現実は英雄譚のようには進まない
アリストとグワラニーの密談がおこなわれてまもなく、「アグリニオンの女傑」ことアドニア・カラブリタがフランベーニュの王都アヴィニアに姿を現す。
目的は手に入れたばかりの大量の小麦の売り込み。
むろん、アドニアの言葉を聞いたダニエルは正負両方を表情を示す。
正とは、小麦が手に入る喜び。
そして、負とは、むろんその代金の高さ。
そう。
示されたその額は今のフランベーニュでは簡単に支払えるものではなかったのだ。
右往左往するダニエルの表情を眺め終わったアドニアはこのような条件を示す。
即金でなくても構わない。
その代わりに、小麦の代金の支払いが完了するまでという期間、港の一部を無料で借り受け、カラブリタ商会が自由に使用できる権利が欲しい。
つまり、フランベーニュの領土の一部を借金のカタにカラブリタ商会が奪うということ。
むろんフランベーニュにとってこれは屈辱的なこと以外の何ものでもない。
だが、背に腹は代えられない。
承知する。
こうして、フランベーニュは出どころ不明の小麦を手に入れ一応の平静を取り戻す。
これはアリストとの約束を果たすために動いたグワラニーの差し金。
そして、グワラニー、アリスト、ともにいよいよ雌雄を決する本当の戦いが始まると確信する。
だが、主人公の想定通りに世界のすべてが進むのは英雄譚の中だけの話であって、現実はそうはならない。
現実世界には第三者、いや、第三者的人物が多数存在し、それぞれがそれぞれの思惑に従ってことを起こす。
それがアリストやグワラニーから見ればどれだけ愚かであったり理不尽であったとしても。
しかも、その者たちの何人かはふたりの上位者。
そうなれば、ふたりにそれを止める術はなく、想定外の流れに抗いながら身を委ねしかない。
これから起こることを例えるにはそういうことになるのだろう。
そして、この世界を牛耳るふたりの悪党にとっての予想外の出来事、その開幕となる場面に出くわしたのはアリストだった。
父王へのご機嫌伺いのためカムデンヒルに赴いたアリストは父王の執務室が退出する先客を見て顔を顰める。
セドリック・エンズバーグ。
ブリターニャの伯爵家の若き当主で将軍の肩書と、最終決戦のために温存されているブリターニャ後方部隊最高司令官の地位にある男である。
そして、そのエンズバーグの背後に続くのはアラン・フィンドレイ、アーサー・オルビストン、ボブ・ヘンドリー、クレイグ・ホーガン、アービー・ラドフォード。
全員が将軍の肩書を持つエンズバーグの部下である。
もちろん伯爵の肩書と方面軍司令官の地位にあるエンズバーグが王城に参上して軍務報告をするのはそうおかしなことではない。
だが、そこに配下の将軍たちを同行させるのも同じとはいえない。
フィンドレイたち一般の将軍が王の前にやってくるのは賞罰があったときくらいで、そうでないにもかかわらずこうやってやってきたのは余程の事態ということになる。
アリストの警戒心が高まったのは当然のことであろう。
もちろん、彼らがどのような目的でここにやってきたのかは数多くの前例から想像できる。
そして、相手が平均的な者であれば、父王は話を真剣に聞くものの深入りすることはないのでアリストも特別心配はしない。
だが、父王に立つ者がセドリック・エンズバーグとなれば話は変わる。
なにしろこのエンズバーグは「ブリターニャのアポロン・ボナール」と呼ばれる才の持ち主。
実際に当時ノルディア領だった肥沃な土地をわずか三日で完全占領する実績はその名に恥じぬ武功といえるだろう。
もっとも、エンズバーグ自身は「ブリターニャのアポロン・ボナール」という名誉あるふたつ名を気に入っておらず、「ボナールが年長者であるためにそう呼ばれているだけであり、才だけで言えば、ボナールこそ『フランベーニュのセドリック・エンズバーグ』と呼ばれるべき」というのがエンズバーグの主張となる。
そのエンズバーグが王のもとを訪れた。
当然相応の理由とそれに対する策を懐にしまっていることだろう。
そうなれば父王も提案を簡単に断れまい。
これがアリストの読みであった。
そして、アリストの予想どおり、それはやってくる。
「……セドリック・エンズバーグには会ったか?」
それが父王カーセルの最初の言葉となる。
「ちょうど退室する際に顔を合わせ、慇懃な挨拶を頂きました」
「まあ、あの者は若いが伯爵家の当主。礼儀はわきまえている。当然だな」
アリストの言葉に冷たい笑いとともにそう応じた父王はアリストを眺める。
「あの者がどのようなことを言ったかがわかるか?アリスト」
