頭部隊につまらぬことを考えずに敵に注意しながら後退するように命令を出せ」
「退却する」
当然ながら、ほぼ無傷の敵を逃がすまいと魔族軍右翼の指揮官コンコール・グルバから追撃許可の申請が総司令官アフォンソ・モンテイロのもとにやってくる。
むろん、中央部隊を指揮するアウディアス・デスコンペルタ、左翼部隊の指揮官カラコウ・ヴァンデルレイからも同様の要望が届く。
だが、モンテイロはそれらをすべて却下する。
敵を見たら戦わずにいられないタイプの将であるモンテイロがこれだけの条件が整っている状況で追撃を認めなかったのは隣に立つ若い男の言葉が影響していた。
「ブリターニャ軍の中央部隊の後方にいる小集団。あれはブリターニャの王太子アリスト・ブリターニャの部隊です」
「ですが、彼らにはもうひとつの名があります」
「勇者一行」
「そして、そのうちのふたりは一撃で我が軍を消し炭にするくらいの力を持った魔術師がふたりいます」
「追撃を始めた瞬間、魔法が発動し、我が軍はここまでの勝利が一瞬で無に帰します」
「ですから、追撃は絶対にしてはいけません」
モンテイロは若者が示す集団を睨みつける。
「グワラニーに問う」
「それだけの力があるのなら、なぜ攻撃してこないのだ?」
「それは協定があるからです」
「私たちはこの戦いの前にダワンイワヤで顔を合わせ、ある約束をしました。雌雄を決する戦い以外では魔力を開放しないと」
「ですから、こちらも我が部隊の魔術師長も副魔術師長もいるにもかかわらず、攻撃に参加していない」
「ですが、相手が明確な戦う意志を持っている場合はその限りではないという条項もあります」
「おそらく王太子の部隊が引かないのはそれを待っているのでしょう」
「これだけ勝ったのです。我々としては王太子の挑発に乗るべきではない。それが私の考えとなります」
もちろんグワラニーが口にした半分は本当である。
だが、残り半分は、魔族軍の足止めを図るための出まかせ。
ただし、協定はないものの、結果は同じになったのは疑いないのだが。
むろんそこまで言われてはモンテイロも動けない。
「まもなく、最後の敵が引く。それまで警戒を緩めるな」
これだけの大勝にもかかわらず、敗走する敵を追撃することなく見送る。
生存をかけて戦っている者とは思えぬ魔族軍の慎ましさを苦々しく見つめるのはもちろんアリスト。
そこに最近出番がまったくない糞尿三剣士が加わる。
「魔族は腰抜けばかりだな」
「まったくだ。せっかく待っていてやっているというのに」
「いっそのこと、こちらから出向くというのはどうだ?アリスト」
最後にやってきたブランの言葉にイムシーダたち公的な護衛が一斉に顔を顰める中、アリストは考える。
そのアリストを冷ややかに眺めながらフィーネは心の中で呟く。
……ここで魔族軍を叩くのなら、戦いが始まってすぐにやるか、自軍への突破口をつくるために動くべきでした。
……ですが、アリストがここで魔族軍を攻撃したら、当然グワラニーも常に全力でことにあたる。それはあの忌まわしき兵器の撃ち合いと同じ状況になります。
……アリストにはその引き金を引かせるわけにはいきません。
……ということで……。
「アリスト。ここは引くしかないでしょう」
「そして、今晩賭けに勝った私に最高級のお酒をご馳走しなさい」
……自身が動かなくても駒が山ほどいるグワラニーと違い、アリストは自分がすべてをおこなわなければ勝ち目がない。
……そういう点では、アリストが提案したあの縛りで身動きできなくなったのは実は自分だった。
……アリストもそれに気づき後悔していることでしょう。
アリストのもとに右翼集団、続いて左翼集団の伝令が到着し、撤退の報告をし終えたところで、火傷を負った状態のグレナームがやってくる。
フィーネが一瞬ですべてを完治させると、グレナームは地面に顔を擦りつけるようにしながら、戦況報告を始める。
むろん目の前で起こったことでありアリストも概要が掴んでいる。
だが、これは儀式のようなもの。
