緋色に染まった戦場
ブリターニャ軍にとっては運命の日となるその日。
三十アクト、別の世界の単位で表せば、三キロメートルほどが草原地帯の両端に配置についた両軍の間にある。
草原の西側に別の世界での二百五十キロメートルと同等の二百五十アケトに亘って並ぶブリターニャ軍は、北管区軍、中央管区軍、南管区軍。
そして、それに対峙する魔族軍は右翼、中央、それからグワラニーが指揮を執る左翼の各軍となるのだが、こうして一列に並んでいるものの、集団の間に五アケト程の間隔があり両軍とも各集団それぞれが独立した組織であり、連携して戦うというよりも対峙した相手と個別の戦いがおこなわれると思ったほうがいいだろう。
つまり、戦場は三つあるということである。
さらにブリターニャ軍は前線に並ぶ三個集団の後方にさらに二集団が配置されているのに対し、魔族軍の予備戦力はゼロ。
それは前線を抜けば、あとは進み放題ということを意味しているわけなのだが、逆にいえば、魔族軍は抜かれる気はないということを示しているとも言え、それを見たブリターニャの中央管区軍司令官であるバイロン・グレナームが「傲慢な布陣」が表現したのもまったくの不正解というわけではないといえる。
だが、グレナームと同じような布陣を眺めながら、それとは、別のものに思えた者もいる。
ブリターニャ軍の左翼部隊の指揮官であるアルバート・カーマーゼンである。
彼は間接的にではあるもののブリターニャ軍がグワラニーの壮大な罠に嵌って大敗、四人の王子をはじめとした多くの戦死者を出したダワンイワヤ会戦に関わりを持っていた。
そういうこともあり、彼の嗅覚は魔族軍が予備部隊を置いていないという情報を聞いた瞬間、あの戦いと同じ匂い感じ取った。
ただし、残念ながら具体的にどの辺がということを指し示すことができなかったために同僚たちを説得できなかったのだが、ずっとその思いは捨てきれないでいた。
だが、実際に目の前に広がる光景を見た時、気づいた。
一見すると、間の抜けた布陣。
そして、簡単に突破できそうなその布陣の先に広がる明るい未来。
これはあの戦いが始まる前と同じ状況。
つまり、これは我が軍を誘い込む罠。
そして、それに気づかずこうして戦場に姿を現した時点で自分たちはすでに罠にかかった獲物となっている。
そうであった場合、前例から考えて真っ先に狙われるのは魔術師団。
となれば、魔術師の近くにいることは自らにも危険が及ぶ可能性が高い。
「布陣を変える。魔術師団を前に。そして、本陣はさらに後方へ移動」
通常、軍全体が視界に入り防御魔法を展開しやすく、さらに遠方からでも攻撃が可能な魔術師の配置場所は最後方。
つまり、カーマーゼンの指示は魔術師にとって何の意味を持たないどころか突撃をおこなう剣士たちにとって邪魔になるという、すべての点で最低のもの。
だが、命令は命令。
陣形の変更を始める。
魔術師を護衛する少数の剣士が第一列。
それに続くのが魔術師。
彼らは本来の第一列である一流の剣士を揃えた精鋭部隊の前に出る。
いうまでもなく敵前での陣形変更は自軍の混乱を敵に突かれる可能性が高く避けるべき行為のひとつ。
しかも、四アケト四方に多数の兵を配置する密集地帯での陣形変更。
当然のように北管区軍は大混乱に陥る。
三集団の様子を把握できるように各軍の後方に配置していた物見からの伝令によって北管区軍の陣形変更を知り驚き慌てたのは後方の高台にいたブリターニャ東方方面軍総司令官アーサー・ドレイトンだった。
「カーマーゼンは何をしているのだ?」
出来ることならすぐさま北管区の本陣に出向き、カーマーゼンを怒鳴りつけすぐさま元の陣形に戻すように命じたい。
だが、それをやったら混乱に拍車をかけ攻撃態勢が整うまでの時間を引き延ばすだけ。
怒りを噛みしめ、黙認する。
だが、それはあくまで味方だから許されるのであって、敵である魔族軍がドレイトンと同じくらい寛容でなければいけない理由などもちろんない。
カーマーゼン軍の混乱に気づいた対峙する魔族軍右翼の司令官グルバはすぐさまモンテイロに報告、さらに攻撃開始を進言する。
むろん、モンテイロは動く。
「ブリターニャ軍はここで陣立ての変更をするとは驚き」
「おそらくこちらの陣形から何かを感じ取ったのだろうが、それでもここでそれをやるべきではなかったな」
「申し訳ないが我々はおまえたちの陣形が整うまで待ってやるほど優しくはない」
「この機会を逃すな。ただちに攻撃を開始する」
「狼煙。赤二本」
それは火球攻撃を開始し、継続せよという指示。
すでに準備が整い、攻撃命令が来るのを待っていた魔族軍は一斉に攻撃を開始する。
むろん最高位の防御魔法と転移による急襲を避けるための転移避けは展開していたものの、ブリターニャ軍にとってこの火球攻撃というのは予想外であった。
「魔族軍の上空に多数の火球が現れました」
「上空が真っ赤になっています」
「初手が火球攻撃だと。ありえない。と、とにかく迎撃せよ」
「対抗魔法発動。氷槍を展開。急げ」
いわゆるオールドスタイルの魔法。
そして、三十アクトという距離。
もちろん火球を確認してからでも十分に対応はできる。
だが、それは迎撃ができるというだけであって反撃までは手が回らない。
まさに魔族軍の打ち合わせの中でアンガス・コルペリーアが口にした通りの状況となる。
