かりそめの停戦
国境付近を見渡されるブリターニャ軍の監視所。
その集団がいた。
「……フランベーニュ領に留まっている者たちも攻撃しますか?アリスト」
珍しく杖を顕現させたうえで魔法を展開させていた若い女性が振り返った視線の先にいたのはこの国の王太子だった。
その男は笑いながら頭を振り、それからこう答える。
「さすがにそれをやってしまうとグワラニーに協定違反と問われかねない。もちろん問われるだけなら構いませんが、違約金を請求されては困ります。やるのはブリターニャ領に入ったフランベーニュ軍だけにしてください」
「それに、それが終わったら前線に出向き停戦協定をおこなわなければならないのです。相手が消えてしまっては面倒なことになります」
そう言って視線を返すと、その女性は小さく頷く。
「では、仕方ないですね」
「もう一撃であらかた片付きます。残りは糞尿剣士たちに任せることにしましょう。いいですね。糞尿三剣士」
「納得いかん」
「そもそも糞尿塗れなのはファーブだけだろう。俺たちまで仲間にするな」
「それはこっちのセリフだ。糞尿兄弟」
「糞尿勇者が何を言う。ファーブは小便を漏らしながら死ねばいい。そうしたら、手向けに顔を小便をかけてやる」
「なんだと。こっちはふたりの死に顔の上で糞をしてやるからありがたく思え……」
自身の言葉に続く背後での醜く非常に恥ずかしい口論を聞き流しながら女性は天上に杖を向けると、空に無数の光が生み出される。
「行きなさい」
女性が無機質なものにそう命じると、まるで生き物のように獲物を目指して降り注ぐ。
悲鳴。
そして、すぐにやってくる沈黙。
「終わりました」
むろん突然の攻撃にフランベーニュ軍は大混乱に陥り、それを好機と見たカービシュリーは反撃を命じ、まったく暴れ足りなかった副将エトリックと彼の直属部隊を先頭にしたブリターニャ軍によってフランベーニュ軍はブリターニャ領から叩き出される。
ただし、ブリターニャ軍はそれ以上は進まず、フランベーニュ軍もグミエールの再度の命令によって動かず、両国は元々の国境線を挟んで睨み合いが始まる。
それからまもなくその男は睨み合いが続く最前線に姿を現す。
「フランベーニュ軍兵士諸君に告ぐ。私はブリターニャ王国王太子アリスト・ブリターニャ。フランベーニュ軍の最高司令官と話がしたい」
フランベーニュ語による呼びかけである以上、それに応えなければならないのだが、現在のフランベーニュ軍は少々、いや、かなり問題を抱えており、すぐにはその呼びかけに答えられる状況ではなかった。
言うまでもない。
二度にわたっての氷槍の雨。
それによって、前線の指揮官であるアロイス・ナビエ、オリス・モルシアック、バラン・レクトゥール、オーシュ・リュビアックは戦死。
アラン・ワロキエは重傷。
さらに中級指揮官たちも半数以上は戦死、そうでない者もその大部分は生きているという程度でとてもブリターニャの王太子の前に立てる状態ではなかったのだ。
そうなれば、すぐにでもグミエールに登場していただかねばならない。
複数の伝令が後方に走るなか、場を繋ぐために現れたのが、とりあえず負傷は軽く、ブリターニャ語が話せるという条件を満たした最高位となる若い騎士であった。
「私はブリス・モレーヌ。フランベーニュ軍の二級騎士である」
自身の緊張を覆い隠そうとするように必要以上に胸を張って名を叫ぶその兵士をアリストは笑いをこらえて眺める。
もちろん言いたいことはある。
それでも、現在の立場は王太子。
不必要なことは話せない。
一方、その後ろに立つフィーネはそのような配慮には無縁な存在。
当然のようにその言葉を口にする。
「あんな男が出て来ても何の役にも立たないでしょう。目障りですから始末しましょう」
もちろんこれが他の者であったのなら冗談だと聞き流すことはできる。
だが、それがフィーネであった場合、そうはいかない。
アリストがすぐに反応したのはそのような事情があったからだ。
「……もちろん彼だってそんなことはわかっているでしょう。ですが、フランベーニュ軍にはフランベーニュ軍の事情というものがあるのです。出たくなかった場所に出てきた彼の努力と勇気に敬意を払ってあげるべきですよ。フィーネ」
アリストの言葉によってモレーヌは命拾いをした。
だが、残念ながら、彼の不幸はここから始まる。
「では、その勇者には特別私が直々相手をしてあげましょう。もちろん余興として」
そう言って、フィーネはアリストの前に出る。
そして、加虐趣味者らしい黒い笑みを浮かべながら口を開く。