指揮官が自ら出向いた以上、すべてを聞かねばならない。
幸いにも結界に守られここは攻撃を受ける心配はない。
アリストはグレナームに顔を上げるように声をかける。
そして……。
「堀の状況を聞きましょうか?」
「幅は二十ジェレトほど。深さは二ジェレトからジェレト。底は区切りが設けられており、移動は困難でした」
「堀から塀の頂上までは?」
「四ジェレトほどです」
「魔族の攻撃の状況を教えてください」
「堀に入り土塀を登ろうとしていた我が軍に魔族はおびただしい数の樽を落としました。その中には油が詰め込まれていました。その後火球を落とされ、中に入っていた者たちを助けるには至らず。堀の外にいて生き残った者たちへの火球が始まったため、やむなく撤退を決断しました」
「……御沙汰を」
敗戦の責任を与えてくれ。
グレナームが最後に口にしたその言葉の意味となる。
ブリターニャ軍に限らず、多くの国では敗北の責任は総司令官が負う。
そして、その罪は敗北の程度による。
軽いものは叱責、重い場合はもちろん死罪。
これだけ一方的な敗北である。
当然賜るものは死以外にない。
だが、グレナームも軍人。
同じ死を賜るのなら、戦死扱いになる戦場でのものが望ましい。
もし、それが得られなければ、ここで自刃。
「承知した」
グレナームの心情を察したアリストは短い言葉でそう応じる。
だが、それに応える気などさらさらない。
数瞬の沈黙後、もう一度口を開く。
「ありがたいことにカーマーゼン将軍、リムリック将軍も健在。ただちに後方に下がり、三人の指揮のもと魔族軍の迎撃にあたってもらいましょうか」
「立て続けての大敗で多くの一線級指揮官を失っている。ここで生き残った将軍に死を与えるほど我が軍に余裕はない」
「死ぬ気で戦ってもらいたい。我が国のために」
「なお、これは王太子としての命であり、陛下にも同様のことを伝え、了承してもらう。つまり、浅慮な行動をした場合、王命に反したものとして将軍の家族にも累が及ぶと思ってもらいましょうか」
これで完全にグレナームの自刃を封じた。
「ガルベイン砦でお待ちしております。王太子殿下」
その言葉を残し、待っていた数人の部下とともにグレナームが姿を消したところでアリストはフィーネ、ファーブ、それから兄弟剣士の順に視線を動かす。
「さて、どうしましょうか」
「まあ、引き上げるべきだな」
「ああ。俺たちだけならもうひと勝負してもいいが、お連れがいる」
「そういうことだ。腹も減ったし王都に戻るべき」
アリストは少し驚く表情をみせる。
フィーネの言葉を借りれば「戦闘狂」である三人が揃って撤退を主張した。
しかも、つい先ほどあれだけ戦いを望んでいたのにかかわらず。
自身の心の中にある望みとかけ離れたその言葉に、アテが外れたアリストは期待をかけてもうひとりを見る。
「フィーネは?」
「もちろんさっさと帰りたいですね」
「実は亡くなったブリターニャ軍将兵の手向けとして一撃お見舞いしたい衝動を抑えられないのですが……」
「それはやめておけ。アリスト」
アリストが自身の心の内を吐露した瞬間、その言葉を口にしたのはファーブだった。
「相手が誰であろうと約束は約束だ。しかも、あの約束はこちらから持ち掛けたもの。それを破ることは騙し討ちに等しい」
「勇者として戦うのであれば遠慮はいらない。だが、今は王太子という立場。しかも、ここには見物に来たのだろう」
「見物ではないでしょう」
「そうであれば、最初の段階から関りを持つべきだろう。今頃になって一撃を食らわせても、死んだ奴らは戻ってこない。それどころか、それだけの力があるのならなぜ最初に使わなかったのかと問われるぞ」
正論である。
「……ファーブのものとは思えない言葉ですが、たしかにその通り。今回は引き上げるしかなさそうです」
「……ですが、ここまで来たのです。勝者に祝いの言葉を述べておきましょうか」
「それについては何も言わない。フィーネはどうだ?」
「いいでしょう。私たちが前に出れば、あの男も出てくるでしょうから。そうすれば、死者の扱いも頼めますし」