ブリターニャ軍左翼。
「一手遅かったか」
北管区軍司令官アルバート・カーマーゼンは渋い顔でその様子を眺めていた。
「だが、何もせぬうちに魔術師だけでなく本陣が全滅するよりマシだ」
そう言って、最側近で参謀役でもケープ・ネザーホールに目をやるとその男は笑みのない顔で上官の言葉に応じる。
「とりあえず、集団からこれだけ離れればここが攻撃されることはないでしょうが、あきらかに劣勢ですね。我が軍は」
「そして、私が見るところ、その理由は魔術師の数」
「この様子では魔族軍は最初から魔法戦を挑んでくるつもりだったようですね」
自身の不愉快極まる言葉はさらなる不愉快の言葉に応じられ、カーマーゼンの顔に現れた苦り切った表情は深みを増す。
「ああ。だが、それを悟らせぬよう兵の中に魔術師を潜り込ませていた。そして、前面には剣を振り回し威嚇する者を並べるという細工までしてきた」
「やってくれるな。魔族」
これは完全に負け戦。
全滅する前に引くしかない。
カーマーゼンの悪い予想は当たっていた。
ブリターニャ軍中央管区軍。
魔族軍の火球群が上空を覆った瞬間、司令官バイロン・グレナームは魔術師団に迎撃を命じる。
火球群の第一波を迎撃し終わったところで前衛部隊に突撃を命じようとしたのだが、そこに悲鳴に似た連絡が届く。
「前衛部隊の次席指揮官アラン・モーリー将軍より上申。魔族軍の攻撃によって指揮官アシル・バートン将軍戦死。前衛各部隊の被害甚大。後退の許可を得たし」
突撃を命令をしようとした相手からの後退の許可願いだった。
むろんその願いは頭に血が上ったグレナームの強烈な怒号に報いられる。
「馬鹿を言え。戦いが始まったばかりだ。それよりもすぐに全軍突撃し、忌々しい敵の魔術師を狩って来いと伝え……」
そう言って前方を指さしたところでようやく気づく。
魔族軍の攻撃でブリターニャ軍の先鋒にあたる第一列が布陣していた場所が火の海になっていることを。
グレナームがいるのは最後方の魔術師団陣地。
魔族軍の激しい火球攻撃とそれを迎撃する氷槍に注視していたため気づかなかったのだが、火球は戦闘が始まった時の先鋒となる者たちが布陣する最前線へもおこなわれていたのだ。
しかも、前方に降り注ぐ火球は迎撃されることなく、すでに火の海になっていた。
むろんそこにいる将兵がどうなっているかはいうまでもない。
「フレミング。これはどういうことだ。なぜ前衛に対する攻撃は迎撃しないのだ?」
グレナームは自身の隣で防御魔法を維持しながら、魔術師団の指揮を執るアンディ・フレミングに怒鳴り散らすように問うと、フレミングは対照的に冷たさだけでつくられた声でこう応じる。
「魔術師の数が圧倒的に足りない」
「現状、軍全体の崩壊に繋がる魔術師団の全滅を避けることが優先事項。そうなれば防御は後衛にやってくる火球に集中するしかあるまい。前衛の兵たちには申しわけないが彼らを救う余力は今の我々にはない。そういうことだ」
北管区軍は司令官カーマーゼンの指示により魔術師団を生贄として魔族軍に差し出して司令部の保存を優先し、中央管区軍は魔術師団長アンディ・フレミングが司令官の命令を無視し魔術師団の生き残りを優先させた結果、魔術師団の維持に成功したものの、その代償として精鋭の剣士が揃う前衛部隊が壊滅的損害を受ける。
それでもこの二隊は軍としての秩序を保っていたのだが、残る南管区軍はそうはいかなかった。
なにしろ、ここにはグワラニーとともに魔族軍最強の魔術師がやってきていたのだから。
モンテイロの陣地から狼煙が上がる直前。
「グワラニー殿。せっかくここに来ているのだ。手伝いくらいはすべきだろう」
ブリターニャの南管区軍と対峙する魔族軍左翼の本陣で老魔術師は冗談交じりにそう言って若い男を見やる。
「むろんデルフィンは指を動かすだけでブリターニャ軍は半壊する。だが、この軍に所属している者たちの手柄を奪うことになる。それは遠慮すべきだ。そこでこういうのはどうだ?」
老魔術師の提案。
それはこういうものだった。
後方に待機している予備部隊と本陣を粉砕する。
さらに、目の前にいる敵右翼にいる強大な魔力を持つ魔術師をこっそりと消し去り、攻撃をおこなう魔術師たちの支援をする。
「この程度であれば、問題あるまい」
「まあ、そうですね」
「よし。話はまとまった。デルフィン」
「おまえは前方のブリターニャ軍にいる魔力の強い三人を狩れ。私は後方に控える部隊の魔術師を殲滅する。まあ、魔力を頼りに攻撃するので巻き添えも出るだろうが」
そして、攻撃開始を告げる二本の狼煙が魔族軍の陣地から上がった直後、バーナード・シャンクリーが指揮するブリターニャ軍の予備部隊と東部方面軍を指揮する総司令官アーサー・ドレイトンの本陣に悲劇が訪れる。
ブリターニャの東部方面軍所属の魔術師団の四人の副魔術師長のひとりであるボドミン・ティーバートンが展開していた防御魔法を軽々の破った老人の魔法はその内部に入り込んだ瞬間、巨大な炎へ実体化する。
一瞬でティーバートンの身体を灰にした炎は続いて弟子たちを飲み込んでいくわけなのだが、そのときティーバートンの隣にいたのが総司令官アーサー・ドレイトンだった。
むろんドレイトンは魔術師ではない。
