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アグリニオン戦記  作者: 田丸 彬禰
第二十八章 滅びの道を選択する者たち

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遥かなる国境線 

「なんだと」


 ニオールの四アケト程北の草原地帯。

 ブリターニャ軍十五万を率いる将軍アラン・フィンドレイの怒号が響き渡る。


 三隊に分かれて進軍していたブリターニャ軍の一隊の指揮を任せられていたのだから無能ではない。

 戦術だけではなく、判断力も優れていた。

 だが、フィンドレイの基本は、「軍人は戦ってなんぼ」と考えるいわゆる「いくさ馬鹿」である。

 そのフィンドレイに伝えられた命令は撤退。


 敵が目の前にいるにもかかわらず、戦わず撤退するなど彼にとっては言語道断。

 しかも……。


「そのような重要な命令をなぜ女が伝えるのだ」


「しかも、おまえはフランベーニュ人」


「信じられるか」


 そう。

 フィンドレイの怒号の先にいたのは、フィーネ・デ・フィラリオという名のフランベーニュ人の女性だった。


「ここまで来て撤退などできるはずがない。エンズバーグ総司令官より至急ニオールに来るように命じられている。まず、ニオールまで行きその場にいるフランベーニュ軍を粉砕し、総司令官とともにアヴィニアを落とし……」

「無理ですね」


 フィンドレイの怒鳴り声を遮ったフィーネの声はそれを明確に否定した。


「エンズバーグ将軍は全軍をニオールから西方に移動させました」

「つまり、背後に現れたというフランベーニュ軍撃滅のためか。それではなおさら撤退などできない」


「そもそもこの状況で撤退する理由がどこにある?」


 フィンドレイが乱暴に投げつけたその言葉にフィーネは加虐趣味者らしい笑みを浮かべる。


「決まっています」


「フランベーニュ軍撃滅にむかったブリターニャ軍が逆に全滅したからです。すでに南街道を進んでいたブリターニャ軍は壊滅し、中央街道の本隊も全滅しました」


「そして、そのフランベーニュ軍五十万は北街道を進んでいた愚かな将軍が率いるブリターニャ軍がやってくるのを今か今かと待っています」

「女。言っていいことと悪いことがある。それにその話が本当であれば当然窮地に陥った友軍を助けに行かねばならないだろう。とにかく、そのような……」


「わかりました」


 フランベーニュ人の女性は再び猛獣の雄叫びようなブリターニャ軍司令官の言葉を遮る。

 そして、懐から羊皮紙を取り出す。


「これがブリターニャ王国王太子アリスト・ブリターニャの命令書となります。撤退せず、前に進むということであれば、この命令書を切り裂いてください。私はそれを持ってサイレンセストに戻り、仔細を王太子に報告しますので」


 そう言ってところで、フィーネは人が悪そうな、背後に立つファーブたちに言わせれば、悪そうではなく本当に悪いとなるわけなのだが、とにかく、そう表現できる笑みを浮かべる。


「まあ、そうなった場合、王太子は激怒し、将軍がどれほどの戦果を挙げようが、ブリターニャに戻り次第斬首でしょうね。もっとも、将軍が戻る頃にはフィンドレイ男爵家は取り潰しが決定し、一族もすべて斬首になっているでしょうから、一族のもとに行かれると考えれば素晴らしいことかもしれませんが」


「言っておきますが報告するのはこの私。そして、私は王太子にこのような報告をすることもできるのですよ」


 そう言ったところでフィーネは一度言葉を止め、将軍の顔を眺め、それから、その続きとなるものを口にする。

 それは王族に対して公的な場所で絶対に口にできない類のものの羅列。

 その多くは彼女の後ろに控える糞尿三剣士が口論の際に使用する例のあれである。

 そして……。


「……将軍は最後に命令書を引き裂き、小便をかけました」


 当然ながらフィンドレイは顔を青く変色させ、続いて赤く染め直す。

 そして、数々の暴言を繰り出す小生意気な女を物理的に消し去ることを決める。

 だが、その命を出そうとした瞬間、後ろにいた三人の若い男のひとりが口を開く。


「やめておけ。おまえたちごときでは俺たちは倒せない」


「というより、剣を抜いた瞬間、おまえは生きたまま火葬されるぞ」


 残りのふたりもその言葉に続く。


「言っておくが、フィーネは手加減なしだ。火葬の前に死ぬより辛いお仕置きという名の拷問もあり得る」

「まあ、あんたがお仕置きされて喜ぶ気持ちの悪い声を部下たちに聞かせる特別変わった趣味を持っているのなら止めないが、そうでなければ恥ずかしくて生きていられない目に遭うことを覚悟したほうがいい」