「では、決まりですね」
「イムシーダ。白旗の準備を」
そして……。
「モンテイロ様。敵の小集団が白旗を掲げています」
物見の兵からの報告にモンテイロは顔を顰める。
「間違っても降伏するという意味ではないだろう。どういうつもりだ。ブリターニャの王太子は」
そう言ってグワラニーの顔を見る。
「嫌味のひとつでも言いたくなったのでしょう。なにしろ完敗でしたから。とりあえず、白旗を上げている以上、こちらも誰かが行かねばなりませんが……」
「王への手土産代わりに、ノコノコやってきた魔族軍の司令官の首を狩る気かもしれません」
「ということで、私がアリスト王子の嫌味を聞いてきましょう。せっかくですから、出番のなかった私の部隊の指揮官たちと行くことにしましょうか」
そして、十ドゥア後。
「お久ぶりです。白旗がよく似合う敗軍の将アリスト・ブリターニャ、ブリターニャ王国王太子殿下」
「何を言う。この白旗は将来おまえが泣きながら使うためのもの。わざわざ持って来てやったのだ。ありがたく受け取れ」
グワラニーの盛大な嫌味に熨斗をつけて返すようにアリストはその白旗を差し出す。
「では、ありがたく頂戴します。ですが、必要になったときにはいつでも申し出てください。ブリターニャ金貨千枚でお貸ししますから」
「守銭奴が」
傍から見れば実に恥ずかしい会話がとりあえず終わったところで、アリストはその大部分が見知った顔であることに気づく。
「指揮官はおまえか?」
「いいえ。私はあくまで代理。相手がずる賢い人間で他人を騙すことを生業にしていると事実を申し上げたところ、おまえが行って来いと言われました。司令官は用心深い方なので当然ですね」
「ですが、我が部隊以外の方も来ているので、そちらを紹介します」
「コンコール・グルバ将軍。右翼部隊の指揮官です」
そう言ってグワラニーは右後方に視線に送ると、大勢のグワラニー配下を押しのけるようにして大男が現れる。
「私がコンコール・グルバだ。ブリターニャ王国の王太子」
「初めまして。魔族軍の将軍コンコール・グルバ。私の名はアリスト・ブリターニャ。ブリターニャ王国の王太子です」
「ちなみに、私の脇にいる若者は多くの魔族軍戦士の首を落とした勇者ファーブ。余興として彼と戦ってはいかがか?まあ、一瞬であなたの首と胴体が分離すると思いますが」
「おもしろい。いいだ……」
「ご遠慮申し上げます。それよりも戦いが決着してからやってきた理由をお伺いしましょうか」
グワラニーは気づいていた。
アリストがこれまでにないくらいに好戦的なことを。
……まあ、目の前で自軍が大敗し崩壊していくのも、枷の効果で何もできずただ眺めていたことを後悔し、自身の手でイーブンに戻したいと思っている。
……つまり、これは本気。
……この挑発に乗ってはいけない。
グルバを押さえつけたところですぐに話題を変えたのはそのような意図があったからだ。
一方、グワラニーの抑えが利かないと思われるグルバに狙いを絞り挑発し、もう少しでそれが成功するところだったアリストは心の中で盛大に舌打ちする。
アリストは大きく息を吐きだすと、グワラニーを睨みつける。
「要件は……」
「我が軍の兵士の死体の返還。と言いたいところだが、さすがにそれは困難だということはわかっている。埋葬の依頼。それから、できれば遺品の返還だ」
「私は司令官代理ではありますのでその範囲でお答えするのなら、戦死者の埋葬については承知しました。遺品の返還について努力するということは約束します。そして、返還する場合はダワンイワヤで」
「承知した」
グワラニーの即答ともいえる言葉にそう応じたアリストは視線をグルバへ動かす。
だが……。
「要件が終わったのなら帰るぞ。アリスト」
「ああ。もしかしたらうまいものが出るかもしれないと思って来たが、うまいものどころか食べ物ひとつ出ない。まったく気が利かない魔族だ」
「早く帰ってうまいものを食おう」
そう言って怪力三人衆はアリストを引きずるように戻っていく。
