バルティスク攻防戦
侵攻してきたアストラハーニェ軍の数から考えれば圧倒的に少ないとはいえ、十八万もの敵兵を掃討もせず逃がす行為は許されるものではない。
当然その報告にコンシリアは激怒しそうなものであるが、なぜかニヤリと笑い大きく頷いた。
「素晴らしい」
「それだけいれば鈍重な田舎熊でも奴らの拠点の道案内はできるだろう」
そう。
それがコンシリアが最高の笑みを見せた意味。
そして、グワラニーが大軍を逃がした理由である。
一見すると逃げる敵を見逃したように見えたものの、実際はいまだ発見できていないバルティスクという名の敵の攻略拠点を発見するための道案内役を担わせるというもの。
そのためにはある程度数を逃がし、遠くからでも発見できる大集団にする必要があったのだ。
むろんバルティスクへ戻る敗残兵の列は遠巻きに多くの監視がついている。
それは逐一グワラニーを経由してコンシリアに伝えられている。
そして、グワラニーはアストラハーニェの侵攻拠点攻略の功をコンシリアに譲る。
むろん「ここまで苦労したコンシリア副司令官に大きな功を挙げてもらいたい」という表向きのものとは別にグワラニーにはこのような理由があった。
「実際のところそこにどれくらいの規模の敵兵がいるのかは知らないが、そこに敗走してきた十八万が加われば戦力としては馬鹿にならない」
「そもそも情報がない場所を攻めるなどお断りだ。むろん魔法一撃で吹き飛ばすということならできなくもないのだが、そこにいるのは軍人だけとは限らない。非戦闘員に紛れた軍人だけを倒すのは簡単ではない。そんな面倒なことはやりたい者にやらせるのが一番」
そして、追跡を開始してから十七日目。
魔族とアストラハーニェの国境を超えて六日目となるその日、敗者の行列の前に草原にぽつんと立つ山、というより丘が見え始める。
それほど高いものではないにしてもロクな食事をしておらず疲労困憊のアストラハーニェの敗残兵たちにとってはかなり厳しいものに思える。
普通ならその丘を回避して草原地帯を歩くはずなのだが、兵たちはわざわざその山登りに挑む。
ひとり残らず。
行列の先頭が山登り、正確には丘登りを始めたところで斥候たちに呼び出されたグワラニーとバイアはそれが何を意味するかすぐに察した。
「あの様子から察するに丘の頂上は大きな窪地になっているのでしょう。そこにアストラハーニェは陣地、あの規模の兵を受け入れることができるのですから城塞があると思ったほうがいいでしょう」
「そうだな」
バイアの言葉にグワラニーは頷く。
……間違いなく火口だな。あれは。
……なるほど発見できなかったのも理解できる。
……では、予定通り。
グワラニーからやってきた根拠地の発見の報にコンシリアは大喜びし、すぐさま攻略部隊の編制をおこなう。
補給や移動の制限があり、三十万に絞った攻略部隊の編制が終わると、コンシリアはグワラニーに道案内の依頼する。
むろんふたりは対立関係にある。
だが、こうして堂々と依頼されてはグワラニーも断るのはもちろん嫌がらせをおこないのも難しい。
依頼を受け、オマケのように自らが作成した周辺の地図も渡す。
そして、作戦開始前日。
コンシリアから手渡された転移希望場所が書き込まれた地図を見たグワラニーは困惑の表情を浮かべる。
それは明らかに三方から攻める陣形であった。
「これであれば、東側から逃走されるのではないでしょうか?」
当然過ぎるグワラニーの問いにコンシリアは人の悪そうな表情を見せる。
「おまえからそのような言葉がやって来るとは思わなかったぞ。グワラニー」
そして、そのままその意図を口にする。
「アストラハーニェの兵士どもを残らず葬るのなら完全包囲がいいに決まっている。だが、今回はその場所を占領することが目的」
「負け癖がついているアストラハーニェの兵たちなら逃げ場を用意すれば無駄な抵抗はしないはずだ」
「言うまでもないが、今回の攻略戦は我々にとっては余興のようなもの。しかも勝利は確定している。そのような戦いで大勝した経験を持つ貴重な兵を減らしたくない」
「そういうことだ」
そして、朝。
いつものように頂きの上から周囲を見渡した見張りたちは魔族軍の大軍を目にする。
「ニコラエフカへ伝令。魔族軍が来襲。援軍を請う」
だが、すでに転移避けが展開されている。
ありがたいことに南北と西側には陣が敷かれているものの、王都へ繋がる東側は空白地帯になっている。
「王都へ連絡せよ」
次々と伝令が走り出していく。
「まあ、これで援軍が来るようなら当然迎え撃つが……」
「アストラハーニェは見捨てるだろうな。おそらく」
敢えて逃がした伝令たちの走る様子を眺めながらコンシリアはそう呟く。
