フォレノワールの戦い
エンズバーグの命により五十万のブリターニャ軍は陣形再変更作業を始める。
だが、変更を急ぐあまり周囲の警戒はおろそかになる。
それに気づいたアーサー・オルビストンが慌てて自らの直属部隊を散開させ始めたところでそれは起こる。
突然五つの集団に分かれて防御魔法を展開させていた魔術師団が火に包まれ一瞬で全滅。
魔術師狩り自体は魔族と人間との戦いでも日常的おこなわれていることではあるものの、敵味方の魔術師レベルが拮抗するようになった最近の戦いではその攻撃はほぼ相殺され、グワラニーが関わる戦いを除けば何も起こらない。
まして、小競り合い程度しかない人間同士の戦いでここまで完璧に相手の魔術師を排除した例は少ない。
その理由はブリターニャ側にはわからない。
だが、とにかくそれが起こった。
そして、二者のうち一方だけが魔術師持つという状態になれば、次にやってくるものが何かなど言うまでもないだろう。
「真上に火球多数。敵襲。フランベーニュの攻撃だ」
「た、退避」
だが、ここは隠れる場所もない草原。
当然火球群から逃れる術などない。
ブリターニャ軍五十万は十ドゥア間に渡り、猛烈な火球の雨に晒される。
そして……。
直撃を受けた全軍の二割は即死。
残り八割の大部分が戦闘不能。
まともに戦えるのは全体の一割にも満たない数に減少する。
むろん損害は兵士たちだけではない。
魔術師長エイブラム・ウィザーズ、副魔術師長バイロン・ワイアットとデミアン・ウェルズ、副司令官のひとりアービー・ラドフォードが戦死。
もうひとりの副司令官アーサー・オルビストンは自力で歩くことはできるが、右手に大やけどを負ったため全力で剣を振るって戦うことは無理。
そして、エンズバーグも動くたびに背中に激痛が走るほどの負傷。
この時点でブリターニャ軍本隊は崩壊したと言っていいだろう。
だが、後に「フォレノワールの戦い」と呼ばれるこの戦いはその悲惨さを考えればここからが本番と言ったほうがよかったかもしれない。
敵襲に備えながら、負傷者の手当をおこなっていたエンズバーグのもとに斥候隊のひとつが驚くべき知らせをもたらす。
「敵発見。数は十万。距離七十アクト先を東進中」
崩壊した自軍に驚きながら懸命に任務を果たす斥候たちの報告を聞きながら、エンズバーグとオルビストンは「その報告があと半日早かったら」と口に出せない声を上げる。
だが、その心の声は口にはできない。
各十人で構成される斥候隊が四人しかいない。
しかも、全員が傷だらけ。
それがここに辿り着くまでにどのようなことがあったのかを示すものだったからだ。
「なかなか厳しいことになりました」
自身の手を眺めながら呟くようにそう言った後に百瞬ほど沈黙した後、オルビストンが再び口を開く。
「残念ですが、勝負は決しました。こうなったからには、なるべく多くの兵を本国に連れ帰ることこそ軍を指揮官の務めとなります」
そして、最後にこうつけ加える。
「……ありがたいことに総司令官と副司令官が生き残っています。これで、下の地位の者に責がいくことはありますまい」
撤退の進言。
敗戦。
それに続く撤退は総司令官にとって屈辱以外のなにものではない。
当然そうすべきことがわかっていてもそれを進んで口にはできない。
そこで、副司令官が進言し総司令官がそれを受け入れることによって決定される。
そして、その場合には兵を連れ帰ることを撤退の理由として挙げる。
それが将軍になるあたり、先輩将軍から口頭で教わる裏教本にあるひとつとなる。
オルビストンはそれに完全な形で則り、その言葉を口にしたわけである。
もちろん、降伏という選択肢もなくはない。
だが、協定破りの侵略行為をおこなった今回のブリターニャにはそれは許されない。
そうであれば、残りは撤退のみ。
ただし、そうであってもまだまだやることはある。
撤退をするにあたり、負傷者をどうするのか?
特に動かすことのできない者をどう扱うのか。
このような場合、通常は動ける者だけが撤退し、行軍が無理な者はそこに残り降伏するわけである。
むろん、彼らに困難な道が待っているのは間違いない。
それでも生き残っていれば、捕虜交換時に戻ることも可能。
だが、今回はおそらくそうはならない。
フランベーニュは捕らえた者を全員殺す。
ブリターニャ軍はそれだけのことをやってきたのだから。
そうなれば自死を勧めるしかあるまい。
それはそれで気が重い。
さらに撤退のルートの策定も難題だ。
現状は前後から挟撃される形になっている。
だが、退路となる側からやってくるのは十万。
そこを突破するのは不可能と言っていい。
そうなれば、残された選択肢はまだブリターニャ軍が維持していると北街道を経由しての撤退。
だが、そこに辿り着くには道なき道を進まねばならない。
多くの負傷者を抱えているブリターニャ軍がそれをおこなうのは厳しいと言わざるを得ない。
頭の中で多くのことを考えていたオルビストンの耳にエンズバーグの声が割り込んでくる。
「……このままでは終われない」
「はあ?」
オルビストンは自身の耳を疑い、思わず声を上げた。
もちろん、その「このままでは終われない」という言葉が、口惜しさを紛らわす言葉なら理解できる。
だが、エンズバーグの言葉は別の香りが漂っていたのだ。
この場でもう一戦おこなう。
その言葉からその意図がハッキリと読み取れたのだ。
上官は成功だけしか知らぬ男。
だから、初めての敗戦、しかも、歴史に残るくらいの大敗に熱くなって自分を見失っている。
自分が止めなければならない。
オルビストンはエンズバーグへ視線を動かす。
「総司令官。悔しい気持ちはわかりますが、これ以上戦っても損害が増えるだけ。ここは引くべきときです」
「いや」
「たしかに中央街道の部隊は立て直しは困難。だが、北街道を進むフィンドレイ率いる軍は健在だ。彼らがアヴィニアに向かえば目的は達成できる。そのためにも我々はこの場に留まり、周辺の敵を引きつけなければならないのだ」
すぐにやってきた自身の言葉に対する返答によって、エンズバーグは驚くほど冷静であることをオルビストンは気づく。
「つまり、主力を囮にするというわけですか?」
「そうだ」
エンズバーグはオルビストンの言葉にそう返してから、小さく息を吐く。
「オルビストンもわかっていると思うが、我々は街道の両側から挟撃されている。サイレンセストに戻るには十万の敵を突破しなければならない。どうにか戦える者たちをかき集めても同等にもならない我が軍の敗北は必至。さらにそこを突破してもグミエールの軍に捉えられ逃げ切れない。では、北街道を目指すべきなのか。それは山野を進むことになり大部分の負傷者は脱落するだろうし、不案内な場所を進む我々は敗残兵狩りの餌食になるだけ。山の中を逃げ回り、最後に背中から斬られる」
「秩序を保った撤退は事実上不可能。そうであれば、その部隊を囮に使い、他の部隊の成功に貢献すべきであろう」
「違うか?」
脱出は困難。
それは事実。
そして、自分たちがここに留まれば敵が集まってくるのも事実。
だが、北街道からニオールに向かっているフィンドレイの部隊がニオールの状況を見てフランベーニュの王都を目指して進むのかどうかはわからない。
戦歴も豊富で戦上手ではあるものの、本質は猛将と呼べるフィンドレイが撤退という選択肢を選ぶとは思えないが、それこそ本隊の状況を知ったら救援のためにこちらにやってくるのではないのか?