最後に残ったのはフィーネ。
「今日は王太子とその護衛としてきましたが、次は勇者としてあなたがたの前に立つことにします」
「では」
そう言って、自慢の長い銀髪を掻きあげ踵を返す。
「グワラニー。一点借りにしておきましょう」
最後にその謎のひとことを残して。
アリストたちの姿が森の中に消え、まもなくその魔力が消滅したところで、長かったようで実は短かった「オエスタッド峠の戦い」は終わる。
もちろん結果は魔族軍の圧勝である。
フランベーニュの歴史家ウスターシェ・ポワトヴァンの言葉。
「攻勢に出ていたのは一貫してブリターニャ軍。魔族軍は陣地の外に出ることは一度もなかったのだから、これは間違いない事実であろう」
「だが、攻められていた魔族軍は戦死者はなし。対して、攻めていたはずのブリターニャ軍は百万以上の将兵をわずか一日失った。この結果をどのような評価したらいいのか難しいのだが、敢えて表現するのなら……」
「勝てるはずもない相手と戦って負けた。大人と子供、いや大人と赤ん坊の喧嘩ということになる」
「準備をおろそかにして戦った。油断をした。敵を甘く見た。ブリターニャ軍が負けるだけの理由が揃っていたのなら、この結果も理解できる。だが、ブリターニャ軍は細心の注意をし、勝利のための十分な努力をしていた。それにもかかわらず、これだけ一方的な結果になってしまうと、もうそう言うしかあるまい」
同じくフランベーニュの軍事研究家エリック・シュルアンドル。
「多くの者は結果だけを見てブリターニャ軍は戦うべきではなかったと言う。だが、それが正しいかと言えば、違うと言わざるを得ない」
「ガルベイン砦に立て籠もって、やってくる魔族軍を迎撃すれば今回と逆の結果になるならともかく、今回と同じ結果になった場合、今回早々に戦線離脱した魔術師団や、何もしないまま撤退したカーマーゼンの左翼部隊も全滅するまで戦い事実上ブリターニャ軍はこの時点で完全に消滅していた。そして、実際のところ、そうなった可能性の方が高い。そういう意味では攻勢に出てあの地で負けたのはむしろよかったといえる」
「そもそもそれまで常に優勢であったのは自分たち。前回は新戦法に敗れたが、それについての対策を立てたのだから負けるはずがないと思うのは当然」
「その程度の自信もなければ戦えない」
「そして、このような言い方はしたくないが、ブリターニャ軍はついていなかった」
「本来はあの場にいなかったはずのアルディーシャ・グワラニーと彼の部下たちがまだ戦場にいた。それさえなければブリターニャにも十分に勝機はあったのだから」
「特別な才を持ったふたりの魔術師はもちろんだが、最終的な勝利を手に入れたあの堀を短期間につくり上げたのはグワラニー配下の戦闘工兵と呼ばれる部隊がいたからであって、一般の兵士たちだけではあれだけの堀は完成しなかったであろう」
「そういう点では、グワラニーを戦場に縛り付けたブリターニャの王太子アリスト・ブリターニャこそがブリターニャの敗因ともいえるかもしれない」
「さすが、『アルフレッド・ブリターニャの正当な後継者』というところか」
ブリターニャの戦史研究家フィログ・ホーリーヘッド。
「戦い方という一点だけでブリターニャの敗因を語れば、軍として魔術師中心の戦い方に移行できなかったのが大きかった」
「前回の戦いであれだけ負けたのだから、つまらぬ策を講じずに、国中の魔術師を集め、魔術師を前面に押し立て数で押し切るべきだった」
「そうすれば、オエスタッド峠が『ブリターニャ軍兵士の火葬場』などという屈辱的な俗名で呼ばれることはなかったであろう」
「そして、本来の意味で『ブリターニャ軍兵士の火葬場』になったあの堀に兵士を飛び込ませたバイロン・グレナーム、アルビン・リムリックというふたりの指揮官の失態も見逃せない」
「魔族軍があれだけ火球を多用していたのだから、自軍の兵士が多数掘に入ったところで火球を撃ち込むのは誰の目にもあきらか。その可能性に気づかないという時点で指揮官としては失格と言わざるを得ない」
