モエリス平原の戦い
そして、遂にその日がやってくる。
森林地帯を抜けグワラニーが待つモエリス平原の入口に到達する。
見えるのは大軍。
いや。
大軍の背中だった。
退却。
というより、その無秩序ぶりは敗走と言ったほうがいいものだった。
勇者一行はすでに何日も前から左右から監視されていた。
だが、攻撃を仕掛けてくることはなく見張るだけ。
つまり、彼らの目的はこの先で迎撃するための情報収集。
ところが、勇者を見たとたん、その迎撃部隊は醜態を晒しながら逃走する。
「なんだ。戦わずに逃げるのか?」
「森林地帯でも戦わず、大軍を動かすのに好条件のはずの草原地帯でも戦わず。奴らはどこで戦うつもりなのだ?」
「王都だろう」
三人の剣士たちは嘲笑するものの、アリストの顔に笑みはない。
そして、ある予感がアリストの頭の中を埋め尽くす。
アリストは同じ表情を浮かべて敗走する魔族軍を睨みつけるフィーネに目をやる。
「どう思います?」
「間違いなくいますね」
「そして、あの撤退は私たちを草原地帯に誘っているもの。ですが、そこで何をするのかがわかりません」
「問題はその草原を超えないかぎり魔族の国の王都に辿り着かないということです。まあ、他にも道はあるでしょうが、そこを探すとなるとまたふりだしに戻るということになります。となればここは進むしかないしょう」
「そのとおりです」
「ですが、このままグワラニーの策に乗って奴を喜ばす役を担うのはさすがに遠慮したい。ここはあの男の策を逆手に取るために、まず、あの男が私たちをどのような策でもてなすつもりなのかを周りを飛び回るコバエたちに教えてもらうことにしましょう」
「ということで、ファーブ。よろしくお願いします」
二十ドゥア後。
それぞれ十人以上の死体をつくったファーブがふたり、ブランがひとり、マロが三人の兵士を引きづってアリストとフィーネのもとに戻ってくる。
もちろんその六人もどうにか生きているという程度の状態であったのだが、フィーネは治癒魔法で話ができる程度まで回復させる。
そして、ここから始まる。
悲鳴と哀願の声が響く趣味と実益を兼ねたフィーネの時間が。
だが……。
「何も知らない?口を割らないのではなく?」
「あれだけお仕置きされても口を割らないほど根性が入っている者たちとは思えませんので本当に知らないのでしょう。ブリターニャ語が堪能ではないということもあるかもしれませんが、それで知っていることは喋ったと思います」
眉をしかめて問うアリストにフィーネは盛大に両手を上げて困り顔をつくってそう答える。
「……とりあえずわかったことはいくつかあります。まず、彼らは魔術師を伴わず、狼煙で位置を知らせていたこと」
「それから、前方に逃げていったガスリン魔族軍総司令官配下の一万が待ち受け、後方にコンシリア魔族軍副司令官配下の五千人の部隊が後方に転移してこちらに迫っているということ」
「つまり、挟み撃ちということですか。それで、肝心のグワラニーは?」
アリストのその問いにフィーネは薄い笑みとともに首を横に振る。
「グワラニーについては知らないと?」
「ええ」
「そこまで喋りながらグワラニーについては何も言わないということはグワラニーは本当にいない。今回は策を授けただけということになりますね」
「てっきりこの平原で何かしてくると思ったのですが」
アリストは自嘲気味の薄い笑いを浮かべる。
「……とりあえず、後方を安全を確保しましょうか」
「一旦下がり、背後からやってくる五千の敵を迎撃します。我々が後方に下がれば、それに釣られて敵が再び前進してくるかもしれませんし」
アリストのその言葉とともに勇者たちが行動を起こす。
もちろん残っていた見張りはすぐさま狼煙を上げるわけだが、その知らせに驚いたのは勇者の背後を襲うはずだったコンシリア配下の軍を率いていたアグアタ・ティアラである。
勇者一行がモエリス平原に入ったところで背後を襲え。
グワラニーの情報封鎖の徹底ぶりを示すかのように、コンシリアはティアラに対して出した命令はそれだけであり、監視をさせていた者から狼煙で勇者がまもなくモエリス平原に入ることを確認し、遅れずに背後を襲おうと急がしていた彼にとって勇者の後退は予想外の出来事だった。
「王都を目指していた勇者がそれなのになぜ後退をしてくるのだ?」
ティアラは周りの者にそう問うものの、答えはもちろん明白。
決心を固めたティアラは准将軍たちを集める。
「二十ドゥア後には勇者が来る」
「これで勇者を討つ名誉は我々のものだ」
だが、熱弁を振るって兵士たちを奮い立たせたティアラの努力も空しく、まもなくおこなわれた戦いはほぼ一瞬で終わる、
凄まじい数の氷の槍。
むろん無傷で立っている者などおらず、どうにか戦える状態にある者は一割も残っていない彼らのもとに大剣と戦斧を持った三人の死神が現れる。
むろん結果はその死体の山であきらかだろう。
「……とりあえずこれで背後を心配せず進めます」
そして、草原の入口まで戻ってきたところでアリストは今日何度目かの苦笑いをしながら無人の草原を眺める。
