崩壊の序章
パンノニア平原会戦の敗北と迎撃部隊全滅が確認されると、アストラハーニェ軍総司令官アレクセイ・カラシニコフへの批判はさらに高まる。
そして、遂にカラシニコフは宰相たちの要求を受け入れ、評判が悪かったアルディアコスタでのグワラニー軍の包囲作戦の中止を決定する。
だが、それはグワラニーの部隊の行動の自由を許すということと同義語。
翌日。
アストラハーニェの斥候はアルディアコスタに魔族兵の姿がないことに気づく。
だが、以前これと同じ状況で不用意に近づき攻撃を受けている。
羹に懲りて膾を吹くがごとく、彼らは遠巻きにするだけで確認もせず二日間浪費し、遥か遠くで荷馬車を使った輸送部隊が襲われたことでグワラニーの部隊が南東に移動したことをようやく察した。
再びの大失態。
連絡を受けたカラシニコフは怒り狂うものの後の祭り。
このままでは前線への輸送部隊を殲滅しながら西から王都に迫られることになりかねない。
「軍事の素人が口出しした結果がこれだ。これは戦争。無駄に見えても意図しておこなっているのであれば意味はある。結局、包囲戦で失う以上の損害を出したときに誰が責任を取るのだ」
だが、どれだけ言っても、すべてが後の祭り。
カラシニコフは魔族領に侵攻している前線指揮官たちに自軍から兵を抜きグワラニー軍を発見、殲滅するように命じる。
魔族領に侵攻していたアストラハーニェ軍は北方から南方へ十二の軍団に分かれていた。
そのうちひとつ第二軍団がグワラニーを抑え込む役割を担っていたわけなのだが、司令官を失って部隊も全壊状態。
わずかに残った兵たちは他の部隊に吸収されている。
各軍の司令官は第三軍団長ヴァレリアン・ベジェックの陣に集まっていた。
第一軍団長アリビアン・エラニ、第四軍団長アンチェルミー・コスラ、第五軍団長バルフォルメイ・ウルインビンスク、第六軍団長イヴァン・エリスタ、第七軍団長ブラジミール・コロメンキン、第八軍団長ゲオルグ・コベレフ、第九軍団長アガホン・コロゾフ、第十軍団長アキム・ペトシン、第十一軍団長アリヴィアン・ウリツキー、第十二軍団長アリスルフ・ウスチノフがその者たちとなる。
各軍団二百万人というとてつもない数の兵を抱えて始まった対魔族戦であったのだが、その多くが僅かの間にすでに一割を失っている。
しかも、損害に比して進軍できていなかった。
これからも同じような戦いが続く。
当然討伐軍に出す兵は少ない方がいい。
だが、背後を突かれたら目も当てられない。
結局、担当している地形上、兵の動きが少ない第一軍団は十万、その他は各五万、合計六十万。
各部隊が千人前後の魔術師をそこに加えることも決まる。
第一軍団長アリビアン・エラニが総司令官、第九軍団長アガホン・コロゾフを副司令官としたその大軍は編成終了とともに出発した。
そして、その三日後。
「グワラニー殿。客人だ」
相手が漏らす魔力によってその存在を察知したアンガス・コルペリーアが声を上げる。
「敵は前後から我々を挟み撃ちにしている。魔力だけで算出すれば、前が三、後ろが一という割合になる」
グワラニーはコルペリーアの言葉によって相手の策を推測する。
「前方が主隊。そして、我々と主隊が交戦し始めたところで、背後の部隊が我々に襲い掛かるという手筈だったのでしょう。我々の野営の火を頼りに待ち伏せしていたとはなかなか有能ですね。彼らは」
とりあえず相手をそう褒めたたえたところで、グワラニーは表情を変える。
「前方の敵も見えないということはまだ相当距離がある。当然向こうもこちらを目視できていない。となれば、ここで我々が後方に下がっても前方の相手がその動きに気づくのは相当後になる」
「ということで、戦いの鉄則に則り数の少ない敵から叩きます」
「全軍に通達。急速後退。後方からやってくる敵を迎撃、いや、襲撃する」
