愚かな男たちと賢い女たち
その夜、バイアとともにまもなくおこなわれる戦いの準備を進めていたグワラニーに面会を求める者がいると伝えられる。
むろんそれがクアムートの交易所からのものであるかぎり、名を言わなくてもそれが誰かはすぐに特定される。
「……勇者も随分余裕のようですね」
「別れの挨拶ということかもしれない」
「それは随分と潔いことで」
「いやいや、向こうだって自分たちが勝つと思っているのだ。消え去る私たちの顔を拝みに来たついでに妹を引き取る算段をしに来たとも考えられる」
「……ありえますね。十分に」
デルフィンとホリーを呼びに使者を送り、ふたりとアリシアがやってくるのを待ちながらふたりは冗談を言い合っていたが、その言葉とともにバイアの表情は険しいものに変わる。
「今日はホリー王女とアリスト王太子をふたりだけにするのは危険でしょう」
「アリスト王子に対する最大の盾は彼女。その彼女をがいなければアリスト王子は手加減する必要がなくなりますから」
そして、三十ドゥア後にホリーとともに現れたアリシアもその意見に賛成したのだが、ここでグワラニーとバイアにとって予想外の出来事が起こる。
いや。
予想外の発言が飛び出る。
「ご心配なく。兄上が何と言おうが私はブリターニャに戻る気はありませんから」
「正しくは、ブリターニャの王族として戻る気はありませんということになりますが」
むろん言葉としては伝わった。
だが、ホリーのその言葉を信じていいのかは別の話だ。
グワラニーとバイアは顔を見合わせる。
「そういうことなら、兄妹ふたりだけの話はなくてよいということでいいのでしょうか?」
「はい」
カマかけのつもりで口にしたバイアの言葉にも勢いよく応じるホリーに戸惑いながらもここはその言葉を信じるしかない。
とりあえず今日の兄妹の懇談の場は開かれないことが決まり、最大の案件が消える。
……どのような魂胆があるかは知らないが、こちらにとっては都合がいい。
そう心の中で呟きながら。
さすがのグワラニーも気づかなかった。
乙女の心境が急変し恋愛対象が自分に動いたことを。
もちろんバイアもこの時はホリーの言葉に裏があると決めつけていたため、そこまで意識が回らない。
だが、男ふたりが気づかないそれを女性陣ふたりはすぐに気づく。
ひとりは微笑ましく思いながら。
もうひとりは最高レベルの警戒心を持って。
いつもより少しだけ遅くなったグワラニーたちだったが、その中のひとりがそれまでと違うオーラを纏っていることを勇者一行唯一の女性で自称恋愛マスターであるフィーネも気づく。
そして、心の中で笑う。
……おやおや、ブラコン王女はその看板を捨てて、別の男に乗り換えたのですか?
……もしかしてグワラニーが王女に手を出したということですか。
……どうやらお嬢もそれに気づいた。
……これはおもしろい。
またもや勝手に濡れ衣を着せられたグワラニーだったが、もちろんそんなことには気づかない。
いや。
そんな余裕はない。
なにしろ、ここからイーブンな状況でアリストと戦いをおこなわなければならないのだから。
「今日はどのようなご用件で?」
「決まっている。ホリーが元気にしているかを確認に来たのだ」
グワラニーの挨拶にアリストはいつも通りの言葉を返すものの、そこでアリストもようやく気づく。
妹が自分に対して冷たい目を向けていることを。
だが、ここでアリストは大いなる勘違いをする。
「グワラニー。おまえ、ホリーに何か吹き込みはしなかったか?」
その瞬間、フィーネは吹き出し、アリシアもたまらず笑みを零す。
だが、その笑いの意味が分からぬ大部分の者はまさに「キョトン」と音がしそうな表情を浮かべる。
そのひとりであるグワラニーは首を傾げながらその意味を考えるものの、結局わからず。