「そこの男。あなたに話があります」
そこから始まったのは文字にすることを憚るような罵詈雑言の嵐。
そもそも口でフィーネに勝てる者はこの世界には存在しない。
つまり、どんな反論をしようが倍返しを食らう。
しかも、それは敵味方両軍の前の出来事。
敵はもちろん味方からも嘲りに成分が多分に混ざった笑いが漏れる。
モレーヌは悟る。
もうこれ以上の辱めを受けないためにはこの場を離れるしかない。
だが、軍を代表して出てきた以上それもできない。
耐えるしかないのだ。
だが、ある瞬間から彼は記憶を失う。
「……色々大変だったようだな」
部下たちとともに最前線にやってきたグミエールは、挑発に乗ったばかりに男としてはもちろん人間としての尊厳も言葉の刃で削り取られ、涙と涎と鼻水を垂れ流し目が映ろになった抜け殻柄状態のモレーヌを発見する。
「部下が世話になったようだな。アリスト王子」
グミエールは無実のアリストを睨む。
それから、視線を背後に立つ若い男女に向ける。
むろんもちろん後ろの四人はすべて知った顔。
つまり、その彼らが護衛をしているということは本物のアリスト・ブリターニャで間違いないということ。
心の中で同定作業を終わらせると、息を吐く。
そして……。
「初めてお目にかかる。私はフランベーニュ軍将軍で今回の迎撃戦の指揮を執っているウジェーヌ・グミエールである」
むろん返礼はすぐにやってくる。
「私はブリターニャ王国王太子アリスト・ブリターニャ。将軍の武名はよく聞いている。また、先日は私の護衛がお世話になった」
「残念ながらこちらには来ていないようだが、ベルナード将軍にも私から礼があったことを伝えてもらいたい」
こうして両軍の兵士たちが見守る中、フランベーニュとブリターニャの会談は始まった。
だが、この会談は圧倒的にアリストが有利。
いや。
状況を考慮すれば圧倒的にグミエールの不利と言ったほうが表現的には正しいといえるだろう。
なにしろ、グミエールはいわゆる武辺の者。
アリストと会談などやる前から結果は見えている。
だが、だからと言って受け身になるわけにはいかない。
なにしろ、この戦いは間違いなく正義は自分たちにあるのだから。
むろん正義は必ず勝つなどという幻想はグミエールも持っていない。
それどころか、彼の思想の核も多くの現実主義者と同じ、勝者こそ正義。
そのようなものだけを掲げて勝てるなどとは思っていない。
それでもやるしかない。
侵略者を駆逐するために死んだ多くの者ために。
グミエールは心の中で自身に鞭を打つと口を開く。
「挨拶が終わったところで早速本題に入る」
「フランベーニュ王国はブリターニャ王国の侵略行為を許すわけにはいかない。正式な要求は国王陛下がおこなうが、ここで私が要求するのは我が軍兵士の前でブリターニャ王太子が今回の蛮行を謝罪することである」
その瞬間、双方の陣営から多くの声が上がる。
もちろんその声の種類は対極なものだったのだが。
一瞬後、アリストが口を開く。
「フランベーニュの将の要求は理解した。では、言おう」
「そもそも侵略行為をしてきたのはフランベーニュである。それについての証拠はある。さらにその侵略行為をおこなった者たちも捕らえている」
「つまり、謝罪すべきはフランベーニュの方である」
そして、アリストが視線を動かすと、連れてこられたのはひとりの男。
「プレゲール城の城主。アルバン・ベオル子爵。この男が侵略行為を行った軍の指揮官となる」
「さて、グミエール将軍。回答は如何に」
これは厳しい。
それはこの世界でも別の世界でも強者が弱者に戦争を仕掛けるときにおこなう、弱者を挑発し最初の一撃を弱者に撃たせ、「先に相手が手を出したのであり、こちらは止むを得ずそれに応戦した」と自身の正義を主張するための常套手段。
いや、使い古された手である。
だが、これの有用性は、どれだけ策略の香りがすると言っても、先に手を出したのは相手という事実が存在すること。
この場合も、先に手を出したのはフランベーニュ。
つまり、グミエールの言う侵略を始めたのはフランベーニュということになる。
一瞬で攻守が入れ替わった状況にグミエールは黙るしかない。
本来であれば、ここで白旗。
そして、謝罪したいところなのだが、そうはいかない。
それをおこなっては、次に賠償金の支払いを要求されるのは必至。
本来要求すべき立場の者が賠償金の支払いをするという事態になりかねない。
そうなれば、その原因をつくった者として罰せられるかもしれない。
ここまで勝利しながら。