 三人の、微妙に誇張された言葉にたじろぐフィンドレイとその部下を嘲りが濃い視線で眺め終わると、フィーネがもう一度口を開く。


「王太子の命令書があるのですから、ここから撤退しても責任は取らされることはありません」


「それとも命令を無視した挙句に大敗しその責任を取らされ歴史ある男爵家を消し去りますか?」


 あきらかな恫喝。

 そして、その言葉を口にしているのは王太子の代理とはいえ、女。

 この世界に蔓延る男尊女卑の思想、それが最も顕著な軍人にとってこれ以上の屈辱はない。

 だが、ここで命令無視をおこなえば、自身の家が即刻取り潰しに遭う。

 自身のプライドと家の存続を天秤にかけたフィンドレイは結局後者を選ぶ。


 目の前に立つのはあくまで王太子が遣わした使者であると自身を納得させて。


「全軍撤退の準備を開始しろ」


「準備でき次第後退」


 もちろんフランベーニュ軍の関係者は誰一人としてブリターニャ軍の撤退にはこのような経緯があったなどとは想像もしていないだろう。

 だが、これがありえないと思われたフィンドレイ率いるブリターニャ軍の撤退理由である。


 さて、唐突に登場しブリターニャ軍を強制的に退却させたフィーネたち勇者一行。

 多くの者はこうも絶妙のタイミングでフィーネがここに現れたのかを疑問を持つだろう。

 もちろん偶然と言えば簡単だ。

 だが、毎回都合よく絶妙なタイミングで必要としている人や物が登場するのは某世界の英雄譚だけで起こること。

 何ごともそれが起こるためには相応の理由がある。


 そして、今回起こったそれを説明するには時間はフィンドレイが撤退を決めた時からかなりの時間を遡らなければならない。


 ブリターニャ王国の田舎町ラフギールの酒場。

 勇者一行の実質的リーダーで資金提供者でもあるこの国の王太子は仲間たちと酒を飲みながら話していたのは、むろんフランベーニュに侵攻したブリターニャ軍の状況についてであった。


「……フランベーニュ軍が押し返しているのですか?」


 フランベーニュ王都アヴィニアに潜入している間者たちから送られてきた情報を開陳したアリストの言葉にフランベーニュが負けるものだと思っていたフィーネは意外そうに声を上げた。


 アリストはセイシュと呼ばれている酒をひとくち飲む。


「押し返したというよりも、ブリターニャ軍の背後に現れたという方が正しい表現ですが」


 そう言って、さらにひとくち酒を含む。

 そして、フィーネに視線を向ける。


「背後に現れたと聞けば、我々は当然転移魔法だと思います。ですが、不確かなものではありますが、どうやらフランベーニュ軍は海上から攻め上がったようなのです」


 実をいえば、その情報を掴んだとき、アリストは衝撃を受けた。

 アリストはこの世界の人間。

 そうなれば、その常識もこの世界で培ったものであるためこのような反応になるのはいわば必然といえるだろう。


「言われてみれば、その策が有効なのはわかります。それに加えて『新フランベーニュの英雄』アーネスト・ロシュフォールは海軍の提督。あり得ることではありますが、まさか海軍の兵士を陸上戦闘に投入するとは思いませんでした」

「……ちなみに、海からやってきた者たちは本当に海軍の兵たちなのですか?」

「はあ?」

「驚くことではないでしょう。船に乗りさえすれば、上陸するのは陸軍の兵でも構わないわけですから。それどころか海軍の兵が陸戦に参加するとなった場合、彼らにとって命よりも大事な船を乗り捨てることになるでしょう。私から言わせれば、そちらの方が驚きです」


 むろんフィーネは別の世界の知識を持っている。

 その世界では上陸戦というものが頻繁におこなわれていたという。


 一瞬後、アリストもその可能性があることを理解したところである結論に達する。


「……フィーネの言葉は筋が通っています。そして、そんなことをフランベーニュ軍の誰かが思いつくはずがない。そうなれば、それを考えついたのはグワラニーということになります」


「彼らフランベーニュ軍人の矜持からいえば、そんなことは死んでも遠慮したいところ。それができなかったということは、彼らがそれだけ追い込まれていたということもありますが、それ以上にグワラニーが示した策が素晴らしいものだったということでしょう。実際に、海から背後を突くなど、それこそフランベーニュ軍だけではなくこの世界の軍人のまともな思考からは絶対にやってこないですから」


「そして……」


「海から背後を突く一手は大きな衝撃を与えるものですが、所詮海軍の兵などわずか。大軍を送り込み制圧してしまえばそれで終わるはず。それが終わらず、戦況を優位に進めているということは上陸したのは陸軍だった可能性は高い。私と同じように上陸したのは少数の海軍兵だと思い舐めてかかったブリターニャ軍がひどい目に遭った。それがフランベーニュ軍が優位に立っている理由かもしれません。そうなれば……」


「……残念ですが今回の戦いはブリターニャの負けでしょうね」


「そうなると、あとはエンズバーグがどれだけ早く撤退を決断できるかということになります」


 そう。

 実をいえば、アリストはこの時点でブリターニャの勝ちはないとは思ったものの、数の差から損害自体はそれほど出ていないと推測していた。

 そして、適切な後退戦をおこなえばブリターニャ軍の多くは帰還できると予測していたのだ。


「まあ、自尊心の塊であるエンズバーグは部下たちの言葉だけでは撤退はできないでしょう。まして、アラン・フィンドレイやボブ・ヘンドリーのような戦場でしか生きられない輩なら首に縄をつけて引っ張らなければ撤退などしない。ということで、エンズバーグを手助けすることにしましょう」


 アリストはそう言って懐から上質の羊皮紙を取り出した。


「ブリターニャ王国王太子アリスト・ブリターニャからの公文書。これに従わなければ完全な命令違反。ですが、それとともにこれは撤退の口実としては最高のものとなります」


 そして、そこに記されているものを読み上げる。


「ブリターニャ王国王太子アリスト・ブリターニャが国王カーセル・ブリターニャに代わりフランベーニュ遠征軍に対して命じる。ただちに攻撃を中止し国境まで後退せよ。なお、後退するにあたり、フランベーニュ軍の追撃があると思われるが、迅速な後退を第一とし、損害を抑えながら適切に行動するように」


 そして、それをフィーネに差し出す。


「申し訳ありませんが、ファーブたちとともに前線に赴いてこれをエンズバーグに示してもらえますか?」

「はあ?」


 その瞬間フィーネは露骨に嫌な顔をする。

 そして、その表情にふさわしい言葉を口にする。


「なぜそんなことを私がやらなければならないのですか。面倒臭い」


 だが、損害を減らしたいアリストも簡単には引き下がらない。

 フィーネ以外の女性ならあっという間に虜になりそうな素晴らしい笑顔を披露すると、言葉を続ける。


「なぜ?それはもちろんこの仕事はフィーネにしか頼めないものだからに決まっています」


「現在ブリターニャ軍はフランベーニュ軍が背後に現れないように転移避けを展開させています。海からの攻め上がるというグワラニーの奇手はこれを破って背後を取る策なのですが、とにかくブリターニャ軍は転移避けを展開した結果、転移魔法による連絡手段を失いました」