そして、後世の歴史家の批判が集中したのはアリストだった。
ブリターニャの戦史研究家ブライアン・マルハム。
「ブリターニャの最後の大攻勢となった『オエスタッド峠の戦い』。この戦いに参加し、ブリターニャの最大戦力を持っていたにもかかわらず、戦いに加わることなく、自軍の兵士たちが倒れていくのも傍観していた者がいたのだ。あれだけの大敗も致し方ないだろう」
「もちろん、それはアルバート・カーマーゼンのことではない。彼は前線指揮官たちが気づいた罠の存在に回避するために戦いに参加しなかったのだから、むしろ賞賛されるものであろう」
「もちろんバイロン・グレナームとアルビン・リムリックの行動も批判に値しない」
「困難な状況下で、目的達成に挑んだ。最終的には失敗したからと言って、彼らに敗因のすべてを押しつけるのは大きな間違いといえる。そして……」
「アリスト・ブリターニャ。この男こそブリターニャの大敗の責任を負うべき者であろう」
「むろん魔族軍の最強戦力であるアルディーシャ・グワラニー配下の魔術師団を牽制する役割を担っていたのは認める」
「だが、早い段階で自軍の魔術師が劣勢なのはわかっていたのだから、自らが戦闘に加わり戦況の挽回を図るべきだった。もちろん、そうなればグワラニー配下の魔術師たちも戦闘に参加しただろう。そして、双方の軍の大部分が消えることになったのだろうが、少なくてもブリターニャの一方的な敗北ということはなくなり、そうなれば、この方面の戦力の大部分を失った魔族軍は戦線の維持は困難になったであろう」
「アリスト・ブリターニャが判断を誤ったことにより、貴重な戦力を失っただけで終わったブリターニャは戦いの主導権を永遠に失ったのである」
ブリターニャ歴史研究家アレックス・グラッシントン。
「この戦いのブリターニャ軍司令官はバイロン・グレナーム。アリストはその戦いを視察に来たという立場。それは重々承知している」
「それでも、最後まで傍観者であったのはいただけない」
「自身の意見が司令官の足枷にならぬようにという配慮であろうが、それでも、その結果が魔族軍の圧勝となれば、どこかで手助けをすべきではなかったのかと思うのは当然であろう」
「それに対し、本当の意味で通りすがりでしかなかったはずのアルディーシャ・グワラニーが計画や準備段階から積極的に関わりを持ち、魔族軍の指揮官はグワラニーの意見に基づいて多くの決定をおこなっていた。ブリターニャ軍とは対称的である」
「なぜそれが可能だったのか?」
「むろん、それはグワラニーの凄まじいばかりの戦歴にある。あれだけの戦歴を見せつけられてはグワラニー個人をどう思うかは別にしてその意見を尊重するだろう。だが、アリスト・ブリターニャにはそれがなかった」
「結局、王太子という肩書だけがアリストが将軍たちを抑え込むことが根拠だった。そして、それは過去に王族や大貴族が戦いに口を出して失敗した過去の例の同類。それをよく知っていたため、アリストに遠慮が出た。肝心なときに」
むろんこれはあくまでこれからブリターニャのもとにやってくる未来をすべて知っている後世の評価であり、アリストが生きた時代、少なくても戦いが終わった直後にはこのような声は上がっていない。
ただし、アリスト自身はこの戦いについて後悔していたことは間違いないだろう。
「グワラニーの軍内の地位ということを失念していたことは失敗のひとつ。まさかあれだけ魔族軍の将軍たちに影響力を行使できるとは思っていませんでした」
「魔族軍が目の前であれだけ火球を使った攻撃をおこなっていたのですから、土塀に取りついた後も火球で攻撃される可能性はあると思っていましたが、堀をつくり一撃で仕留めるという策も思いつかなかったことも失敗でした」
「ですが、私たちとグワラニーが互いに魔法を封じれば、戦いが五分五分になると考えていたところが私の一番の失敗でした」
「まさか、枷の効果があったのは私だけで、グワラニーには殆ど影響がないとは思いませんでした」