いや。
そうであったとしても……。
オルビストンは心の中で呟く。
敵を引きつけるという役割は有効である。
唯一残された自身の存在意義を強引に見出すようにオルビストンはその命令を納得する。
そして、それにあたって再び突き当たるのが動くこともままならない者たちへの対応である。
「総司令官。動けぬ者たちをどうしますか?」
「それは……」
尋ねたくないもの。
尋ねられたくないもの。
命じたくないもの。
命じられたくないもの。
両者の思いを示すような長い沈黙。
そして、それはやってくる。
「……彼らには名誉ある死を」
七十ドゥア後。
ブリターニャ軍は四分の一へと減る。
そして、彼らの埋葬が終わったところで、戦いの準備を始めるわけなのだが、オルビストンは自身の直属部隊のなかで比較的軽傷な者十人選び出し、唯一生き残った書記役の男とともに戦場を脱出させる。
本隊が陥ったこの状況を本国に事実を伝えるために。
そして、翌朝。
前後からの挟撃が成功した形となった五十万のフランベーニュ軍が十万のブリターニャ軍陣地を包囲する。
ニオールのときと攻守が逆になったわけだが、フランベーニュ軍の指揮官がブリターニャ嫌いで有名な将軍アロイス・ナビエやアラン・ワロキエであったのなら、包囲が完了した瞬間に攻撃が始まり、お互いの兵士の血が多く流れたことだろう。
だが、総司令官は彼らを率いて現れたグミエール。
むろんグミエールもブリターニャを好いているわけではないが、それでもナビエやワロキエよりも節度はある。
さらにいえば、大事な部下をこのような意味のない戦いで失いたくないということもある。
当然降伏勧告をおこなう。
グミエールが示したその勧告の概要はこのようなものであった。
ブリターニャ軍将兵は武器を捨てて投降する。
全員が捕虜となるが、兵士及び下級指揮官はブリターニャとの交渉ののち、フランベーニュ国内で残虐行為をおこなった者を除いて本国へ帰還させる。
ただし、上級指揮官とフランベーニュ国内で残虐行為をおこなった者についてはフランベーニュで裁判をおこなったのちに処断する。
そして、最後に侵攻部隊の責任者について公開処刑とする。
厳しいものに思えるが、この世界の常識としては妥当なものといえるだろう。
侵略者に対するものとしてはむしろ甘いと思えるくらいのものであったので、当然のようにナビエとワロキエから不満の声が上がった。
全員を処刑すべき。
それがふたりの主張であった。
だが、ふたりもグミエールに従う。
「我々はブリターニャの蛮族とは違う。それとも、将軍たちは蛮族の仲間になりたいのか」
グミエールが放ったその魔法の言葉によって。
ブリターニャ軍陣地。
「どうしますか?」
「フランベーニュの勧告は悪いものではないと思います」
「なにしろたったふたりの犠牲で十万人が助かるのですから」
もちろんそのふたりとはエンズバーグとオルビストン自身のこと。
そして、オルビストンがここでわざわざそれを口にしたのは、自分たちふたりはどちらにしても助からない。
だが、それこそふたりが「名誉ある死」を自らに与えた場合、フランベーニュは別の誰かをその代わりの生贄を選ぶ。
高級指揮官はそれほど残っていないことから、下級指揮官にまで累が及ぶ可能性もある。
そうならないためにも、ここまで生き残ったふたりは最後まで生き残ることこそ自らの使命であることを暗に示したものである。
相手が落とす首を差し出すために。
だが、それこそがエンズバーグにとって耐えられないことであった。
戦いの前にあれだけのことを言ったのだ。
そのようなことだけは避けたい。
それとともに、自らだけが死んだ場合、責はすべてオルビストンが負うことになる。
さすがにそれは身勝手すぎる。
そうなると、エンズバーグに残されている選択肢は華々しい討ち死にしかないというところ。
エンズバーグはオルビストンを見やる。
「すべての点でオルビストンが正しいと思う」
「だが、私の決定はそれと違うものだ」
「そして、申しわけないが皆には一緒に死んでもらう」
「だが、死ぬ前に確かめたいことがある」
「それは?」
「むろんフランベーニュが魔族と手を組んだのかどうかということを確かめること」
「さすがにこの期に及んでグミエールは嘘を言うまい。それを確かめ、自分が正しい道を進んでいたのか、それともただの侵略者だったのか。それを確かめたいのだ」
「なるほど」
オルビストンはここでようやく理解した。
このままでは終われない。
エンズバーグが口にしたその言葉の意味を。
「伝令を」
降伏勧告は拒否する。
だが、戦いの前に話がしたい。
その奇妙な要求をグミエールは受け入れた。
ただし、警戒はする。
油断した敵の大将を討ち取り、負け戦を勝ちへ導いたことが戦史の中に数多く存在するからだ。
当然グミエールは保険をかける。
むろんこの世界にはない表現だから、実際には「用心のために」という言葉を使ったのだが。
そして、その保険。
それはひとりの魔術師を同行させたこと。
オートリーブ・エゲヴィーブ。
それがその同行させた魔術師の名となる。
むろんエゲヴィーブは海軍提督アーネスト・ロシュフォールの魔術師長兼知恵袋。
当然陸軍のグミエールが自身の会談に同行させるにはロシュフォールの許可が必要なのだが、ありがたいことにその男は目の前にいる。
そして、その会談は、睨み合う両軍の中間地点で始まる。
「フランベーニュの将軍に尋ねる」
「おまえたちは魔族と手を組んだのか?」
それが会談開始直後のエンズバーグの第一声だった。
むろんグミエールはそれを否定する。
さらに……。
「自分たちの大敗理由を、自らの無能さではなく、そのようなこの場にいない魔族に擦り付けるのか。ブリターニャ軍の将は」
そう言ってエンズバーグに嘲りの笑みを投げつける。
「だが、そこまで言うのだ。その根拠があるのだろう。聞かせてもらおうか。その根拠を」
その言葉を噛みしめ終わるとエンズバーグは大きく息を吐く。
そして、グミエールを睨み返す。
「簡単なことだ」
「ここまでの一連の策があまりにも見事だからだ」
エンズバーグはそこで一度言葉を切り、フランベーニュ人の表情を伺う。