だが、意志のない炎がドレイトンを避けるわけはなく、数瞬後、最高司令官の地位にあった男の身体は焼け落ちていった。
そして、同じ頃、副司令官バーナード・シャンクリーの命運も尽きようとしていた。
ティーバートンと同じく副魔術師の地位にあったアレクサンダー・ティンタージェルを一瞬で焼いた火が少し離れた場所にいたシャンクリーにも襲い掛かったのだ。
駆けつけた部下たちが炎の中からどうにかシャンクリーを引きずり出したものの全身火傷。
ただちに治療が始まるものの、この時代の治療技術では手の施しようがない。
むろん相応の治癒魔法であれば助かる。
だが、この場にはそれを扱える者がいなかった。
治癒魔法は女性が取得するもの。
女は戦場に立たせない。
ブリターニャが誇るふたつの素晴らしき伝統である。
そうなればシャンクリーは痛みに魘されながらやってくる死を待つしかない。
一方のデルフィンは杖を顕現させ、グワラニーからの「攻撃をおこなったことを敵味方に悟られない。攻撃対象は魔術師団の指揮官と思われる三人のみ」という希望を忠実に実行する。
魔族軍の左翼の魔術師団が火球攻撃を開始したところで、その攻撃に紛れ込ませるようにデルフィンは三人のターゲットの魔力に向けて杖を振るう。
そして、その直後、グワラニーに視線を向ける。
「終わりました」
実をいえば、デルフィンのこの攻撃によって魔族軍は予想外の反撃からの小さな危機を脱していた。
むろんデルフィンやグワラニーも含めて魔族側の誰も知らないことであったのだが。
それは……。
ブリターニャ軍の右翼。
司令官アルビン・リムリックの隣で防御魔法を展開していた東部方面軍の魔術師長であるエヴィラール・インマンは、魔族軍陣地の上空に無数の火球が浮かび上がった瞬間、魔族の意図を察した。
「どこから集めたのかは知らないが、あの数は我が軍の遥かに多い。こちらの魔術師が対抗魔法で迎撃してもすべてを防ぐことができない。やがて、その穴から火球は落ちてくる。そして、その穴は徐々に広がり全体に広がり、我々は圧せられる」
「そうはさせん。ドネリー。エクルストン」
インマンに名を呼ばれた高弟のふたり・ベンジャミン・ドネリー、アーロン・エクルストンが師の前に跪くとインマンはふたりを見やる。
「ドネリー。おまえは私の代わりに防御魔法を展開しろ」
「承知しました。それで、師は?」
「エクルストンと一緒にこちらからの火球を撃ち込む。全力で。そうすれば、奴らも迎撃せざるを得ない。攻撃が多少なりとも弱まる」
「まず、急いで防御魔法を……あっ」
インマンの言葉はそこで終わる。
突然の雷。
それがインマンの言葉を止めた理由。
そして、周辺にいた者たちがその光によって奪われた視力を回復させたたとき、インマンは人間の形を保っていなかった。
もちろんふたりの高弟も。
まさに一瞬の出来事だった。
実をいえば、この時ブリターニャ軍南管区司令官アルビン・リムリックはインマンたちのすぐ近くにいたのだが、奇跡的に無事だった。
むろん、それはデルフィンの攻撃が本当の意味でのピンポイントだったからであったためなのだが、ここで幹部全員が消えていたらこの時点で南管区軍は崩壊、再び戦わずに敗走する大失態を演じていただろうから、リムリック個人だけではなくブリターニャ軍としてもこれは大きな幸運だったといえるだろう。
だが、それは状況の更なる悪化を防いだというだけで好転するという意味ではない。
一瞬の自失を乗り越えたリムリックは、必死に迎撃しているものの数に圧倒され次々に倒れていく魔術師たち、それから一方的に叩かれ続ける剣士たちの様子を苦々しく眺め終わるとこう呟く。
「……これは負け戦だな」
もちろん序盤の劣勢を挽回し、最終的に勝利することもあるのだから、早々の勝てないと言い切ってしまうのは将としてどうかと言えなくもないのだが、それはどこかに勝つ可能性を感じる部分がある場合の話であって、これだけ一方的な状況では「勝てる」などと軽々しくは言うわけにはいかない。
そして、そうなればできるだけ損害を少なくするために早期に撤退を決断するのが将の義務。
だが、簡単に撤退というものの、戦いは前に出るより後退する方が圧倒的に難しい。
撤退が決まると、多くの場合、無秩序な後退からの全面敗走が起こる。
それを起こさず戦場から離脱するなど至難の業。
そして、そういう意味で言えば、現在はグワラニーの隣に立ち状況を眺めるアーネスト・タルファがクアムート攻防戦後に見せた隙がなく、さらに堂々とおこなった撤退は芸術といえるくらいに見事なものということになり、あれひとつだけでもタルファの将としての才がわかるというものであろう。
さらに、今回魔族軍は圧倒的な数の魔術師を配置している。
当然逃げる背に魔法攻撃がやってくる過酷な後退戦を覚悟しなければならない。
「降伏はない以上、残るはここに踏みとどまり全滅するか、背中を撃たれる覚悟をした撤退の二択となるわけなのだが……」
「まったく不愉快すぎる二択だな。それは」
そう呟いたリムリックは自嘲の見本ともいえるような笑みを浮かべた。
ブリターニャ軍は前面に展開する三個集団のすべての司令官が戦闘開始直後に撤退を考えなければならない状況に陥ったわけなのだが、ここで問題が発生する。
いや。
正確には問題が発覚したということになる。
そう。