「そして、狩られずに走っていく様子を見たら、アストラハーニェの兵たちは安心して逃げることだろう」
「では、そろそろ山登りを開始するか」
「攻撃開始」
三方から攻め上がる魔族軍。
魔族軍現るという一報を受け山の頂まで登りアストラハーニェ軍バルティスク駐留部隊司令官アリヴィアン・ブリオビアはその大軍を忌々しそうに睨みつける。
「くそっ。やはりつけていたのか」
そして、その後にやってきたのは不甲斐ない味方に対する不満の言葉だった。
「三千万の兵を送り出して二十分の一しかいない魔族にぼろ負け逃げ帰って来た挙句、この場所を知らせるとはどこまでも愚かなのだ。全員自刎しろ」
「ですが……」
「今それを言っても仕方がありません。ただちに迎撃の命令を」
ブリオビアにそう諫言するのは副官のエヴグラフ・ポチェリアである。
「北面守備隊のアンドレイ・ウレンゴイ将軍。南面守備隊のヴァレンチン・トゥルハンスク将軍。東面守備隊のガラクチン・キスロカン将軍。西面守備隊のアルノリト・チェムダリスク将軍。各将軍からは迎撃準備が完了しているのでただちに命令をという催促が届いています。もちろん魔術師長アリスタルフ・エヴァンスク様からも……」
「だが、魔族軍はどう見ても二十万はいる。それに対してこちらの守備隊二万。絶対に勝てない」
「いいえ。そのほかに魔族領から戻ってきた兵士たちがいます。こちらの二十万ということに……」
「半数は戦えない者たちではないか」
部下たちがこぞって抗戦を主張しているのに対して司令官であるブリオビアは最初から腰が引けていた。
だが、これには理由があった。
実をいえば、ブリオビアは補給など後方支援の専門家。
将軍の肩書はあるが戦闘経験はない。
もちろん本来このバルティスクは前線に兵や物資を送る拠点。
彼のような能力を持つ者が長になるべき場所なのだ。
だが、戦局の急変化によって突然前線になってしまい、戦闘経験のない彼が軍の指揮を執ることになってしまったのだ。
もちろん彼にとってこれは大きな不幸だったのだが、そのような人物のもとで戦う部下たちはさらに不幸ともいえるだろう。
そして、このような場合、そこから想像される悪い予想ははずれることはめったにない。
それは多くの歴史的事実が証明している。
そして、ここでも起こる。
それが。
「北面守備隊、戦闘に突入」
「南面守備隊も戦闘に突入しました」
「西面守備隊より援軍要請」
「東面守備隊キスロカン将軍より連絡。我が隊北面守備隊に加勢する」
「敵魔術師よりの火球攻撃。魔術師団は迎撃するとの連絡あり」
ブリオビアの指示がないままアストラハーニェ軍は無秩序に戦闘に入る。
もちろんこれで迎撃に成功すれば問題はない。
だが、補給拠点でしかないバルティスクの守備隊など所詮戦闘力としては二流。
それを補うはずの兵数も今回は魔族軍の方が多い。
さらに、駐屯していたほぼすべての魔術師を前線への輸送業務に回しすり潰していたため、魔術師も防御魔法を展開するだけで精一杯。
先日までの戦闘に参加していたほぼ全魔術師がやってきていた魔族軍が放つ火球をすべて迎撃するなど不可能であり、火口内つくられていた宿舎や倉庫に次々と着弾し火災が発生する。
戦闘が開始してからわずか一セパも経たないうちに勝敗は決した。
だが、ここでは戦いは終わらない。
いや。
終わるはずが終わらなかったのである。
そう。
コンシリアとしてはグワラニーに倣い、効率的に勝つ算段で東面に軍を配置せず敗走を促していたのだが、アストラハーニェ側がそれに応じなかったのである。
むろんそれはいかにも罠に見えるし、逃げ出したところで背を撃たれるのは必定なのだが、アストラハーニェ軍を戦場に留めたのはそれとは別の理由だった。
撤退の責任。
もう少し言えば、重要拠点を奪われ逃げ帰った場合の責任を誰が取るのかということである。
当然それは司令官たるブリオビアが担うべきものなのだが、勝敗が確定しているにも関わらず、その責任を負いたくないブリオビアの口から撤退命令が出なかったのである。
実は、戦いが始まる直前、上官に対してポチェリアがこう言っていたのだ。
「我が国の西方進出の拠点であるバルティスクを放棄して王都に戻れば陛下より厳罰が下ります。もちろんそれは将軍だけではなく家族にも累が及ぶことでしょう」
もちろんポチェリアは迎撃命令を出すように促すための詭弁であったのだが、ブリオビアはそれを鵜のみにした。
結局司令官の迎撃命令は間に合わず、受け身の体制で戦闘が始まったうえに、自身が望んでいたはずの撤退をおこなわなければならないところで、その枷が発動して撤退命令が出ないという不幸な事態になったのである。