「草原地帯は七十アクト、いや、あの丘の形状から向こうにも続いているでしょうから一アケトくらいはあるかもしれません」
「とにかく向こうから来る気がないのならこちらから出向くしかないわけですが……」
アリストは迷っていた。
これまでは戦場は自分たちが設定していた。
そうでない場合でも十分対処できるものであった。
だが、今回ばかりは様子が違う。
障害物のない広大な草原地帯。
何か小細工するにはもってこいの場所にもかかわらずなにも見当たらない。
それどころか兵士の姿もない。
「グワラニーが本当にいないのか……」
「それだけでもハッキリしないうちは草原に踏み出してはいけない。それが私の考えです」
「では、防御魔法を最大限にしておくべきでしょう。お嬢の一撃を防ぐつもりならそうしなければならないでしょう」
「それ以外にやるとしたら……」
そう言ってフィーネは指を天に向ける。
「まあ、いないとは思いますが、とりあえず」
まずは目の前の草原に氷の槍を降らせ、続いて丘の向こうにも同じようにそれをおこなう。
「……悲鳴の数からどうやら一万という数字は本当のようですね」
「ですが、強力は対抗魔法を展開した様子がない。ということは、グワラニーはやはりいないようですね」
アリストは自身に言い聞かせるように呟き小さく頷く。
「では、草原を突破します。ですが、痕跡はまったくありませんがグワラニーが策を弄している可能性は十分にあります」
「その罠を発見したときにあらためて指示をしますが、場合によっては逃げるということも選択肢にあることを覚えておいてください」
「逃げることは構わないが、戦いが始まる前にアリストに確認しておきたいことがある」
「あの魔族を斬っても構わないな」
あの魔族。
それはグワラニーのことである。
「当然です。ですが、優先すべきは自分たちの命です」
「俺からもひとつ」
自身の問いの答えに頷いたファーブに続いたのはブランだった。
「奴が王女を盾にしたらどうする?」
「そんなこと聞くまでもないだろう。さすがに一緒に斬るということはできまい」
もちろんそれは妹を斬ってもいいのかという確認であり、すぐさま兄がそれを否定する。
だが……。
「私が近くにいれば、私が交渉します。ですが、その時間がないときは各々にお任せします」
「斬ってもいいということだな」
「あとでフィーネに盛大なお仕置きをお願いしますが、止むを得ない場合は仕方ありません。ただし、ホリーは斬ったがグワラニーは逃がしたなどということは絶対に起きぬように」
「わかっている」
重大な決断をした直後、アリストは大きく息を吐く。
そして、もうひとりの仲間を見る。
「フィーネは何かありますか?」
「あの男が王女を盾にしていることは確実。となれば、発見した場合でも、先手は向こうということになるわけですね?」
「私の防御魔法と少女の攻撃魔法はほぼ同格。たとえ本気でやってきてもどうにか防げるでしょう。その後は改めて指示することにします」
「では、行きましょう」
先頭のファーブとブランがいつもより幅を取って走る。
続くフィーネとアリスト、そして最後はマロ。
いつもと同じフォーメーション。
だが、その速度は圧倒的に違う。
「アリスト。あの魔族が仕掛けてくるのはどの辺だと思う?」
「まあ、今ということはないでしょう」
まずは最初の十アクト、勇者チームは別の世界の一キロを無事走破。
警戒しながらさらに進む。
二十アクト、三十アクト。
何も起きない。
「仕掛けてくるならこの辺からです。注意を」
だが、アリストの予想に反し、さらに二十アクト進むものも何も起きない。
もしかして、本当ににいないかもしれない。
アリストを含む勇者の心のに中でそんな思いが高まっていった、丘の頂上まであと十アクト弱というところまでやってきたとき、それは起こる。
なんの前触れもなく。
「ん?」
「なんだ?これは」
全員がほぼ同時に体が硬直する。
もちろん三人の剣士はわからない。
だが、魔術師はそれがなぜ起こったかを理解する。
そして、それとともに敗北感に覆い尽くされる。
「アリスト?」
「まちがいないでしょう。これは……」
「魔法無効化結界」
その魔法の名を口にしたアリストの心に後悔の波が押し寄せる。
むろんアリストはこの魔法がどのようなものかも知っていた。
そして、自身も使いこなせる。
だが、実際にこれは相手の魔法を封じるとともに自身の魔法も封じるもの。
魔術師であり、その魔法で勝利を重ねてきたアリスト、そして勇者一行にとってこれは使い勝手のいいものではない。
実をいえば、アリストは相手が自分たちに勝つのはこの手であると推測していた。
お互いに魔法を封じて戦った場合、勝負をつけるのは剣。
そうなった場合にモノをいうのは数。
もちろんファーブたちは非常に強い。
一対一の戦いであればおそらく負ける相手はいないだろう。
だが、こちらは三人。
フィーネを加えても四人だけ。
敵の数が百人や二百人なら何とかなる。