今回の攻勢は失敗したと認め、全軍の後退を最終的に決める立場にある総司令官アーサー・ドレイトンが幹部たちとともにすでにこの世の住人でなくなっており、次席指揮官であるバーナード・シャンクリーも棺桶に手足を突っ込んでおり、決断を下せる状況ではなかったのだ。
そうなれば三人の管区軍司令官のうち先任であるバイロン・グレナームがその指示を出さなければならないのだが、グレナームは他のふたりと同様、自隊である中央管区軍の崩壊を防ぐことで手一杯であり、他の集団など気に掛ける余裕などなかったのだ。
「カーマーゼンとリムリックに伝令」
「総司令官と副司令官が戦死したため、全軍の指揮を引き継いだが、厳しい戦況により全軍の指揮は困難。最終的な責任は自分が負うので今後の各集団の行動は進退を含めてすべて司令官の判断に委ねるので司令官は最良の選択をするように。武運を祈る」
一見すると、グレナームのこの言葉は指揮官とは思えぬ非常に無責任なものに聞こえる。
だが、実際に目の前のことで手一杯で他の集団のことなど構っていられない状態であり、その状況下で各集団がどのような状況下がわかっていない者の命令によって前線の行動を縛るのは正しいとは言えないだろう。
しかも、カーマーゼンとリムリックがどのような判断をしようが、最終的な責任は自分が取るとグレナームは伝えている。
さらに、そこに「進退を含めて」という言葉を加えて、撤退の許可も出している。
その投げやりな言葉とは裏腹に極めて現実的かつ適切な指示といえるだろう。
「さて、押しつけられたものとはいえ、これで総司令官としての職務は果たした。ここからは中央管区軍司令官の仕事に専念しようか」
そう言って、グレナームは隣で魔術師団の指揮を執るアンディ・フレミングを見やる。
「それで、何か反撃の手はあるか?フレミング」
「ないな」
グレナームの僅かばかりの期待をフレミングはあっさりと蹴り飛ばした。
「前線の兵士たちを犠牲にして魔術師の数を保っていられるのもあと僅か。三分の一もやられれば、敗走が始まる」
「そうならないうちに後退を始めるべきだろう」
「総司令部のように指揮する者を失って手遅れになる前に撤退命令を出すべきだろうな」
「やむを得ない。まあ、これから逃げる敗軍の将としては、せめて魔法の的にならぬよう散開して逃げるように命じておくことにするか」
「全軍逃げろ。友人、家族、上官、部下。誰がどうなろうと気にするな。自分が生き残るために走れなくなるまで走れ」
ブリターニャ軍左翼集団。
中央管区軍司令官アルバート・カーマーゼンははかばかしくない戦況を睨みつけているところに、グレナームからの伝言が届く。
そして、伝令兵の言葉を聞き終えると、カーマーゼンは自嘲の極みのような笑みを浮かべる。
「好きにやってよいとはグレナームも気前のよいことだ」
「それとも助からないと思い、死んでからあの世で責められぬよう善行をおこなおうとしたのか」
「まあ、どちらにしても伝言は受け取ったとグレナームを伝えてくれ」
そう言って伝令兵を返すと、カーマーゼンは隣にいるケープ・ネザーホールを見やる。
「さて、これで安心して撤退できることになったわけだ」
「だが、このまま叩かれたまま引き上げるのは性に合わない」
「ハインドンとギルフォード、それからヘイティーズを呼べ。おまえたちにふさわしい仕事を用意したとでも言えばすぐに飛んでくることだろう」
カーマーゼンが名を上げた三人デヴェリル・ハインドン、クロフト・ギルフォード、ブラットン・ヘイティーズは元々先陣を務めるはずだった将軍たちで小細工はできないがそれを補って余るくらいの勇猛さを売り物に猛者。
当然彼らに与える仕事などひとつしかない。
「魔族軍がこのまま魔法攻撃だけで終わらせるはずがない。必ず剣士を使って掃討戦を始める。そして、それは我々が撤退を開始したとき。だが、奴らは知らない。こちらにとっておきの猟犬がいることを」
「三人が配置についたところで撤退を開始する。楽しみにしていろ。魔族」
そして、同じ頃、残る一隊であるブリターニャ軍右翼集団である南方管区軍を率いるアルビン・リムリックも後退を指示していた。
だが、実をいえば、リムリックもカーマーゼン同様、魔族が剣士を投入した掃討戦に移行してきたところを反撃しようと狙っていた。
つまり、後退は擬態。
乱戦に突入してしまえば忌々しい魔法攻撃を受けずに戦えるという狙いのもとに、後退しながら反撃のための陣形を構築するという高度な再編成をおこなっていたのである。
そして、いよいよカーマーゼンとリムリックが待ち望んでいたその時がやってくる。
半壊状態の中央部隊を追撃するため、魔族軍中央部隊のデスコンペルタが魔法攻撃から剣士による掃討戦を開始したのに続き、右翼部隊のグルバも前衛部隊に突撃準備を命じる。
だが、左翼部隊の指揮を任せられていたグワラニーだけは突撃を認めず、さらなる魔法攻撃を指示していた。
それより少し前。
「……グワラニー司令官。前衛の各隊より突撃許可を求める伝令がやって来ています」
「すでに中央は突撃開始しており、まもなく右翼も突撃を始めると思われます。我が隊もただちに突撃命令を」
「そして、その指揮はぜひ私に」
左翼部隊の指揮官から副司令官に格下げされたカラコウ・ヴァンデルレイからの上申にグワラニーは苦笑した。