総司令官からの撤退命令が出ない以上前線指揮官は各個の判断で撤退はできない。
もちろん完全に敗北したならば敗走という形で撤退はできる。
だが、そうなった場合、最初に陣を崩した者がバルティスク失陥の責任を負うのはあきらか。
つまり、自分以外の誰かが撤退を開始するまでは撤退命令は出させない。
いわばチキンレース状態である。
特に西面を守備するアルノリト・チェムダリスクは自身が逃げることは左右どちらかの守備隊を巻き込むか、火口内の陣地へ敵を誘引するかという不名誉な三択となるため、逃げたくても逃げられない。
逆に魔族軍はこの部隊を崩せば、一気にカタがつく。
当然徹底的に叩く。
高低差。
それから築かれた陣地。
それだけのものがあっても個々の能力と数、魔術師からの支援の有無は補いきれない。
西面守備隊は必死に戦ったものの、遂に崩れ始める。
そして、どんな小さなものでも陣地に穴が開けばもう止まらない。
バルティスク西面守備隊はあっという前に魔族軍の大波に飲み込まれる。
そこから魔族軍が南北両面の守備隊の背後を襲い、火口内の陣地になだれ込んだのはまもなくのことだった。
だが、魔族軍の予想に反し、アストラハーニェ軍は総崩れになるどころか、火口に残っていた部隊を中心に激しい抵抗を見せる。
当然コンシリアは激発する。
「わざわざ逃げ道を用意してやったというのにつまらない抵抗をしやがって。そんなに死にたいのなら望みを叶えてやる」
「全員殺せ」
もともとそちら側の住人であるコンシリアはすぐさま方針転換し、その命令を伝達する。
もっとも、これについてはグワラニーも賛意を示していた。
「助けるのは善意であって義務ではない。相手が不要と言っていることをおこなう必要など欠片もない。無理をしてやろうとすればこちらに被害が出るだけだ」
「だから、コンシリアの方針変更は間違っていない。それに相変わらず東側は抜け道になっている。その気になれば逃げることはできるだろう」
実をいえば、バルティスクには多数の民間人がいた。
商人や鍛冶職人のほか娯楽を供する者もおり、そうなれば女性たちも多数やってきていた。
彼女たちはむろん軍人のような枷はない。
魔族軍が姿を見せたところで一斉に逃げ出す。
だが、ここでこの戦いに醜悪的な色付けをする出来事が起こる。
アストラハーニェ軍守備隊兵士たちが逃げようとする非軍人を斬り始めたのだ。
むろん理由はひとつ。
同じアストラハーニェ人でありながら、兵士である自分たちは逃げられないのに、こいつらだけが逃げるのはおかしい。
卑怯者は血祭りに上げる。
だが、これは人間社会では珍しいことではなく、別の世界でも兵士たちが民間人に自分たちとともに死ぬことを強要するという事例を見ることができる。
さらに、非軍人の避難に紛れて敗走する軍人も多数現れる。
そのなかにはアリヴィアン・ブリオビア、エヴグラフ・ポチェリア、アリスタルフ・エヴァンスクらの幹部が含まれる。
これによって命令すべき司令部が蛻の殻となったのである。
それによってどのようなことが起きるかはいうまでもないだろう。
火口内に突入してから二セパ後。
魔族軍は完全鎮圧に成功する。
予想外に時間がかかったのはこの怪我では脱出が不可能であると腹を括った療養中の兵が参戦したからで、さすが負けたとはいえ第一線で戦ってきた者というべき奮戦ぶりであった。
もちろんアストラハーニェ軍が降伏という選択肢を選べばもう少し早く決着し、双方の損害も少なくて済んだのだろうが、こればかりは魔族と人間の長い歴史的関係もあり、止むを得ないことといえるであろう。
結局、バルティスクに駐屯していた将兵二万三千の七割は戦死。
魔族領から逃げてきた十八万のうち、戦いが始まる前に転移魔法で王都に戻っていたのは報告を求められたアンチェルミー・コスラや重傷者など百人ほど。
残る大部分は自死または戦死するという痛ましい結末に終わる。
そして、バルティスクを魔族軍が占領したことにより、のちに「百日戦争」と呼ばれることになるアストラハーニェの魔族領侵攻から始まる一連の戦いは終了する。
一応言っておけば、この後もアストラハーニ南部でアストラハーニェとマジャーラの戦いは続くのだが、すでに魔族ともう一度戦うだけの戦力を残っていないアストラハーニェはバルティスクを見渡せる場所に監視要員を配置するだけでその西方への侵攻もバルティスク奪還も企てることはなかった。
そして、こちらも広大なバルティスク領に侵攻するほど余剰戦力はない魔族もバルティスクを最前線とし、守備兵を残し大部分は引き上げる。
これによって再び魔族領の東部は事実上の均衡状態に入ることになる。
魔族にとって有利な形で。