「こんなことなら、お互いに自由に攻撃してよいとしておけばよかったです」
後日、フィーネ相手にアリストはそのような言葉を吐き出していた。
「軍が半壊し、攻勢に出るのは無理になった以上、いよいよ勇者として行動しなければなりません。我々だけですべてのケリをつける。そういうことになりました」
一方の魔族軍は歓喜に沸いていた。
戦闘を継続している二か国のうちのひとつであるブリターニャ軍を完膚なきまでに叩きのめしたのだから当然である。
むろんこの勢いに乗ってブリターニャの王都まで侵攻すべきという威勢のよい言葉も飛び出す。
だが、グワラニーは西方方面軍の司令官アフォンソ・モンテイロに対して、それとは反対の助言をおこなっていた。
「この先にあるブリターニャ軍の拠点は落とさず睨み合いを続けるべき?どういうことだ?グワラニー」
やってきたその提案に理解できずモンテイロは顔を顰め、提案者を睨みつける。
その男が口を開く。
「今の勢いなら確実にそこを落とすことができるでしょう。さらにいえば、守備する者たちも殲滅できるでしょう。ですが、そうなると、まちがいなく王太子アリスト・ブリターニャが現れます。もちろん今度は勇者として」
「おそらくアリスト王子は今回の戦いに加わることができなかったことをひどく後悔しています。ですから、次回は全力で攻撃してきます」
「残念ですが、勇者の一撃を防ぐことは不可能。調子に乗って王都まで攻めたてた軍はこの世から消えます。それが百万でも二百万でも」
「そうなってはせっかく手に入れたこの方面の優位が失われます」
「ですから、勇者が戦場に現れないようにする。そのためにはブリターニャの正規軍と戦うことが必要なのです」
「だが、そうやれば勇者は絶対来ないと言い切れるのか?」
「いいえ」
モンテイロからの問いに薄い笑みを浮かべてグワラニーはそう応じる。
「ですが、可能性は低くなります。勇者と出会い、戦えば確実に滅ぶのですから、そうならない努力はすべきでしょう」
「それと、もうひとつ助言をすれば、勇者は逃げる敵に攻撃をしてこない傾向にあります。戦闘が始まる前に逃げることをお勧めします」
「ですが、これは攻撃を回避するための一時的なもの。勇者は五人であるため、手に入れた土地を確保しておくことができません。これまでなら、後方からやってくる人間の部隊が空白地帯を埋めるようにして手に入れていましたが、ブリターニャ軍があの状況であれば、それは不可能」
「勇者がいなくなったことを確認したうえで再占領することも可能でしょう」
「それから、勇者が転移魔法で来ることを防ぐための手段を講じておいてください。これは確実に」
最後に両国の、いや、ブリターニャ軍の損害状況に記しておこう。
前衛。
左翼集団は兵一万二千四百三十八人、魔術師四千三百九十五人
中央集団は将兵五十六万九千七百十一人、魔術師七千百七十三人。
右翼集団は将兵五十万四千五百八十八人、魔術師三千四百二十七人。
これが各集団の戦死者及び行方不明者数となる。
後衛。
左翼集団は魔術師二万五千九百仁十八人戦死。
中央集団は魔術師二万二千八百六十七人戦死。
右翼集団は陸軍所属魔術師一万三千七十六人戦死、海軍所属魔術師一万四百五十二人戦死、宮廷魔術師千五百三十二人戦死。
前衛のうち、他の二隊がほぼ全滅したのに対し、堀に入ることがなかった左翼集団が二パーセント弱の損害であることから、この堀がブリターニャ軍大敗の主要因であったことはあきらかであろう。
また、この戦いに訓練途中の魔術師まで投入した陸軍魔術師団は事実上壊滅し、各地に配属する魔術師も不足することになる。
そして、補填として海軍の魔術師を陸上に上げることが常態化することにより海軍の弱体化も進む。
さらに貴族が抱えていた魔術師もほぼ消え、宮廷魔術師にも傷がつき、王都防衛にも支障を来たす。
「ブリターニャ軍はこの戦いで壊滅したといいだろう」
「そして、なぜここで魔族と休戦できなかったかと思ってしまうのは私だけではないだろう」
アレックス・グラッシントン。