……まだ敵の数は多い。ここで剣士による掃討など始めては損害が馬鹿にならないのだが……。
……止むを得ないか。
心の中でそう呟いたグワラニーはアンガス・コルペリーアを見やる。
「魔術師はどの程度削れましたか?」
「残りは三割というところか。全軍の後退が始まっているのだ。魔術師も逃げるのが精一杯でこちらに攻撃を仕掛ける余裕はあるまい」
「ということは脅威にならないと?」
「そうなるな」
「わかりました。自分たち自身が血を流したいと言っていっているのですから、仕方ありませんね。では……」
「グワラニー殿。少々待ってもらえるか」
ヴァンデルレイからの再三の上申に根負けしたように突撃の許可を出そうとしたグワラニーの声を遮ったのは敵の状況を大海賊ワイバーン経由で手に入れた異世界製の高性能双眼鏡で監視していたプライーヤだった。
「他の戦場は知りませんが、我が軍と対峙しているブリターニャ軍に関してはもう少し魔法で叩く必要がある。私はそう考えるのだがタルファ将軍はどう思う?」
そう言ってプライーヤは同じように双眼鏡で監視していたタルファに言葉を向けると、純人間であるその男はまずプライーヤ、続いてグワラニーに目を動かしこう答えた。
「後退しているはずの敵の一部に不自然かつ規律正しい動きが見られます」
「おそらくあれはこちらの突撃を待っているブリターニャ軍の精鋭部隊。しかも、十万はいます」
「あの部隊とまともにぶつかったら、こちらも勝ちが確定している戦いで失っていい数とは言えない損害を被ります」
「突撃は後退する味方に紛れて目立たぬように逆進し前衛に集まっているあの部隊を魔法で完全に叩いてからにすべきでしょう」
ふたりの言葉を聞き終えたグワラニーは数瞬ほど沈黙し、それから自らの双眼鏡を覗き込むものの、そこで浮かび上がったのは苦笑と評されるもの。
「よく眺めたつもりだったのだが、私にはその動きが全くわからない。だが、ふたりが揃って言うのなら間違いなのでしょう。そして、そういうことならもう少し魔術師団の攻撃を続けることにしようか。ということで……」
「ヴァンデルレイ将軍。突撃の際には指揮を任せることは約束しますが、その命令を出すのはもう少し後。その諸将に伝えてもらいましょうか」
「そういうことで魔術団は後退するブリターニャ軍に対する攻撃を続行。特に、敵の最前線を集中的に」
むろん反撃の機会を窺い準備をしていたブリターニャ軍右翼にとって魔法攻撃の継続は喜ばしいことではない。
後方に温存させていた部隊を率いて迎撃をおこなおうとしていた南管区軍副司令官で迎撃部隊の指揮を任されていたオーギュスト・ロスベリーは間断なく火球が降り注ぐ上空を睨みつけながら遠方からの攻撃に終始する魔族軍を知っているかぎりの言葉で罵倒した。
だが、どれだけ罵詈雑言を並べ立て悪態をつこうが火球が止むわけでもない。
「このままでは突撃できる頃には誰もいなくなっている」
「残念だがやむを得ない」
「リムリック将軍に伝令。前線への火球攻撃が激しく、このまま前線に留まっているのは困難。迎撃を断念し後退を開始する」
ふたりの前線指揮官の戦死と二万人の死傷者を出したところでロスベリーは遂に迎撃を諦める。
だが、敗走する友軍に紛れて後退しているはずの彼らへのピンポイント攻撃はなぜか緩むことはなかった。
実は、グワラニーはデルフィンに対して彼女の全力からは程遠い火球でロスベリーの部隊を攻撃させていたのだ。
そして、双眼鏡で確認しながらデルフィンに目標の位置を伝えていたのはプライーヤ。
言ってしまえば、これは別の世界での観測手の指示に基づいた砲撃であるのだが、これが可能だったのはロスベリーの部隊の動きが周辺の兵たちとまったく違うため簡単に識別できたからで、精鋭部隊の秩序正しい動きがこのような形で負に作用するというのはまったくもって皮肉なものだといえた。
結局ブリターニャ軍右翼の南方管区軍は反撃を諦め中央管区軍に続き退却を開始する。
そのような中でアルバート・カーマーゼン率いるブリターニャ軍左翼の北管区軍に絶好の機会が訪れる。
敵は完全に敗走状態。
さらに敵魔術師もその多くの狩り終わり、脅威にはならない。
勝利を確信した魔族軍右翼の司令官コンコール・グルバは前衛の剣士たちに突撃を命令したのだ。
勢いよく走り、敗走中のブリターニャ軍左翼に追いつき、最後方の兵士たちを狩り始めたところで、突然異変が起こる。
逃げる味方を押しのけるようにして現れたブリターニャ軍の新手が魔族軍に襲いかかってきたのだ。
むろんこれはカーマーゼンが仕事を与えたデヴェリル・ハインドン、クロフト・ギルフォード、ブラットン・ヘイティーズが率いる十五万の部隊。
予期せぬ敵の反撃に混乱した魔族軍は一転して狩る側から狩られる側に変わる。
追撃戦に転じたはずが、思わぬ形でブリターニャ軍の反撃を遭う魔族軍。
だが、実をいえば、魔法戦の後始末や敗走する敵の背を斬りつけるだけのつまらぬものではなく正面を向いた相手との斬り合いこそ彼ら魔族軍の戦士が望んでいたもの。
そして、度し難いとしか言いようがないのだが、それはブリターニャ軍が望んでいたものも同じ。
しかも、現在魔族軍と戦っているブリターニャ軍左翼を率いるデヴェリル・ハインドン、クロフト・ギルフォード、ブラットン・ヘイティーズの三将は後方に下がって指揮を執るよりも先頭に立って戦いたいというブリターニャ軍きっての猪武者的指揮官。