「その結果、我々が戦況を知る手段は相手の王都に侵入した間者たちのみという状況になっているわけです」


「そして、それは転移魔法による移動も困難になっているということでもあります」


「つまり、ブリターニャから前線に向かう移動手段は徒歩のみということです。しかも、本国とブリターニャの間にはフランベーニュ軍が入り込んでいる可能性が高い。そうなれば、命令書が前線に届くまでは相当な時間がかかる、それどころか届くかどうかもわからないということです」


「本来であれば、打つ手なしとなるわけですが……」


 アリストは人の悪そうな笑みを浮かべる。


「そういうことであれば、フランベーニュ側から前線に向かえばいい。戦争中ではあるわけですが、私に限ってはその手段を持っている」


「フランベーニュ王国第一の貴族の令嬢、フィーネ・デ・フィラリオ。あなたならそれが可能なのですから」


 一瞬の、数十倍の時間が経過後、フィーネはため息をつく。


「ですが、私はアリストの護衛であることはよく知られています。アリストが考えているように進むとは思いませんが」

「いえいえ、あなたならなんとかするでしょう」


「報酬も支払いますから」

「なるほど」


 ようやく待っていたものが来たと言わんばかりに黒い笑みを浮かべたフィーネがアリストを見やる。


「ブリターニャ金貨五千枚。それに諸経費。もちろんファーブたちへの支払いは別で」

「承知しました、それでお願いします」


 どう考えても過大とも思えるフィーネの要求をあのアリストがあっさりと応じたのは驚きの極みではあるのだが、その理由はむろんその請求書が自分ではなく国に回るからである。

 こうしてアリストの恥ずかしいケチ逸話がまたひとつ増えることになったわけなのだが、とにかくフィーネが前線に行くことを了承したその日の夜フィーネはひとりでクアムートの交易所に姿を現す。

 そして、それから三十ドゥア後、グワラニーも現れる。


「尋ねます。ブリターニャとフランベーニュの戦争、その状況はどうなっているのですか?」


 グワラニーは挨拶代わりにやってきたフィーネのあまりにも直接的な物言いに苦笑いする。


「……それはブリターニャの王太子殿下に聞かれては……」

「アリストは、というより、ブリターニャの間者たちはまったく役に立たないのです。だから、こうやって聞いているのです」


 フィーネの言葉はおそらく本当のことだろうとグワラニーは思う。


 ……だからといって教える義務はないのですが。


 グワラニーの苦笑いは深みも増す。


「それはお困りでしょう。ですが、それはフランベーニュにとっても我々にとっても重要情報。さすがに教えるわけにはいきませんね」


 どこをとってもおかしなことなどないグワラニーの答えであるのだが、これでもグワラニーとは長い付き合い。

 ある程度は何を考えているかはわかる。


 フィーネはグワラニーの隣に座るデルフィンに目をやり、それからグワラニーに視線を動かす。


「では、こうしましょう」


「ここで聞いた話は外部に漏らさず個人的に利用する。もちろんそれはアリストも含まれる。これならどうですか?」


 むろん、これはグワラニーが望んでいた答え。

 一瞬後、グワラニーの笑みが別の種類のものに変化する。


「それは結構と言いたいところですが、その情報を何に使用するのですか?」

「もちろん個人的な用事です。と言っても、アリストから前線の指揮官に対しての伝言を頼まれたのです。しかも、フランベーニュ経由で」

「その内容は?」

「まあ、これは秘密の部類に入るわけですが、ここだけの話ということで言えば、内容は指揮官にフランベーニュから撤退するように命じるものとなります」

「なるほど。それは重要情報ですね」


 ……こちらも希望通り。


 心の中でそう呟いたグワラニーが口を開く。


 ……いいでしょう。


「では、お礼にこちらも……」


 そう言って、グワラニーは戦況を話し始める。


 それはブリターニャ軍司令官セドリック・エンズバーグが陣地に籠るフランベーニュ軍を外に引きずり出すために後退戦を開始する直前までのもの。

 そして、その後に起こることは予想としてつけ加える。


「さすがアリスト王子。本当にギリギリのタイミングでした」


 相手がフィーネということもあり、この世界にはない単語を組み込んでの言葉を口にして驚く様子を披露したグワラニーだったのだが、実を言えば驚かなければいけないのはフィーネの方だった。


