アヴィニア会談
正式には「第一回アヴィニア会談」と呼ばれることになる、この日おこなわれたグワラニーとダニエルの会談。
時間も短く内容も驚くほどのものがあったわけでもないこの会談がのちに歴史的出来事のひとつとされるのは、むろん不俱戴天の仇である魔族と人間の権力者が戦場以外で話し合ったからである。
もちろんこの時点でのグワラニーは強力部隊を率いているとはいえ魔族軍の将のひとりでしかなく、魔族と人間の権力者が交渉したということであれば、グワラニーとブリターニャの王太子であるアリストの会談がすでにおこなわれている。
それにも関わらず、この会談がそこまで重要視されるのは一方が事実上の国王だったからであるのは間違いないだろう。
フランベーニュの王宮の一室。
急遽始まることになったその会談の出席者は次のとおりである。
魔族側。
アルディーシャ・グワラニー。
デルフィン・コルペリーア。
フィーネ・デ・フィラリオ。
もちろんフィーネが魔族側の人物かといえば違うわけなのだが、そうかと言ってテーブルの反対側には座れないし、単なる護衛となれば発言の機会は失われる。
そう言った諸々の事情の結果である。
そして、三人の後方に護衛としてファーブたち三人が控える。
といっても、すでにデルフィンによってとんでもない結界が張り巡らされているので何があろうが彼らに出番は回ってこないのは確実ではあるのだが。
フランベーニュ側。
ダニエル・フランベーニュ。
エティエンヌ・ロバウ。
アーネスト・ロシュフォール。
オートリーブ・エゲヴィーブ。
それから、書記としてダニエルの秘書官バティスト・セリウラが同席するが、もちろん発言権はない。
そして、こちらも、ロバウの部下で将軍の地位にあるクリストフ・ケルシーとアナトール・リュゼック、ロシュフォールの部下で准提督であるアンセルム・メグリースとシリル・ディーターカンプが護衛につく。
年齢は若いとは言えないがその分品のある女給によってテーブルには人数分の茶が並ぶ。
むろんすでに駆け引きが始まっている。
ダニエルは出された茶を口に含むと、グワラニーにもそれを勧める。
ここでそれを飲めないようなら当然意気地なしと見下され冷笑されるわけなのだが、それを嫌い男気を見せるために出された茶を勢いよく飲み、そのままこの世と決別した者は意外に多い。
そう。
実はこのような場での毒殺はフランベーニュの宮廷内では珍しくなかった。
もちろんそのような内情は知らぬものの、敵陣に乗り込んでの交渉で出された茶を飲まないなど交渉の初歩の初歩というものであり、当然グワラニーは手を付けない。
「……根性なしが。この場でそんなことをやれば、すぐさま報復がおこなわれ、こちらもただでは済まない。そうなることがわかっていて誰がそんなことをやるか」
だが、相手にもよく聞こえる独り言を呟いた直後、ダニエルの心にそれとは別の想定が浮かび上がる。
待てよ。
それはあくまでダニエルの考えであって、忠臣ヅラした誰かがダニエルの許可なしにグワラニーの器に毒を塗り込むんだというのはありえない話ではない。
そうなれば……。
もちろんこの焦りはその挙動に現れる。
当然グワラニーも気づく。
薄い笑みを浮かべたグワラニーが口を開く。
「……王太子殿下。せっかくですから、同じ器で飲みましょうか」
……さすがですね。
……毒の可能性を察知し、一応相手を立てながら安全が確認できたものを選択する。
そう呟いたフィーネは自身が口にした茶の入った素焼きの器を眺める。
……それにしても……。
……この男の子分どもはろくな者がいないようですね。
フィーネは口に残る違和感に黒い笑みを浮かべる。
……この毒は即効性というより時間を少しだけ置いてから作用するもの。
……全員が飲み終わったところで効果が出ることを期待したものでしょう。
……これを飲めば昇天。
……ですが、娘の方は飲み干しましたか。つまり、この娘も毒に対する魔法を習得しているということですね。
口に入れた瞬間、顔を歪めたものの、すぐにすべてを飲み干したデルフィンの様子はまちがいなく自分の同類と感じたフィーネは笑みを浮かべる。
……ということは、危ないのは後ろの三人ですね。