そのためグミエールは踏み出せないのだ。
グミエールは後悔していた。
もし、隣にエゲヴィーブがいたら、このようなことにはなっていないのではないかと。
そう。
あの時、陸軍の総意としてエゲヴィーブを含む海軍を最後尾に回した。
それは追撃戦の功を陸軍がひとり占めするため。
それにもかかわらず、状況が悪くなると助言を求めるというのはあまりにも虫が良すぎる。
だから、アリストからの呼び出しがあった際に声を掛けなかった。
だが、その結果がこれだ。
止むを得ない。
打開策は見つからず、さらにわかり切っている正解も口にできないのだ。
残りはこの交渉を蹴り飛ばすだけ。
もちろんそうなれば戦闘が再開されるがやむを得ない。
最悪に近い選択ではあるが、最悪ではない。
そう自分に言い聞かせて。
その時。
「よろしいか」
フランベーニュ語によるその言葉はフランベーニュ側のかなり後方から聞こえてきたものだった。
そして、相当急いで来たのか、たったそれだけの言葉にもかかわらず、その後、相当な時間をかけて呼吸を整えなければならなかった男。
それは……。
「エゲヴィーブ殿?」
姿が見えぬなか、声を頼りにグミエールが口にした名を持つ男だった。
「どうやら間にあった。いや、間に合わなかったかもしれないが、とにかく、これは一点貸し。陸軍の経費で最高級の酒を飲ませてもらわなければ割に合わないと心得よ。グミエール殿」
本人はどのような意図でその言葉を口にしたのかはわからぬものの、それはその場の雰囲気を変えたのは間違いない。
大爆笑のなか、ようやく姿を現したのは紛れもなくオートリーブ・エゲヴィーブ。
その隣にエゲヴィーブの上官であるアーネスト・ロシュフォール、さらにロバウとリブルヌもいる。
「私はブリターニャの王太子とは顔を合わせている。それにその後ろにいる者たちとはさらに、いや、もうひとつさらにつけ加えるくらいに面識がある。無礼かどうかという点を除けば問題ない」
そう言って、何か言いかけたグミエールを制するとエゲヴィーブはアリストとグミエールの間に割り込むように立つ。
「さて、話はどこまで進んだのかな?アリスト王子」
実は声が聞こえて来てからここまではほんの一瞬の出来事。
その手際の良さにアリストは苦笑いしてしまう。
だが、すぐに表情を変え、王太子の顔に戻る。
「その前にまず名前を聞かせてもらおうか」
そう釘を刺す。
もっとも、それは表面上のことで心の中ではこの男の登場を喜んでいた。
謝罪を要求した相手に逆に謝罪を要求する。
証人まで連れ出して。
だが、相手がそれを受け入れるはずがない。
それはこの交渉の破綻を意味する。
ここで現状維持で停戦交渉をおこなうつもりであるアリストにとってそれは都合が悪い。
そうなると、こちら側が相応の譲歩が必要となるのだが、それは王太子としての体面が傷つく困った事態になっていたからだ。
……最近はグワラニーとばかり話をしていたから、そのつもりでやってしまったのが失敗だった。
……だが、気が利くこの男なら妥協点を示されるかもしれない。
そして、やってきたその言葉からアリストが自身の登場を拒んでいないことを察したエゲヴィーブも心の中で同様の読みをする。
その気があるのなら叩きだすこともできるにもかかわらず、それをおこなわない。
それどころか名乗らせるということは交渉に加わることを許したということ。
つまり、ブリターニャ側も交渉続行を望んでいる。
薄い笑みを浮かべたエゲヴィーブはチラリと後方に立つ三人の指揮官を見やり薄く笑う。
「私の名はオートリーブ・エゲヴィーブ。アーネスト・ロシュフォール、フランベーニュ海軍提督から魔術師長の地位を与えられている者」
「海軍の魔術師がこんなところまでやってくるとはフランベーニュ軍は相当な人材難のようだな」
「まあ、それはすべて王太子殿下やブリターニャ軍もよくご存じの魔族軍将軍アルディーシャ・グワラニー氏のおかげでして、海が好きな者としましてはこのような山奥にまで来なければならないのは正直迷惑このうえないといえるでしょう」
もちろんそれはアリストの皮肉に対するお返しだった。
だが……。
「あの男が息をするだけでこの世界の者すべてが迷惑になることについては同意する。少しは歴史に残る人格者である私を見習って生きてもらいたいと思う」
いつも通りの過剰反応。
そして、その直後、お約束のように背後で盛大に起こった男女四人による宴を聞こえなかったかのように無視したアリストはその様子に驚いた表情を浮かべるエゲヴィーブを見やる。