そして、表情に微妙な変化があることを確かめながらその続きとなるものを口にする。
「ブリターニャ国内にも将軍のふたつ名は届いている」
「ベルナードの生き写し」
「そして、そのベルナード将軍は基本に忠実。手堅いが面白味のない戦いをするというものだ。つまり、その生き写しというからには、当然将軍も同じような戦い方をするというものだろう。多少の差はあっても、基本はそう変わるものではないはず」
「ニオールの前につくられた野戦陣地はその名に違わぬものだった。とても二倍程度では破れぬと思えるほどに」
「だが、その後に起こったことはどれもこれも基本に忠実どころか、軍の常識からも外れている、どちらかといえば奇術に近いもの」
「それこそベルナード将軍の競争相手だった亡きアポロン・ボナール将軍がおこないそうなもの。いや……」
「ボナール将軍でさえ考えつかないくらいのもの」
「それをベルナード将軍の生き写しが考え、実行するとは思えない」
「では、誰がそれを考え、おこなうのだ?」
「そうやって考えたときにある男の名に行きついたわけだ」
そう言ってエンズバーグはもう一度フランベーニュの将に目をやると、相手はこれ以上ないくらいの苦笑いを披露する。
「……アルディーシャ・グワラニーか。確かに筋は通っている」
自らの言葉にエンズバーグに頷いたことを確認するとグミエールの笑みは別の種類のものへと変わる。
「……だが、対峙したことがないエンズバーグ将軍がそこまであの男を評価しているとは思わなかった」
「もちろん、あの男が率いる軍にはフランベーニュだけではなく、ブリターニャも相当世話になっているだろうからその強さは伝わっているだろう。だが、あの男が挙げた戦果の大部分はあの男の配下にある魔術師団の強力な魔法攻撃によるもの。つまり、それを除いたあの男個人の評価は伝わっていないのではないのか」
その言葉に今度はエンズバーグが笑う。
「そのとおり。実際のところ、私はアルディーシャ・グワラニーを今でも評価しているわけではない。だが、その男を異常に評価する者が私の近くにいた。それで、その名前を出した。ただ、それだけだ。それで、実際はどうなのだ?」
グミエールは薄く笑いながら、隣にいる年長の男を見やり、その男は何かを了承するように大きく頷くのを確認したところで、もう一度口を開く。
「実をいえば、あの男に会うまで私も同じような気持ちだったから、将軍の感想は理解できる。だが、今は違う」
「ハッキリ言おう。あれは化け物だ。もう少しいえば、化け物のような洞察力がある。相手がどのような行動に出るのかを見通す特別な才能がある」
「それこそ、未来を知っているような。今回のことでそれを再認識した。そして……」
そう言ったところで、グミエールは大きく息を吐きだす。
「……将軍の言った、フランベーニュが魔族と手を組んだという話だが……」
「半分ほど正しい」
「見てのとおり、この場には魔族はいない。ブリターニャと戦い、勝利したのはフランベーニュ軍だ」
「だが、ここまでの策。それを考えてついたのは我々ではなく別の者。つまり……」
「アルディーシャ・グワラニー」
「そういうことになる」
「だから、将軍が最初に言った、我々が考えるには見事すぎる策というのは、正しいということになる」
そう言ったグミエールは再び苦笑いする。
いや。
それは、どちらかといえば、自分自身を嘲るような笑いと言ったほうがいいかもしれない。
そして、それを言葉にする。
「実をいえば、グワラニーの軍と対峙しているミュランジ城城主がグワラニーに呼び出された。そこで指示書を渡されたのだ」
「そこでグワラニーはまずブリターニャが侵攻してきた場合、フランベーニュ軍がどう動くかが記されていたのだが、それは我々が当初考えてきた迎撃計画そのもの。そして、その場合の結果も示されていた」
「もうその可能性がなくなったから白状するが、我々は当初予定していたその策を採用した場合、フランベーニュはブリターニャに屈服する。そこにはそう書かれていた」
「迎撃に出るのは王都周辺で徴兵した訓練不足の兵、または退役した者、それに各地を警備する者が中心。後方に残る最強部隊である王都を守る軍からは一兵も出さない」
「おそらく将軍たちもそう想定していたのだろう」
そのとおり。
グミエールの問いにエンズバーグは心の中でそう答える。
「むろんグワラニーはそこまで想定していた。精鋭と二線級の戦い。さらに小出しにして戦うのだから勝てるはずがない。どれだけ総数が多くても蹴散らされるだけと酷評していた」
「そして、勢いがついたブリターニャが王都アヴィニアにやってきたときには連戦連敗のフランベーニュ軍の中には敗戦の空気が漂い、最強と自負していた王都防衛軍も戦うことなく白旗を上げることになると。不愉快極まりないがそれを否定できないところが悔しいかぎり」
「では、そうならぬようにどうしたらよいのか」
「それがその後に書かれていた」
「魔族と対峙している軍からの大幅な引き抜き。それが第一となるもの。そして、それをおこなう場合の前提となる自身の配下の軍が動かないことをグワラニーは約束した」
「そして、ここからブリターニャ軍迎撃の策となるわけなのだが、その根幹となるものはふたつ。ひとつは懐深くにブリターニャ軍を誘引して叩く。もうひとつは海軍の援助を仰ぐこと」
「もちろんその両方がフランベーニュ軍、いや、どこの陸軍として簡単に飲めるものではなかったのはエンズバーグ将軍もわかるはず」
まったくだ。
国土の半分を素通りさせることも、陸上の戦いに海軍の手を借りることも陸軍にとってあってはならぬ話。
エンズバーグは心の中で叫ぶ。
「だが、グワラニーはふたつが勝つために絶対に必要なことをしたうえで、ふたつ目については、ミュランジ城攻防戦でともに戦った、ロバウ、リブルヌ両将軍とロシュフォール提督の良好な関係を利用して海軍の協力を求めよと書いてきた」
「もちろんひとつ目についても迎撃戦をおこなっても王都まで侵攻されるのだ。そうであれば、その手前まで引き込んだうえで迎撃戦をおこなうことに問題などひとつもないと断言した。勝つためとはいえ、自国の領土を敵に差し出すなどまともな者の発想ではない」