「前線への転属願いではないようですね。あのお付きの数を考えますと」
「さすがだな」
自らの問いに即答するアリストの言葉に苦笑いに近い笑みを浮かべ直した父王はそう言うと、数瞬の沈黙をつくる。
そして、口を開く。
一ドゥア後。
「……フランベーニュ侵攻?」
父王の言葉の直後、アリストの苦みを帯びた言葉が漏れ出す。
「フランベーニュは『対魔族協定』の締結国。それを攻めるというのはどういうことでしょうか?」
「たしかにその通りだが、その『対魔族協定』そのものがすでに形骸化している。なにしろ、実際に魔族と戦っているのは我々を除けばフランベーニュのみ。さらに、ノルディアは事実上魔族の属国であり、アストラハーニェとアリターナも同じようなものだ。そして、あの山賊国家も魔族には剣を向けていない。そこにフランベーニュの没落。ここでフランベーニュが魔族の軍門に下ることになれば、我々と魔族の一騎打ち。さらに、フランベーニュが魔族の配下となれば、フランベーニュと国境を接する我が国の南部に新たな戦線が開かれるかもしれない」
「そうであれば、こちらから積極的にフランベーニュに侵攻し、まずフランベーニュに奪われたままになっている旧領を回復し、さらに、進み、戦いをフランベーニュ国内でおこなえば、少なくても我が国の領内に被害は出ない」
「それがフランベーニュ侵攻の根拠だ」
厳しい表情を崩さぬままアリストは心の中で呟く。
……耳心地がよく、聞き流してしまえば確かにもっともらしい話に聞こえるが、これは使えない。
「エンズバーグはフランベーニュ侵攻を自身の配下でおこなおうということでしょうが、そうなると予備部隊が肝心のときに使用できなくなるのではないでしょうか?」
アリストはそこで言葉を止め、父王に表情を窺い、それから再び言葉を続ける。
「さらに、侵攻の口実がありません。もちろん宣戦布告をすればとりあえずその正当性は生まれますが、奇襲の効果が大きく失われます」
「さらに、侵攻されたフランベーニュにグワラニーが救いの手を伸ばし、魔族とフランベーニュとの連合軍が出来上がってしまうかもしれません」
「……アリスト」
アリストの反論をすべて聞き終えたところで、父王が再び口を開く。
「フランベーニュの小麦騒動が最終的に収まった理由は知っているな」
「ダニエル・フランベーニュが港の権利を譲り大量の小麦を手に入れたからです」
「そのとおり。では、その相手であるアグリニオンの商人はその小麦をどこで仕入れてきたと思う?」
「この小麦不足が全世界的な状況で」
むろんアリストは知っている。
なにしろ、事実上それを強要したのだから。
だが、ここでそれを言うわけにはいかない。
少なくても、自ら進んでは。
無言のアリストを父王は冷ややかに眺める。
「アリストもわかっているのだろうが……」
「あれは魔族の国の小麦と思って間違いないだろう。この世界で余るほど抱えているのは魔族だけなのだから。問題は……」
「フランベーニュが魔族の国の小麦を受け入れたことだ」
「そして、おそらく今後もそれが続く。一見すると魔族が小麦畑を焼いた意味がなくなるのだが、実際はその逆だ」
「つまり、小麦不足のフランベーニュは魔族に依存する体制に組み込まれるということだ。もちろん今は組み込まれつつあるところだが、いずれそうなる。そして、魔族はブリターニャ攻めを小麦引き渡し条件にした場合、ダニエル・フランベーニュは拒むことはないだろう。むろんベルナードは納得しないだろうが、命令は命令。魔族と講和し、その兵を率いてブリターニャを攻め始めたら、目もあてられない」
「どうせそうなるのなら、こっちから積極的に動くべき。魔族に国を売った人間社会の裏切り者ダニエル・フランベーニュ打倒のために」
「それがエンズバーグの筋書きというわけですか?」
「そういうことだ」
アリストの確認に父王は短い言葉で答える。
「よく出来ているだろう。そして、あり得る話でもある」
「ええ」
そう答えたアリストは理解した。
自分はグワラニーと交渉しているからグワラニーがフランベーニュ侵攻をおこなわないことを知っている。
だが、その前提条件を持たない者が現状を見れば、そう思うのだと。
……それもこれも奴がこれまで悪行を重ねたからだ。
自身の見込み違いの全責任をグワラニーにすべて押し付けたアリストだが、このまま手をこまねいていては最悪の事態になりかねない。
「ですが、こちらがフランベーニュに侵攻した場合、グワラニーが堂々とダニエル・フランベーニュに手を差し伸べる可能性があります。その場合の対処をエンズバーグはどのように考えているのですか?」