それからまもなく。
「コロゾフ将軍。前方に敵です。こちらに向かってきます。まもなく接敵します」
それは偵察のために本隊より十アクト程前先行させて歩いていた小隊よりやってきた伝令の兵から急報が届く。
敵の背後を突くつもりで後方を進んでいた、兵二十万、魔術師三千人で編成されたアストラハーニェ軍の後方部隊の指揮官アガホン・コロゾフは顔を顰める。
どのような経緯で後退していたのかはわからないが、戦闘は避けられない。
いや。
功を独占できるのだから望むところと言っていいだろう。
「敵は二万、こちらはその十倍。半包囲して叩きのめせ」
障害物のない平原の戦いにおいて、こちらが圧倒的多数の場合には游兵をつくらぬよう半包囲し戦え。
アストラハーニェの戦術教科書にあるその言葉どおり、両翼を伸ばすよう指示を出す。
だが、戦闘はまだまだ先だと縦陣で行軍していたのが仇となる。
突然の陣形変更命令に混乱が起きる。
「陣形の変更中に攻撃されては目も当てられぬ。まずは先制攻撃を受けぬよう防御魔法を展開せよ」
コロゾフは、これまた教本どおりの指示を出したわけなのだが、結果的にこれが命取りとなる。
その直後、自陣に次々と火柱が上がる。
「魔術師団全滅の模様。魔術師長バルネク様、副魔術師長カラカイタ様、ハリメル様戦死」
さらに、見張りが大声を上げる。
「南の上空に多数の火球出現」
「き、来ます」
もちろんアストラハーニェの不完全な陣は火の海となり、その中で悲鳴とうめき声が飛び交う大惨事の現場となる。
将兵の多くは死に、動けない者も多数。
そして、生き残った者の多くは味方を見捨てて敗走を始める。
崩壊である。
もちろん火球攻撃を免れ、さらに敗走せずに戦場に踏みとどまった者たちもいる。
指揮官であるコロゾフの直属部隊の二百。
さらにダニイル・ケドロビ、ガブリール・キスロカン、ヴァレリー・スリンダ、アントン・アイハル、アルチェミー・モルコカという五人の将軍とその直属の兵たち。
だが、総勢でも三百もいない。
もちろんここで逃げれば、助かる可能性もある。
だが、彼らは皆エリート軍人。
しかも、それにふさわしい地位にある。
目の前に敵がいながら剣を一合も交えず逃げるなどという選択肢は彼らの中には存在しない。
だが、その彼らのもとにはまず戦闘工兵の横弓から放たれた六千本の弓矢が降り注ぐ。
さらにもう一撃。
この時点で半数が倒れ、残りも傷を負う。
そして、ここでクレベール・ナチヴィダデとデニウソン・バルサスが三千の兵とともにやって来る。
彼らを狩るために。
すべてが終わる。
「逃げた奴らはどうするのか?グワラニー殿」
出番がなく手持無沙汰を身体全体で表わすペパスの言葉は明らかに追撃の命令を促すものだった。
だが、グワラニーは笑顔で首を振った。
「彼らにはこれは味方に大敗の報告をしてもらわねばならないのですから殺すわけにはいきません。それよりも……」
「すぐに出発の準備を」
「なにしろ我々はこれからもう一戦おこなわねばならないのですから」
そして、最初の戦いから二セパ後。
「いい眺めですね。五十万はいないと思いますが、たいした数です」
「だが、すぐに千分の一になる」
すでに横広がりに展開が終わって待ち受けていたエラニ率いるアストラハーニェ軍本隊を眺めながら呟いたグワラニーの声に老魔術師は黒い笑みを浮かべながらそう返す。
「油断は……」
「禁物と言いたいのだろう。だが……」
「魔術師は七千から八千程いるがただそれだけだ。逃げない。それは彼我の差を数だけでしか把握できていない証拠だ。まあ、この数の差で負けると思っていたら戦争などやる資格もない。ただし、愚かではあり哀れでもある」
「その哀れな者たちに厳しい現実を教えてやろうか」