だが、千人、二千人を相手でも絶対に勝てるのか。
それが万単位になれば……。
数を力で押し切られる。
敗北。
そして死。
さらに、この結界は魔法制限に特化しているため、物理攻撃は完全にスルーする。
それがたとえ魔法でつくられた火球や氷槍であっても。
そう。
この魔法を使うのなら隠れるところのない広大な草原地帯は最高の場所。
すべてを知っていたにもかかわらずこうして罠に陥った。
グワラニーは自分を生かすつもり。
だから、この策は使わない。
どこかでそのような甘い読みをしてしまった。
だが、後悔しても仕方がない。
その反省をいかすためにも生き残るしかない。
「フィーネ。まずは魔法をすべて解除。身動きできるようにしてください」
この状況で魔族軍が獲物である勇者を仕留める方法は前述したとおり二通りある。
ひとつは大量の剣士を送り込み数で圧殺するもの。
もうひとつは境界外から火球を撃ち込みそのエリア全体を火の海にして焼死させるもの。
どちらにも長所と短所があるのだが、より確実に仕留めるのであれば、後者を選択し、その後確認を兼ねて兵士を送り込む方法だ。
その理由。
それは……。
魔法無効化結果は、その特別な効果と引き換えに魔力の消費が激しい。
つまり、それが解けるまでの短時間で相手を仕留めなければならないという枷がつく。
剣で仕留めるとなれば、当然まず勇者を捕捉しなければならないのだが、これは相当な時間がかかる。
そこからの戦闘となるわけだから、途中で効果が切れる可能性を想定しなければならない。
その点、魔法攻撃であれば一気にケリがつく。
……グワラニーが本気なら間違いなく後者を選ぶ。
……まあ、この魔法を使った時点で本気であろうが。
アリストはこの時点でもグワラニーの本気度を疑う自分に苦笑する。
……とにかくここからは逃げの一手だが……。
……我々の行動を監視していたかのようのこれだけ絶妙の位置で魔法を発動できたのはなぜなのだろうか?
アリストが心の中で呟いた直後、その解答はやってくる。
「ア、アリスト」
ブランの声とその指さす方向を見たアリストは目の前、とは言い難いものの、自身からそれほど遠くない丘の頂に現れた一隊を見つける。
グワラニー、アンガス・コルペリーア、デルフィン、アリシア、そしてホリー。
それに護衛三人。
僅か八人。
……なるほど。
アリストは納得する。
あの者たちなら自身の魔力を制御することができる。
穴を掘って身を隠していた。
そうであれば、氷槍の雨から身を守ることができる。
……あそこは火球でしたか。
まさか、それさえも予想してぶ厚いコンクリート製のトーチカを用意していたなどとは考えなかったアリストはそう呟く。
「……アリスト」
再び自分を呼ぶ声だが、今度は女性の、つまり、フィーネのものだ。
だが、その声はいつもの冷たさとは異質のものでつくられている。
「どうかしましたか?」
「グワラニーの右手……」
そう言われて、もう一度丘の上から自分たちを見下ろす一隊を見直す。
そして、グワラニーの右手に何かが握られていることを気づく。
「……杖」
……やはり。
グワラニーはアリストと視線が合った瞬間、右手を後に回す。
その直後、グワラニーの前に出たのはこれみよがしに杖を持った手を見せるデルフィン。
その微妙な動作にアリストの思考が動きそうとした瞬間、ファーブの大声が彼の頭に乗り込んできたのだ。
「おい。アリスト。護衛があれだけなら一瞬で倒せる。逃げるよりこっちの方が早い」
その声と共に三人の剣士が物凄い勢いで丘を駆け上る。
「……たしかに。引きつけすぎましたね。グワラニー」
アリストは逆転勝利を確信し、そう呟きながら敗者である男を見る。
だが……。
アリストの目に映るグワラニーは笑ったまま動かない。
まるで、彼らがやってくるのを待っているかのように。
……まさか、恐怖で動けなく……違う。
アリストはその意味を理解した。
「……そういうことですか。どこまでも、まったくどこまでも辛辣なことを考える。この悪党が」
アリストは自分を見下ろし笑う男を盛大に罵る。
「ファーブ。ファーブ。行ってはなりません」
「なぜ。絶対に討てるぞ」
「それがわかっていながらグワラニーは逃げない。つまり、それはあなたたちを呼び寄せる罠。待っているのは多数の伏兵です」
「後退。命令です。ここは後退です」
ターゲットまであと数アクトというところでの撤退命令。
承服はしかねるものの、事前の取り決めもあるうえ、このようなときのアリストの言葉は的を外さない。
「仕方がない」
盛大な舌打ちと一睨みを残し、三人は丘を駆け下りる。
そして、その直後、グワラニーの両脇から兵士たちが湧きだす。
黒地に金色の戦斧が並ぶガスリンの直属部隊を示す軍旗とともに。
「あれが我々の家族と多くの戦友を葬った忌々しい勇者とその仲間だ。奴らの首にはガスリン様よりひとりあたり金貨一万枚が約束されている」
「しかも、褒美は何人でやろうが全員に等しく金貨一万枚だ」
「現在の奴らが忌々しい魔法は使えない。つまり、勝利は確実。突撃せよ」