「もしかしてエンズバーグにはグワラニーの軍を打ち破る秘策があるとでも?」
「まさか」
アリストの疑わしそうな言葉を即座に否定した父王は言葉を続ける。
「おまえも知ってのとおり、エンズバーグは現実と妄想をはき違えたりはしない。ただし、そうなった場合にはグワラニーに戦って勝つ以外の策を用意していた」
「エンズバーグはグワラニー本隊との戦闘を徹底的に避けることによって、兵力の消耗を極力抑えながら前進と後退を繰り返し、グワラニー軍を南方の戦場に釘付けにする。その間に残った兵力をすべて投入して東方の戦線で大攻勢をかけるというものだ。もちろん最強戦力のグワラニーが自身の部隊を主戦場に転進すれば攻勢に出て南部戦線で一気にケリをつける」
「そして、そのままフランベーニュを抜け、一気に魔族の国の南部に侵入する」
「よく考えられたものだろう」
……噂には聞いていたが、噂以上に有能だ。セドリック・エンズバーグという男は。「ブリターニャのアポロン・ボナール」という看板も偽りなしというところだろうか。
……しかも、南部の、いわば囮役をエンズバーグ自身が指揮を執る配下がおこなうのであれば、統率が取れた戦いができるだろう。
……そして、これに対処するのはさすがのグワラニーでも容易ではない。
……例の枷がある状態では。
……そうなればフランベーニュの地に踏み込んだ瞬間に罠にかかったようなものといえる。
……これは見ものだな。
本来止める立場であるアリストであったのだが、興味がそれを上回る。
「悪くないです」
アリストの言葉に父王は頷く。
「……それで、おまえはどうする?」
「もちろん戦いの主体は献策してきたエンズバーグの軍がおこなうが、軍監として参加しても構わないぞ。そうなれば、実戦中でも策に口挟むことができる」
「いいえ。すべてをエンズバーグに任せるべきでしょう。たとえ後方であっても、爵位持ちの貴族にとって王族が近くにいては気遣うことが多いです。まして、策について口を挟んだから、心の中でどう思っていても是と言わざるを得ない。それで失敗するようであれば、エンズバーグに申しわけないですから」
翌日、ブリターニャ王国の王カーセル・ブリターニャはセドリック・エンズバーグを再び王城へ呼び出す。
そして、アリスト、それから陸軍の最高司令官バーナード・シャンクリーの前でフランベーニュ侵攻作戦の説明をおこなわせる。
むろんエンズバーグは上官であるシャンクリーには王に上程する前に説明をおこない許可を得ていたから、これは事実上アリストへの説明ということになる。
「では、説明をさせていただきます」
別の世界での五分にあたる六ドゥア後。
エンズバーグの説明が終わったところで王は視線を隣に座る息子へと動かすと、息子であるアリストは王への一礼後、口を開いた。
「フランベーニュ侵攻。それは魔族滅亡後、確実にやって来る事態であり、フランベーニュも同様のことを考えてるだろうから、否定するつもりはない。だが。それはあくまで魔族との決着をつけてから。それを今やる理由についてもう一度聞かせてもらおうか」
それはすでに父王から聞かせられているもの。
当然エンズバーグからは同様の言葉が返ってくる。
そこで、もう一度アリストが問う。
「進攻する理由は理解した。だが、それは協定違反でもある」
「この協定の提唱者であるブリターニャがそれをおこなうわけにはいかないと将来国を統べる者としては考えるのだが、それについてどう答えるかな。将軍」
もちろん王太子の言葉は正論。
だが、正しさだけ生き残れるほどこの世界は甘くない。
それどころか、戦いに勝ち、生き残りさえすれば、正しさなどどうにでもなる。
エンズバーグの顔にはそう書いてあった。
当然その表情のままの言葉がやってくる。
「王太子殿下の言葉のとおりです。ですが、そうなると我々が動けるのは魔族に唆されたフランベーニュ軍が我が国を攻め入ってからとなります。戦いは先に動いた方が主導権を握ることができます。そして、主導権を握った方が圧倒的有利というのは戦いの常識。相手が動くのをわかっていながら敵が攻めてくるのも手をこまねいているのは上策とは思えません」
「そうであれば、批判があることは承知のうえで、先手を打つべき。どれだけの批判も、敗北、それに続く滅びに比べれば何倍もよいと考えます」
「……つまり、その策を採用すれば勝利できるということかな」
そう。
エンズバーグの主張は、別の世界に存在するある国の言葉を借りれば、「勝てば官軍負ければ賊軍」となるわけなのだが、これには前提条件がある。