そう言って老魔術師は顕現させた杖を軽く振るった直後、敵陣のあちらこちらで火の手が上がる。
「これだけやっても反撃してこない。すでに残敵掃討ということか」
老人はつまらそうにそう呟くと後ろに控える男ふたりに目をやる。
「ノウト、センティネラ。攻撃の指揮をおこなえ」
「承知しました」
「火球用意」
ふたりの幹部の声にすぐさま反応した千五百人の魔術師が一斉に火球をつくりだす。
むろん四十万もいるのだ。
落ちてくる火球を待っているだけではなく突撃をしようする者いるはず。
誰もがそう考える。
だが、そうはならない。
いや。
そうはなれない。
二隊に分けられた魔術師団のうちフロレンシオ・センティネラに率いられた一隊は放物線を描く軌道で敵陣に到着するのに対し、アパリシード・ノウトの隊が放つ火球は地を這うように直線的に敵陣へ進むため、突撃するということはその火球に体当たりすることと同義語となる。
さすがに自ら進んで火葬されたいと思う者はいない。
そして、直線状に打ち込まれる火球を避けているうちに頭上から別の火球が降ってくるのだ。
むろんここに魔術師がいれば対抗魔法で防ぐこともできる。
だが、すでに老魔術師の魔術師狩りによってひとり残らず死亡しているため、その加護は受けられない。
グワラニーの心の声によれば、この状況はひと昔前の制空権を失った艦隊と同じ。
しかも、艦隊なら対空火器もあるだろうが、ここではそれすらもない。
最悪の中の最悪の状況だ。
アストラハーニェは魔法攻撃が終了するのを待つしかない。
だが、攻撃される側にとっては非常に迷惑な話なのだが、魔術師団にとってもこれだけの数の的を攻撃する機会はめったにない。
いつも以上に力を入れて攻撃に励む。
当然生存者の数がどんどん減っていく。
魔術師長アンガス・コルペリーアからの攻撃中止の命が出た頃には四十万人の将兵はほぼすべて焼死しており、生き残っていた者もこれから仲間のもとに向かうだけという状況だった。
「一応、確認を」
その容赦のなさに苦笑いしグワラニーはそう言うものの、なにひとつ残さず焼き尽くしたという表現が当てはまる惨状であった。
それがその経緯から第一次、第二次と分けられた「アルジェルマ平原会戦」と呼ばれることになる戦いの結末であった。
むろん大勝。
ただし、それは魔族側から言ったものであり、アストラハーニェから言えば、大軍を仕立てて出かけたはずの討伐軍が逆に狩られるというぶざまな敗北以外のなにものでもない。
そして、それは戦いが終わって二日後、戦果確認のために出向いた探索隊が発見した敗走してきた兵士たちへの聴取で判明する。
さらに、直後に発見した本隊四十万が無残なことになっていた現場には「まもなく魔族領に侵攻している方々の背中からご挨拶に伺う。そして、これがその翌日の皆さまの姿となります」とアストラハーニェ語でメッセージが残されていた。
敵は二万。
対するこちらはすべてを合わせれば一千五百万はいる。
こんなものはただの脅し。
そう言いたいところであるが、ここまで敗北を続けるとそうとばかりは言っていられない。
当然「背中から」という文言は背後から襲うということ。
そうさせないためには、後方にも相応の数の部隊を配置しなければならない。
たとえそれによって前面の圧力が弱まっても。
だが、実をいえば、これこそがグワラニーのが望んでいたこと。
むろん目的のひとつは前面への圧力低下。
だが、グワラニーの予告文の真の目的はそれではなかった。
心置きなく魔法攻撃をおこなえうために、味方が混ざらぬ純アストラハーニェ軍が目の前にやってくるように仕向けること。
そして、グワラニーの策に乗り、警戒するために配備したものの、実は的を提供することになった最初のアストラハーニェ軍はアキム・ペトシン率いる第十軍団だった。