 そう。

 アリストは十分に余裕のある中での撤退を考えていただけであって、ブリターニャ軍がすでに完全崩壊間近の状況に陥っているなどとは考えてもいなかった。

 つまり、フランベーニュ軍はアリストの予測を上回る速さでブリターニャ軍を追い詰めていたことになる。

 正確にはグワラニーがということになり、しかも、それを直属部隊ではなく、フランベーニュ軍を使ってという言葉も続く。


 ……ですが、ある意味では絶妙のタイミングではありますね。これより遅ければ、それこそ全滅でしたから。


 薄い笑みを浮かべたフィーネは魔族の男を眺める。


「それでこれからどうなるのですか?」


 グワラニーにその気があれば、ブリターニャ軍は全滅を免れない。

 だが、三方から攻め上がってきたブリターニャ軍のうち、一隊には手を出していない。

 全滅を狙っているのならそれはない。

 つまり、この時点でブリターニャ軍の退路は残しているということはその気はないということだ。


 問題はブリターニャ軍自体にその意志があるかということ。

 だが、さすがのグワラニーも会ったこともない猪武者の意識を変えることはできない。


 そういう意味では自分の来訪はグワラニーにとっても朗報であることは間違いない。


「ということは、救えるのは北街道の部隊のみ?」

「そういうことになります」


「ただし、最後まで北街道は開けておきますので逃げることは可能です。それは約束します。ニオールの手前で待っていれば待ち人はいずれやってくることになるでしょう」


 さて、そのような裏事情により現れたフィーネの硬軟取り揃えた、いや「硬硬」だけの説得に止むを得ず撤退を決めたフィンドレイだったが、実はここからが大変な作業だった。

 なにしろここは敵国。

 そして、自分たちは侵略者。

 当然ここまでの間に各地で食料などの略奪行為をおこなっている。

 そのような者たちが逃げ帰るとなればどのようなことが待っているかは想像がつくだろう。

 戦いは進むより退く方が難しいことを示す格言が山ほどある撤退戦は困難を極める。

 そして、敵地での後退はその難易度は更に上がる。

 それは別の世界の歴史にある戦争の天才と言われた某国の英雄のモスクワからの撤退戦を考えれば理解が早いだろう。

 ちなみに、かの英雄の軍隊も敵地では散々略奪行為をおこなっていたのだが、いわゆる「食料の現地調達」はこの時代の標準仕様であり、必要な食料を自前で持ち込むことが標準となるのはこの後のこととなる。


 さらに、撤退命令を持参したあの女の言葉どおり中央街道の本隊と南街道のヘンドリーの部隊が本当に壊滅的打撃を被っているのなら、当然フランベーニュ軍は自分たちも壊滅させようとする。


 強烈な追撃戦。

 または、挟撃。


 敵軍に関する情報がない以上、その両方に対処できるように隊列を組まねばならない。


 フィンドレイは、退却する軍の先鋒に猛将としても名高い副司令官クレイク・エトリックを配置し、最後尾部隊はフィンドレイ自らが指揮することを決める。


 そして、ここからブリターニャ軍の退却戦、フランベーニュ軍から見れば追撃戦が始まるわけなのだが、それまでとは違い、グワラニーの指示書は敗走するブリターニャ軍に対するフランベーニュ軍の具体的な攻撃方法は記されていなかった。

 その代わりというわけではないだろうが、禁止事項はいくつか記されていた。


 挟撃、特にブリターニャ軍の退路を塞ぐ形で陣を敷いての戦いはおこなってはいけない。

 最終段階において、国境線を超えてはいけない。

 そして、最後に降伏した者、負傷で動けなくなった者に対する残虐行為は絶対におこなってはいけない。


 だが、これに異議を申し立てた者が続出する。

 むろんアロイス・ナビエやアラン・ワロキエたち反ブリターニャ派の者たちである。


 彼らの主張の核にあるものはフランベーニュ領に侵攻してきたブリターニャ人をひとり残らず駆逐するというもの。

 つまり、挟撃戦を主張したのである。

 自軍が圧倒的多数という状況では挟撃戦は悪い戦術ではない。

 それを明確な理由も示さないまま捨て去るのはナビエたちでなくても納得しないであろう。

 そもそもそれを命じているのは本来敵であるグワラニーとなれば、彼らのボルテージが上がるのは当然といえば当然である。

 だが……。


「言いたいことはわかった。だが、挟撃戦は許可できない」


 そう言ってグミエールは喚き散らす将軍たちを見る。


 納得しがたい。

 その表情が並ぶ中、グミエールの言葉は続く。


「もちろん挟撃によって多くのブリターニャ軍将兵を狩ることができるだろう。だが、それと同時にこちらも多くの将兵を失うことになる。逃げ場を失った者たちと対峙した経験があればそれがどのようなものかはわかること」


「ここまでほぼ完璧な勝利を手に入れているのだ。敵の背後から好きなだけ削ることで満足すべきだ」


 そう言ったところで、もう一度全員の顔を見る。


「もう一度言う。これは命令である」


 不満はある。

 だが、命令は命令。


 反ブリターニャ派の急先鋒であるものの、アロイス・ナビエやアラン・ワロキエは生粋の軍人。

 上官の命令は絶対という教育が骨の髄まで叩き込まれている。

 もちろんそれは直属の上官でなくても相手が上位の指揮官となれば同じこと。

 渋々ではあるが、それを承知し追撃戦の準備に入る。

 だが、同じ高級軍人でも王都からやってきた爵位持ちの貴族となるとそうはならない。


 オリス・モルシアック、エニャン・オルテス、バラン・レクトゥールという三人の男爵と、子爵であるオーシュ・リュビアックの四人は兵を率いて離脱し、ブリターニャ軍の退路の中間地点となるシュルバイズの丘で待ち伏せる計画を立てる。