絶対の勝利。
掟破りまでおこなったにもかかわらず敗北すれば、ブリターニャの名はこの世界の歴史に「世紀の悪行」として刻まれる。
確実に勝利するのでなければ、その策は採用できない。
アリストの短い言葉はそう言っていた。
「たとえば、南部国境を超えて魔族がやってくるというのであれば、それに対応するだけの兵を配置すれば済むこと」
「さらにいえば、魔族軍が我が国を侵攻するだけの余力があるのなら、とっくにフランベーニュに侵攻しているはず。それをおこなっていなかったということはそこまで戦力に余裕がないと考える。そうであれば、国境を突破してくる兵の大部分はフランベーニュ軍の兵士となると思われる。だが、第一級の将兵はほぼすべてベルナード将軍とともに戦っている。つまり、我が軍にやっているのはそれ相応の兵たち。それこそエンズバーグ将軍なら一瞬でケリをつけられるだろう。そうであれば、先手を譲ってやることは余りある効果があると思われる」
「さらに、魔族軍にとってフランベーニュを通って我が国南部に侵攻するのは大きな危険がある。補給の問題。さらにフランベーニュがブリターニャ領に入った瞬間に叛意を示せば、退路を断たれ貴重な戦力が包囲されるという危機に瀕しかねない」
「そうであれば、弱ったフランベーニュを緩衝地帯にして、正面のブリターニャ軍に対したほうが遥かによい。つまり、現状の戦い方の方を魔族が選ぶのではないか」
アリストはエンズバーグを見やる。
自信満々で上程した策をあっさりとひっくり返された屈辱とそれをおこなった者への負の感情。
顔中でその心の内を現わしたエンズバーグはそれでも自身の策に執着し考える。
アリストが示した問題に対する打開策を。
いや。
フランベーニュ侵攻のあらたな口実を。
そして、気づく。
アリストがそのヒントとなるものを口にしていたことを。
頭の中で素早くそれをまとめ上げたエンズバーグは薄く笑う。
「では、こういうのはどうでしょうか?」
「国境付近で挑発をおこなう。フランベーニュの国境付近の要衝プレゲール城の城主はアルバン・ベオル子爵。この男は吟遊詩人が語る冒険譚に登場する馬鹿貴族の見本のような男とのこと。簡単な挑発にもすぐに乗ってくることでしょう。ですから、協定を破る大役はフランベーニュに担っていただきます。こうであれば、我々は大手を振ってフランベーニュに侵攻できます」
「これでいかがでしょうか?陛下。それから王太子殿下」
エンズバーグが王、アリストの順に視線を動かす。
「どうだ?アリスト。私は悪くないと思うのだが、どこか穴はあるか?」
「いいえ」
「フランベーニュに無実の罪を着せるという罪悪感を除けば、問題はないかと」
隣に座る父王からの問いにそう答えたアリストはエンズバーグへと視線を動かす。
「ただし、魔族軍のアルディーシャ・グワラニーには十分注意することは必要でしょう。特に無用な小細工はおこなわないことが肝要。奴に気づかれれば、逆に利用され痛い目を見ることになりますから。ですから……」
「アリスト」
さらに畳みかけようとしたアリストを王は制す。
そして、アリストに黙らせられた形をエンズバーグに目を向ける。
「エンズバーグ。私はおまえの才は評価している。そして、フランベーニュ侵攻計画についてはブリターニャの利が十分にあることを理解した。細部を検討したうえ速やかに実行できるよう再度策を上程せよ」
王のこのひとことによってブリターニャによるフランベーニュ侵攻が決定された。
一方的にやられた形となったものの、最終的には自身の侵攻計画が承認されたエンズバーグは喜びを爆発させ、シャンクリーらとともにすぐさま計画の練り直しと準備にはいる。
一方、その前提なる父王との打ち合わせの際に不埒なことを考えたしっぺ返しのように計画が承認されてしまったアリストは大いに後悔する。
だが、後悔先に立たずという別の世界の格言どおり、公的な場での王の言葉はいかなる理由でも覆らない。
すでに侵攻計画が始まった後は関わらないと宣言していた以上、あとはグワラニーがエンズバーグの策を看破しないことを願うしかない。
その何とも言えない立場は、当然アリストの怪しげな独り言と酒の量の増加を促した。
ラフギールの酒場。
もちろん周囲に部外者がいないことを確認したうえで愚痴を漏らす相手は勇者一行の面々となる。
もっとも、このような話し相手にはファーブたちはまったく不向き。
必然的にフィーネひとりがその聞き役となる。