直属部隊となればその色合いはおのずと濃くなる。
そして、三人の直属部隊の熱病は完全に逃げに入っていた他の部隊の兵士たちにも伝播する。
敗走する足を止め、次々に反撃に転じ始める。
そもそも数はブリターニャ軍の方が多い。
そこに勢いが加わっては、「我が軍の剣士ひとりは人間の兵士五人と同等の力」と豪語する魔族軍も押し込まれ始めるのは止むを得ないといえるだろう。
むろん、魔族軍右翼の司令官コンコール・グルバがこの状況を放置するはずはなく、直ちに全軍に対して突撃を命じ、そこに自身も加わる。
身を隠す場所がない草原地帯での白兵戦。
そして、ここから歴史に残る壮絶な戦いが始まるのである。
もちろん突発的に始まった戦いであったので両軍ともこの壮大な斬り合いに参加した正確な人数はわからないのだが、多くの証言からブリターニャ軍は四十五万から五十万、魔族軍は右翼軍のほぼすべてとなる三十万が参加したと思われる。
つまり、ブリターニャ軍が魔族軍の二倍弱。
単純な数だけならブリターニャ軍が有利なわけなのだが、過去の例で考えればこの程度の数の差など魔族軍にとって差のうちには入らない。
援軍が来たところで体制を立て直した魔族軍があっという間に盛り返す。
ただし、ブリターニャ軍の全面崩壊とならなかったのは、ハインドンたち三人の指揮官の直属部隊が魔族兵に対して対等以上の戦いを繰り広げていたからだ。
その中でも指揮官三人の強さは軍を抜いていた。
技量、速さだけでなく、その剣の重さも魔族軍の兵士のそれを凌駕し、次々に倒していく。
そして、そのひとりクロフト・ギルフォードの前にあらたな敵が現れる。
「私が直々に相手をしてやる。感謝しろ」
男は戦斧を片手にそう言い放った。
そして、相手を吟味するように眺め直し、それから、もう一度口を開く。
「私は魔族軍左翼の指揮官コンコール・グルバ。一応、貴様の名前も聞いておこうか。人間」
強い。
相手が纏うオーラでギルフォードはすぐに察した。
だが、逃げる気などサラサラない。
「クロフト・ギルフォード。ブリターニャ軍の将軍だが、残念ながら総司令官ではない。まあ、貴様程度なら私で十分だ。名乗り出た褒美に戦ってやってもいいが、どうする?」
そう言って、通常のものより明らかに大きい剣を相手に向ける。
むろんこれは挑発。
そして、答えはすぐにやってくる。
「言ってくれる。では、どちらが強いか。ハッキリさせようではないか」
「いいだろう。それほど私に斬られたいというのなら望み通りにしてやる。これは私の獲物だ。手を出すな」
「口ほどでもないことをすぐに証明してやる。おまえたち。取り巻きは斬り倒してもいいが、私とこいつの戦いの邪魔はするなよ」
「いくぞ。人間」
非公式な決闘の形式が整った瞬間、グルバの戦斧が唸りを上げた。
むろんそれは小生意気な人間を黙らせるためのグルバの渾身の一撃。
躱されるなどとは思っていなかった。
だが、首と胴が切り離されているはずがかすりもしない。
すぐさま反転させ、第二撃を振るうものの、再びを戦斧は空を切る。
「ほう。つまり、逃げ上手だということか。人間」
その瞬間、剣がグルバの頬をかすめる。
いや。
グルバがギリギリ避けたというほうが正しい。
「そちらこそ逃げ上手ではないか。その逃げ上手という称号はありがたく受け取っておくので、おまえはさっさと死ね」
「調子に乗るな。人間」
突きからの右下から左上という珍しい軌道でやってくる戦斧。
さすがのギルフォードもこれは読み切れなかった。
止むを得ず剣で受け止めると、鈍い音とともに衝撃が両手に伝わる。
「まさか止められるとは思わなかった」
「これは少し本気でやらないといけないようだな」
そう言ったものの、グルバは相手が簡単に倒せない強者であることを悟る。
つまり、隙を見せた方が負け。
すなわち死ぬ。
むろんギルフォードも同様の言葉を心の中で呟いていた。
あれだけ戦斧を大振りしているのだ。
十分に隙がある。
だが、それは二流の見立て。
あれは間違いなく誘っている。
そして、打ち込んでくるところを狩るつもり。
ハインドンかヘイティーズところに行けばいいものをよりによって私ところに来やがって。
まったく気が利かない奴だ。
だが、始めてしまった以上、やめられない。
どちらが倒れるまで。
十合、十五合。
大剣と戦斧の全力の打ち合いはまったくの五分。
これだけもギルフォードが只者ではないことはあきらか。
言うまでもない。
ギルフォードは所謂人狼。
彼と同じ、魔族の戦士と対等に渡り最合える人狼と呼ばれる突然変異的に生まれる怪力の持ち主はその能力ゆえに最激戦地に送り込まれ、多くは多大な戦果とともに命を散らす。
一年もすればその半数は死亡し、三年後にはほぼ全員がこの世を去る。
だが、ギルフォードは軍に身を投じてから十五年の年月が経つ。
当然ではあるが、常に激戦地にいながら生き残ったギルフォードの出世は驚くほど早く、三十歳に届かぬうちに数万の軍を率いる将軍となっていた。
もっとも、指揮自体は年長で経験豊かな副司令官たちに任せることが多く、自身は変わらずもっぱら前線で戦っていたのだが。
その異才の持ち主クロフト・ギルフォードに人狼の勘と長年の経験がこう囁きかけた。