 こちらはあわせて四万。

 ブリターニャ軍がそこにやってきている頃には四十万の追撃の対応で手一杯になっているはず。

 そこを背後から襲えば、十分な勝機がある。

 それが彼らの計算だった。


 命令違反をしてもそれを上回る戦果を挙げればそのような些細な罪はすぐに帳消しになる。

 それどころか、その決断力を評価される。


 それが彼らの胸の内ある算段であるのだが、これが多くの物語に登場する馬鹿貴族の傲慢な思い込みから生み出されたものなのかと言えば、そうともいえない。

 なぜなら、この世界の人間の国ではこのような事例は珍しいものではなかったからだ。


 頭の固い上官の命令を無視した有能な者が独断行動によって大戦果を挙げる。


 英雄譚にはそのような逸話が度々登場するようにこの世界の歴史にはそのような事例はたしかに存在するのだが、そうなるためには絶対的な条件がある。


 それが成功し、誰にも文句を言われないくらいの戦果を挙げること。

 そして、こちらも当然のことではあるのだが、命令違反をした者が常に戦果を挙げたというわけではない。

 いや。

 大部分は失敗している。

 そして、そうなった場合に待っているのは重い罰。


 栄誉か破滅か。


 残念ながら今回リュビアックたちに待っていたのは後者だった。


 シュルバイズの丘で逃げてくるブリターニャ軍を迎撃するという策は悪いものではなかった。

 だが、中央街道から北街道へ抜けられる間道を抑える要衝でもあるシュルバイズの丘の重要性を知っていたのはブリターニャ軍も同じ。

 その攻め一本の激しい戦い方から想像しにくいが実は凡将には程遠い才を持つフィンドレイは、この地に四万二千の兵を残していた。

 中央街道への援軍。

 そして、後方にあるベルシュ峠を抑えるルネヴェ城への支えの意味もあり、自身の配下で忠実に仕事をこなし、さらに攻勢時には凡庸な動きしかできないが後退戦や迎撃戦には非常に強い力を発揮するアラン・カービシュリー将軍にその指揮を任せていた。


 そして、そのカービシュリーは放っていた斥候が中央街道からの間道を進んで来るフランベーニュの大軍を発見するとある策を巡らし客の来訪を待った。


 翌々日、姿を現したフランベーニュ軍四万が攻撃を開始する。


 リュビアックたちに同行しているのは並みの魔術師のみ。

 そうなれば、これまでのような派手な攻撃魔法はおこなえなえないうえ、命令違反を犯しここにやってきている手前、時間をかける持久戦という手も使えない。

 そうなれば、残りは力攻めのみ。

 だが、これが簡単なことではなかった。


 切り立った崖の周囲は未開拓の荒地。

 つまり、東西、それから中央街道から延びる街道を利用しなければ丘の頂には到達できないのだ。

 迂回することは困難。

 事実上、フランベーニュ軍は進んできた道を上ってくるしかない。

 それに対し、頂上部はフランベーニュ軍によってかなり前に整地され大軍が駐屯できるように整備されている。

 いわば、半天然の城。

 そう。

 この地形こそシュルバイズの丘が街道の要衝となる理由なのだ。


 しかも、そこは街道といってもいわば田舎道。

 大した幅はない。

 グワラニーが整備し、それを初めて見た者すべて腰を抜かした片道三車線の街道でさえ三十ジェレト。

 その他の場所は大きな町の通りでもその三分の一、田舎になればさらにその半分程度。

 当然この地の道幅はそれに準ずるわけなのだから当然四万人の兵の大部分が游兵となる。


 だが、それ以外の攻め手がない以上、始めるしかない。


 フランベーニュ軍が丘の中腹辺りまで来たところでブリターニャ軍の反撃が始まるわけなのだが天秤はどちらにも傾くことがなくお互いにおびただしい死傷者を出すだけで実りのない一日が終わる。

 もちろん実りのないのはフランベーニュ側だけの話であって丘を守るブリターニャ軍にとっては十分な戦果といえるだろうが。

 

 フランベーニュ軍内部には夜襲をおこなうよう主張する勢力もあったのだが、それは荒地と崖を松明なしで行軍することを意味し、自軍の実力を考えれば厳しいと判断し、翌日からの戦いに備えることになった。