そして、その混乱に拍車をかけるひとことを口にする。
「もちろん。殿下がこれまでおこなった数々の悪行をたっぷりと聞いていただきました」
もちろんこれは嫌味に対する嫌味のお返しと言うだけで正しいことなどまったくない。
だが、アリストは妹の様子からこれが本当のことだと受け取る。
そして、盛大な言い訳を始める。
「ホリー。グワラニーは口がうまいので本気にしたかもしれないが、こいつの言っていることはすべて嘘だ。信じてはいけない。そもそも……」
「兄上」
「なんでしょうか」
「そんなつまらぬことを言いに来たのならお帰りください」
これぞ、ザ・門前払い。
そして、フィーネの笑いは最高潮に達する。
「ア、アリスト。王女殿下は機嫌が悪いのです。いくら取り繕ってもどうにもなりません。諦めて本題に入りなさい」
フィーネによる取り成しに渋々応じることにしたものの、納得できないアリストはグワラニーを睨みつける。
入口で盛大に躓いたアリストはしばらくの沈黙し、ようやく平静を取り戻したところで口を開く。
「まず礼を言っておこうか」
「礼?何のですか?」
「とぼけるな。もちろん先日の小細工に関してに決まっているだろう。おかげで私たちは最初から旅をやり直すことになったのだから礼くらい言わねばならないだろう」
……なるほど。
もちろんグワラニーは察した。
ガスリンが手配した転移避け工作をアリストはグワラニーがおこなったと思っていることを。
グワラニーはバイア、続いてアリシアに目をやる。
……王太子の勘違いを利用する手もあるが、ここは真実を伝えるべきということか。
ふたりの視線でそれを感じたグワラニーは薄い笑みを浮かべる。
「王太子殿下は何か良からぬことが起こるとすべて私が関わっていると信じているようですが、私はそこまでの悪党ではありません」
「真実を申し上げれば、あれには私は一切関わっていない」
「関わっていない?」
「ええ」
そこで言葉を切ったグワラニーはアリストに目をやる。
「なかなか気が利いたものだとは思いますが、あれは別の方がおこなったものです」
「ですから、残念ですが、その礼は受け取ることはできません」
アリストは疑わしそうにグワラニーを眺め、それからバイアとアリシアの様子も見る。
そして、偽装している様子はないことに気づく。
アリストは大きく息を吐きだす。
「まあ、そこまで言うのならそういうことにしておこう」
「それで本題というのは?」
「一応。次回顔合わせるのは戦場になるのだ。場合によって二度と顔を合わせられなくなるのだ。ひとつ確認しておきたい。というより、約束してもらいたい。具体的には……」
「もし、次の戦いでおまえが死んだらホリーを返してもらいたい。間違っても報復の対象にはしないことを約束してもらいたいということだ」
「もちろんいいです」
グワラニーはアリストの要求を受け入れ入る。
だが、もちろん続きがある。
「ですが、私は戦場に王女を連れて行きます。そこはお忘れなきよう。それと……」
「逆の場合の対価は何でしょうか?」
「大きな要求を出し、こちらはその要求を飲んだのです。そちらも相応の対価を示すべきでしょう」
グワラニーの要求はそう理不尽なものではない。
だが、アリストにとってこれは難問であった。
まずそれを拒否することが難しい。
では、どのようなものが妥当なのか。
人的保証、金銭での解決。
常識的に考えてそのどちらかであろうが、そのどちらも難しい。
まず、前者でいえば、グワラニーに差し出すその者はアリストにとってのホリーと同等の価値を持つ者でなければならない。
しかも、その価値とは、グワラニーにとってという条件がつく。
考えられるのは父、つまり現ブリターニャ国王。
ありえない。
では、金銭か?