勝てる。
剣と剣の戦いにおいて人間が魔族に勝つための方法。
数人で同じ相手にあたる。
これが基本となる。
だが、それだけではまだ足りない。
魔族の剣の重さはすさまじく直撃を食らうと甲冑が耐えてもその中身が砕かれる。
そうであれば、甲冑を軽いものにし、その対価として俊敏性を手に入れるべき。
そうして進化したのがブリターニャ軍の甲冑。
そして、その「紙ほどに薄く防御力などないに等しいただのお飾り」と魔族軍に嘲笑されるブリターニャ軍の甲冑がここで活きる。
甲冑の重さが時間を追うごとにグルバの体力を奪っていたのに対し、軽い甲冑のギルフォードはまだまだ余裕。
ギルフォードに囁いたその声はそれを突いたものだった。
あと十合もやれば、こいつの首は私のものだ。
むろん自分が劣勢になりつつあることはグルバも承知していた。
このままやり合っていては絶対負ける。
だが、焦って動けばやられるだけ。
勝機は相手が隙を見せたときだけ。
だが、この時点でグルバは自身の勝ちがないことを察していた。
相手は自分と同じ側の住人。
この状況を理解し、万が一にもそのようなミスはしない。
自分より強い相手と一騎打ちでやられるのだ。
文句はない。
そう自分に言い聞かせて。
一方は勝利を確信し、もう一方は敗北と死を覚悟したその戦い。
だが、その結末は双方が予想しなかったものとなる。
「……狼煙です。ギルフォード将軍」
「くそっ」
熱くなりすぎる上官の冷却係と評される副官エリオット・ボロウズからの短い言葉にギルフォードは口惜しさを過剰に滲ませそう応じると、少しだけ距離を取るとグルバに剣を向ける。
「残念だが時間切れだ。その少しでお前の首は私のものだったのに。助けてやった恩を忘れるな」
盛大に捨てゼリフを吐き出すと、ギルフォードは相手の反応を確かめもせず背を向けて走り出し、ボロウズは置き土産のように小さな火球をグルバに向けて放ち、グルバの足を止めたのを確認したところで自身も素早く後方へ走り出し味方の中に潜り込む。
そして、その直後周辺の兵士たちも一斉に剣を引き、後退を始める。
それまでの攻勢が嘘だったかのように。
そう。
ボロウズが口にした狼煙とは北管区軍司令官アルバート・カーマーゼンからの撤退命令。
そして、後方の高台で戦場全体を把握していたカーマ―ゼンが自軍の攻勢が限界に達したことを察したのと同義語。
同じ頃、魔族を圧し戦場を支配していたデヴェリル・ハインドンとブラットン・ヘイティーズも配下に撤退を指示する。
散開し魔法攻撃一撃で全滅することを避けながら。
当然ここから魔族軍の追撃が始まるはずだったのだが、それを指揮するはずのグルバが体力の限界で走れない。
さらに優勢な状況からの突然の撤退であったため、罠への誘引の可能性もある。
深くは追わずに追撃を中止となる。
魔術師団の攻撃も状況把握に手間取ったこともあり、結局効果的な攻撃がおこなわないまま終了となるのだが、ブリターニャ北管区軍はこの攻勢をおこなったことにより、少なくても八万人は余計な損害を出したとされる。
しかも、結局は撤退したのだから戦略的には得るもなかった。
当然、後世の歴史家からはそれを命じたアルバート・カーマーゼンに多くの非難が集まりそうなものなのだが、意外にもその評価の大部分が好意的なものだった。
フランベーニュの歴史家ウスターシェ・ポワトヴァン。
「この戦いの最終盤でおこなわれたブリターニャ軍の反攻は一見すると、意味ないものに思える。いや、占領地の再奪還という当初の目標を果たすことなく多くの戦死者を出して撤退したのだから実際にも意味はない。これは事実である」
「だが、アルバート・カーマーゼンの個人的願望により開始された反転攻勢が一時的にでも成功し優勢な状況をつくりだしたことは、魔族軍の大規模な魔法攻撃により全面敗北、そして敗走したブリターニャ軍にとって唯一の希望となったことを忘れてはいけない」
「もし、あの攻勢での戦果がなかったら、ブリターニャ軍は総司令官と副司令官が戦死したうえ、多くの戦死者を出し逃げ帰ったというこの世界の歴史に残る大惨敗を喫した事実だけが残り、ブリターニャ軍の士気は地の底まで落ちていたのは間違いなかっただろうから」
「さらに言うのなら、あの攻勢時に魔族軍右翼が失ったのはこの戦いでの魔族軍の損害のほぼすべてとなる四万余。損害だけに目を向けるのではなく戦果を忘れてはいけない」
フランベーニュの軍事研究家エリック・シュルアンドル。
「あの攻勢が失敗したの判明した時点で撤退し次戦に備える。これが正しい選択であり、アルバート・カーマーゼンは余計なことをして損害を増やしたという批判は間違っていない。ただし、胸中にあの策があり、それをおこなえるだけの部下が揃っていながら撤退できるのは安全な後方でふんぞり返り数字だけで戦争を考える武官というよりも文官に近い者たちだけあり、常に戦場に立っている者であれば、このまま一方的にやられたままでは帰れないと思うのは当然のことだといえる。そして、絶対数はともかく損害に比しての戦果という点では、その攻勢は十分な成功といえるものであったのだからカーマーゼンは軍の指揮官として有能といえるだろう」
「だが、アルバート・カーマーゼンが本当の意味で有能だったのはこの攻勢がおこなったことよりも、あそこで撤退を命じたことだろう」