 だが、結局夜襲はおこなわれた。


 深夜。

 フランベーニュ軍将兵の大部分は、今日の失敗を悔やみ、明日の成功を夢見ながら横になっていた。

 その陣に突然次々と松明が投げ込まれ、続いて完全武装のブリターニャ軍兵士が襲い掛かったのだ。

 完全な奇襲。

 しかも、その数は百や二百ではない。

 三万。


 そう。

 カービシュリーは戦いが大量の游兵を生み出すことを察知し、多くの兵を伏兵として丘の周囲にある草原地帯に隠していたのだ。


 奇襲。

 そして、その数。


 戦いは一晩でケリがつく。

 四人の首謀者のひとりエニャン・オルテスを含む一万八千の死傷者を残し、フランベーニュ軍が敗走する。

 カービシュリーが徹底的な追撃を命じれば、フランベーニュ軍の損害はさらに増え、下手をすれば残る首謀者三人の首もオルテスの傍らに並べられていただろう。

 だが、カービシュリーの命令は追撃中止。


 それによってどうにかニオールで戻ることができたものの、リュビアックたちにとってここからが思案のしどころであった。

 そのまま領地に帰りたい。

 だが、後にすべてが露見した場合、自身の処刑だけではなく家の断絶まで待っている。

 渋々ではあるが、進軍中のグミエールのもとに出頭する。

 そして、後に「シュルバイズの丘の戦い」と命名される惨敗劇の詳細を報告する。


 命令違反をしたうえでの独断行動。

 さらに惨敗。


 その報告に最も激怒したのは、意外にも三人の同類であるアロイス・ナビエとアラン・ワロキエだった。


 もちろん抜け駆け自体も許せない。

 だが、それとともに自分たちが提案した策を四人がそのまま実行したうえでの惨敗は、すなわち自身の提案は下策だったことを露呈させた。

 そのこともふたりの怒りの燃材になっていたのは間違いないだろう。

 当然ふたりはある意味自分たちに恥を掻かせた三人の貴族の厳罰を要求する。

 厳罰。

 もちろんそれは処刑を意味する。

 厳しいようであるが、それに対しては多くの将もナビエたちの意見に賛意を示したのには理由がある。

 ここで温情を示して三人を許せば、今後も命令違反が起こる。

 そして、厳罰に処そうとしたときに、今回の件との落差によって罰せられる者に不公平感が生まれ、結果としてグミエールに対する信頼が揺らぐことになるからだ。


 当然グミエールもそう考え、三人に厳罰を科す。


 誰もがそう思ったところでグミエールは目の前に跪く三人に目を落とす。


「同僚のひとりと多くの部下を失ったのだ。それをもって罪を償ったということにしよう。これからおこなう掃討戦に力を尽くすようにせよ」


「ただし、次はない」


「そして、これ以降私の指示に従わなかった者はすべて厳罰に処す。忘れるな」


 そう。

 グミエールの決定は事実上罰なし。


 この決定をどう捉えるのかは様々だった。

 そして、それを甘いと見た者は最終的に滅びの道へ進むことになる。


 ブリターニャ軍が撤退を開始して六日目。


 ほぼ完全な形で進んでいたにもかかわらず、突然現れた小生意気な女に半強制的に撤退させられたフィンドレイは退却を始めてからもブリターニャ軍が敗退しているという情報を疑っていた。

 だが、この日の朝、その考えを改める。

 いや。

 改めざるを得ない。

 後方に残していた斥候から「遠くから追ってくる大軍あり」という連絡が来れば。


「ここにあれだけの数を投入できるということは……やはり」


 そして、この時になって初めて後悔した。

 すぐに反転し、再び攻勢に出られるように意図的にゆっくりと後退していたことを。


 この距離、そして、敵のこの速度では追いつかれることは避けられない。


「ここは逃げの一手しかない」


「全軍に通達。後退速度を上げろ」


 そうは言ったものの、勢いがあるのは敵。

 そして、このような場合、逃げる者より追いかける方が早いのは経験上知っている。

 どこかで追いつかれ、戦いになるのは避けられない。

 だが、たとえそうでもそれは遅ければ遅いほど助かる命が増える。


 昼夜問わず後退を続けるしかない。


「これは命を賭けた追いかけっこだな」


 フィンドレイはそう呟いた。


 そして、敵の先頭が遠くから確認できるようになったその日この退却戦の最初の山場がやってくる。


 実は当時のブリターニャ人、特に王都に留まる高級軍人には非常に評判が悪かったのだが、結果的にそのおかげで多くの兵士たちが救われたことから、助かった兵はもちろん後の研究家からは非常に高い評価を受けることになるとんでもない奇策が飛び出だしたのもこの山場での出来事となる。


 まもなくフランベーニュ軍と接敵する。


 それはブリターニャ軍の誰もが理解していた。

 そうなったとき、全軍が反転し応戦しても相手は四倍、まして、最後尾の部隊だけとなれば、数十倍以上の敵との戦い。

 なぶり殺されるだけである。


「当然今晩は特配だ」


 最後方に位置するフィンドレイの直属部隊の兵士たちは顔を引きつった笑いを見せながら囁き合う。

 だが、特配が配られたのはフィンドレイと十五人の最側近の者のみ。


「……最後の最後にそれか」


 多くの兵士が顔を顰めた。


 だが……。


 朝。

 フィンドレイとともに兵士たちの前に立ったのはシュルバイズの丘でフランベーニュ軍を撃破したアラン・カービシュリーだった。

 むろんカービシュリーが持ち場を離れてこの場に現れたのは当然フィンドレイが呼び寄せたからなのだが、ざわつく兵士たちにフィンドレイが放った言葉は衝撃的なものだった。


「たった今から、このアラン・カービシュリー将軍が我が軍最後方の指揮を執る。さらに彼は軍の司令官も兼任する。これについては先鋒のクレイク・エトリック将軍も承知している」


「つまり、私はここで諸君とはお別れとなるわけだが、最後にひとこと。残念ながら希望する結果にはならず、我々はこうして国に戻るために後退をしている。だが、これは指揮官である者たちの責任であって、諸君は胸を張って家族のもとに帰る資格がある。そして、これが私からの最後の命令である」


「諸君には這ってでも国に帰る気概を見せてもらいたい」


 フィンドレイの言葉によって指揮官が軍からの離脱することはわかった。

 だが、その行先は告げられなかったため、兵たちはざわつく。


 自分たちだけ逃げるのか?

 それとも逃げるのも諦め、自刃するのか?


 噂する兵士たちはやがて昨晩の出来事を思い出す。


 特配は将軍と十五人の最側近の者たちのみ。


 つまり、将軍たちはここで戦って死ぬということなのか?


