風は南から
アストラハーニェで起きたこと。
それは前王とは血の繋がらない者が王位を手に入れる簒奪行為。
もう少し広い視野を持って言えば、王朝の交代となるわけなのだが、どちらにしても、これはこの世界で初めての出来事となる。
だが、その簒奪者であるアレクセイ・カラシニコフが打ち出した政策は国民の大部分を占める平民にとって悪いものではなかったため、予想に反し混乱は急速に収束していく。
しかし、アストラハーニェに住む者のすべてが満足するというわけにいかず、当然それを快く思わない者も存在する。
アストラハーニェでその特権を奪われた貴族たちがその代表となるわけなのだが、彼らと同じ思いを持つ者は国外にも存在する。
いうまでもない。
カラシニコフが否定した王を中心に貴族たちが国の舵取りをするというアストラハーニェと同じく王制を採る各国である。
ただし、それらの国がすべて同じ温度でそれを感じていたかといえば、そうではない。
アストラハーニェと国境を接している人間の国はノルディアとマジャーラ。
このふたつのうち、マジャーラは王制と言っても、事実上族長たちの連合体であったのでその影響はそもそも限定的。
ノルディアは国境を接しているといっても、そこは無人地帯であるため、直接的な影響はその距離ほどすぐにはやってこない。
残るは三つ。
ブリターニャはアストラハーニェとは距離が遠いため、その動向が国内に影響を与えることはないといっていいだろう。
その点からいえば、影響を一番受けそうなのはアリターナということになるわけなのだが、この国はチェルトーザがその剛腕を駆使しておこなったあの事業のおかげで、王家への不満の直接的原因となる食糧不足とは無縁の状況にあった。
さらに、非公式ながら魔族との戦争は終結しているため、徴兵も事実上停止している。
これも王家への不満と敵意を解消する一助となる。
つまり、アリターナにもそれほど大きな影響はない。
そう。
アストラハーニェの状況を危険視していたのはフランベーニュだった。
その理由は言うまでもない。
フランベーニュはそれが起こる条件を多く抱え、フランベーニュの頂点に立つ者もそれを自覚していたからだ。
アストラハーニェで起こったことはある意味革命ともいえるもの。
ちなみに、この世界には革命を意味する言葉はこの時点で存在していなかった。
そして、それを意味する「レボリューション」という言葉をつくったのは、カラシニコフかグワラニーのどちらかというのが後世の言語学者の定説となっている。
もっとも、正確に言えば、ふたりのうちどちらであっても、つくったのではなく持ち込んだのだが。
さて、その革命であるが、それが起こる条件は何か?
その理由については様々な説はあるが、国民の多くを占める平民たちの貧困というものも大きな要因といえるだろう。
さらに、それに関連して特権階級である貴族たちだけが我が世の春を謳歌する状況。
敗戦が続く戦況を含めた国政の失敗。
アストラハーニェでの出来事の発端は権力闘争ではあったものの、その前段階としてその条件は十分過ぎるほど満たされていたわけなのだが、それはフランベーニュにも言えること。
度重なる大敗と大損害。
さらに魔族軍による小麦畑の焼き打ちとアリターナの買い占めに巻き込まれたことによる小麦不足。
そして、王位継承権を巡る王子達の私闘とアストラハーニェ以上に厳格な身分制度。
どれを取っても国民にとって不満を募らせるものばかりである。
そこに流れてきたアストラハーニェの状況。
宰相を兼務する王太子ダニエル・フランベーニュは大慌てて情報封鎖をおこなったものの、完全に遮断などできるはずもないうえ、一度国内に入れば乾いた土に水が沁み込むがごとくあっという間に広がる。
国内の状況を劇的に改善できる手立てがない以上、これ以上要らぬ情報が入らぬよう諸悪の根源であるアストラハーニェの新王朝を倒すしかない。
いや。
アレクセイ・カラシニコフを殺すしかない。