「……ふたつの戦線を同時に抱えたときにグワラニーはどのような対応をするのか。しかも、一撃で勝負を決められる少女の大魔法なしという条件で。それが見たいという願望を優先させた結果ではありますが、失敗しました」
アリストは自戒の念を込めて言葉を漏らすと、フィーネは薄く笑う。
「ですが、その条件なら私も見たいですね。特にお嬢の魔法を封印するのであれば」
「それで……」
「アリストがあの男ならどう戦いますか?」
「グワラニーは私と違い、老人と孫娘以外にも有能な魔術師を多数抱えています」
「そうなれば戦い方は簡単。少女の防御魔法で守られながら、老人の弟子たちが攻撃をおこなう。それで終わりです」
「ですから、虹色の軍旗を見た瞬間に負けが決まるエンズバーグとしては、グワラニーが戦場に来ない策を講じる必要があります」
「ですが、これだけで勝てるのかといえば、おそらく違うでしょう」
「エンズバーグがそれに気づけるかどうか。それが重要な要素となるでしょう」
「つまり、戦場に来なくてもグワラニーはフランベーニュ軍に勝利をもたらすことができるということですか?」
アリストの意味ありげな言葉にフィーネは釣られるように問う。
当然その言葉を待っていたアリストは薄い笑みを浮かべる。
「少なくても私なら勝てますね」
「どうやって?」
「まあ、勝つ方法などいくらでもあるわけですが……」
「最も簡単なのは相手より数を多く集めることです。指揮官の能力。これはエンズバーグが上としましょう。ですが、フランベーニュの指揮官が余程の無能でないかぎりそう差は出ない。そうなれば、残りは兵の質と数ということになります。特に数は重要です。多少の質の差なら量で埋めることができますから。そして……」
「エンズバーグはモレイアン川を挟んでミュランジ城と対峙する魔族軍の存在があるからフランベーニュ軍は兵を集めることができないと考えているようですが、逆に言えば、この条件が外れてしまえばフランベーニュ軍は兵を集めることができるわけです」
「グワラニーと陸軍幹部のロバウ将軍、海軍のロシュフォール提督、それからミュランジ城城主のリブルヌ将軍は敵同士とは思えぬほど良好な関係です。さらにいえば、フランベーニュ軍主力を率いるベルナード将軍もフィーネの話を聞くかぎりグワラニーを信頼しているようです。グワラニーが背後から侵攻しないと言えば、ベルナード将軍もリブルヌ軍も安心して兵を動かすことでしょう」
「そうなれば、王都アヴィニアまで落とす算段で侵攻してくるブリターニャ軍をフランベーニュ軍は優秀な指揮官と多数の兵が待ち構えることができます」
「それと同時に魔族軍がブリターニャ軍に圧力をかければ、何があっても南方への援軍は難しくなる。こうなったらブリターニャ軍は相当厳しい」
「それだけわかっているのなら、その自信過剰な将軍にアリストが教えてやればいいでしょう。そうすれば多くの者が救われます」
「たしかにそうすべきなのはわかります。ですが、物事はそう簡単なものではないのです」
フィーネの皮肉にそう返してからアリストはため息をつき、それから木製器に入った米からつくられた酒を飲む。
「すべての人間がフィーネのような、成功も失敗も自分のおこないの結果と考えられるわけではないのです」
「……成功はともかく、失敗したときに責任を自分以外の誰かに押しつける。これが大部分の人間の本質です。そして、ここで王太子の力を使って計画を中止させた場合、多くの兵は救われますが、エンズバーグは自身の成功を妬んだ者として私を恨む。もちろん恨まれるだけなら構いませんが、だいたいがそこから更なる面倒ごとが起こることになります。そして……」
「今日、話をしてわかりまし間違いなくなくエンズバーグは最高級の自信家。ですから、これ以上の忠告を自分の行動を掣肘するものでしかないと聞き入れることはないでしょう。それどころか、計画どおり戦いを始めればいいところに、私への当てつけのようにつまらぬ小細工を加え、それによってグワラニーに気づかれるなどという喜劇が起こることだってあり得ます」
そして、アリストのその懸念は現実のものとなる。
若干の修正を加えただけのエンズバーグの計画は四日後、カーセル・ブリターニャは正式承認されると、計画はすぐさま動き出す。
その一手目は……。
至急と名目でブリターニャの使者がアヴィニアを訪れる。
そして、ダニエルと対面すると使者の男は開口一番こう問う。
「王太子殿下は魔族と手を組み、我が国を攻める準備を進めているということだが、それは事実なのでしょうか?」