グワラニーの護衛を兼ねた先陣用には千五百人分の掩体壕が用意されていた。
フィーネの氷槍の攻撃で草原に布陣していた本隊は甚大な被害を受けたものの、コンクリートの屋根に覆われた掩体壕にいたおかげで無傷にやり過ごした彼らにとってこれは褒美を独占できるチャンス。
先陣の指揮を買って出ていた掃討部隊の指揮官将軍ギレェルメ・トカンティンスの怒号と扇動が混ざり合った命令に雄叫びに応じた兵たちが一斉に勇者たちをめがけて走り出す。
敗走する勇者一行を追撃する魔族軍。
それは魔族軍の将兵の誰もが夢見た光景だった。
丘の上に先ほどとは違う緑一色の大旗が掲げられるころには半分程に数を減らした本隊五千人も丘を下り始める。
むろん追う方も追われる方も甲冑を着込んでいる。
ただし、追われる側である勇者のものはすべてフィーネの魔法で生み出された特製の軽量タイプの鎧。
一方がぶ厚い鉄製のものであることを考えればだいぶ有利といえるだろう。
体力差もあり少しずつ追手との距離を広げ始めた勇者たちだったが、逃走方向から新たな難題がやってくる。
「アリスト。前方からも敵だ。数は……五百くらいだ」
「隠れていたのか、それとも、あらたに転移させてきたのか。とにかく抜かりないことで。ですが、全員を倒す必要はありません。突破できる穴があけられればいいのですから」
前方の走るマロにそう指示したところで遠くなった丘の頂に立つ集団をアリストは見やる。
「差配だけしてあとは見物とはいい身分ですね。グワラニー」
その嫌味はグワラニーには届かない。
もちろんそんなことは百も承知だが、言わなければおさまらない。
それが今のアリストの心境だった。
大きく息を吐いたアリストはフィーネを見る。
そして、そこから口にしたことは、この絶体絶命ともいえる状況で一番重要なものと言ってもいいものだった。
「フィーネ。あれは持って来ていますね」
「もちろん」
あれ。
それはアリストたち四人分の血がついた皮膚、髪の毛などである。
そして、それが何に使用するかと言えば、おそらくこの世界でフィーネ以外に使用できない究極の治癒魔法「死者蘇生」である。
死者を生き返らせることができるというその魔法にはむろんいくつかの条件と制限があり、さらにそれをおこなった際には対価が必要となる。
まずその魔法を実行できるのは、この世界の理を超えた医術を取得し、さらに膨大な魔力を者だけとされる。
そして、その魔法をおこなう際には死者の身体の一部が必要となる。
もちろんすべてが揃っているほうが成功の確率は高いが、それが叶わぬことを想定して勇者一行はフィーネにその材料となるものを提供している。
それから最後に対価であるが、術者であるフィーネはこの魔法を使用するとしばらく魔法を使用できないという魔術師としては決定的な枷が与えられる。
アリストの推定では最低でも百日、場合によっては六百日。
フィーネが過去に小動物でおこなった実験では三十日とされる。
ついでにいっておけば、これは事故や病気で死んだ者がその対象であり、寿命であった者はどれだけ好条件であっても成就しないとされる。
もっとも、これまでそれを使用した者がいないため、すべてが推測でしかないのだが。
それから、もうひとつ。
当然であるが、この魔法は術者には使用できない。
つまり、フィーネが死んだ時点で残りの四人の復活もなくなるということである。
「最悪の場合、最優先はあなたの生存。そのためには他の四人は犠牲になる。これは旅の最初に約束したとおり」
「その代わり、あなたも生き残るためにどのような屈辱にも耐えてもらいます。ありがたいことにグワラニーはあなたに興味を持っている。色仕掛けでもなんでも使って生き残ってください」
避退する勇者の進行方向からの敵が目の前に迫る。
いつもは大喜びするはずのブランもこのときばかりは舌打ちをして敵を睨む。
「アリスト。敵は目の前だ。方針を決めてくれ」
少しだけ考えたアリストはこう答える。
「魔法無効化結界は膨大な魔力を消費します。グワラニーがどれだけの魔力を持っていようがこれだけの広さの結界を維持するのは一セパが限界。発動した時間から考えてすでに半分以上の時間は経過しているはず。となれば、できるだけ長く逃げ回り、結界の効果が切れた瞬間、魔法でグワラニーを吹き飛ばします。もちろん私たちを追いまわしている者たちも」
「そして、最悪の場合でもフィーネは生きてここから脱出させる。そこで……」
「ここから二隊に分けます。私とファーブ、それから残り三人。いいですか。マロ、ブラン。絶対にフィーネを守る。そのために自らを犠牲にしなさい」
「気持ち悪いことを言わないでください。アリスト」
アリストの言葉の直後、それに反論したのは当のフィーネ。
「単純に私が生き残るために糞尿兄弟を盾にしてもいいと言えばいいだけではないですか」
当然糞尿兄弟は納得しない。
「いやいや。違うだろう。それは」
「ここは崇高な騎士様どうぞお守りくださいとお願いしますというところだ」