追い詰められ視野が狭くなっていたダニエルはその中心人物の暗殺を実行する決断をする。
たしかに新アストラハーニェ王国はカラシニコフひとりの才で動いているようなもの。
そのカラシニコフが消えれば新王朝はあっさりと瓦解する可能性が高い。
暗殺は誰に対しても禁断の一手というこの世界の理を犯すことになるものの、そういう点ではダニエルの決定は間違っているとは言えない。
だが……。
「情報収集のためにアストラハーニェに間者を送るのはいいでしょう。ですが、テネブルを送り込み、国王の暗殺をおこなうのには賛成しかねます」
「そもそもテネブルは『ソリュテュード平原会戦』で全滅したでしょう」
王太子兼宰相であるダニエル・フランベーニュからそれについての意見を求められたエティエンヌ・ロバウは苦虫を千匹ほど口に入れたような表情でその言葉を口にした。
ちなみに、テネブルとはフランベーニュ陸軍が抱えていた工作部隊で破壊工作や暗殺を請け負っていた部隊の名である。
そして、ロバウの言うとおりフランベーニュの王子たちの醜い兄弟喧嘩に駆り出されたエゼネ・ゲラシド率いる部隊は全員死亡しているのだが、その言葉にダニエルはあきらかな不機嫌の表情になる。
「……現在王太子直属部隊として再建中だ」
「それが完了次第送りこむ」
「とにかく決定事項だ。将軍。言うまでもないことではあるが、これは口外厳禁だ」
そう言うとダニエルは視線で退室を要求する。
「……そもそも他国に干渉する暇があったら自国の状況を改善することに注力すべきだろう」
半ば追い出されるように部屋を出たロバウはその直後に呟いたその言葉はもちろん正しいのだが、経済を再建し国民の理解を得るなどという悠長なことをやっている時間などない。
それがフランベーニュの悲しい現状だった。
とりあえずベルナードが指揮する魔族との戦いの最前線の戦いは優勢。
だが、それ以外の状況は最悪だった。
特に国民の不満に直結する食料事情は最悪の中でも最悪だった。
内務省の試算では今年の小麦の生産高は必要量に届かない。
そして、優先順位からいえば、当然市中に出回るものが削られる。
もちろん備蓄はあるが、それは王族や軍のために用意されているもので、平民たちのために放出する予定などない。
では、不足した分を輸入してはどうか?
この世界は主食である小麦の輸出入、そのほぼすべてを国が管理している。
つまり、不足分を輸入する場合、間接的にはなるが相手国への支払いは国家がおこなわなければならない。
だが、今のフランベーニュはそうしたくてもその金がない。
むろんすべてを最終的な買い手となる国民に転嫁するという手もあるのだが、それは価格高騰を招くのは火を見るよりあきらか。
状況は今と変わらぬ。
そもそも、これまでフランベーニュの小麦で需給バランスの均衡を確保していた世界でフランベーニュに小麦を輸出できそうな国などいない。
唯一小麦が輸出できそうな国はアストラハーニェとなるわけなのだが、そのためにはカラシニコフを王として承認しなければならない。
さらに小麦の輸出を再開するということはカラシニコフを否定するフランベーニュにとって望ましくない政治体制が軌道に乗ったということになり、小麦と一緒に国民に聞かせたくない情報がさらに流れてくることは避けられない。
どちらにしても小麦の供給先にならないのであればアストラハーニェに混乱を起こしても問題ない。
むしろ、多くのことを考えればその方が望ましい。
簡単にいえば、これは自身を上積みするのではなく相手を貶める、所謂ネガティブキャンペーンの類である。
これが自身を高めるよりも簡単かつ効果的なのは、別の世界での選挙でこの手法が盛んに使用されるのを見ればよくわかるだろう。
自身は特別な約束をすることはなく、相手より上位にいくという目的を達成できる。
ただし、それがいつでも成功するわけでもなく、またネガティブキャンペーンに終始していると、いずれそれは飽きられ非難の対象になる。
他者を非難しているだけで自身は何も有益なことはしていない。
二流だと。