その夜。
八万の警戒部隊の陣地が炎に包まれる。
続いて、火球攻撃。
まさに警告通りの状況になる。
奇襲、そして、夜間ということもありその大混乱は警戒部隊から本隊には伝播し、どうにか立て直しが完了したときは、後方部隊だけではなく前面の部隊も看過できぬくらいの損害を被るという惨状となる。
そして、その翌々日には「アルジェルマ平原会戦」で司令官を失った第一軍団のもとにその悪夢がやって来る。
グワラニーの夜襲に続き、混乱に乗じ、ここぞとばかりに攻勢をかけた魔族軍によって軍は崩壊、追い立てられるように敗走、全軍崩壊する。
さらにその二日後の夜明け直前、戦列の最南端の第十二軍団が崩壊し、陣を立て直そうと最後まで踏みとどまっていた軍団長将軍アリスルフ・ウスチノフが戦死する。
士気は大幅に低下し、「襲撃されれば戦場から逃げられる」などとグワラニーの襲撃を望む者さえ現れる状況ではとても戦線を維持できない。
軍の秩序が保っているうちに撤退し、後方の安全な場所で組織の立て直しを図るべき。
残った軍団長は相談し、その結果を王都ニコラエフカに伝える。
だが……。
全力で戦線を維持せよ。
それが王都からの答えだった。
そして、その夜、あらたな惨劇が起こる。
夜明けまで二セパというところで、寝ずの番となった第十一軍団兵士たちは、遠方に複数の灯りを発見する。
「よし。これまでの借りを返す」
軍団長アリヴィアン・ウリツキーはその報告を聞くと戦線を維持できる最低限を残しそれ以外の魔術師を背後に移動させる。
「あの灯を目標に魔法攻撃をおこなえ」
もちろんそれはすぐさま実行に移され、火球の大群がその周辺を覆い尽くす。
「ここからは掃討戦に入る。一兵たりとも逃がすな。突撃」
ウリツキーを先頭に十万以上の兵が雄叫びを上げて突進する。
だが、反撃はない。
先ほどの魔法攻撃で相当なダメージを被ったか、すでに敗走を始めたのかわからないが、とにかく勝利は確定している。
ここで敗走する敵を掃討し、さらに戦果を挙げれば、忌々しいグワラニーの軍を葬ったということになり、功績は大きい。
多額の褒美は確実。
取らぬ狸の皮算用に勤しみながら走るウリツキーら先頭部隊だったが、突然地面が消える。
昨日まではなかった大きな窪地。
いや、それは堀と言っていいものだった。
ただし、その深さは二ジェレトほどしかなく、怪我はしても余程打ちどころが悪くなければ死ぬことはない。
だが、そこに剣を持ち甲冑を身に着けた重量級の物体が次々と落ちてくるとなれば話は別だ。
最初に落ちたウリツキーらはほぼ全員が圧死。
さらにその悲鳴を敵襲と勘違いした味方が勢いをつけて駆けつけるものの、誘われるように次々と転落。
結局四万人が死傷することになったわけなのだが、その原因となった大穴は一晩かけてグワラニー軍の戦闘工兵が掘ったもの。
その単純な罠にアストラハーニェ軍は引っ掛かり、軍団長がまたひとり消えることになったのである。
敵と正面からぶつかった結果ならともかく、児戯に等しいこのような罠にかかり多くの死傷者を出し、そこに司令官まで含まれるというこの夜の出来事はアストラハーニェ軍の士気はさらに低下させた。
そして、翌日に再び姿を現したグワラニー軍による盛大な魔法攻撃で背後を守る警戒部隊が壊滅すると指揮官を失ったばかりの第十一軍は崩壊。
大量の逃亡者が出たのだが、ここに多くの第十軍団所属の兵士も加わる。
逃亡を阻止しようとする若い中級指揮官が数人の兵士を斬ったことで暴動まで起こり、第十軍団も半壊する。
「これ以上ここに留まっていたら軍自体が壊滅する」
七人の司令官の連名で再び撤退を許可することを希望するものの、カラシニコフの答えは否。
そもそも敵を圧倒する数がいるのだから撤退は不要。