 結局それについてフィンドレイは何も答えず、さらに戦うのはなら自分たちも残るという多くの兵下たちの申し出を拒んだ。


 やがて、ブリターニャ軍は出発する。

 フィンドレイたちを残して。


 そして、その動きに合わせるようにフランベーニュ軍も動き出す。

 それを見たフィンドレイはニヤリと笑う。


「では、始めようか」


 フィンドレイのその声に合わせて、残った十五人の部下のひとりで副官のクリエフ・ブレアが革製のバッグから取り出したのは大きな白旗だった。


 白旗。

 この世界でもそれは停戦や降伏を意味し、それを掲げた者への攻撃は禁忌とされる。


 そう。

 フィンドレイの奇策とは降伏だった。


 自身が率いる困難な後退戦を続ける軍と別れて自分だけが降伏する。

 一見すると、指揮官としての職務を放棄した、多くの物語に登場する上級貴族らしい卑怯そのものにしか見えない行為である。

 だが、猛将として知られるフィンドレイは、一方で責任感が強く部下思いの将としても知られていた。

 当然自分だけが助かろうという安易な道を選んだわけではない。


 フランベーニュ軍の追撃速度が上がった日の夜。

 副将でもあるクレイク・エトリックを自陣に呼び寄せたフィンドレイはこのような話をしていた。


「残念だが、我が軍はまもなく捕捉されるだろう。それについて将軍の意見を聞きたい」

「言うまでもないこと。あれだけ数の差があれば一旦捕捉されればどうにもならない。逃げ回り背中から徐々に食われるくらいなら全軍反転して迎撃すべき」


 自身の問いに当然のようにやってきたエトリックの言葉にフィンドレイは笑みとともに大きく頷く。


「……そして、全滅する」


「まあ、このままではそうなるな」


「だが、王太子殿下からの命がある。簡単に全滅するわけにはいかない」


「どれだけ少なくなろうが、兵をブリターニャ軍に帰す義務が我々にはある」


 つまり、全軍が反転しての迎撃はおこなわない。


 それがフィンドレイの答えだった。


 もちろんそうなれば選択肢はひとつ。


 すなわち、フィンドレイ率いる最後尾部隊だけで迎撃をおこなうということ。

 だが、フィンドレイの直属部隊は一万弱。

 その他を合わせても二万というところで、とても四十万の敵を抑え込むことはできない。

 それどころか、あっという間に崩壊。

 その目的であるフランベーニュ軍の足止めはできないままブリターニャ軍の二割がそこで消え、今後の戦いはさらに苦しいものになる。

 つまり、犬死。


「さすがに総司令官の意見とはいえ、賛成しかねますな。それは」


 すべての点でエトリックのその言葉は正しいといえる。

 ただし、それはフィンドレイが懐に入れていた策がエトリックの考えたものと同じだった場合ということになるのだが。

 そして、その直後フィンドレイの奇策を聞かされたエトリックは驚愕する。


 そして、その策とは……。


 フランベーニュ軍の先頭部隊は白旗を上げた小集団を発見する。

 そして、中央を進むアロイス・ナビエのもとに報告が届く。


「……十六人?」


 その言葉とともにナビエは顔を顰める。


「負傷者を放置したか。それとも、離脱か。どちらにしでも野蛮人らしいな」


 だが、この場合、どうすべきは知っている。

 そのまま踏みつぶすことは簡単だが、さすがにそれは自らが口にした野蛮人のおこない。

 それをやってこの勝ち戦に泥を塗るわけにはいかない。


 白旗を掲げたブリターニャ軍兵士の回収をおこなうため、軍を停止させ、五十人ほどの兵を向かわせる。

 だが、短い言葉を交わしたと思われる兵士のひとりが大慌てで来ると、ナビエに状況を説明すると、事態は一気に動く。


「あそこにいるのは敗走するブリターニャ軍の最高司令官だと……」


 表現が難しい表情を浮かべたナビエだったが、すぐに後方に進む総司令官グミエールへ伝令を出すとともに、本当に降伏してきた者がブリターニャ軍の司令官かを確かめるために自ら出向く。


 そして、その男を眺める。

 侮蔑の表情を浮かべながら。


「とりあえず、もう一度名を聞こうか。ブリターニャ軍の将軍」

「私はブリターニャ王国の男爵。そして、陸軍将軍アラン・フィンドレイ。フランベーニュ遠征軍北街道進攻軍の司令官である」


 そう名乗った男の身なり。

 それから振舞い。


 おそらく偽りではない。

 だが、その総司令官が率いるべき軍を離れてなぜ投降したのか。

 何かある。


 疑わしそうな目で自身を見るナビエを睨み返したフィンドレイは薄い笑みを浮かべる。


「相手の将に名乗るよう要求しながら自分は名乗らないとはフランベーニュ軍人は礼儀を知らないようだな」


「それとも、貴様には名前も階級もないのか」


 これはナビエの非礼を突いたあきらかな挑発。

 たしかに非はナビエがあるのだから、まずはひとこと詫びを入れるのが筋。

 だが、部下たちの手前それはできない。


「言ってくれる」


「指揮する軍を捨てて投降するような腰抜けに名乗る名はないが、そこまで言うのなら特別に名乗ってやる」


「私はフランベーニュ王国の将軍アロイス・ナビエだ」

「承知した。だが、用があるのはお前のような小物ではなくウジェーヌ・グミエール将軍だ。グミエール将軍に面会したい」


 非礼に無礼の返礼。

 さらにそれに対する無礼の上に無礼を載せたフィンドレイは薄い笑みを浮かべる。


「だが……」


「本当に将軍であるのなら一軍は指揮しているのだろう。では、交渉にあたって、まず全フランベーニュ軍の進軍停止を要求する。まあ、私の前にいる者が実はただの兵士でそのような権限がないのなら仕方がないのだが」