フランベーニュの恩人であるはずの男をそう表現したところでグミエールは笑い、隣の男に目をやる。
「ちなみに隣にいるのは海軍、いや、フランベーニュ軍最高の魔術師オートリーブ・エゲヴィーブだ。実際のところ、エゲヴィーブがいなければ今回の策は成功しなかったのだが、エゲヴィーブを策の中核に据えよと言ったのもグワラニーだ」
「そして、そのグワラニーが示したわけだ。敗北の必至の状況にある我々がどうやったら勝利を手に入れられるかを」
「そう。我々は示されたその策を実行しただけ」
「悔しいがこれが今回の出来事の真実だ」
そして、ここからエンズバーグが最後の最後までわからなかったフランベーニュ軍の反撃の全容があきらかにされていく。
「まず、ブリターニャ軍は主要街道を制圧しながらやってくる。そして、そこに転移避けを施すため、この時点で背後を狙おうとしても無駄な努力となる。グワラニーの指示書にはそう書かれていた。自軍の損害を出さないように心掛けながら軽い抵抗後、後退を続けること」
「中央の街道を進む本隊は速度を重視して進んでくるはず。そして、五十万以上の兵を抱えていると想定し、野戦陣地を構築し足止めをするように。多くの挑発行為がおこなわれると思うが、それを粘り強く耐え、さらに多くの兵にもその指示を徹底させられる者がここの指揮官にふさわしい」
「その後に私の名前が記されていた」
グミエールは笑い、エゲヴィーブも大きく頷く。
グミエールの言葉が続く。
「もしかしたら、エンズバーグ将軍は敵将の策を簡単に受け入れて恥ずかしくないのかと思うかもしれない」
「もちろん我々だって同じ気持ちだ。だが、この状況においてそう言えるのはそれより上の策を用意できた者の言葉。つまり、我々はそれができなかった。というより、それ以上の策など存在しないのではないかと思っている」
「それくらいのものだった。グワラニーの策は」
「さて、ここからが奴の奇策の真髄だ。そして、将軍が知りたかったものとなる」
グミエールはそう言ってエンズバーグを見る。
「まあ、我々も何も知らされず、その光景を見せられたら、同じ顔しただろう。そして、こう言う」
「あり得ないだろう。海軍が陸上の戦いをおこなうなど」
そう。
これがこの世界の常識。
少なくても軍関係者にとってこれは絶対にないことだった。
「だが、それでも数が多すぎる」
「誰もがそう思う。そして、陸軍が戦っているのか?だが、そうなると、その陸軍は海軍に運んだもらったことになる?それは海軍兵が陸上戦闘するよりもありえないし、そもそも船が足りない」
「転移魔法を使ったのか?少数ならともかく十万単位を一気に動かすことが不可能なのは私もエンズバーグ将軍も経験上知っている」
「だが、実際にそれがおこなわれた。そして、ブリターニャ軍と戦っていたのは陸軍の兵。その奇術のタネは……」
「商船。むろんフランベーニュの船だけでは足りない。アグリニオンとアリターナの船。それが答えだ。もちろん偶然やってきたという彼らの言葉を信じる者などいない。あれを手配したのもおそらくグワラニー」
「もちろん使用料の支払い請求書はフランベーニュ側に回ってきたのだが」
エンズバーグはそこでようやく気づく。
ニオールに乗り込む前に受け取った敵軍情報にその兆候があったことを。
まったく気にしていなかったが、わざわざ報告を入れてきたということはそれくらい港には商船が溢れていたということだ。
そこから上陸戦の可能性を考えるべきだった。
エンズバーグはそう後悔するものの、それは上陸戦がおこなわれた事実を知ったからであり、そのような事例がなければそこに辿り着くのはこの世界の陸軍軍人には難しかった。
それくらいこの世界の海と陸は分断されていたのだ。
それに対し、発案者のグワラニーは元の世界で数多くの上陸戦の事例があることを知っている。
それを円滑におこなうにはどのようにすべきなのかということも。
そして、この策をおこなうにあたって参考にしたのはもちろん別の世界での有名な上陸作戦。
もちろんそれをそのまま転用できるわけではないのだが、それでも応用という点では有効といえるだろう。
結果としてそれは大成功ということになるわけなのだが、やはり、その過程は説明せねばならないだろう。
夜。
陸軍部隊を乗せた商船隊に先立ち、少数の海軍の船が上陸地点近くに現れる。
その一隻に乗り込んでいたエゲヴィーブがブリターニャの魔術師狩りをおこなう。
そして、ここが重要なポイントになるわけなのだが、ブリターニャ軍はその完璧な転移避けによって、フランベーニュ軍は背後にはやって来れないと思っている。
そうであれば貴重な存在である技量の高い魔術師は前線に集め、後方にはどうにか魔法が使える程度の未熟者たちを配置して転移避けを維持するというのは当然の流れとなる。
一方のエゲヴィーブはフランベーニュ最高ともいわれる魔術師。
ブリターニャ軍が展開した転移避けを兼ねた弱々しい防御魔法を破ることなど児戯にも等しい。
さらにいえば、エゲヴィーブクラスになれば魔術師から漏れ出す魔力で位置の把握も可能。
夜間ということもあり、すべてがあっさりと完了する。
そして、海上からの徹底した魔法攻撃でブリターニャ軍守備隊の排除をおこなったうえで海軍部隊が周辺地域を制圧する。
そこで商船から陸軍兵が悠々と上陸を始める。
これがグワラニーの指示書にあり、フランベーニュ軍が実行したこの世界初の大規模な上陸戦の概要となる。
事実を知ってから聞けば、おかしなことはない。
だが、その情報がない状態であれば、すべてが驚くべきことばかりである。
上陸作戦をおこなう、そのこと自体が後に「史上初の出来事」と称されるもの。
そして、それが陸海軍共同作戦であること。
これも小さな例外を除けば初めてといえるもの。
さらに他国の商船までかき集め、船を使った兵の移動もこの世界の常識にはないものである。
なにしろこの世界の陸軍における兵員及び物資輸送は陸送と魔法による運搬の二択。