「だが、フランベーニュ軍の策を考えたのはその男だろう。確かにグワラニーは悪人の鑑のような男だが、フランベーニュ人がそこまで悪くいうのはさすがに罰当たりだと思うのだがその点をどう考えているのかな」
皮肉の応酬の中で決定打を放ったアリストの言葉から数瞬後、エゲヴィーブは笑みは少しだけ深みを増す。
「まあ、それについてはそのとおりとしか言えない。だが、ブリターニャは王太子殿下がいる。あなたの無限に思える悪知恵に対抗するにはそれにふさわしい人材に協力を願うしかないでしょう。それがどんな悪人であっても」
その瞬間、同意の言葉と大きな拍手が起こったのは再びアリストの真後ろ。
さすがにこれは無視できず、盛大に顔を顰めたアリストがわざとらしい咳払いで仕切り直しをしたところでいよいよ本題にはいる。
「……少々長かったが、本当の挨拶が終わったところで……」
「最初の問いに答えよう」
「実はグミエール将軍は困った立場になっていた」
「なにしろ、将軍はブリターニャの王太子である私のこの場で謝罪しろというのだ。我が軍は自衛行為と無法者集団のフランベーニュ軍に躾をしに出向いただけだというのに」
「そこで私は今回の騒動の発端となったフランベーニュのブリターニャ領侵攻を指揮したプレゲール城の城主アルバン・ベオル子爵をこの場に呼び、謝罪すべきはフランベーニュであることを示していたのだ」
「なるほど」
アリストの説明を聞き、エゲヴィーブは短い言葉応じながらガタガタと震えるベオルを卑しい者を見る眼差しを睨み、それからため息をつく。
そして、数瞬後。
「まあ、これはたしかにグミエール将軍が悪いですな」
エゲヴィーブの口からその言葉が漏れた瞬間、その重みを知るグミエールを含むフランベーニュ側の者たちは天を仰ぐか頭を抱え、同じくその意味を知るブリターニャ側の者は歓喜の声を上げる。
だが、エゲヴィーブのその言葉はそこで終わりではなかった。
「そもそもグミエール殿は一介の将軍。他国の王太子に謝罪を要求する権利などない。せいぜいこの場で一時的な停戦の取り決めをおこなうことくらいだろう。将軍のできることは。そういうことで、将軍は権利もないものを要求したことを謝罪し自身の言葉を取り消し、改めて自らの分にふさわしいことについて協議すべきだろう」
そう。
エゲヴィーブはその始まりであるブリターニャに謝罪を要求したそのこと自体を無効にしたのだ。
そして、ついでに、その続きとなるものまでまとめてなかったことにしたのだ。
まさに剛腕。
だが、実をいえば、この手法はエゲヴィーブのオリジナルというわけではない。
かつてフランベーニュとアリターナ両海軍の間で揉め事が起きた際に、途中から加わったアリターナの交渉集団「赤い悪魔」の長アントニオ・チェルトーザがアリターナの枷となっていた前任者の余計なひとことを同じ手法でゴミ箱を放り込むと一気に流れを引き寄せた。
その事例を参考にしたことものだった。
もちろんそのような裏話をこの場にいるほとんどの者は知らない。
驚き、どよめく。
ただし、相手はアリスト。
これで逃げ切れたのかといえばそうではない。
だが……。
「まあ、そういうことなら仕方がない」
アリストはそう言って手打ちにする。
むろんアリストの気が変わらぬうちにそれを決定事項にしたいエゲヴィーブはすぐさま謝罪する。
そして、あらためて交渉するのは、むろん停戦についてということになる。
ここまで双方が立ったままで交渉していたのだが、ここでようやく椅子とテーブルが持ち込まれ、交渉の体裁が整えられる。
ブリターニャ側はアリスト、フランベーニュ側はグミエールとエゲヴィーブが席につく。
対等ということであれば、ブリターニャも将軍級をひとり座らせるべきなのだが、アリストは拒絶した。
もちろん丁寧な言葉によってということになるのだが。
相手には相応の交渉能力を持った者がいる。
そのような者の前で余計なことを言われて足を引っ張られては迷惑千万。
それがアリストの本音となる。
もちろんこれからは始まる交渉のメインテーマは停戦。
だが、それ以外にもアリストにはそれとは別に問うべきものをいくつか持っていた。
そして、それらはすべて繊細なテーマ。
当然一般兵たちは遠ざけられる。
まず、議題になったのは戦況だ。
もちろんブリターニャ軍が王都アヴィニア近郊まで攻め上っていたはずがわずかの間にここまで押し戻されているのだから、それがどのようなものかを察することはできる。
問題はその過程だ。
交渉に入る前にアリストはフィーネに対してこのような言葉を口にしていた。