「あなたたちには飲まない方がいいでしょう。これは高級な茶。下賤な者が飲むと腹を壊しますから」
振り返ったフィーネは目を大きくしてから、口を開き、ことさら三人を嘲るような言葉を投げかける。
いつもなら、それに反発し、脳筋オブ脳筋であるブランを皮切り三人が茶を飲み干すところであるのが、この時は違った。
「……なるほど」
「まあ、フィーネがそういうならやめておくか」
「ああ。では、お嬢様であるフィーネが全部飲むといい。俺たちはあとで酒を飲む」
もちろんフィーネの言動は毒入りであることを伝えるための符号。
それに気づいた三人もそのまま器をフィーネに返す。
そして、デルフィンも……。
「グワラニー様。このお茶は非常においしいですので、口をつけないのであれば私が頂いてよろしいですか?」
「おいしい?」
「……はい。グワラニー様ではなく私が飲むべきものであると思います」
「……なるほど。では、どうぞ」
結局、毒入り茶を飲んだのはふたり。
といっても、この場で全員分を注いだのだから、毒は器についていたということになるのだが、とにかくその毒を仕込んだ者の意図は脆くも崩れたということになる。
「せっかくだ。返杯を」
「フィーネ嬢。お願いできますか?」
「もちろん」
グワラニーの意図を正しく読み取ったフィーネはそう言ってポットの茶を自身の器に入れ、ダニエルの前に差し出す。
「魔族が口にしたものはないので問題ないと思いますがいかがでしょう?」
「ああ」
そう言ってダニエルが器に手をかけた瞬間、ひとりが動く。
「やはり」
その言葉をとともに、フィーネの視線が動き、次の瞬間、その者の両足に氷の剣が刺さる。
「それは毒入り。というか、器の内側に毒が塗り込んであります。だから、飲むと死にますよ。王太子殿下」
フィーネは立ち上がると、自身が氷剣で床に縫い付けた者に近づく。
「茶器を運んできたのだから少なくてもあなたは毒を塗られた器がどれかを知らなければならない」
「例えば、この場にある器全部に毒が塗ってあるのなら別の目的ということも考えられますが王太子や将軍たちがこうして生きているということは当然私たちを狙い撃ちにしたということ」
「残念ながら、グワラニーは危険を察知して手をつけず、私とそこの少女は毒に耐性があったのでことは成就しませんでした」
ブランが物凄い速さで歩けなくなったその者に猿轡を噛ませ、自殺を阻止したところで、フィーネは某世界の名探偵のごとく謎解きと黒幕捜しを始める。
むろんダニエルにとっては身に覚えのない完全な濡れ衣。
それはその場に並ぶ者たちも同じ。
一斉に自身の身の潔白を主張し始める。
全員の言い訳を聞いたところでフィーネはダニエルに加虐趣味者が獲物を見るときに似た視線を向ける。
「やはり王太子に厳しいお仕置きが必要なようですね」
「本当に私はそんなことは考えていない。そ、そ、そうだ。その女に聞けばいいだろう。そうすれば、私の無実は証明される」
涙ながらの哀願。
もう、恥も外聞もない。
だが、その直後、フィーネの冷たい声がその場に響き渡る。
「ですが、王宮内で私たち六人を毒殺しようとしたのは事実。あなたはこの王宮の責任者として相応の罰は受けてもらわねばなりません。最低でも腕一本は必要ですね」
「まあ、何にしても……」
そう言ったフィーネはダニエルから猿轡をされた女性に目をやる。
「まずはこの女からすべて聞くことにしましょうか」
「この者の名は?」
「クラリス・ペリゴール。クペル平原会戦で戦死された故オレール・ペリゴール伯爵の夫人となります」
「なるほど。子供は?」
「たしかふたり」
秘書官セリウラの口から身元が明らかになったところでフィーネ合図によってペリゴールの猿轡が外される。
「クラリス・ペリゴール。最初に言っておきますが、私は魔術師。しかも、多少なりとも息があればどれだけ深い傷であっても治すことができます。ですから、私が許さないかぎりあなたは死ねない。どれほどの痛みであろうが必ず治る。楽になりたかったらすべてを話すことをお勧めします」
「それともうひとつ。私はフィラリオ家の者。公爵家の者を毒殺しようとしたのだ。当然その報いはあなただけではなくあなたの子供にも及ぶ」
