火門の試練
この世界の反対側で死者蘇生が成功した。
ただし、フィーネはその代償として魔力を完全に失った。
さらに妹を自らが殺したと信じているアリストは立ち直れないままである。
そのため勇者が動き出すのはまだまだ先のことになるのだが、その間も魔族軍とアストラハーニェとの戦いは続いている。
そして、その戦いは新たな段階に入っていた。
バイア率いる別動隊と合流したグワラニー軍が新たな作戦を実行し始めていたのである。
背後からおこなうアストラハーニェの魔術師狩りの本格化。
その二日前。
アストラハーニェ軍の目標だった魔族領の東部から中央へ進む唯一の通路であるトゥルカナ回廊に設けられた魔族軍の東部方面軍本陣。
そこでグワラニーとコンシリアは今後の方針について話し合いがおこなわれていた。
王都イペトスートでは常に対立しているふたりであるが、目の前の戦いに勝つことが最優先になるため、和やかとは言わないものの、より建設的な意見が交わされていた。
そして……。
実をいえば、グワラニーはコンシリアの能力を見直していた。
それなりの準備はされていたものの、想定の倍の敵が攻め込んできたため浮足立ち崩れかかった戦線を一瞬で立て直したのはコンシリア。
しかも、アルトゥール・ウベラバの配下が守備していた最南部を除けば、凡庸な将しかいない状況で。
……さすがは副司令官の地位にある者というところか。
……まあ、魔族軍は実力主義の極致。実力がなくあの地位に辿り着けるわけがないのだから当然といえば、当然なのだが。
心の中でそう呟いていたグワラニーはその男に目をやる。
「……移動しながら背後からアストラハーニェの魔術師狩りをおこないます」
「その直後から魔術師団の攻撃をおこない、それから前線に圧力を掛ければいいわけなのだな」
「はい。そちらについて副司令官にお任せします」
「それで、順番は?」
「南から北へ」
「いや。それよりもいい方法がある」
それまでグワラニーの提案を一方的に同意していたコンシリアがそこで初めて提示したもの。
それは……。
「順番はともかく、外側から順に進むべき。そうすれば……」
「最終的に敵全体を包囲下における」
「そういうことだ。そもそも少数が多数を包囲しようとするなどあり得ぬ話で、それをおこなおうとするなど愚策の極みではあるが、今回にかぎり可能。むろん現在の兵力では厳しいので多少の援軍が必要だろうが」
「それで……」
「守勢から攻勢に転じた場合、どこまで進出するかということになりますが、副司令官の見解をお伺いします」
「むろん敵の王都まで落とす」
「と言いたいところだが、さすがにそうはいくまい」
「開戦前の国境から幾分進んだあたりで前進は止めるべきだろうな」
「ただし、それには条件がある」
「同じ愚行を考えないように熊どもに躾をする」
「二千五百万の数は馬鹿にならない。これからブリターニャや勇者と戦いに備える必要がある我々にとって東方に張りつける兵は少なければ少ないほどよい。だから、この機会に叩けるだけ叩く」
グワラニーも頷く。
「では、我々は魔術師狩りをおこなった後、我が軍の圧力に負け敗走してきた敵を迎撃する役を承りましょう」
一方のアストラハーニェ軍。
度重なる敗戦によって大幅に数を減らしているものの、それでも一千五百万人以上の将兵を擁し、一見すると優勢を保っているものの、実はグワラニーが魔術師狩りと並行しておこなっていた陸上輸送路の分断の効果が現われ食料の不足が露わになってきていたのである。
もともと短期間にトゥルカナ回廊まで到達し、そこを物資集積の拠点にして進撃する予定であったため、各軍は三十日分の食料しか持参していなかった。
だが、現在蟄居中の司令官アレクセイ・カラシニコフは補給の重要性を十分に理解している者。
当然陸路による大規模な補給計画は用意されていた。
だが、前線と本国との間に割り込んだグワラニー軍の登場によりそれはあっさりと破綻する。
そうなれば、あとは魔術師による輸送しか手がないわけなのだが、今度は食料とともに前線に出向いた魔術師は帰ってこないという問題が発生する。
完璧に管理されたグワラニーの転移避け。
これにより前線に食料を届けた魔術師たちは入ることは出来るが出ることが出来なくなる状態に陥る。
そして、ここで「足をつけた地にしか転移できない」という例の枷が、アストラハーニェ軍に重くのしかかる。
そう。
アストラハーニェ軍の魔術師全員が前線に行けるわけでないのだ。
もう少しハッキリといえば、それが可能な者たちのほぼすべてはすでに戦場に投入している。