アヴィニアにはやってきたカーティス・ブラッドショーは口がよく動く者として王宮でも有名な外務部に属す文官。
相手を不快にさせるためにつくられたような金属的な声。
そして、それ以上に不快になるその内容。
顔全体で不快という感情を表現したダニエルがその相手となる男を睨みつける。
「断言する。どこからそのような戯言を手に入れたのかは知らないがそのような事実はない」
むろんこれは事実。
だが、実はでっち上げという真実を知らされていないうえに、ブラッドショーを直々に呼び出した王は、「あの裏切り者の怪しげな言質のひとつくらいは必ず取って来い」と命じ、さらに成功したら、男爵、万が一命を落とすようなことがあれは伯爵の爵位を家に与えるという言葉までもらっているブラッドショーはその程度の言葉では怯むことはない。
「では、お伺いする」
「最近手に入れた大量の小麦はどちらのものか?」
「アグリニオンの商人から正当な対価を支払って買ったものだ。それ以上のことは知らない。そもそも我が国が買い入れた小麦についてなぜブリターニャに説明をしなければならないのだ?これ以上、無礼な口を叩くと、追い出すぞ」
上気した顔のダニエルを見て、ブラッドショーは心の中で喜ぶ。
ダニエルの怒号をわざとらしく受け流すとすぐさま更なる煽りの言葉を送り出す。
「なるほど。では、なぜ私がその小麦について言及したかをお教えしましょう。あの小麦は魔族の国のもの」
「我が国でさえ知っている事実を当事者であるフランベーニュの最高権力者が知らないとは驚きの極み。と言いたいところですが、そうはいきません」
「そのような言葉で事実を隠蔽する。それこそが魔族とフランベーニュの密約が本当であることの証拠。すなわち、フランベーニュ王国王太子ダニエル・フランベーニュは、魔族に国を売り、同じ人間社会に弓引く裏切り者であることが証明された」
「そして、フランベーニュによるブリターニャ侵攻は確実であることも報告させていただきます」
「なお、ひとつ忠告しておけば、国同士の戦いには宣戦布告をおこなうのが礼儀。それをおこなわず突然攻め込むなど外道のやり口であります。人間に対する裏切り者だけではなく、常識も知らない愚かで恥ずかしい為政者として歴史に名を刻みたくなければその程度のことは守っていただきたいものです」
むろん、この直後、ブラッドショーは王城から叩き出される。
その場で斬り殺されても不思議ではないくらいの罵詈雑言であったにもかかわらず、ダニエルは怒り狂う部下たちに絶対に殺すなと命令を出したのには当然理由がある。
「あれはブリターニャの罠。あのゴミを斬り殺したこと自体を口実により攻め込むつもりという。こんな見え透いた手に乗るわけにはいかない。悔しいが耐えるしかない」
そう言ったダニエルは心の中である男の顔を思い浮かべ、盛大に罵っていた。
「アリスト・ブリターニャ」
「あのグワラニーより悪党がまさか人間界にいるとは思わなかった」
ブリターニャは難癖をつけて国境を突破してくるつもり。
ダニエルはすぐさま迎撃戦の準備に入る。
まず国境を守備するプレゲール城の城主アルバン・ベオル子爵に警戒態勢に入るように注意喚起する。
続いて、迎撃部隊編成のために徴兵を始めるわけなのだが、当然ここで各国にその動きが伝わる。
ブリターニャはこのフランベーニュの動きをブリターニャ領への侵攻準備として兵をフランベーニュとの国境周辺に兵を集結させる。
そして、両国の動きをグワラニーはすぐに掴む。
クアムート。
そこで手に入れた情報を反芻しながらグワラニーは苦虫を一万匹ほど口に入れたような表情をしていた。
「一応、言わせてもらえれば……」
苦り切ったグワラニーにそう声をかけたのは、同じ表情をしたバイアだった。
「これはあきらかにブリターニャの仕掛け。普通ならアリスト王子が指揮をしたということになりますが……」
「妙ですね」
「まったくだ」
「だが、相手はアリスト王子。悪事には縁のない我々ではとても考えられない悪逆非道な罠を思いついた可能性は十分にある」
ここぞとばかりに自身を盛大に美化し、アリストをそれと同じくらいにこき下ろしたグワラニーだったが、その余興が終わると表情を一気に変える。
「ブリターニャとフランベーニュ。お互いに相手が攻めてくると騒いで国境を固めているらしいが、少なくてもフランベーニュにはそんな余裕はない。となれば、攻める気満々なのはやはりブリターニャということになる」
そう言ったところでグワラニーは言葉を一度止める。
そして、含みのある笑みを浮かべる。
「いかにもアリスト王子が考えそうな策と言いたいところだが、これはアリスト王子の策ではないな」