それだって千億枚単位を要求されるのは確実。
さすがにアリスト個人でどうにかできるものではない。
そして、それ以上に問題なのは、その支払いをおこなわなければならないのは、アリストが戦死したときという部分だ。
そう。
そうなれば、ブリターニャは約束を違えるのは確実。
そして、それはグワラニーのブリターニャ侵攻の口実になるというわけである。
……そうであれば……。
アリストが口を開く。
「とりあえず、おまえが要求するものを聞こうか」
実をいえば、この世界におけるこのような交渉の中でこの言葉は悪手中の悪手と言われる。
だが、そのようなことはアリストだって承知している。
承知のうえでそう言ったのは相応の理由がある。
すべてが空手形になるから。
もちろんこの世界には手形に該当する言葉がないので実際は空約束ということになるのだが、とにかく、そういうことでどうせ実現できないのだから、まずは相手の要求を聞くことにした。
だが、そうなればグワラニーは遠慮しない。
最大以上のものを要求する。
「ブリターニャ金貨五千兆枚。ホリー王女の価値に釣り合うものとしてはこれが最低限となります」
別の世界における価値に直せば五千京円。
どんな国でも破産であり、それを一括して払えるものなどいない。
ちなみに、この世界の最高単位は兆。
そして、万、億、兆は、別の世界でアジアの一部でしか使用されないもの。
それ以外のことを勘案すれば、持ち込んだ者は日本人の可能性が高いことを示す証拠とフィーネは考えている。
とりあえずそれは脇に置き、それを持ち込んだ者は、兆以上の単位が必要と考えなかったのだろうが、それ以上の単位が必要な場合は、一万兆、一億兆と進んでいくことになっている。
話を進めよう。
「……高い」
「私は王女の価値はこれくらいはあると思っているのですがそうおっしゃるのであれば、お伺いします。殿下はホリー王女の価値を表すのにブリターニャ金貨何枚とするのですか?」
「そんなもの、言えるわけがないだろう」
「では、五千兆枚で決まりということでいいでしょう」
「一万。いや、十万枚」
むろんアリストだってその途方もない金額に同意したいところではあるのだが、グワラニーのことだ。
その言葉を書面で残す。
そうなれば、自分が敗死したとき、国に大きな負債を残すことになる。
ここは自分の資産内で収める必要がある。
常識的には間違っていない。
というより、評価されるべきものではある。
だが……。
「ホリー王女の価値をたったそれだけにしか見ていないとは……お~なんと愚かな」
そう言ってグワラニーは盛大に頭を抱える。
もちろんこれは誰でもわかるくらいの臭い演技。
だが、響く人には響く。
男女ふたりが顔を赤らめる。
もちろんそのひとりであるアリストは怒りで顔を赤くしたわけなのだが、もうひとりが頬を染めたのは別の要素によるものだった。
「最低でもあと五桁はつけて貰いたかったですね」
「うるさい。私は払える範囲で最高のものを示したのだ。おまえのように要求する側だったらおまえの百倍示している」
アリストはそう主張するものの、すでに手遅れ。
状況が回復する様子はまったく見られない。
そして、焦ったアリストは痛恨のひとことを口にする。
「まあ、どっちにしても私が勝てば支払い義務は生じない。負ける気などまったくないのでこんなものは所詮戯言」
たしかに勝てば支払い義務は生じないので問題ないというアリストの主張は事実である。
だが、この場ではそのひとことは絶対の言ってはいけないものだった。
そして、それはすぐにやってくる。
「そうであれば、なぜ五千兆枚以上を示さなかったのですか?」
「もう一度言います。負ける気がなければ六千兆枚だろうが七千兆枚だろうが言えたはずです。それにもかかわらず十万枚をつけたということは、兄上は私の価値をそのくらいだと判断したということでしょう」
グワラニーの口から出かかった言葉を一瞬早く口にしたのはホリーだった。
「ホ、ホリー」
もちろんアリストはうろたえるが、程度の違いはあるものの、それはグワラニーやバイアも同じだった。
情けない男たちを置いてホリーの言葉はさらに続く。
「ここに来る前に自分が進むべき方向はある程度決めていましたが、兄上の今のひとことで決心しました」
「私は魔族の国に残ります。いいえ。魔族の国の者になります」
「ですから、それ以上の話がないようでしたらお帰りください」
……けんもほろろ。それはこのようなときに使用する言葉でしょう。
むろんそれは自称恋愛マスターの心の声である。
二十ドゥア後。
本来の要件を話したのかもわからぬまま追い出されるようにアリストは交易所から去る。
敗残兵のように項垂れて。
一方のホリーはなにか吹っ切れたかのように明るさに満ち溢れている。
そして、グワラニーにむかってこう宣う。
「そういうことでこれからよろしくお願いします。グワラニー様」
むろん何事もないようにその言葉に応じたものの、アリストとは別の意味でグワラニーは動揺を抑えられない。
……グワラニー様?様?