「何を言いますか。生意気なことを言うと生き返らせませんよ。糞尿兄弟」
「くそっ」
「とにかく……」
「フィーネも魔法が使えるかどうかを使えるかを確認しながら行動してください」
「では」
こんな場面でも堂々と毒舌を披露するフィーネとそれに反論するふたりを置いてアリストとファーブはやってくる隊列の右側を突く。
もちろん三人は左側から突破を図る。
その前に後方からやってくる魔族軍を確認したフィーネは遠くに見える旗を見て薄く笑う。
……緑から黄色。なるほど。
……あれはそういう意味なのですね。つまり、まもなく時間切れということですか。
……そして、この場にいる者であの旗の色の本当の意味がわかるのはふたり。つまり、これはグワラニーから私へのメッセージ。
……これは一点借りですね。グワラニー。
さて、右側から突破を図るアリストとファーブであるが……。
敵の半分を請け負っても数百対一。
さらにいえば、背後からも敵が迫っている。
しかも、アリストは自称剣の腕はゼロ。
それどころか剣すら持っていない。
そのアリストを守らなければならないのだ。
さすがのファーブでもすべての剣を防ぐことはできず、戦斧や大剣がアリストを狙う。
だが、意外にもアリストは身軽で戦斧や大剣をひらりひらりと躱してみせる。
むろんこれは甲冑を身に着けていないためでもあるのだが、それは逆にいえば魔族の一撃を食らえば即死ということである。
「どうですか?」
「抜くのは難しいうえに抜けた場合は背を守る必要が出てくる。突破はあきらめ、時間稼ぎをしたほうがいいだろう」
「では、そのように」
そう言いながら、アリストは悟る。
さすがにこのままでは厳しい。
「やむを得ませんね」
そう言って、アリストはファーブの背にある予備の剣を抜く。
「借りますよ。ファーブ」
それは刺突剣と呼ばれるものでファーブが最近予備の剣として持ち始めたものだった。
きっかけはダワンイワヤ会戦後におこなわれたアリストとグワラニーの交渉中に暇に任せてファーブがグワラニーの護衛達と模擬戦をおこなっていたとき、とんでもないスピードで剣を振るう者がいた。
重い剣、いっても木刀なのだが、とにかくその剣では捉えられず、結局一本取られた。
ファーブがスピードで負けるのはフィーネ以来。
そのとき、魔族にもそのような戦い方をする者がいることを知ったファーブがその対策として用意したのがその刺突剣ということになるのだが、アリストにとってもその出来事は幸運だった。
以前のファーブ予備の武器としていた小型の戦斧は主武器の大剣よりはマシとはいえ、非常に重く並みの剣士では扱えるものではなかったからだ。
「まあ、実戦で剣を振るうのは初めてですが、なんとかなるでしょう」
そう呟いたところで、やって来た戦斧を躱した瞬間、バランスを崩した相手に向けて剣が動く。
「王族の嗜みです」
そう言いながら。
「意外にやるな。アリスト」
ファーブはそのアリストを見てそう呟いた。
たしかにアリストは自称剣の素人とは程遠い剣技の持ち主であった。
だが、ふたりが思っていたよりも善戦しているのにはそれとは別の理由があった。
勇者であるファーブがいる。
そして、魔族は数が少ない自分たちの方が討ち取りやすいと考える。
アリストはそう考え、少なくても半数、場合によってほぼすべてを引きつけられると読んだ。
だが、実際は大部分の敵がフィーネたちに集まっていたのだ。
つまり、逃げなければならないもう一方が予想に反し大苦戦していたのだ。
「くそっ。なんでこんなにいるのだ。全部こっちに来たみたいだ」
「まったくだ。こういうときこそ半分になるべきだろう。まったく気が利かない魔族だ」
どれだけ斬っても減らない相手に閉口してブランとマロはぼやく。
そこにやってきたのは女性の声だった。
「それはやはり私の魅力に引きつけられたのでしょう。いつもと違い今日は好きなだけ戦えるのだから感謝しなさい」
余裕綽々といわんばかりにそう返したフィーネだったが、これはある意味真実といえる。
戦死した魔族軍の兵士。
その大部分は彼女の魔法による。
つまり、恨みの度合いからいけば、勇者であるファーブよりもフィーネの方が遥かに大きい。
狙うはまずあの女。
さらにこれは確実に勝てる戦い。
そうなれば、ふたりより三人の方が功は大きい。
つまり、恨みと褒美、その両方を考えてもこちらこそ目指すべき相手。
そういうことでまず追いついた先陣千五百人の大部分はフィーネたちを襲ったのだが、もう少しで突破というところに現れたあらたな敵を三人で相手にするにはさすがに荷が重すぎた。
そして、まず悲鳴を上げたのはフィーネの剣だった。
彼女の剣は細身。
魔族の大剣や戦斧を受けるようにはつくられてはいない。
しかも、いつもは戦闘中にも剣を治癒魔法で修復しているので常に新品状態で戦っているが、今日はその手が使えない。
特別な素材とはいえ、渾身の一撃を数度も受ければ、確実に影響が出る。
次の一撃でまず罅が入り、遂に……。
「やってくれましてね」