「穴が多すぎるから?」
「さすがバイア。そのとおりだ」
「進攻の口実に最初の一撃を撃たせるのだろうが私がブリターニャの将ならつまらない小細工などせずにコッソリと兵を南部に移動させたうえでフランベーニュを挑発し手を出させる。そうすれば、我々がブリターニャの動きに気づくのはフランベーニュ侵攻が始まってから。そうなると、対策は後手後手に回る」
「私もそう考えました」
「おそらくアリスト王子もそうだろう」
「つまり、これはフランベーニュに魔族の小麦が流れ騒動が落ち着いたという情報を手に入れたブリターニャ軍上層部の案。そして、これだけ大掛かりに動いているということは国王の裁可が下りたもの」
「だからアリスト王子でも止められなかったということだ」
だが……。
ブリターニャとフランベーニュが噛み合う。
この機会にどちらかを潰すことはできないか。
その情報を手に入れたら、敵の数を減らすためにそう考えるのはごく自然とは言える。
そして、そうなった場合に狙うのはフランベーニュ一択。
つまり、ブリターニャと戦うフランベーニュの背中を撃つということ。
「……そう動きたくなるのは十分に理解できるが……」
王都への呼び出しの命令を受け取ったグワラニーは、その内容を想像しそう呟いた。
「アリスト王子が指揮をするのならともかく、そうではないのなら放置すべき。馬鹿どもの宴に参加し、馬鹿の仲間入りをするのは御免だ」
「ここは止めなければならない」
当然イペトスートにやってきたグワラニーは王やガスリンの前で熱弁を振るう。
「……複数の敵と戦う場合、数を減らすために弱い者から倒していくのは戦いの鉄則。それは理解しています。ですか、この場合、フランベーニュはブリターニャと戦うというのであれば、形式的にはフランベーニュは我が軍の代わりに戦っているようなもの。その背を撃つなどあり得ぬ話」
「ここはブリターニャの戦力を削るフランベーニュが背中を見せようが動かぬことが肝要。というより、こちらから積極的に背中を撃つような行為をしないことを約束し、より多くのフランベーニュ兵士が対ブリターニャ戦に向かえるようにすべき」
「そうすれば、対抗するためブリターニャも多くの兵を南部に送り、結果的に主戦線での予備兵力が削られますから」
「我々は一兵も失わず、フランベーニュとブリターニャが削り合いをする。このような喜劇を潰すことは愚かと言わざるを得ません」
「たしかに」
王の感想の言葉に続き、ガスリンとコンシリアも大きく頷く。
それはすべてグワラニーの希望どおり。
グワラニーは言葉を続ける。
「余程の事態にならぬ限り様子見。それが上策かと」
「……わかった。せっかく小麦を売ってやったのだ。フランベーニュにはせいぜい頑張ってブリターニャ兵をひとりでも多く葬ってもらおうではないか」
王の言葉で魔族の方は巻き添えを食わず済むことになったわけなのだが、もちろんここからグワラニーは動くことになる。
番外戦ともいえるこの余計な戦いからより多くの利を得るために。
翌日にはバイアに加えてアリシアも呼び会議を始める。
まず、これまでの概要を説明したグワラニーは視線をアリシアへと向ける。
「まず考えるべきは、フランベーニュに対してこちらから声をかけるべきか否かということなります。それについてアリシアさんはどう思いますか?」
「フランベーニュに対して大きな貸しをつくるという目的であれば、相手が泣きついてくるのを待つのが上策。ですが、すでに多くの貸しをつくっており、これ以上はいくら積み上げても期待するほどのものが得られないということであれば、こちらから誘いの言葉をかけてもよろしいと思います」
「ちなみにアリシアさんならどちらを選択しますか?」
「後者ですね」
「バイアは?」
「私もすぐに声をかけるべきと考えます」
「私もそうだ。では、決まりだな」
「では、具体的にはどのような提案をすべきなのか。ということですが……」
そこから丸一日話し合った結果は、その翌々日に具体的な形となって現れる。
「……なるほど」
グワラニーの要請に応じミュランジ城から対岸に渡った城主のクロヴィス・リブルヌと副官のエルヴェ・レスパールは、そこで示されたグワラニーの言葉に呻き、やや遅れてその言葉で応じた。
「たしかに現在我が国はブリターニャに言いがかりをつけられたうえに、盛大に喧嘩を売りつけられている。それは事実だ。だが、その際にミュランジ城の兵を前線に向かわせてはどうかという提案はいささか……」