「ブリターニャ軍は主要三街道から百五十万人近くが攻め込んだはず。ですが、ここに戻ってきたのは北街道の二十万弱。残りはどうなったのかを王太子として知らねばなりません」
「それに、圧倒的有利な状況から一瞬にしてこのような状況になったのはあの小細工職人が蠢動した以外には考えられません。その悪事の種を知る必要があるでしょう」
当然のように話はそこから始まる。
「国境付近のフランベーニュ軍を排除したブリターニャ軍は、ブリターニャからフランベーニュの王都アヴィニアに向かう三街道に軍を派遣した。今回戻ってきたのは北街道を進んでいた軍であるが、残りのふたつの軍はどうなっているのか?」
想像はつく。
だが、聞かねばならない。
そして、グミエールから戻ってきたのは予想通りのものだった。
「残りふたつは壊滅。いや、全滅と言ったほうがいいだろう。捕虜になった者は殆どいない」
グミエールがその言葉を口にした瞬間、アリストは顔を顰める。
もちろんふたつの軍も敗北したのは容易に想像できる。
問題は後半部分だ。
「……百万以上の将兵のほとんどが死んだ?」
「それは戦闘後に死亡した者も含まれるということか?」
そう。
今回の規模の戦いの場合、戦死者以上に負傷者が存在し、逃げ場がない以上、その大部分は捕虜となるはず。
だが、グミエールの話はほぼすべてが戦死。
これはありえないこと。
戦いの後に何かが起こり、その結果捕虜になった者が極端に少なくなったと疑うのは当然のことである。
投降した者を害した。
アリストの言葉をストレートに表現すればこうなる。
むろんこの世界においても投降者を害することは、明文化されているわけではないものの暗黙のルールとして禁止されている。
だが、それが常に実行されているのかといえば違う。
まず、魔族は軍人、非軍人を問わず捕らえられた者は全員処刑される。
当然魔族に捕らえられた人間も奴隷とする者以外は処刑というのがほんの少し前までの通例だった。
では、人間同士の戦いの場合はどうか?
投降者を害することを禁止するという条項は本来人間同士の戦いで適応されるものなのだが、実際はそうなっていないことが多い。
特に敵地に侵攻した場合、その軍の兵士は敵に捕らえられた場合、残酷な方法で殺されることを覚悟しなければいけないというのが各軍の常識として兵士たちに教え込まれている。
そして、当然ながら今回はブリターニャ軍が侵略者であり、さらに侵攻の過程で多くの略奪行為をおこなってきているのは確実。
殺された側も実は一方的な被害者というわけではないという事実も存在するため、その報復としての虐殺は十分にあり得ること。
だが、その理由はどうであれ、ブリターニャの王太子であるアリストとしては絶対に問わねばならないし、それに対して抗議をしなければならない。
もっとも、それを本気で追及し始めたらその発端であるブリターニャ軍による略奪行為に言及される。
だから、確認をするという義務を果たしたところで次に進む。
それがアリストの心の声となる。
だが……。
「王太子殿下の問いに答える」
「我が軍は投降者に対する虐殺行為はおこなっていない」
「こっそりとおこなった者もいるかもしれないが、軍として禁止し、組織的にはそのような蛮行はおこなわれていない」
「私が直接関わった戦いについて言えば、セドリック・エンズバーグ将軍率いる中央街道を進んでいたブリターニャ軍に対して勝負が決した段階で投降を呼びかけたものの、拒絶され、最後のひとりになるまでブリターニャ軍は戦った」
「南街道のブリターニャ軍も同様」
そこまで言ったところでグミエールは息を吐く。
「そういうことで上級指揮官の投降者は北街道からやってきたアラン・フィンドレイという将軍だけだ」
それはアリストにとって予想外のものだった。
ふり返り、フィンドレイの為人を伝えたフィーネを見やる。
むろん答えは否。
……無念の捕縛というところか。
自身の中で答えを見つけたアリストはグミエールに視線を戻す。
「将軍は負傷していたのかな?」
「いや。敗走中に十五人ほどの側近とともに離脱したが、まったく元気だった」
「それで将軍はどうしている?」
「アヴィニアに送った。まあ、裁判で死刑が宣告され、公開処刑されることになるだろう」
フランベーニュとしては当然だ。
侵略者。
そして、各地で略奪行為をおこなった者たち。
それらを排除した証として、敵将を公開処刑することで勝利宣言できるのだから。
……そんなことはフィンドレイだってわかっている。
……それなのになぜ投降したのだ?