つまり、海軍の管轄である海を利用するという考えは頭の片隅にもなかったのだから。
まだある。
上陸地点の守備は非常に脆いため、成功は容易。
言われれば、そうであるとすぐに理解できるが、言われなければそこまで思考は届かない。
この世界の常識を打ち破った数々の出来事。
それによってフランベーニュ軍は理想的な挟撃体制をあっさりと構築した。
だが、それは言うまでもなくブリターニャ軍にとって最悪の状況が出来上がったことを意味する。
そして、そこにあるものが加わったでさらにその効果は増大する。
欺瞞情報の拡散と情報封鎖。
いわゆる情報操作である。
特に情報隠蔽は徹底されていた。
これはグワラニーの基本行動のひとつであり、当然グワラニーの指示がある。
この結果ブリターニャ軍は背後に現れたフランベーニュ軍の構成や戦い方はもちろん正確な数すら最後まで掴めなかった。
そして、そのことがこの地でおこなわれた戦いの前にあったふたつの戦いでブリターニャ軍の悲劇となって現れることになった。
むろんその悲劇とは、南街道を進んでいたボブ・ヘンドリーの軍と、フランベーニュ軍迎撃に向かった クレイグ・ホーガン将軍が指揮する十二万の軍にやってきたものとなる。
時系列順に従い、「ローラン峠の戦い」と呼ばれることになるボブ・ヘンドリー率いる十万人とフランベーニュ軍からその経過を見ていこう。
当初の予定通り点在する町や村に千人から二千人の守備兵を配置し、十一万五千の兵を率いて進んでいたヘンドリーのもとにカステラーヌからの急報が届く。
突然海から敵兵が上陸し交戦中。
それが第一報となる。
ヘンドリーはエンズバーグのもとにその急報を伝える伝令を送ると、一万五千を守備兵としてその場に置き、残り十万を率いて反転迎撃に向かう。
この時点では敵の数は把握していなかったが、いや、把握していない以上、持てる最大兵力で迎撃するのは戦い方として正しいといえる。
やがて、カステラーヌからの敗残兵からの情報が次々とやってくる。
敵の数は約十万。
すでにカステラーヌに駐屯していたブリターニャの守備兵を蹴散らし、掃討戦から周囲の制圧に入る。
それが完了後東進してくるものと思われる。
「海からやってきた。ということは海軍。つまり、噂の『新・フランベーニュの英雄』アーネスト・ロシュフォールの軍か」
「これはおもしろい。海上ならともかく、陸上での戦いで海軍兵が陸軍に勝てないことを証明してやる」
海から陸軍兵がやってくるなどとは考えもつかない陸軍の将であるヘンドリーはそう言ってやる気満々で軍を急がせる。
目指すは要衝ローラン峠。
数が同数であれば、高所に場所に陣を敷いて者が優勢となる。
そして、その場所はいわば地峡。
そこを抑えてしまえば勝間違いないない。
ヘンドリーの読みは間違いない。
だが、ローラン峠に到着したヘンドリーは頂に立つフランベーニュの国旗を見ることになる。
「は、早い。早すぎる」
カステラーヌからローラン峠までの距離。
そして、ヘンドリーが転進を決めた町ドシーズからローラン峠までの距離。
それを比較すれば、ブリターニャ軍は半日以上早く到着し、万全な体制でフランベーニュ軍を迎え撃てるはずだった。
だが、無能とは程遠いヘンドリーはすぐに気づく。
峠を守備するフランベーニュ軍の数が非常に少ないことを。
見た限り、数は千人もいない。
おそらくフランベーニュもここが決戦場になることを見越し、先行させた部隊によって占拠した。
ただし、ここを守っていたブリターニャ軍守備隊を排除にする代償を支払い、あの数になった。
つまり、あの数のうちに奪還すれば、再びブリターニャが優位となる。
そう判断したヘンドリーは半包囲し一斉攻撃の命令を出そうとして瞬間、予想外の攻撃。
「攻撃魔法か?」
そう。
ブリターニャ軍の魔術師が狙い撃ちされたのだ。
むろん防御魔法は完璧なはずだった。
だが、それはあっさりと破られ、一瞬でブリターニャ軍は魔術師を失った。
続いて始まった激しい魔法攻撃は十万のブリターニャ軍をあっという間に半壊、そこからすぐに全壊へと導く。
そして、総崩れになって敗走を始めたブリターニャ軍の前に立ち塞がったのは転移して背後に現れた五万のフランベーニュ軍。
エンズバーグが手に入れた情報とは、かろうじて戦線から脱出できた兵がドシーズを経由して届けたもの。
だが、混乱の中で見聞きしたものが時間の経過とともに膨らんだそれは、多くの間違いが含まれていた。
それからここで重要なことをひとつ挙げておこう。
フランベーニュ軍各隊は転移による連絡手段を確保していたこと。
当然それは転移避けの網から外れた場所を選んでいたわけなのだが、そこは地元の利というところであろう。
フランベーニュ軍はさらに短距離の通信手段として海軍が使用する信号旗を用意していた。
それによってフランベーニュ軍の各部隊は自分たちと対峙している以外のブリターニャ軍の動きを把握していたのである。
それがエンズバーグが派遣した掃討部隊十二万との戦いに重要な意味を持つことになる。
エンズバーグはダルカションから上陸した海軍部隊が中央街道に入ってきていると想定し、クレイグ・ホーガンを指揮官に十二万人の討伐軍を派遣した。
だが、それだけの大軍である。
移動が夜間におこなわれたとしても、それだけの数が抜ければその変化はすぐに気づく。
しかも、ブリターニャ軍はそれを昼間におこなうという決定的は失策を犯したのだ。
ほぼ正確な数までフランベーニュ軍の知るところになり、グミエールはブリターニャの南街道の敵を掃討し終わったロバウたち、それから実際に対峙することになる中央街道を進む軍の指揮官クリストフ・アミエノワに情報を伝える。
そして、各上陸地点でのブリターニャ軍排除に続いて、ローラン峠でブリターニャ軍を殲滅してきたエゲヴィーブが弟子たちとともにアミエノワのもとに到着したところで動き出し、オリヨン渓谷で待ち受ける。
客人が到着するのを。
ここで今回も含めてフランベーニュ軍の反撃が始まってから常にフランベーニュ軍が優位な場所を確保していることについて語っておこう。
もちろんこれには理由がある。