そう。
これは諸刃の剣。
いや。
旨みを知った後は、そのマイナス要因を知っていてもネガティブキャンペーンに手を出し、行き着くところまで行かねば手放せない様は麻薬と表現できるかもしれない。
さて、その麻薬のような禁断の一手に手を出し為政者として好ましいとはいえぬ領域に踏み込むダニエル・フランベーニュの決定、その実行役となるテネブルであるが、もともとは情報収集をおこなう軍内の間者組織だった。
それが本格的な工作機関として動き出したのは十年ほど前であり、完成されたものになったのはエゼネ・ゲラシドがその長になってからであり、もう少しハッキリと言えば、この組織はゲラシドなしでは成立しないと言っていいのだが、そのゲラシドも後継者となるはずのその部下も今はいない。
だが、カラシニコフ暗殺には早急な組織の復活が絶対条件。
それをおこなう者としてダニエルにより新テネブルの長に任命されたのはゲラシドの前任者でそのような組織の重要性を理解している数少ない人物として知られていたエルネスト・ルシュールだった。
だが、ルシュールはその仕事とは対極にあると言えるくらいに極めてまともな人間。
しかも、老人と言ってもいい年齢。
あまり権力に執着がない。
ズバリと言い切る。
「まあ、つまらない小細工をするよりも、国内の状況を変えるべきでしょうな」
むろんダニエルは激怒し、ルシュールはクビ。
だが、ルシュールはその命を喜んで受け王宮を後にする。
このような言葉を残して。
「もし、王太子殿下がそれを実行しても我が国の評価が下げるだけ。しかも、それが成功しアストラハーニェが元の王制に戻るのならともかくその可能性が低いのだからそれは無駄な努力でしかない」
「それよりも、やるべきは国内改革。だが、できないだろうな。今の状況では」
「そうなれば……」
「進むべきところに進むしかない」
「まあ、そのような事態を推し進めた者として名を残さずに済んだのだ。あとは最終段階に巻き込まれぬように王都を離れる……いや。フランベーニュを離れるべきだろうな」
そして、ルシュールが一族とともにアグリニオンへ移住するのはそれからまもなくのことだった。
再びふりだしに戻ったテネブル再建。
ダニエルがルシュールの後任に選んだのは忠実なことが唯一の取柄とロバウが評するダニエルの護衛隊の指揮官アルマン・リヴィエール准将軍だったのだが、むろんリヴィエールはその分野に関わったことなどない。
そうなれば……。
結局編成された新組織は上から下まで素人だらけ。
しかし、ダニエルは早急に結果が出ることを望んでいる。
命令に忠実なリヴィエールは準備もろくにおこなわないまま動きだす。
「……杜撰にしても程度あるでしょうに」
アストラハーニェの玄関口といえるアグリニオン国の都セリフォスカストリツァ。
その中心であるウーノラスの女主人アドニア・カラブリタは苦笑いしながらその呟いた。
「せめて私に気づかれないようにやるべきでしょう。それを堂々と頼みにくるというのはどういうつもりなのですか。彼らは……」
そう。
新テネブルの工作員はなんとアドニアのもとを訪れ、アストラハーニェに商会の者という肩書でアストラハーニェに連れて行ってもらいたいと申し込んできたのだ。
もちろん彼らには彼らの言い分がある。
アストラハーニェは許可した者以外の入国は認めていない。
すなわち、基本はアグリニオン国の商人たち以外は入国できない。
そうであれば、アストラハーニェとの関係が深く、ほぼ疑われることなく動けるカラブリタ商会の者になるのが一番というわけである。
だが、それはフランベーニュ側の一方的な言い分であって、アドニアにとってそのような自他とも認める怪しげな者を抱えるなどアストラハーニェの信頼を損なうだけで百害あって一利なし。
当然許可などしない。
そして、アストラハーニェへ事の顛末を通報する。
これが常識的な対応手順であろう。
だが、アドニアはなぜか一旦は拒否したフランベーニュの工作員の受け入れを承諾した。