……最後の最後に地が出たか。
「最終的は味方に見捨てられ、おとなしくなったが、それまでは色々の要求し手間ばかりかかった」
「こちらとしてはまったく無駄な一日だった。その結果がこれだ」
……なるほど。
その言葉を聞いた瞬間、アリストは悟った。
……その一日がなければブリターニャ軍の大部分が追撃してきたフランベーニュの餌食になったのは疑いようがない。
……功労者だ。将軍は。
アリストはため息をつく。
……兵士だけではなく、指揮官も大量に失っているのだ。フィンドレイのような男をフランベーニュへの生贄としてくれてやることはできない。
アリストは意識して表情を険しいものに変える。
「ところで将軍。こちらは大量の捕虜を抱えている。その中にはこの騒動の原因をつくったアルバン・ベオル子爵もいる。その他にも男爵の地位にある者三人いる」
「本来であれば金貨と交換すべきところだが、私としてはブリターニャ軍の恥さらしフィンドレイと交換してもらいたいのだがいかがか?」
「なぜ?」
捕虜交換というのはこの世界にも存在する。
だが、そのようなことが起こるのは対象が王族が含まれているとき。
そうでなくても、公爵や侯爵といった所謂爵位持ちでも地位の高い者だけがその対象になり、同じ爵位持ちでも子爵程度では便宜を図る対象にはなりにくい。
王族の、しかも王太子である者が返還を求めるということはフィンドレイは特別な存在なのか?
そのような情報は饒舌すぎたフィンドレイ自身の口からも聞かれなかった。
グミエールが何かあると疑うのは当然のこと。
それに対し、アリストは厳めしさを増した顔でこう答える。
「言うまでもない。そちらは勝利の証としてフィンドレイを公開処刑したいだろうが、こちらはこちらで生贄が必要なのだ」
「いや。その必要性はこちらの方が高い」
「百数十万の兵を失った大敗の責任を取らせる者が必要なのだ。生きていれば総司令官エンズバーグに担わせるのだが、死んでしまった以上、別の者に代わりをやってもらわねばならない。責任のない者に敗戦の責を負わせ自刃を強いるのは心が痛むが、フィンドレイは一方面軍の指揮官であるうえ、自身の命惜しさに指揮するべく兵たちを捨てて投降した恥知らずの裏切り者。爪の先ほどの負い目なく自刃を要求できる」
「まあ、爵位持ち貴族を含む数千と、十数人の交換。おそらく宰相殿下も許可してくれることだろう。早急に連絡をお願いしたい」
「そして、許可された場合、フィンドレイにはこう伝えてもらいたい。ブリターニャに戻り、陛下の前に立つ前に死んだら子爵家は取り潰すと」
アリストの突然の要求に困惑しつつグミエールはすぐさま王都アヴィニアに伝令を飛ばし、王都からの返信を待つわけなのだが、むろん話はその間も続く。
「ブリターニャがあれだけ押し込んでいたものを一瞬でひっくり返した。さすが『ベルナードの生き写し』と言われるだけのことはあるグミエールの手腕。と言いたいところだが、さすがに出来過ぎだ。その理由のひとつは『モレイアン川の支配者』率いる海軍の参加であろうが、そうであっても、あれだけ押し込まれていた状況から逆転するには相応の策なしではできない。だが、申しわけないがこの手の小細工を基本に忠実なグミエール将軍が思いつくはずがない。それを考えついたのは誰か?言うまでもなく、それは例の小細工職人。あの男が示した策とは具体的にどういうものか教えてもらおうか」
アリストのそれはまさにエンズバーグが口にしたものと同じ。
そして、それがブリターニャの自分に対する評価であることを知るとともに、その評価は概ね正しいと言わざるを得ないと自覚し、グミエールは苦笑いする。
「王太子殿下が我々の反撃についてどの程度知っているかを我々は知らない。であるので最初から説明することにする。その戦いの状況も含めて」
そこからグミエールが語ったのは「フォレノワールの戦い」の決着直前、エンズバーグの要求に対して口にしたものと同じ。
「……こうなるわけだ」