フィーネは折れた剣を相手に投げつけ、もう一本の剣を抜く。
だが、ここに空白の時間が生じる。
もちろんこのタイムラグを魔族の剣士が見逃さずはずもなく複数の剣が同時に彼女のもとにやってくる。
そこに強引に割り込んできたのがマロだった。
「フィーネ、一点貸し……」
だが、言いかけたマロの言葉はうめき声に変わる。
無理やり割り込んだために体勢が崩れたうえにフィーネと自分両方の剣を相手にしたのだ。
さすがにこれはさすがに防ぎきれない。
フィーネへ向かった剣の二本、そして、その直後自身が戦っていた者からの三、いや四本の剣がマロの身体に突き刺さる。
あきらかな致命傷。
だが、マロはさらにふたりの剣士を倒し、魔族軍の兵士を恐怖させる。
しかし、次の瞬間、マロは相手に寄りかかるように倒れる。
一瞬の出来事。
そして……。
勇者一行が味わう初めての仲間の死だった。
「兄貴」
「ブラン。今は戦いに集中しなさい」
もちろん殺し合いをおこなっている以上、これは起こりうるもの。
そして、彼らは数多くの敵を殺している。
だから、自分たちの仲間が死ぬことが不条理なものとはいえない。
だが、そうであっても、これは簡単に受け入れられないもの。
絶対にあってはならない現実に直面し動揺し悲鳴のような声を上げうろたえる弟剣士を自身の感情をどうにか抑え込んだフィーネは怒鳴りつけ、崩れかかった意識を取り戻したブランは剣を振るい続ける。
だが……。
やはり冷静ではいられない。
ブランはその感情を剣に乗せて爆発させる。
まずは倒れた兄に群がる魔族兵をすべて戦斧で吹き飛ばす。
続いて近づく者をすべて戦斧で叩き潰す。
今まで以上の破壊力で。
しかし、所詮は個人の力。
数十人を倒しても千人を超える集団にとっては微々たるもの。
しかも、余計な力が入った分、消耗も激しい。
徐々に劣勢になる。
もちろんそれはフィーネも同じ。
どうにか致命傷は免れているものの、これがいつまで続くはわからない。
……このままではそう長くはもたない。
……まだでしょうか。助ける気があるなら早くしなさい。グワラニー。
心の中で呟いたフィーネはすでに何度も確認したその場所にもう一度目をやる。
そして、望んだ色の旗を確認するとニヤリと笑う。
「ブラン。あと少し、あと少しだけ頑張りなさい」
「そうすれば私たちの勝ちです」
もちろんそれは相手にとっては逆の意味である。
しかも、彼らは遠くに見える旗が何を意味しているか知っている。
実をいえば、この赤い旗が掲げられてからまもなく火球群が飛んでくることになっていた。
味方もろとも焼き殺すために。
ただし、それの計画は草原に踏み込む前のフィーネの攻撃が消え去っていたのだが。
だが、それを知らぬ者も多く、当然焦りとなって現れ、彼らの剣に大きく影響する。
そして……。
遂に待ち望んでいた瞬間がやってくる。
……使える。
それを確認したフィーネは剣を捨て、杖を顕現させたのは、相手に対しそれを見せつけるため。
そして……。
「では、ここからはお仕置きの時間です」
ふたり分の防御魔法、続いて治癒魔法を展開した彼女は杖を動かした。
同じ頃、もうひとりの魔術師もその魔力によって反撃に転じていた。
まずは一撃を食らわぬよう防御魔法を。
それから、丘の上に立つ旗を中心とした場所を視線を移す。
むろんそこに愛する妹もいる。
だが、魔族の歓声から仲間の死を知り、心の箍が外れたアリストは躊躇うことなく杖を振るった。
それに続くのは圧倒的強者による一方的な殺戮ショー。
やがて、すべてが終わり、広い草原は風音だけしかしない沈黙の世界へと変わっていた。
そこで四人の生者はひとりの若者の死体と改めて対面する。
「戦いの世界に身を置いて、多くの命を奪っているのですから、こういう日が来るのは当然なのですが、思っていた以上に辛いものですね。仲間の死というのは」
アリストは血だらけで動かない若者とその亡骸に縋りついて泣く弟を見て呟く。
そして、長い沈黙。
「おい。フィーネ。本当に兄貴は生き返るのだろうな」
耐えてきたものが抑え切れず、ふり返ったブランはそう言ってフィーネを睨む。
いつもなら、倍返しのような言葉を口にするフィーネだったが、さすがにこの時は「最善の努力はします。だから、信じなさい」という短い言葉を返すだけだった。
「……とにかくここでやるのはまずいでしょう。とりあえず私の屋敷に戻りましょう。グワラニーたちもあの一撃で仕留めたようですし……」
ようやくやってきたアリストの提案に全員が頷いた。
そして、まもなく生者の痕跡は消え、草原は完全に死だけ横たわる世界になった。
そこから少しだけ時間を戻し、アリストがモエリス平原を一望できる丘に向けて特大の攻撃魔法を撃ち込んだ直後。
その丘の遥か後方で、まるで火山噴火、いや、この世界には存在しないあの忌まわしき兵器が使用されたかのような様子を呈す惨状を眺める一集団があった。
「……少しでも遅れていれば私たちはあの炎で火葬されるところでした」