つまり、この時点で魔術師による輸送も崩壊していると言っていいだろう。
だが、前線に食料を送らねばならない。
そうなれば、陸路輸送を再開するしかないだろう。
危険は承知しているが、背に腹は代えられない。
魔族領侵攻軍のアストラハーニェ国内の拠点となるバルティスクから大規模な輸送部隊が西方へ向けて進発する。
もちろん全滅を避けるために出発直後に十二集団に分かれ、それぞれが別ルートで西方に進む。
これはいわゆるリスクヘッジ。
だが、結果は全滅。
食料は届かず、現地調達も不可能。
つまり、手持ちの食料だけで飢えを凌ぐしかない。
こうなると大軍であることが不利に働く。
忍び寄る餓死の恐怖。
さらにそこに追い打ちをかけたのは魔族軍によるアストラハーニェ軍包囲の動きである。
増援部隊を含めてコンシリア率いる魔族軍本隊百八十万。
これは一方面に配される兵数としては最高ともいえるものだが、それでもアストラハーニェ軍に比べれば十分の一。
本来であれば、包囲されることはあっても包囲することなど考えられないくらいの数の差である。
逆にいえば、これだけの差があればアストラハーニェ軍は魔族軍を粉砕できると思えるのだが、それが出来ない理由はもちろん魔術師の有無。
敗因が餓死などという不名誉な大敗北が目の前に迫っているアストラハーニェには選択肢はひとつ。
早急に撤退し本国に辿り着かなければならない。
だが、それをおこなうには背後で待つグワラニー軍を抜かねばならない。
どうすればそれが可能になるのか。
連日の会議の中、将軍のひとりがある提案をする。
そして、その日の朝、アストラハーニェ軍が動き出す。
中央に位置するバルフォルメイ・ウルインビンスクが率いる第五軍団、イヴァン・エリスタが率いる第六軍団が猛烈な攻勢をかける。
むろん魔族軍は突出してきたアストラハーニェ軍を魔法攻撃で徹底的に叩く。
だが、多大な損害を受けながら前進を続けるアストラハーニェ軍は遂に魔族軍陣地深くに食い込むことに成功し全軍による白兵戦が始まる。
当然数で劣る魔族軍は突破されまいと予備兵を投入したところでアストラハーニェの攻勢は止まり、逆に押され始める。
そして、左右に展開している部隊も巻き込みながら後退局面に入る。
だが、これこそがアストラハーニェの狙い。
「背後に控えるグワラニー軍は強力な魔術師団を抱える。当然その戦い方は魔法を主にする」
「敵味方混戦状態で退却してくれば我々にとって最大の脅威である魔法攻撃を受けずに済む。まあ、万が一味方もろとも吹き飛ばすとなれば仕方がないが、少なくても餓死よりマシ」
これがこの策を提案したアストラハーニェ第三軍団長ヴァレリアン・ベジェックの言葉となる。
むろんその意図は魔族軍にもすぐに察知される。
「なるほど考えたな。私ならともかくグワラニーなら味方に混ざった敵は攻撃できない。これなら忌々しい魔法攻撃を受けずに戦線を離脱できるかもしれない。だが……」
「……あのまま力攻めを続け我が軍の中央を突破したところで背面で展開し挟み撃ちにしたほうがより効果的だっただろうし、これだけの数の差があったのなら十分にそれは可能だったはずだ。これだけの策を弄する将ならその程度のことはすぐにわかっただろう。それを放棄してまで後退するとは余程塒が恋しくなったと見える。田舎熊たちは」
少しだけ嘲りを込めてそう言ったコンシリアは大きく息を吐く。
「まあ、いい」
「こちらは逃げ腰になった敵を削りながら押し込むだけだ」
「そして、向こうでグワラニーが待っているわけなのだが……」
「奴は予想よりも圧倒的に多く、そして、敵味方入り乱れた状況でやってくるアストラハーニェをどう迎撃する?」
「これは五日後が見ものだな」
そう。
コンシリアの言葉を待つまでもなく、たしかにその迎撃は容易ではない。
数だけでも圧倒的。
さらに、連携を取り背後を突かれぬように部隊間の間隔は大幅に狭まっているものの、それでも戦線の幅は二十アケト程度はある。
これをわずか二万の兵と三千の魔術師でカバーしなければならないのだから。
そこに外周部分だけとはいえ、敵味方入り乱れた状態となっている。
だが、その情報を聞いてもグワラニーの表情に心配の色はまったくなかった。
アストラハーニェの後退戦が開始されて四日後。
グワラニーの謎めいた自信が実体化する。
火壁。
それはまさしく撤退するアストラハーニェ軍に立ちはだかる壁であった。
ただし、中央付近には出口が用意されている。
後退を続けるアストラハーニェにはふたつの道がある。
火壁の外側を通るか?
それともどう考えても罠である中央の出口に向かうか?