それがカラシニコフの答え。
だが、これが彼の本心かといえば、そうではない。
カラシニコフ本人は、例の包囲戦を解いた時点ですでにこれは勝てない戦いと見切りをつけ撤退すべきという意見を持っていた。
だが、それを許さぬ勢力がいた。
軍の幹部。
そう。
軍幹部はカラシニコフだけではない。
その彼らこそがその意見を主張していたのである。
その主張の核にあるものは、失敗の責任を取りたくないといういわゆ小役人的発想。
さらに、この状態を続けて損害を出せば、忌々しいカラシニコフを軍司令官の地位から追い出されるという軍事的理由とはまったく違う打算もある。
もちろん命令の発信者はカラシニコフである以上、前線の恨みはすべてカラシニコフに向けられるのだが。
さて、前線と王都ニコラエフカが不毛なやり取りとしている間にもアストラハーニェの崩壊は加速していた。
兵士の大量逃亡のおかげであまり目立っていなかったのだが、実は魔術師にも同様の動きは出ていたのである。
しかも、彼らは転移魔法という最高の移動手段がある。
その気になればいつでも逃げられる。
すでに相当数の魔術師が知らぬうちに姿を消しており、その中には第七、第八軍団の魔術師長も含まれていた。
「まあ、グワラニーは真っ先に魔術師を狙ってくる。しかも、相手は格上。そして、安全に逃げられる手段がある。当然だな」
第四軍団長アンチェルミー・コスラのぼやきに、第三軍団長ヴァレリアン・ベジェックも頷く。
「だが、この状況を野放しにしていたら我が軍に魔術師がひとりもいなくなる」
「締め付けをおこなうしかあるまい」
だが、その締め付けもさほど効果もなく魔術師の逃亡は止まらず、第五軍の魔術師長が直属の部下とともに逃亡、一時的に魔法の均衡が解け、魔族軍の魔法攻撃により手痛い損害を被る。
そして、二日間にわたり、グワラニーの集中攻撃を受け第九軍団が弱体化したところで遂に魔族軍が本格的な反転攻勢に転じる。
まず魔族軍の右翼は敗残兵の寄せ集まりのようなアストラハーニェ軍第十軍を粉砕すると第九軍の側面を突くような動きを見せ始める。
むろんまだまだ数はアストラハーニェ軍の方が多いのだから、その後背に回り込み逆包囲をするということもできなくはない。
だが、そうなるとグワラニー軍に背中を見せることになる。
結局、逆包囲策を諦めた副軍団長から第九軍団長に昇格したオレグ・シャリハは第九軍の陣をL字型したうえその一端を東に伸ばす決定をする。
背後に入り込まれないために。
一方、北でも動きがある。
敗走したアストラハーニェ第一軍団と対峙していた魔族軍の大部分があらたな敵を求めて南下してきたのだ。
当然こちらもアストラハーニェ第三軍団の北側に圧力をかける。
これにより、南北両端の第三軍団は二集団と戦う状況になり、魔族軍との兵力比率は一気に下がり、魔族軍三個集団と戦う第九軍団に至っては四対一となり「我が軍の兵士ひとりは人間兵士五人分」という魔族が使用するキルレシオからいえば魔族軍の優位となる厳しい戦いを強いられることになる。
前線の指揮官たちは、撤退が許可されないのであれば厄介な蝿を討伐する強力な部隊を援軍として送ることを求めたものの、ニコラエフカの軍幹部はその要求も撥ねつけた。
もちろんそういうことであれば、魔族領に侵攻している軍をすべて下げ、王都防衛にあたらせる、または南方の敵に向かわせるという手も考えられる。
だが、今さら撤退などしたら敵を呼び込むことになり、アストラハーニェという国が崩壊しかねない。
そういうことであれば現在の位置を死守し最大の敵であるグワラニーの部隊を西方に縛り付けておくだけでも十分に役に立つ。
とにかくアストラハーニェ軍幹部にとって最優先に対処すべきは王都に迫ってくるもうひとつ集団ということになるのだが、実をいえばカラシニコフには秘策があった。