自身の後方部隊を控えさせていた集合地点であるそこでグワラニーがそう話しかけたのはその攻撃をおこなった者の妹だった。
「あなたの兄上も容赦ないですね」
「ええ」
少女と呼べる年齢でもあるその女性ホリー・ブリターニャはその言葉とともに遠景から男へと視線を移す。
「それは致し方ないこと。なにしろ私と兄は敵同士なのですから元妹がいようが兄は躊躇はしません。当然ですが、逆の立場なら私だってグワラニー様の攻撃を反対はしませんでした」
「本気で言っていますか?」
「もちろんです」
まさに打てば響く。
そのような光速返答にグワラニーは本当の意味で困惑した。
渋い表情を見せるグワラニーと冷たい笑顔のホリー。
その取り成しに入ったのは魔術師長アンガス・コルペリーアだった。
老人が口を開く。
「まあ、王女の心情についてはクアムートに戻ってからゆっくり聞くことにしよう。今考えるべきものは別のものだ」
「あの様子では勇者一行は健在ということになる。つまり、さらに王都に進んでくるということだ」
「その対応をしなければならないだろう」
ギリギリのタイミングであったものの、とりあえずグワラニーたちの計画ではここまでは予定どおり。
そして、そうなることもとりあえずは望ましいことではあるはずの事態を老人が大問題であるかのように表現したのには理由がある。
その場にグワラニーの部隊とは別組織の者がいたのだ。
クラテアス・セアラー。
王がグワラニーたちに同行させた臨時査察官という肩書を持つ監視役の文官の男だ。
「とりあえずセアラー殿を王都に帰し、速報という形で王に今回の戦いについて報告してもらうべきだろう」
「あの様子では査察官で生き残ったのはセアラー殿だけであろうから」
そう言ったところで老魔術師はセアラーを見やる。
「ところで、セアラー殿は王に対してどのような報告をするつもりか?」
その眼光にたじろいだセアラーだったが、自身の肩書をよりどころにどうにかそこから立ち直ると、一度無用な咳払いで仕切り直しをおこなう。
それから、口を開く。
「それは……」
「策は成功し、予定通り襲撃するところまでは成功したのだが、時間が足りず逆襲された。攻撃される前に退避したのでそれ以上のことはわからない。以上だ」
一瞬後、その場にいた全員のの感情を代表するように老魔術師の口が再び動く。
「一応確認するが、本当に報告はそれだけなのか?」
「もちろんだ」
老人は自身の問いに胸を張って答えるセアラーを見る。
「何か問題でもあるのかな?」
「大ありだろう」
「ほう」
「具体的にどこが問題なのか伺いましょうか?」
セアラーは文官とはいえ王直属の者。
プライドは非常に高い。
だが、実際のところ、ここでの彼の仕事が何かといえば、別の世界で言うタイムキーパー。
つまり、この世界に存在する砂時計でグワラニーがどのような時間で旗を出したかを計測する係。
わざわざ同行しながらおこなうことがその程度の者だ。
取柄といえば、命じられたことを手抜きなくおこなうくらい生真面目さくらい。
命じられたこと以上のことはできない。
……まさに文官の鑑。
グワラニーは出かかった言葉を飲み込むと、目の前の男を見やる。
「セアラー査察官。あなたが口にしたことはもちろん陛下に伝える事項である。だが、陛下があなたを託した仕事はそれではない。どうやらわかっていないようなので、こちらから言わせてもらえれば……」
「魔法無効化結界の展開時間の報告。もう少し言えば、我々が予定よりも長く魔法を維持していたことだ」
だが、セアラーはグワラニーの言葉の意味を理解できない。
その表情からそれは明らかだった。
……王がわざわざ査察官なるものを戦いの場に同行させたのは私に対する疑い。それこそ私が時間を誤魔化す可能性があると思い、それを掣肘するためだ。
……そして、そのために私は早めの店じまいができず、アリスト王太子からお礼の一撃をもらったのだ。そこは必ず報告してもらわねばならない。
心の中でそう呟いたグワラニーはセアラーを見る。
「ちなみに時間はもちろん控えてあるでしょうね」
「それはもちろんだ」
「緑旗を掲げた四十四ドゥア後、黄旗を掲げた。それから十九ドゥアが経ったところで赤旗を掲げた」
「そして、赤旗を掲げてから四ドゥア後、解除し戦場を離脱した」
「そのとおり」
「つまり、予定より長い六十七ドゥアの間、我々は結界を維持していたということです。陛下は記録というものを重要視するのはご存じのとおり。これを報告に加えるべきだと思いますが」
「……たしかにそうだな。では、その数字を報告に加えよう」
抜け落ちた重要事項を指摘され盛大に取り繕って体面を保とうとするセアラーの言葉にありがたそうに受け取りながらグワラニーは心の中で盛大に笑う。
そして、土産になるものを渡すためにさらに言葉を続ける。
「それからこれは戦果ということになりますが……」
「具体的に誰かまではわかりませんが、勇者一行のひとりに深手を負わせたのは間違いありません」