当然グワラニーはアストラハーニェを中央の出口に誘引したいわけなのだが、そのためにグワラニーは火壁に小さな細工を施されていた。
火壁をやってくるアストラハーニェに対して斜めに配したのだ。
もちろん内側を奥にして。
さらに外側の火壁は不必要に長く伸ばす。
遠方からでは火壁と出口の長さがそれほど変わぬように見える視覚的効果。
外側に進む方により困難さを感じる精神的効果。
これによってアストラハーニェの選択肢はひとつに絞られる。
むろん外側には対物理攻撃に特化した結界が張り巡らされていたのでたとえ外側への脱出を試みても無駄な努力になったのだが。
ついでにいえば、グワラニーが火壁に施したその罠であるが、実をいえば、この罠は大軍だからこそ使えるものとも言えるものだった。
遠くからでは広く見える火壁の間に見える出口だが、近くから見れば思ったほど広くはない。
だが、それに気づいたときには手遅れ。
なぜなら、後方からは魔族軍と交戦しながらその出口を目指して山のような友軍がいるのだから、ここで反転するようなことをおこなえば味方は大混乱に陥り、敵の魔法攻撃の的になりかねない。
待っている出口がどれだけ狭かろうが、前に進むしかないのだ。
退却部隊の先頭で指揮を執るアストラハーニェ軍第四軍団長アンチェルミー・コスラは目の前に迫った火壁を睨みつけ喚き散らす。
「どうせ入口には罠がある。だから、策に乗ったふりをして、入口を通らず火壁を渡って突破しようと思っていたのだが、どう見ても五十ジェレトは幅がある。そこに入ることは自ら丸焼けになるようなものだ。期待した火の勢いも弱まる様子もない……」
「つまり、誘引された時点で我々はこの出口に見える罠の入口に入らねばならなかったのか」
むろん一方が歯ぎしりをする状況であれば、もう一方はその逆ということになる。
「成功だな」
その様子を見ながら呟いたグワラニーにバイアはこう応じる。
「ええ。急遽思いついた策ですが、とりあえずうまくいったようです」
その始まりは対アストラハーニェのためにグワラニーが最初に考案した燃える泥を使用した火壁を使用した策であった。
だが、その策は穴が多いため早い段階で廃棄されたのだが、火壁はトゥルカナ回廊入口を守るために有効であると思われることから、燃える泥の大量購入は予定通りおこなわれ、その大部分はトゥルカナ回廊に持ち込まれていた。
そして、予想外に始まったアストラハーニェ軍の全軍後退に対して考え出されたのがそれを利用した今回の火壁であり、マジャーラから購入にした燃える石も加えられたのが、アストラハーニェ軍を阻むその火壁の正体ということになる。
「ここまで来たのだ。引き返すことが出来ぬ以上、あの出口に突入するしかない」
「どんな罠があろうが立ち止まるな。走り抜きバルティスクまで辿り着け」
「突入せよ」
コスラの声とともに、アストラハーニェの兵士たちは出口へと殺到する。
そして、火壁の熱を感じながら彼らが見たもの。
それは、まっすぐに伸びた道。
実は、火壁を抜けてしまえば、散開できる。
アストラハーニェの将兵たちは考えていた。
だが、火壁を抜けた彼らは悟る。
それは許されず、何があろうがこの真っすぐな道を走らねばならぬことを。
「堀?」
「そして、水がいや。油だ、油が入っている」
「くそっ。どこまでも悪辣な魔族」
「こうなればこの道を走り切るしかない」
道幅は十アクト。
別の世界の千メートルほど。
十分に広いと思えるが、アストラハーニェ軍は一千万人以上。
その数を一気に渡らせるにはこれでも全然足りない。
さらに問題なのは、道の両側が深い堀があり、黒い液体が溜まっている。
そして、なによりも問題なのはその距離。
三十アクト。
しかも、直線。
「だが、それでも行くしかない」
そう言ってコスラを先頭に門から飛び出す。
すぐに正面から火球か氷槍が飛んでくる。
先頭をいくコスラは思った。
だが、予想に反し正面からは何も飛んでこない。
そこ代わりに左右両側から火球や氷槍が降り注ぐ。
当然堀に落ちた火球によって堀の炎上も始まる。
そうなれば落ちた瞬間、焼け死ぬ、そうならなくても溺死する。
「誰が倒れようが構うな。とにかく走れ」
コスラは叫ぶ。
そして、辿り着く。
コスラとともに最初に飛び出したの自身の副官ら取り巻きや護衛。
合計百十六人。
辿り着いたのは僅か三十二人。
生存率約二十七パーセント。
もちろん高い数字とはいえない。
それでも彼らは幸運だったといえるだろう。
なにしろ最初に動き出したために障害物はない。
攻撃を受けさえしなければ走ることができたのだから。
しかし、後続の者たちは違う。
攻撃を受け倒れている者たちがそこら中に転がっている。
さらに渋滞で思うようには動けない。
そこに魔族軍からの攻撃がやってくる。
そして、さらなる障害物が出来上がるという悪循環。
もし、グワラニーが本気で殲滅を図る気でいたら、まちがいなく成功したことだろう。
だが……。
「まあ、これだけの試練に乗り越えた者たちだ。見逃してやってもバチはあたるまい。それに全滅してしまってはこちらも都合が悪い」
そう言って、逃げていくアストラハーニェ軍兵士を見送った。
のちに「火門の試練」と呼ばれる三日間にわたる「現実になった悪夢」を突破した者は合計十八万。
だが、それは後退作戦を開始したときのアストラハーニェ軍千五百万人の一パーセント強。
そして、作戦開始前残っていた六人の軍団長も生きてバルティスクに辿り着いたのは結局アンチェルミー・コスラただひとり。
兵だけではなく、一線級の指揮官の多くも失い、アストラハーニェ軍は事実上解体した。