グワラニーの指示書には「戦場の選定」の重要さが記されていた。
大軍同士の戦いについてはその重要さはさらに増すと。
そして、それを決定した場合、必ずその場所に先に到着し、陣を敷くようにと指示されていたのだが、 ここまでであれば誰にでもできる。
グワラニーの指示書の凄さは具体的にその方法まで書かれていたことで、しかも、その方法は夢物語的なものではなく、現在のフランベーニュ軍であるなら可能なものであった。
最高位の魔術師の先頭集団を置き、リスクを伴うあるが確実に相手を仕留められるある方法で敵の守備隊を完全排除後、転移魔法を使い移動する。
それがその方法となる。
そう。
この方法によって大軍での行軍で起こる進撃速度の遅さをフランベーニュ軍は完全に克服していたのである。
一方、ブリターニャ軍は通常おこなわれる長い縦列行軍。
その違いを聞けば、常にフランベーニュ軍が待ち伏せしていたのも納得できることだろう
さて、フランベーニュ軍が待つオリヨン渓谷であるが、そこで待ち伏せをするからには攻撃側が圧倒的優位な場所である間違いないないのだが、さらに、そこはまさに大軍による大軍の狩場としては最高の場所であった。
ふたつの丘の間を縫うように走る長い街道。
ありがたいことに深い森が狩人の姿を隠す。
そこに会敵はかなり先となる予定であるため、ブリターニャ軍は先を急ぐことに気を取られ、周囲への注意は散漫だった。
全軍が渓谷に入り、先頭がもう少しで抜けるというところでそれは起こる。
行軍の先頭、中心、それから後方に分かれて移動していたブリターニャ軍の魔術師団が次々に攻撃を受け全滅したのに続き、隊列に氷槍の雨が降り注ぐ。
逃げ場が限られ大混乱状態のブリターニャ軍。
そこに丘を駆け下りてきた狩人たちが現われ、その仕事を始める。
最後方の一隊だけは運よく戦場からの脱出に成功したものの、フランベーニュ軍の追撃は厳しく、完全に逃げ切ったのはほんの僅かだった。
指揮官クレイグ・ホーガンを始め、ブリターニャ軍がほぼ全滅。
対するフランベーニュ軍の戦死者が千人にも満たないという、「ローラン峠の戦い」とともにフランベーニュ軍史に残る完勝となる「オリヨン渓谷の戦い」の概要はこのようなものである。
「……なるほど。さすが魔族。我々人間の想像の外側にあるものを策にしたのか」
「つまり、私はフランベーニュではなく魔族の将アルディーシャ・グワラニーに敗れたわけか」
すべてを理解したうえでのエンズバーグの言葉はほぼ事実ではあるものの、極上の強がりにも聞こえた。
だが、エンズバーグはこれから死にゆく者。
その程度のことは大目に見るべき。
グミエールは心の中でそう呟く。
「……ところで、そのアルディーシャ・グワラニーは我が軍がニオールから後退する。何を根拠にそう読んでいたのか?」
エンズバーグからやってきたあらたな問いはこの地でおこなわれた戦いに直接関係するものだった。
「たとえば、我が軍にはニオールに留まったままという選択肢もあった。その場合、ここで待ち伏せしていた軍は游兵になる」
「つまり、我が軍は後退するという確信していなければ待ち伏せはできなかったということだ。奴が我々がここに来ると断言できるその根拠は何だ?」
もちろんエンズバーグにとってそれは大いなる疑問でしかない。
だが、尋ねた相手グミエールにはわかる。
ポワトリヌウの戦い。
あの戦いでその答えとなるものが披露されたのだから。
難攻不落の砦を抜かねばならない者が最後に辿り着く共通の思考。
その有効性と防ぐ方法。
そして、今回はさらに相手が仕掛けた罠を利用した反撃方法のひとつまで示されたのだから。
それでも、こうして面と向かって尋ねられると自信を持ってそれを答えられない。
エンズバーグの言葉どおり、そこに留まるという選択もできる相手が確実に動くとは限らないのだから。
「エンズバーグ将軍の言うとおり、後退は多くの選択肢のひとつでしかない。だが、グワラニーはそう動くと読んだ。そして、実際にブリターニャ軍はそう動いたわけだ」
「一見すると偶然に頼った戦法に思えるが、これだけ大掛かりの仕掛けを用意したあの男がそんなものに頼るはずがない」
「指示書に記されたことをそのまま語れば、敵が構築した固い陣地を突破できず、さらに敵の増援部隊が迫ってきている情報が入れば、ブリターニャ軍の指揮官は早期の局面打開策を講じなければならない。そして、それをおこなうには敵が陣地を出る状況をつくらねばならないことに気づく」
「それをおこなうにはどうしたらよいのか?」
「いうまでもない」
「敵に背を晒す」
エンズバーグは呻く。
なにしろ、自分はその言葉どおりに思考し決定を下したのだから。
「そ、それでも肝心のフランベーニュ軍がその策に気づき動かない可能性もあるだろう」
何かに縋るようにエンズバーグが紡いだ言葉にグミエールは頷く。
「そのとおり」
「だが、そうなった場合、背後からやってきている敵を迎撃したうえで、改めて睨み合いをすればいい。ブリターニャ軍の将ならそう考える」
「そして、遭遇戦に備えて陣形の変更をおこなう」
「だが、いくら待っても肝心の敵が見つからない。そうこうしているうちにニオールの敵軍が陣を出たという情報がやってくる」
「探していた敵が見つからず、本来戦うと決めていた相手が動きだす。そうなれば反転して迎撃すると考える。どこかで再度陣形の変更をおこなう。だが、何十万の軍を動かすのだ。混沌の時が生じる。そこを叩く」
「もちろん混乱しているとはいえ、相手の方が圧倒的な大軍。叩くのは魔術師。敵の大部分を粉砕したところで、初めて掃討戦に入る。グワラニーの指示書にはそう記され、実際にそうなった」
「……なるほど」
相手が多くの選択肢の中でそれを選び出すのは偶然性が高いように思える。
だが、そうではない。
エンズバーグは知っている。
なぜならそれが最良の選択肢なのだから。
最良の選択肢。
それは、最小の損害で最高の結果を得るもの。
なによりも目的を達成できる可能性が最も高いもの。
では、罠の可能性を疑い、その最良の選択肢を捨て、その対極にある最悪の選択肢を選ぶことが正しいのか?