「まあ、これは戦場から帰って来た者がより細かな報告をするでしょうが、業務外の第一報を入れておくことは気の利いた部類に入ります。王のセアラー殿の評価も随分と上がるでしょう」
「では、セアラー殿は連絡のために王都へどうぞ」
グワラニーの言葉とともに老人の視線が動く。
その無言の命令は速やかに実行され、老人の弟子であるふたりの魔術師とともにセアラーは王都に向けて転移していく。
丁重な見送りの中、セアラーの姿が消えた瞬間、グワラニーは大きく息を吐きだす。
「馬鹿に気を使いながら相手にするのは本当に疲れます」
「いやいや。それは組織を束ねる者の名誉ある仕事のひとつだ。それを疲れたなどというのは罰当たり甚だしいおこないだと言わざるを得ないな。グワラニー殿」
漏れ出したグワラニーのぼやきにそう冗談で返した老魔術師だったが、まるで、その言葉は何かのスイッチだったかのようにその直後笑みは消え、いつも以上に厳しい表情が浮かび上がる。
「さて、私は望遠鏡を覗いていないので詳細はわからなかったのだが、実際の勇者一行の様子はどうだったかな?グワラニー殿」
「陣の右側を突破しようとしていたのはアリスト王太子と剣士がひとり。順当に考えれば王太子の護衛をしていたのは勇者でしょう。そうなると怪我をしたのはおそらく兄弟剣士のどちらか」
「小娘ではないのか?」
「フィーネ嬢の目立つ白い甲冑は最後まで動いていましたらおそらく健在」
「それで、その怪我をした剣士の様態は?」
「敵が群がっていたので相当厳しいでしょう。ですが、その直後、もうひとりが敵を薙ぎ払いましたのでトドメは刺されていない可能性が高いです。それに、向こうにはフィーネ嬢がいるので瀕死の重傷でも助かるでしょう」
「なるほど。つまり、勇者は無傷のままこちらに来るわけか」
「となると、偵察を出すしかあるまいが転移魔法で近づかないほうがいいな」
「そうですね」
そう言ったグワラニーの視線が動く。
「では、私に同行するのは副魔術師長、護衛隊。それから王女に……」
増員した護衛隊によって編成される先行部隊は十五人。
そして隊長であるコリチーバ自身が指揮する護衛本隊は五人の前衛に続くのはコリチーバ。
その後ろにグワラニーとデルフィンとホリーとなり、三人の背後を三人の兵士が守る。
さらに、そのかなり後方に、もしもの場合の連絡要員として三人の兵士と魔術師ふたり。
「万が一の場合、迎撃は無用、王都に連絡後、クアムートに撤収。その後、予定通りの生き残るための行動を。撤退の指揮は魔術師長にお願いします」
「では、行きましょう」
そして、森の中を進むこと二セパ。
視界にその場所が入ってくる。
だが、肝心の勇者が発見できない。
「発見されぬよう街道ではなく森を歩き、痕跡を察知されぬよう魔力を封印していましたが、ここから先は遭遇戦の可能性があります。副魔術師長。防御魔法の展開を……」
それから、森を出てさらに兵士を散開させて勇者の痕跡を探すものの、全く見つからず。
それどころか、最後に確認された場所から前進した痕跡すらまったくない。
「周辺の敵を駆逐した勇者がこちらに進んだ痕跡はない。そして……」
「ここまで来たにもかかわらず攻撃もしてこない。その状況から考えられることはひとつしかない。後方の魔術師を呼び寄せ、転移避けをおこなわせたうえで、後退します」
そして、それからまもなく。
「……勇者が後退した?」
戻ってきたグワラニーの言葉にアンガス・コルペリーアは呻く。
そして、老人もグワラニーと同じ結論に達する。
「……わざわざ言う必要もないことだが、死の一歩手前でもデルフィンの治癒魔法なら回復できる」
「そして、銀髪の小娘も治癒魔法ならデルフィンと同格。治せない負傷はないだろう。そこから考えられるのはふたつ。小娘自体が治癒魔法を使えない事態に陥っている。そうでなければ、勇者一行のひとりが死にその弔いのために後方に下がった」
「そう考えれば、アリスト王子が妹を盾にしている我々に対してあの攻撃をおこなったのも説明できる」
それはグワラニーが辿り着いた勇者が後退した理由と同じ。
そして、グワラニーにとってそれは最悪の事態といえるものでもあった。
なにしろそれによってこれまで築き上げてきた関係が崩れたことを意味するのだから。
「とにかく王都に戻り、勇者が後退したことを伝え、より強力な転移避けを実施して勇者の足を止めるしかないでしょう」
こうして、勇者一行に続き、グワラニーたちも戦場を離れ、「両雄の激突戦」とも呼ばれる「モエリス平原の戦い」は終了するわけなのだが、実をいえば、この戦いはすべての面で奇妙な結果なものだった。
結果だけでも、魔族側は参加将兵一万五千以上のほぼすべてが死亡という全滅に近い損害を被ったものの死者一名の勇者一行を撤退させることには成功する。
さらにアリストとグワラニーはお互いに敗者は自分だと思っていた。
そして、なによりも自分たちは相手を殺したという認識を持っていた。
特にアリストは怒りに任せて妹も攻撃に巻き込んだと自責の念に悩まされ、再度の前進が大幅に遅れることになる。