「ちなみに、ブリターニャ軍の指揮官たちはまったく対応できず敗れ去ったわけだが、王太子殿下は予想できたか?反撃の核となった我が軍が海から攻め上がってくることを」
……そんなこと……。
……思いつきをもしなかった。
アリストは大きく息を吐き、それから力なくこう答える。
「いや。それは想定の外側にあるものだ」
「我々もその策を示されたときは驚いたのだが、そうなるとこの点について我々は同じということになるわけだ」
グミエールの笑みは苦みを増す。
「この策を提示したのは王太子殿下の推察通りアルディーシャ・グワラニーだ。私はすでに一度、あの男が示したとんでもない策を見ていたのだが、今回のこれはさらにその上をいく」
「言いたくはないが、あの男の策に加えて旗下の魔術師団の力。あの男の軍に対抗できる者などこの世界に存在しないのではないかと思った」
アリストはグミエールを見やる。
「ちなみにフランベーニュはグワラニーが示した策をどの程度まで実行した?」
「非常に細かなところまで指示がされていたこともあり、ほぼ完全に指示されたとおりに動いた」
「そして、その指示に従わなかったのは追撃戦の終盤での越境。そして、その結果はご存じの通り」
「つまり、グワラニーの指示通りに動いていたら、私は完璧な勝利を収めたうえで王太子殿下と対峙できたということになる」
……つまり、ブリターニャ軍はグワラニーに負けたようなものではないか。
アリストは無表情の仮面の裏側でそう呟く。
……それにしても、海を知らないグワラニーがどうやって海から大軍を上陸させる策を思いついたのか。
……いや。違うな。
……魔族の国には海軍は存在しない。
……そうなれば当然ブリターニャやフランベーニュにある陸海軍の根深い対立というものは存在しない。だから、そのような発想が出てきたのだ。
……だが……。
「……グワラニーが示した船を使い陸軍が海から上陸するという策について将軍たちは反対しなかったのですか?もちろん海軍も」
しがらみのないグワラニーにとってその策は当然のものかもしれないが、それを実行する者たちにとってそれは物心両面で障害物だらけ。
それを実行するのは相応の抵抗があるはず。
この世界の常識でもあるアリストの問い。
それに対しグミエールは再び苦みを帯びた笑みを浮かべる。
「実をいえば、それについてはエンズバーグ将軍にも同じことを問われた。そして、私はこう答えた。それ以上の策がない。そうであればやるしかないだろう。国の存亡がかかった戦いでは勝利こそすべて。陸海軍のわだかまりなどそれに比べれば些細なことだ。そもそもそんなものを勝利と天秤にかけている時点で戦う資格などないだろう」
「グワラニーが魔族との戦いをおこなっていない海軍には有能な魔術師が数多く残っていることを知っていたことも驚きのひとつだ。そして、グワラニーはそのひとりを指名して戦いの中心に置いた」
「我々に示したものにはこのような一文があった。現在どの戦場でも彼我の魔術師の能力が同じであることによってお互いの魔法が無効化されている状況になっている。だが、自軍に特別能力の高い魔術師がひとりでもいれば、その状況は打破され、圧倒的有利な状況になる。すなわち、こちらの損害がないまま、敵を殲滅できる」
「さらにどの国も魔術師不足は深刻。そうなれば、後方で転移避けをおこなう者の能力は低い。弱い部分を叩くことが勝利への近道ともあった」
「グワラニーは奇策を好むようでそれだけではない」
「伝達。食料。輸送。敵の弱みを見つけそこを突く。あの男はそのような戦いの基本を我々以上に重要視する。我々がグワラニーに負け続けているのはそのためだ」
「特に、食料。背後を突く効果のひとつに補給の遮断をグワラニーは挙げた。食べ物のない軍隊ほど惨めなものはない」
「そして、それについて我々人間は魔族軍、特にグワラニーの軍を見習わなければならないだろうな。奴らは常に食料を持参している。だから、どれだけ進軍しても略奪をおこなわない」