「というより、それはフランベーニュ軍内部の話。グワラニー殿が口にすることではないでしょう」
リブルヌが言いかけ、最終的にはレスパールが口にしたその言葉は正しい。
フランベーニュ軍の移動について部外者が口に挟むという点においても、戦闘停止中とはいえ敵同士である間柄においても、それはグワラニーが口にすべきものではないのだから。
だが、グワラニーはふたりのささやかな自尊心などお構いなしに話を進める。
「そうは言いますが、実際に魔族軍と戦っているベルナード将軍ならいざ知らず、敵陣に幹部ふたりだけでやってくるぐらい平和な場所に多数の兵を置いていても何の役にも立たない」
「それなら城を空にしてブリターニャに礼儀を教えてやった方が百倍いいでしょうに」
「それに我々が本当にミュランジ城を取る気なら、そんな小細工などせず堂々と攻める。それはあなたがたが一番知っていることでしょう。ついでに言っておけば……」
「これはベルナード将軍にも言えること。前線の魔族軍はどうにもならないですが、我々については動かないと約束する。だから、前線を維持さえすればどれだけ兵を移動させても背後を襲うことはない。そう伝えてもらいましょうか」
「自分の持ち場が維持できれば、ブリターニャに王都を落とされても職務が完遂でき、自身の名誉が守られたと考えるのか。それとも、持ち場を捨ててでも国の未来に関わる大事な戦いに参加するのか。そのどちらを選択するのかはもちろん皆さんの判断ですが」
「それから、これは私からあなたへのささやかな餞別です」
そう言ってグワラニーは、多くの矢印が記されたある地域の地図が描かれた羊皮紙、さらにフランベーニュが長々と書き込まれた数十枚にも及ぶ羊皮紙を渡した。
グワラニーの提案はリブルヌより王都に届けられるわけなのだが、実をいえば、リブルヌはベルナードにもその提案を伝えていた。
グワラニーにそう要求されたから?
そもそもその要求自体が蹴り飛ばされて然るべきものであるのだから、そのようなものはその場に握り潰してしまえばいいもの。
つまり、それを何度も読み返しこの策は有効であるとリブルヌ自身が判断したものに他ならない。
そして、それを聞いたベルナードも同様の反応をする。
「小賢しい魔族の小僧が……」
ベルナードは苦笑いしてそう呟くが、それとともにこの申し出は価値あるものと判断する。
「当然目の前の魔族との戦闘は一ジェバとも緩めることはない。だが、後方の安全が確保されるのであれば、人間界の裏切り者であるブリターニャに正義とは何かを身体の隅々にまで教えて込んでやるために軍を派遣すべき」
「必ず勝利し、ブリターニャの蛮族を我が国の土地から追い出さなければならない」
「副司令官たるウジェーヌ・グミエールに命じる。これより旗下の部隊を率いて王都に向かい蛮族迎撃戦に参加せよ」
「なお、グミエールは途中ミュランジ城により、生意気な言葉を吐いた魔族に私の言葉を伝えよ」
翌日。
王都に向かった本隊と別れて少数の部下とともにミュランジ城に現れたグミエールはリブルヌとともにモレイアン川を渡る。
もちろん別の世界ではこのようなことは絶対にあり得ぬことではあるのだが、それはこの世界でも同じ。
通常では有力な敵将がこうして現れれば、捕らえるか殺すかの二択。
それ以外の選択肢などない。
こうして、敵陣に乗り込み、相手もそれを歓待するのはグワラニーと彼に関わりに持った者だけがおこなう特別なものだった。
そのひとりとなったグミエールはそこでベルナードの言葉を伝える。
「今回の申し出、ありがたく受け取っておく。だが、私は名誉あるフランベーニュ軍人。魔族の小僧に借りをつくりたくない。そこでその代わりとして約束しよう。グワラニーとその一党が私に降伏した場合、命を奪わず私の保護下で安全な生活を保証する」
グワラニーは苦笑いとともにその言葉をありがたく受け取る。
もちろん形だけではあるのだが。
そして、その返礼としてこの言葉を送った。
「将軍たちもすでにご存じだとは思うが、ブリターニャの王太子アリスト・ブリターニャが魔術師の才に目覚めたと発表した」
「だが、我々はその言葉を怪しんでいる。より具体的にいえば、我々を悩ましている勇者とはアリスト・ブリターニャとその護衛ではないかと」
「そうだった場合、我々魔族を駆逐してきた圧倒的な力を今度の戦いで使用する可能性が高い。そして、その力とはアポロン・ボナール将軍の将兵四十万を一瞬で灰にした『悪魔の光』と同等。アリスト・ブリターニャが戦場に現れたら、くれぐれも用心されたし。いや。停戦なり撤退なりをおこなうことをお勧めする」