ありえない。
なぜならそれは結果も最悪なものなのだから。
だが、そうなると自分が持っていたすべての選択肢がハズレということになる。
大規模な上陸作戦。
海軍との協力。
たしかに驚くべき発想だといえる。
そして、敵を深く呼び込んだところから、背後に軍を送り込む挟撃策も見事としか言いようがない。
だが、アルディーシャ・グワラニーの真の恐ろしさはそこではない。
未来を見てきたかのような読み。
「……たしかに将軍の言葉どおり、これから他人がどのような行動に出るかを知っていたかのような読みだ」
グワラニーの想定通りに動いた口惜しさも含んだ感情を込めてそう言ったエンズバーグは薄い笑みを浮かべる。
そう言って、エンズバーグは大きく息を吐きだす。
「心に引っ掛かっていた棘が取れたようですっきりした。では、そろそろ戦いに臨ませてもらおうか」
まだまだ尋ねたいことはある。
だが、背中の痛みが限界に達していたエンズバーグの身体がそれを許さなかったのだ。
だが、エンズバーグの表情は悲壮感など皆無。
それどころか、敵に背を向け歩き出したエンズバーグの表情はこちらが勝者と言わんばかりのものであった。
だが、その表情はすぐに変わる。
「……それにしても、驚くべきはアルディーシャ・グワラニーだな」
「その場にはおらず、しかも、差配するのは敵。それにもかかわらずここまで完璧にことを進めるとは」
「ですが……」
隣を歩くオルビストンはエンズバーグの言葉に頷きながら、ある疑問を呈する。
「これだけ自身の手の内を晒しては今後の戦いに影響する。グワラニーはそう考えなかったのでしょうか?」
そのとおり。
誰もがそう思う。
だが……。
「アルディーシャ・グワラニーくらいの男がそれに気づかぬはずがない。そうであっても問題ないと考えているのであろう。それとも……」
「今回の策をフランベーニュ軍が再利用する。それを前提に罠を仕込んでいる可能性だってある」
「まあ、それはフランベーニュで起こることで我々が気にすることではあるまい。そもそも我々はこれから死にゆく身。たとえそれがブリターニャに関わることであっても関係ないことだ」
それから、二セパ後。
すべてが終わる。
むろんブリターニャ指揮官とブリターニャ軍の名誉のためにおこなわれる戦いで自軍兵士が失われるなど馬鹿々々しいかぎり。
グミエールは旗下の全魔術師の一斉攻撃を命じ、徹底的な遠距離攻撃をおこなう。
それによって一方的な結果、日頃グワラニーに対しての批判の言葉となる「戦いではなく虐殺」行為をフランベーニュ軍がこの戦いで実践したことになった。
そして、その数はこの時点では魔族とアストラハーニェだけがその事実を知っていた「火門の試練」を除けば一日の戦いのものとしては最高のものとなる。
もちろん魔族軍を含めたこの世界において。
それが人間同士の戦いで記録されるというのはなんとも皮肉なものである。
敵軍将兵の埋葬という高揚感のない仕事がすべてが終わったところでグミエールは集まった幹部たちを見回す。
「諸君。これから仕上げとなる戦いをおこなうわけなのだが……」
「南街道、中央街道の敵は排除したが、我が国に侵攻してきたブリターニャ軍はそれだけはない」
「北方街道を進む軍が残っている」
「グワラニーの推測では、そのブリターニャ軍はニオールまで来たところで退却を始めるということだったのだが、実をいえば、私はこの推測を非常に疑っている」
「ブリターニャ軍には三つの選択肢がある。ひとつはむろん退却だが、残りふたつはニオールを抜き、アヴィニアに向かうもの。もうひとつは我が軍の背後を襲おうとこちらに向けて進軍するものだ」
「ブリターニャ軍の司令官セドリック・エンズバーグが長々と話していたのも、自身の疑問を解くという意味よりも、友軍が進撃する時間稼ぎという意味の方が大きいだろう」
「エンズバーグの性格ならまだ無傷の軍が残っているので負けたわけでないなどと口にするはず。それをまったく触れないということは、それを隠したかったということだろう。つまり、それはブリターニャ軍が意図しているのは撤退ではなく他のふたつのどちらかということであろう」
「今、転移魔法を使って確認をさせているので答えはすぐにわかるが、一応敵がこちらに向かって来ている前提で迎撃の用意をしようか」
「不要だ」
グミエールは自身の言葉をあっさりと否定した海軍の魔術師に視線を動かす。
「つまり、ブリターニャ軍はこちらではなく王都に向かうと?」
「そうなるな。もっとも、その王都はアヴィニアではなくブリターニャの王都サイレンセストだろうが」
北街道に進んでいたブリターニャ軍は最低でも十五万。
しかも、大きな傷は負っていない。
それにもかかわらず、撤退するとはどういうことか?