……いったいどういう風の吹き回しだ。
そして、盛大に疑う。
これは何かの罠ではないかと。
そして、ホリーとアリシアを帰したところで交易所に残ったバイアとグワラニーは話し合う。
「……はっきり言おう。これはおかしい」
グワラニーはそう切り出す。
「ホリー王女は間違いなくブラコ……アリスト王太子が好きだった。好きというより愛しているといったほうがいい。それはこれまでの言動からはっきりしている」
「それが今日の王女はあからさまに兄を突き放していた」
「まるで二度と顔を合わせないような決別宣言までおこなった」
「それだけ魔族の国を気に入ったということであれば結構な話だ。もちろん私は自分の領内については自信はあるが、それでも、それだけで自国で何不自由なく暮らしていた王女が自国を捨てるだけの気持ちになるとは思えない。では、そうなるための特別な心境の変化を起こさせる何かがあったかといえば思い当たるものは何もない。となれば。考えられることはひとつ」
「意図的に兄を突き放し、自分もろとも我々を消し去るように兄をけしかけたということだ」
グワラニーの言葉にバイアは頷く。
「実は私も同様のことを考えていました。自分が王子の攻撃に対する我々の盾。もう少しいえば枷です」
「そして、自分がいればグワラニー様を躊躇いなく攻撃できない。その対策として、あのような心にもない言動をした。それが私の判断です」
「ただし……」
「アリスト王子のあの様子では王女の希望は叶えられたとは思えませんが」
実をいえば、グワラニーとバイアが下した結論に到達した者がもうひとりいた。
アリスト・ブリターニャである。
突然変貌した妹の様子にグワラニーの策を疑っていたアリストであったが、一晩寝て頭を冷やしたところでもう一度考え直す。
そして、賢明なホリーがグワラニーの口車に簡単に乗るはずないと思い始める。
そうなると、考えられるのはひとつ。
勇者のひとりである兄はグワラニーを屈服させなければならない。
そのときに自分がグワラニーの傍にいては兄の攻撃が鈍る。
兄の枷を外すこととこそ王女である自分の義務。
ホリーの言動はこう考えに沿ったもの。
……そして、グワラニーは本気でこちらを討ち取る気で来ている。手を抜いたらやられるという警告でもある。
グワラニーとアリスト。
このふたりが同じ結論に達し、しかもそれが不正解というのはあまり例のないことではあるが、彼らの思考は常に謀略に軸足を置いていたもの。
乙女の恋愛心など彼らの思考する際の考慮すべき要素には欠片もなかったことが今回の失敗に繋がったといえるだろう。
ある意味鈍感といえる男性陣と違い、その場にいた三人の女性たちはホリーの心情の変化の理由にすぐに気づく。
実際にはそこまで大袈裟なものではないのだが、とりあえず愚かな男性陣の対となるものとしての賢者の位置に立つひとりがデルフィンだった。
もっとも、彼女は多くの場面と同様ここでも無言でやり過ごす。
ただし、ライバルの出現に心穏やかというわけにはいかなかったのだが。
アリシアもそれについて無言であり、さらに男性陣が完全なる勘違いをしていることにも気づいていたのだが、それが特別な影響をもたらすものでないとしてそのまま流すことに決めた。
そして、最後のひとりは自称恋愛マスターのフィーネである。
彼女もすべてに気づいていたもののアリストに警告することはなかった。
これは彼女自身の目的によるといっていいだろう。
つまり、ホリーがグワラニーに恋愛感情を抱いていることを知ったアリストが逆上し、ホリーもろともグワラニーを灰にするようなことになっては困る。
それであれば、ホリーが王女の責任感であのような行動に出たと思わせておくほうがよい。
そういうことで気づかぬ者はもちろん、気づいた者も放置を決め込んだために結局ホリーの思いは誰にも届かず、そして、この後も空振りの連続になるのである。