むろんそれはグワラニーのアドバイスに従ったもの。
「アドニア嬢。ちなみにその者についてどのような対応を採る予定なのかな」
「もちろんすぐにアストラハーニェに通報します」
「そういうことであれば、フランベーニュの客人は自身が囲っておくべきでしょう」
「どこにいるのかわからぬより、目の届くところにおいて監視しておく。これがこの場合の最良手」
危険人物を遠ざけるのではなく、目に見える場所に置く。
単なる商人である自分とは視点が違う。
グワラニーの言葉を聞きながらアドニアは感心した。
「カラシニコフ氏にはどのように伝えておけば?」
「事実を」
「それだけでカラシニコフ氏はすべてを理解するでしょう」
「その後は彼の指示に従えばいいでしょう。もちろん客人には気づかれぬように」
「ただし、一度断っているものを受け入れると言ってしまえば疑われる。そこで、条件としてフランベーニュに対して何かしら便宜を図るように要求しておくべきでしょう」
「少々大目に」
「彼らの背後にいるのは王太子ダニエル・フランベーニュで間違いない。彼は非常に疑り深い性格。そのような人間は他人からの気遣いや厚意は信じないが、過剰なくらいの利が加わるとその裏側に何かあるかもしれないとは思わないものですから」
むろんここまで念入りな仕込みをされたところでアストラハーニェに出迎えられてはどのような者でも目的は達成できない。
ましてフランベーニュの工作員たちは多少の訓練をしたといっても素人同然。
結果は成功には程遠いものとなる。
入国して三日目には三人のカラブリタ商会の者が王都郊外で取り押さえられる。
そして、ほどなくフランベーニュの間者と認定される。
いうまでもなく、他国の間者と認定された者はどの国においても処刑される。
むろん組織全体を確認するためにそのまま放置、または逆に利用するために寝返らせるといったこともあるのだが、捕まえられた者たちにはそれだけの価値はない以上、生かしておく必要はない。
公表されたうえで処刑される。
もちろんその前に各種尋問によってすべてを聞き出したうえで。
処刑から十日後、カラシニコフからの質問状が三人の首とともにアグリニオン経由でダニエルのもとに届けられる。
フランベーニュとしては事実無根、無関係と言いたいところなのだが、そうはいかなかった。
品物に添えられた簡書には知っているかぎりのことを喋った三人の言葉が並べ立てられていたのだ。
これをひっくり返すのは容易なことではない。
「……アストラハーニェの要求は?」
「指示をした者の首。または首代としてフランベーニュ金貨五億枚。さらに慰謝料としてフランベーニュ金貨十億枚。それで今回のことはなかったことにすると」
「くそっ」
リヴィエールからの問いに答えたダニエルは最後に高貴な血が流れる一国の最高権力者とは思えぬ言葉を吐き出す。
「拒否するのは簡単だ」
「だが、そうなるとアストラハーニェから小麦を手に入れることはできなくなくなる」
「では、王族の血など流れていない卑しい身分の分際で王位に就く不届き者の脅しに屈するべきなのか。いや。そんなことは絶対にできない」
「だいたい奴らが小麦を我々に輸出するという確約がない状況でそんな話に乗れるわけがない」
さすがに口元まで出かかった「そもそもそんな金はない」という言葉はどうにか押しとどめたものの、どちらにしても、要求を飲んでも好転はしないのだから結局拒否をするしかない。
「無礼を働いたその三人はフランベーニュ人であることは事実。だが、王家とは無縁の者。そのような法外な要求には応じられない」
それがダニエルの返答であった。
カラシニコフとしては相応の報復をおこないたいところだが、すべての点で余裕がない。
止むを得ず、これをもって幕引きとする。
代わって、これを利用したのがグワラニー。
「自らこれだけのものを用意してくれたのだ。この機会にフランベーニュ内部をガタガタにしてやりましょう」
カラシニコフの了承を取ったグワラニーはそう言って笑った。