「……さらに現地調達をする場合でも奴は必ず対価を支払う。だから、住民は進んで食料や食材を供給する。それに対し人間側はどこも……」
思わず話に乗りかけたアリストは自らを嘲るように笑みを浮かべる。
「これではあの小悪党を褒めるために話をしているようだ。話題を変えるべきだな。これは」
仕切り直しの意味も兼ねて茶が振舞われる。
といっても、お互いに自身の茶を飲むのだが。
そこに王都アヴィニアからダニエル・フランベーニュから使者がやってくる。
むろんその答えはアリストの予想どおりその要求に応じるというもの。
ただし、ダニエルはそこに条件を加えてきた。
賠償金の要求である。
具体的にはフランベーニュ金貨五億枚相当のブリターニャ金貨五千万枚という大金。
「いいでしょう」
そう言ったアリストは羊皮紙にサラサラと文字を書き、最後に署名をしてグミエールへ手渡す。
そう。
他人の財布からの支払いとなると途端に気前がよくなるアリストはここでもその本領を存分に発揮しダニエルの要求をあっさりと承諾し、フィンドレイの開放が決定される。
もちろんその賠償金にはブリターニャ兵の略奪行為に対する謝罪の意味も含まれている。
とりあえずこれで一見落着。
だが、アリストが独断で決めた巨額の賠償金の支払いはブリターニャ王都サイレンセストで大騒ぎを引き起こすことになる。
まず何も前触れもなくとんでもない額の請求書が回ってきた財務担当の文官たちが大混乱となり、さらにその混乱は支払い理由を精査する過程でフィンドレイが無断で軍を離れ投降していたことを知った軍幹部へと飛び火する。
もちろんそれは少しだけ先の話となるのだが。
「さて、いよいよこれからのことなのだが……」
「元々の国境を停戦線として仮の国境にすることを提案する。多くの損害を出し何も得るところがないというのは納得いかないことは十分に承知しているが、それはブリターニャも同じ」
「とりあえず停戦し、お互いに兵を引き上げさせ、正式な交渉は後日国王なり宰相なりが交渉し決めればいいだろう。もちろん承服しかねるということであれば、戦闘再開ということでも構わないが、その時は私と私の護衛がお相手する」
「どうかな?」
アリストからやってきた提案はもちろん完全に満足できるものではない。
だが、そこに走り書きがされた羊皮紙がやってくる。
「将軍。アリスト王子が望んでいるのは戦闘続行。間違っても条件などつけてはなりません。ここは相手の言葉をそのまま受け入れる。それだけがフランベーニュが生き残る道」
アリストが戦いを続けることを望んでいる。
そして、アリスト・ブリターニャとその仲間を絶対に戦闘に引き込んではいけないというグワラニーの警告。
すべてを理解したグミエールは小さく頷く。
「もちろん王太子殿下の言葉に賛成です。よろしくお願いします」
停戦協定妥結。
こうして、結果だけを見れば、戦いは、お互いに人的、そして物的損害を大量に出しただけの実りなどひとつもないまま開戦と同じ場所で停戦するという馬鹿々々しい形で終了する。
ブリターニャ軍により捕らえられたフランベーニュ軍の将兵はすべてフランベーニュ側に引き渡され、停戦に関する協定を遵守するというアリストの署名入りの羊皮紙とともにグミエールは王都への帰途につく。
一方、アリストは王都へブリターニャ金貨五千万枚の請求書を送り、それと交換という形で捕虜となったアラン・フィンドレイをはじめとしたフランベーニュ側に捕らえられた十六人の引き渡しまでここに留まることとなる。
一方のみが国境に大軍を駐屯させるというこの事態。
侵攻の再開の恐れがあり、別の世界では絶対にありえないことではあるし、この世界においても通常はありえないこと。
だが、彼我の戦力があまりにも違うことが幸いし、道端に転がる小石程度の自分たちに対して騙し討ちなどという卑怯な手を取るはずがないと相手がアリストの言葉を信用することにより成立した奇跡的出来事。
その理由はそのように表現できるといえるだろう。