「王都防衛隊を袋叩きにしたのだから、その軍に属する魔術師も相応の力はあるのだろう」
「だが、必ず勝てる。私なら」
つまり、自分が戦場に出向くということである。
だが、カラシニコフは軍の総司令官。
全体の指揮を執り、さらに王都防衛の最高指揮官である。
当然王都の外に出る際には王の許可がいる。
「そうは言っても状況を考えればすぐにでも許可される」
それがカラシニコフの読みだった。
ところが……。
「カラシニコフの出撃は認めぬ」
それが王の言葉だった。
そして、王はカラシニコフの再度の要請も却下し、カラシニコフは王都に留まることが決定される。
あわせてこれまでの敗戦の責任ということでしばらくという言葉をつけて蟄居を申しつけられる。
形式上はまだ総司令官の肩書はあるものの事実上の更迭である。
「そもそもおまえは陛下の盾となる者。王都を離れてどうする?」
これがカラシニコフの出撃に最も反対した宰相アナトリー・イグマスの言葉となる。
だが、当然この言葉には裏がある。
これまでの敗戦でカラシニコフの地位はほぼ終わったに等しい。
そうなれば貴族制度の秩序を乱す目障りなカラシニコフには一刻も早く退場していただくべき。
もちろん戦場に赴き戦死してくれればこれに越したことがないのだが、カラシニコフは武術も魔術も優れている。
ここで余計な武勲を上げられて復活の目を残されては困る。
それが宰相イグマスら文官たち、反カラシニコフ派の軍幹部たちの共通した胸の内となる。
だが、王都に向かって進軍している魔族軍を迎撃する者は必要である。
反カラシニコフ派の中心である副司令官でもある王弟ブロニィンツィ・チェーホフと、彼の腰巾着でチェーホフと同じく五人副司令官のひとりであるアリスタルフ・ピトリアルがカラシニコフの代わりとして名を挙げたのは、王国魔術師長で軍務も豊富なアストラハン・ガスタールストだった。
そして、伯爵の地位にあるガスタールストこそチェーホフが兄王に対し次の軍総司令官に推薦する予定の人物となる。
相手は二流。
魔術師長であるガスタールストが負けるはずがない。
ここで更なる箔をつけて総司令官になってもらう。
チェーホフにはそのような意図があった。
三日後、魔族軍の位置が確認されると、ガスタールスト率いる追討部隊はそこからもっとも近いプラーツク砦へ転移する。
そして、翌日魔族軍が予定通り砦に接近しているという報告を受けたガスタールストはニヤリと笑う。
「一撃で消す」
自信満々、いや、自信過剰のガスタールストが魔力を抑え込むことなく垂れ流しているので当然ではあるのだが、魔族軍はかなり早い段階から相手に気づいていた。
「最高位の防御魔法を」
バイアの命にデルフィンは防御魔法のレベルを一気に上げる。
その膨大な魔力をガスタールストも感じる。
そして、ここで迷う。
どうするべきかと。
予想外かつ残念なことであるが相手の魔力は自分より上。
もちろんここで撤退という選択肢はあり、それは可能であった。
だが、目の前に軍の最高司令官という地位がぶら下がっているガスタールストは引けなかった。
結果的にこれが敗北に繋がる。
そして、辿り着くのはこれまでグワラニー軍と対峙した多くの敵と同じ思考。
防御魔法から攻撃魔法からの転換。
その一瞬のタイムラグを狙い撃つ。
これはフランベーニュの魔術師アルベルク・ドプフェールが生み出し、この世界で命を賭けて戦う両側に伝わった「弱者が強者を討つ」魔術戦のひとつであったのだが、それはその差がそれほどないときに初めて使えるもの。
だが、現在の両者の差はグワラニーが心の中で使う表現を利用すれば「釣り鐘と鈴」。
結局、その選択に無理があったことに気づくのは最後の瞬間となる。