「ちなみに、それが受け入れられないかぎりブリターニャの後退も止まらない」


 このフィンドレイの要求だが、間違いなく過大ななもの。

 特に後者については、本来であれば降伏する側がまず停戦することがこのような場合の手順なのだから蹴り飛ばされても文句の言えないものと言えるだろう。


 だが、フィンドレイは凡そ察していた。


 フランベーニュ軍は争って進んでいることを。

 そうであれば、先陣を務めるこの将軍は後方を進む競争相手に追い抜かれぬよう自分の言葉を利用して他の部隊も停止させると。

 そして……。


「ブリターニャの司令官が降伏を申し出ている。グミエール総司令官のあらたな命があるまでその場に待機。全軍に伝えろ」


 そう。

 フィンドレイの予想どおり、ナビエが動く。


 ここまでは予定通り。

 まあ、差し出すのは十六人の命。

 一万の兵で迎撃しても半日の足止めもできない状況を考えればこれは十分過ぎる戦果だ。


 フィンドレイは心の中でそう呟いた。


 それからまもなくグミエールが姿を現す。

 先ほどとは違い、このような場合の作法を完璧なまで披露するフィンドレイ。

 それを苦々しく眺めるナビエという構図をしばらく眺めていたグミエールはやがて口を開く。


「では、降伏するにあたり、そちらの条件を聞こうか」


 これはこの世界における降伏交渉における手順のひとつであり、降伏条件が認められるというわけではない。

 むろんフィンドレイもそれを重々承知している。

 だが、そもそも助かりたいなどとは思っておらず、彼我の距離を広げるために時間を使うことだけが目的。

 当然条件をタップリと盛り込む。

 最後には自分たちの助命だけではなく、食べ物と酒の提供までつけ加えるという念の入れようである。


 もちろんブリターニャ貴族でもあるフィンドレイにとってフランベーニュ軍に命乞いをするなど不本意の極みである。

 だが、より多くの部下を救うこれ以上の手立てがない以上、本気でやるしかない。

 そして、フィンドレイの渾身の演技が功を奏す。

 フランベーニュ軍将兵から嘲笑と罵倒が沸き起こり、グミエールもその雰囲気に飲まれてしまう。

 結局、多くの時間を使っただけで実りあるものは得られず、止むを得ず白旗を立ててブリターニャ軍に急使を送って降伏の意志を確認したものの、「自身の命惜しさに国と軍の裏切ったアラン・フィンドレイの勝手なおこないになどに従う気がない」というアラン・カービシュリーの強烈な言葉を投げつけられただけだった。

 この後、フィンドレイたちは王都アヴィニアに送られ、追撃作戦は再開されるわけなのだが、フィンドレイたちの努力は約一日という時間になって報われることになる。

 そして、この一日が最終的に多くのブリターニャ軍兵士の命を救うことになる。


 そして、長く続いた命を賭けた壮大な追いかけっこ。

 その終幕のときがやってくる。

 もうすぐ国境。

 そこでついにブリターニャ軍は捕捉されたのだ。


 この時にはベルシュ峠の守備隊や北方の抑えとしてルネヴェ城に駐屯していた部隊も加わり十万人以上が増員され数の差が大幅に縮まったブリターニャ軍の中には反転し迎撃すべきという意見も多かった。

 だが、カービシュリーの指示はあくまで後退戦。

 そして、カービシュリーに守りに徹した戦いをされてはさすがのグミエールも簡単に崩せない。

 しかも、最前線にいるのは自身の直属部隊ではない。

 連携とは程遠い戦い方でカービシュリーが仕掛けた小さな罠に次々にかかり手玉に取られる。

 もちろん数は二倍。

 フランベーニュ軍の優勢は動かない。

 だが、決定打は与えられず、お互いに一万人ほど損害を出したところで、ついにブリターニャ軍の先頭部隊が国境を越えブリターニャ領へ入り始める。


「もう少しで国境。そうなればなんとかなる」

「このままでは逃げ切られる」


 一方が押し込み、もう一方はあきらかに押し込まれているにも関わらず、両軍には状況に相反する声が響く。


 フランベーニュ軍の指揮官はある枷に縛られていた。 


 国境を超えられたら追撃を終わらせなければならないというグミエールが口にしたあの命令である。

 

 フランベーニュ軍は焦る。

 そして、その焦りはそのままブリターニャ軍の優位となる。

 さらにこのまま頑張れば国境を越えられるという気持ちがブリターニャ軍全体に勢いもつかせる。


 ブリターニャ軍の最後尾を受け持つカービシュリーとその直属部隊は、焦りがいよいよひどくなったフランベーニュ軍の雑な攻撃を撥ねつけると、直属部隊とともにその場に残っていた副将クレイク・エトリックが逆に強烈な反転攻勢をおこなってフランベーニュ軍の一時的な後退を引き出すと一斉に国境を超える。

 ブリターニャ軍が絶望的な状況からの奇跡な逃げ切りに成功した瞬間だった。


 だが、戦いはこれで終わりではなかった。


「グミエール殿。残念だが、ここが引き際だ」

「私もそう思います。ここまでグワラニーの言葉がすべて当たっている。奴が書いた筋書きどおりにことが進んでいると思えるくらいに。そうであれば、ここも奴の言葉が正しいと思ったほうがいいでしょう」


 傍らに立つロバウとリブルヌの言葉にグミエールは頷く。


「全軍追撃中止。国境を超えてはならぬ」


 その命令は前線にも伝わる。

 だが、命令を無視して攻撃を続行する部隊が続出する。

 ここで前回の失態を帳消しにしたいモルシアック、レクトゥール、リュビアックはもちろん、前回は自重したナビエやワロキエも攻撃の続行を指示し次々に国境を超える。 

 さらにそれに釣られるようにグミエールの直属部隊の一部まで国境を超え始める。


 当然ではあるが、ブリターニャ軍はフランベーニュ軍に国境を超えてはならないという指示が出ていることなど知らない。

 そのため、なおも追撃が続くのはブリターニャ軍の中では想定通りであった。

 彼らとしてはこの先にある軍の拠点バーゴインまでフランベーニュ軍を呼び込み、そこで駐屯部隊と協力して叩くという策を立てる。

 打ち合わせはないがこの状況ではやむを得ない。

 そう思いながら。


 だが、様々な思いと思惑を持った両軍にとって想定外の事態が発生する。


 上空が光り輝くもので覆われたのだ。

 皆がそれを見上げる。

 その瞬間、その光は降り注ぐ。

 そして、目の前までその光が迫ったところで、その光の正体に気づく。


「氷槍だ」

「ま、魔術師。なんとかしろ」

「早く迎撃しろ」


「だめだ。数、数が多すぎる。間に合わない……」


 悲鳴に近いその声はすべてフランベーニュ語。

 さらにいえば、その場所はブリターニャ領。

 そう。

 それは明確な形でブリターニャ領に入ったフランベーニュ軍を狙ったものだった。


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