そう言ったシュルアンドルが指摘したのは、あの時起こった突然の撤退命令についてだった。
「敵前で陣立ての変更。そして、魔術師を魔族の餌にしたこと。これは十分に非難の対象になり得るものである」
「そこまでして手に入れた攻勢の機会。そして、状況は自軍の優勢。大概の将はさらなる戦果を求めて戦いを続行させていたことだろう」
「もちろんそうなればクロフト・ギルフォードが撃ち漏らした魔族軍右翼の指揮官の首は飛んでいたことだろう」
「ただし、その対価は大きなものとなっていたことだろう」
「俯瞰的に戦場を見た場合、ギルフォードたち三人の指揮官の直属部隊はその力ゆえ他の部隊より進軍速度が速く敵の前線に深く食い込んでいた。だが、魔族軍はそれを逆に利用し彼らの退路を遮断しようと動いていた」
「あれより少しでも退却開始が遅ければ三人の直属部隊は魔族軍の包囲下に置かれ、全滅していたのは間違いない。そうなればこの戦いの英雄となる三人は生きて帰国できず、さらにこの後のブリターニャ軍の最精鋭部隊に据えられる彼らの直属部隊は消え、その再建にはかなりの時間が必要になったことだろう」
「そういう点で退路を確保できるギリギリであるあの瞬間を見極めて撤退の指示を出したカーマーゼンの目は誇るべきものであるといえるし、そうなることを見越して三人の指揮官に何があろうが必ず撤退命令に従うよう言い含めていたことも見事。もちろん目の前にあった大将首を捨ててその指示に従ったギルフォードの決断力も素晴らしいといえるのだろうが」
むろん、同時代に生きた者たちは敵味方を問わず後世の者以上にカーマーゼンを評価する声が大きかった。
そして、その中にはアルディーシャ・グワラニーも含まれる。
「……敵左翼の総司令官。それからコンコール・グルバの首を刎ね損ねたというクロフト・ギルフォードという前線指揮官。どちらも素晴らしいものだった」
「また、失敗に終わったものの、我々と対峙した敵右翼の将も掃討戦に入ったところに乱戦に持ち込もうとした動きも同じく見事なものだった」
「もちろん我が右翼も突出した強敵を包囲しようとした動きは見事。あれを総司令官の命ではなく前線指揮官の指示でおこなうことができるのは驚きだ」
グワラニーはそう言って敵味方の指揮官の有能さを褒め称えた。
だが、グワラニーは誰もいないところで、その続きとなる言葉を口にしていた。
「現実は、有能な者は本人だけで、敵はもちろん味方も凡庸な将軍しか存在しないどこかの英雄譚と違う」
「さらに言えば、今日プライーヤとタルファの言葉を聞いてあらためて感じた。別の世界の知識を利用して有能さを誇っていても、長く戦場にいて手に入れた経験と勘は薄っぺらな知識では代用できない。それが現実。経験もない小僧が戦場で起こることすべてを予知するなどあり得ぬ話。まして、死ぬ覚悟もない者が突然剣で無双するなど笑止以外の何ものでもない」
「そもそも彼らが強弱を判定する根拠であるカタログスペックなど実際の戦いでは存在しないうえ、油断、そこから生まれる一瞬の隙で強者でも弱者に討たれることはある。また、それとは逆にどれだけ努力し最高の準備をしても勝てない例など道端に転がる小石の数ほどある。まして、下調べも準備もせずその場のノリだけで戦いを始めれば食われるだけ。それが本当の戦い。そして……」
「負ける。それは自身の死に直結する」
「もうひとつ。自身の死に直結する本当の戦いが身近でない者は潔さを尊ぶ。だが、本当に有能な将は勝てないことをわかったら、それがどれだけ卑屈に見えてもすぐに引くものだ。そして、その引き方こそ有能か無能かの分かれ目。そういう点ではブリターニャ軍の諸将は皆有能だ」
「本当に今回の戦いは多くのことを再確認できて有意義だった」
さて、のちに戦いの主戦場となった平原から名が取られた「ラダムの戦い」と呼ばれるブリターニャ軍の攻勢を魔族軍が迎撃した戦いの最終盤の状況を語っておこう。
中央管区軍。
三集団の中で最も早く後退が始まった中央管区軍は、司令官バイロン・グレナームが退却命令を出したその瞬間に軍としての体が失われ、兵たちは四分五裂の状態で敗走を始める。
むろん魔族軍に捉えられた兵士は狩られていくわけなのだが、集団として逃げていない分、魔法攻撃の効果が薄くその無残な様子からは想像できないくらいに少ない損害で逃げ切ることに成功する。
もっとも、それはあくまで敗走を始めてからの話であって、魔術師の保全を優先した代償として、撤退開始前に最前線にいた精鋭部隊はほぼすべて失っていたのだが。
南管区軍。
最後まで魔法攻撃を受けていたため本格的な掃討戦が始まる前に多くの将兵を失っていた南管区軍だったが、魔族軍が剣士による掃討戦が始まるとその数はさらに増える。
陽が沈みかけたところで追撃中止命令が出され魔族軍が引き上げたとき、戦場に残されたブリターニャ軍将兵の死体は九十万余。
このうちに三万三千がグワラニーの戦い方の例に漏れず徹底的に狙い撃ちされた魔術師のものとなる。
そして、本陣と予備部隊。
彼らは司令官と全魔術師が消えた時点でほぼすべての兵士が敗走し、中央管区軍に合流した少数の者たちも結局敗走することになった。
つまり、戦死者の割合としては一番低いものとなる。