戦いが始まる。
「火球放て……」
その声とともにアストラハーニェから迫る火球の対抗魔法としてデルフィンは魔族軍の上空に多数の氷槍が出現させる。
氷と炎の衝突。
まるで、別の世界におけるミサイルの迎撃戦のように。
むろんこれがいわゆるオールドスタイルの魔法攻撃への正しい対象方法であるのだが、実はこの光景をグワラニーの部隊が関わった戦いで見るのは初めてだった。
いうまでもない。
これまでは相手を察知した瞬間に魔術狩りがおこなわれるため、相手の攻撃が受けること自体が珍しい。
ほぼ唯一の例外がクペル平原での戦い。
だが、あの時の魔族軍は魔法、物理攻撃双方を完全に防ぐ結界を展開して放置しており、このように対抗魔法で応戦するということはなかった。
もちろん今回もその結界で防ぐことはできたわけなのだから、デルフィンは敢えてそれをおこなったということになる。
「なかなかいい眺めですね」
「ええ」
「ですが、これだけ高い防御魔法の外側にあのように攻撃魔法を展開できるのは驚きです」
バイアの隣で上空を眺めるベメンテウはそう言葉を漏らす。
「まあ、敵の魔術師も同じことを思うでしょうね。いや……」
「防御魔法の外側に別の魔術師がいると考えるかもしれませんね。おそらく相手も同じことをやっているでしょうから」
小さくため息をついたベメンテウが視線をデルフィンからバイアへと移動させる。
「それで、これからどうしますか?バイア司令官」
「さらに前進。そして、この敵を確認します。ということで、プライーヤ将軍。全軍に命令を」
魔族軍は前進する。
もちろんアストラハーニェもそれは同じ。
双方が相手を視認できる位置まで前進し、お互いが丘を越えたところで、ついにそれが実現する。
「随分と少ないな」
それがバイアの感想であった。
そして、それはその軍がどのような戦い方をするものかを示すものだった。
魔法戦でケリをつける。
その言葉を補足するようにベメンテウは心の中で言葉を加える。
「おそらく相手の魔術師もデルフィン様が展開するこの結界を破るのは難しいことはわかっているでしょう」
「それとともに自身が展開する防御魔法にも自信を持っている」
「おそらく相手は自分の防御魔法を破る攻撃に魔力を集中させるためにこちらが結界を弱める。しかも相当に。そして、それをおこなうときには必ず時間差が生まれる」
「それを狙い、同じく防御魔法から切り替えた攻撃魔法を撃つ」
そこまで言ったところでベメンテウは苦笑いする。
「策としては間違っていませんし、私がアストラハーニェの魔術師であっても同じことを考えるでしょう。そして、その一瞬を逃すまいと神経を研ぎ澄ます」
「ですが……」
「残念ながら、彼は根本的なことが間違っている」
「まあ、彼がそれに気づくのは死を前にした一瞬となりますが」
そして、ベメンテウの予想はほぼ当たっていた。
当然のようにその一撃を撃つため、杖を握りしめながらガスタールストは精神を集中させ相手の魔力が下がるのを待っていた。
だが、いつまで経ってもそれは来ない。
そして、その時がやってくる。
「デルフィン嬢。お願いします」
バイアからの言葉にデルフィンは頷く。
魔族軍の最前線へと進み、それから、まず大きく息を吸い、呼吸を整え、それから相手の陣地を見る。
それから右手に杖を顕現させる。
「……カマイタチ」
それからまもなく。
「……ありえない」
ガスタールストはここで初めて恐怖する。
そして、その声の直後、防御魔法は破られる。
見えない刃がその場にあるものすべてを切り裂く。
もちろんガスタールストの身体も。
一瞬の悲鳴。
それが彼のこの世界で発した最後のものとなる。
五十三年の人生だった。
「では、そろそろ進路を変え、グワラニー様の軍と合流しましょうか」