もちろんその可能性は考えられなくもない。
だが、司令官を小ばかにしたようなその言い方が気に入らない。
その場にいる者の多くを占めるグミエール旗下の将軍たちは一斉に不快感を示す。
「尋ねる」
「総司令官は状況を鑑み撤退はないと示した。それにもかかわらず、撤退すると主張するのなら、相応の理由を示さなければならない。その理由とは何だ?」
グミエール軍の中で猛将として知られているオーギュスト・ティムレは厳しい表情でそう問うものの、その魔術師オートリーブ・エゲヴィーブはその視線を撥ね退ける。
そして、猛将を嘲りに満ちた目で睨み返すと、こう答えた。
「グワラニー氏がそう言っているのならそうなるだろう」
「そういうことだ」
「貴様」
「この戦いの第一功であることは認める。だが、さすがに今のは我々を馬鹿にするにも程がある」
ティムレに続き、クリストフ・アミエノワも肩書上上位者に対するものとは思えぬ罵声を浴びせる。
だが、再び、ふたり分の怒号など聞こえなかったように平然としているエゲヴィーブはニヤリと笑う。
「まず訂正しておこう」
「第一功は私ではなくアルディーシャ・グワラニー氏だ。その程度もわからぬか。陸軍の将は」
「もう我慢がならない」
「やめておけ」
アミエノワが剣に手をかけた瞬間、エゲヴィーブは冷気を帯びた声を上げる。
「おまえらごときでは私を斬れぬ」
「それに陸海軍の違いがあるとはいえ、上官に剣を向ければ理由を如何に関わらず即処刑だ」
「違うかな?グミエール殿」
そう言ってエゲヴィーブが見たのはアミエノワの直接の上官である。
そして、その相手からはすぐに言葉がやってくる。
「その通りです。恥ずかしいところをお見せいたしました。後ほどふたりには相応の処分をおこないますので何卒……」
「承知した」
そして、相手からこの場を収める言質を取ったところで、再び口を開く。
「では、私からもう一度お伺いいたします。ブリターニャ軍が撤退する理由を我々武辺の者でもわかるように教えていただきたいのですが」
「いいだろう」
「では、グミエール殿に問う」
グミエールに対するエゲヴィーブの言葉はそこから始まった。
「三方向からやってきたブリターニャ軍。そのふたつにはついては徹底的に叩くように指示しながらグワラニーが北街道の敵軍は野放しにしている理由をグミエール殿はどう考えるかな?」
「それは……」
グミエールは言葉に詰まる。
実をいえば、最終決着までが記されていたグワラニーの指示書は現状になるまでの北街道のブリターニャ軍に対する攻撃方法が触れていなかっただけではなく、攻撃をおこなわないように明記されていた。
ただし、そうすれば本国に帰っていくとだけ記されていただけで、その理由については何も書かれてはいなかった。
エゲヴィーブは返答がないことを確認すると再び口を開く。
「……南街道の敵は反撃をおこなうためにどうしても確保しなければならず、中央街道の敵は主力。ここを叩かないかぎりフランベーニュ軍の勝利はない。だが、北街道の敵はどうか?特別な意味を持たない。それこそ、黙ってお帰り頂けるのならそれが一番というところだ」
「エ、エゲヴィーブ殿。それはさすがに違うだろう」
「北街道の敵も我が国を侵略した部隊。徹底的に叩くべきだろう。そして、我々にはその力がある」
自問自答のような自身の言葉に対するグミエールの反論に将軍たちは大きく頷くものの、その言葉がやってくるのはエゲヴィーブも想定済み。
「陸軍の方々が私の力を評価してもらえるのはありがたい。そして、実際のところ、私もできると思っている」
「それはグワラニー氏もわかっている。だが、わかっていながら攻撃禁止令を出したのはなぜか?」
「答えは、フランベーニュに侵攻してきたブリターニャ軍が全滅してしまってはまずいことが起きると考えたからだ。もちろんフランベーニュにとって」
「さて、グワラニー氏が考えるブリターニャ軍を全滅させたフランベーニュにやってくる不都合なこと。それは何か?」
エゲヴィーブはその場にいる者たちを見回す。
「……どうやらわからないようだな」
「では、言おう」
「もちろんそれはブリターニャの勝手な言い分ではあるのだが、フランベーニュ軍に侵攻した将兵が全滅してしまっては、ブリターニャ軍の名誉が傷つけられる」
「そうなってはブリターニャもこのままでは終われなくなる」
「当然そうなれば新たな軍を編成してくるだろう……」
「そして、その指揮官はほぼ間違いなく王太子アリスト・ブリターニャとなるわけなのだが、どうやらグワラニー氏はブリターニャの王太子を勇者のひとりと思っている」
「そして、この予測が正しかった場合、我らに勝ち目はない」
「その点、撤退する敵の尻を叩きながら進み、国境で止まり、停戦交渉を呼びかければ、とりあえずその心配はなくなるだろう」
「それがグワラニー氏の読みだろう」
「エゲヴィーブ殿。だが、それは少しおかしくないか?」
「停戦すれば、我が国はもちろんブリターニャもとりあえず魔族との戦いに専念できる。つまり、利がある。だが、魔族にとってそうなることにどのような利があるのだ?」
「というより、両国が戦っているほうが魔族にとって都合がいいのではないか?」
「まあ、両国が対等の力関係ならそうだろう。だが、先ほども言ったとおり、相手が勇者となればフランベーニュは終わる。つまり、フランベーニュはブリターニャの属国になる。すなわち、現在のフランベーニュと魔族の国境はすべて勇者が利用できることになり、魔族は勇者の足取りが追いにくくなる」
「そういう点から考えて自国とブリターニャの間にフランベーニュが存在することは魔族にとっても都合がよい」
「つまり、彼らにとってもフランベーニュが存続することは利。だから、グワラニー氏の策には罠の類は存在しない」
そこでエゲヴィーブの話が終わる。
その数瞬後、口を開いたのはブリターニャ嫌いで有名なアロイス・ナビエだった。
「エゲヴィーブ殿の主張は理解した。だが、それはこちらの都合であって、ブリターニャの将が撤退するかどうかとは関係ない話だ」
「たとえば、私がブリターニャの将であれば、撤退などしない。友軍の援護をするためニオールから中央街道に入る。おまえならどうだ?ワロキエ」
ナビエは物凄い勢いで言葉を並べたてると、隣にいる同類の男に言葉をかける。
もちろんその男アラン・ワロキエは同調する。
そして、ブリターニャの次の次に嫌いな海軍所属の魔術師に目を動かす。
「その点はどうなのだ?」
全員の視線を集める中、海軍の魔術師が全員を見る。
そして、ため息をつく。
「たしかに何もない状況であればそうなるだろう。だが……」
「今回の件をおこなっているのはあのグワラニー氏」
「将軍が口にしていることくらいは頭に入っている。そのうえで撤退すると言っているのだ。当然それなりの策を講じているのだろう」
「だから、その策は何かと聞いているのだ。私は」
「それがわかれば、私はグワラニー氏の上に行くことができる」
冗談とも本気とも取れそうなその言葉でその場を煙に巻いたエゲヴィーブはグミエールを見やる。
「まあ、警戒をしておけば心配がないわけだからグミエール殿の指示に従うべきだろうな」
だが、それからまもなく報告が届く。
ニオール手前で停止したブリターニャがなぜか撤退を開始した。
その瞬間、エゲヴィーブを含む全員がどよめく。
「なぜだ?」
そして、天を仰いで叫ぶナビエの雄叫びのような言葉が多くの者の心の声を代弁していた。
むろん、グワラニーがどのような奇術を使ってあり得ないと思われたブリターニャ軍の撤退を誘引したのかは気にはなる。
だが、彼らにとってより重要なのはブリターニャ軍が本当に撤退を開始したことである。
なにしろ、侵略者の一員である彼らをこのまま無傷でブリターニャに帰すわけにはいかない以上、すぐさま追撃戦に移行しなければならないのだから。
「迎撃準備は中止。これより退却を始めたブリターニャ軍を追撃する。まずは……」
「各隊、ニオールへ移動せよ」
「急げ」