「では、始めましょう。ひとつ目。誰の指示でこのようなことをおこなったのですか?」
「誰でもない。すべて私が……」
「嘘はいけませんね」
悲鳴。
いや。
それはもはや咆哮と言ってもいいものだった。
それを心地よい音楽のように楽しむフィーネによって足に刺さっていた氷の刃はさらに激しく動かされ、ペリゴールは口から泡を吐きながら悶え苦しむ。
だが、一瞬後、それは止む。
「痛みが取れたでしょう。名前を言う気になりましたか?」
「知らない」
「……そうですか、では、もう一度」
それが数度繰り返されたところでフィーネはため息をつく。
もちろんそれで諦めたのかといえば、そうではない。
「この女の子供たちを連れて来てもらい、目の前で目玉をくり抜き爪をはがし指を一本ずつ切り落とす様を見ていただきましょうか。王太子。今すぐ手配を?」
「あ、ああ」
目の目でおこなわれていること。
そして、それをおこなっている者の笑み。
その狂喜に圧倒されたダニエルが短く応じると、フィーネはペリゴールに視線をやりながらこう呟く。
「では、それまでの間、子供たちが味わう痛みがどのようなものか体験してもらいましょうか。まずは目玉のくり抜き……」
「やめて……」
ついにペリゴールは屈する。
そして、ほどなく黒幕はあきらかになる。
「……クロヴィス・ビエルソンとアルベルク・シェブルーズだと」
ペリゴールの口から吐き出されたその人物の名を聞いたダニエルはうめき声のような声を上げる。
「あの者たちは陸軍の将でありながら早い段階から私に付き従っていた。そして、私もあの者たちを信用していた。それなのに……」
ダニエルの恨みが籠った声に応じたのは、それまでフィーネの尋問、いや拷問を冷たい目で眺めているだけひとことも発しなかったグワラニーだった。
「……おそらく焦っていたのでしょう」
「私が知っているかぎり、ここにいるロバウ将軍やロシュフォール提督はどちらかといえば、新参の部類」
「その彼らが交渉に参加し、長年従っていた自分たちが部屋の外で待機させられる。しかも、部屋の中に残る護衛も彼らの部下」
「このままでは自分たちは権力の中枢から遠くなるばかり。そこで王太子殿下にとって目障りこの上ない者たちを排除するという功を挙げて復権しようと考えた。そこにこの場を取り仕切る宮女。しかも、彼女はクペル平原で夫を失っている。私たちが夫の仇といえば喜んで企てに加担すると読んだ」
「吟遊詩人の話に登場する使い古された筋書きですが、使い古されたということはそれだけ有効な手でもあるということを示しているともいえます」
「まあ、そういうことで、まずはそのふたりを捕えるべきでしょうね」
その言葉とともにダニエルは視線をロシュフォールへ動かすと、ロシュフォールはディーターカンプに目をやる。
「捕らえることを第一とせよ。もちろん扱いは将軍にふさわしいものを。ただし、素直に降伏せず抵抗の意志を示すようであれば、容赦なく斬り捨てろ」
ダニエルたちの慌てふためく様子を楽しそうに眺めながら、グワラニーはフィーネに囁く。
「……それにしても随分と過激でしたね」
「あれは間違いなく拷問。時と場所が違えばたとえ相手が罪人でも確実に罪に問われますよ」
むろんグワラニーが口にした言葉は過度な虐待行為を慎むよう注意を促すもの。
それはフィーネも十分にわかっている。
そして、それとともにそのような考えかたではこの世界では生きていけないことも知っている。
フィーネは少しだけえ自嘲気味に笑みを浮かべ、そして口を開く。
「……そうですね」
「ですが、ここはそのようなことを規制されていない世界。問題ありません」
「そして、この世界では敵に対する優しさは必ずしも良い方向にだけ作用するわけではありません。というより、そこをつけ込まれ最終的には自らの滅びに繋がるのです」
「気をつけるべきはあなたですよ。アルディーシャ・グワラニー」
そう言ってふたりだけがわかる会話を切り上げたフィーネはダニエルを見やる。
「さて、余興が済んだところで、仕切り直しとしましょうか」
肝心の話が始まる前というこの時点で交渉の主導権はグワラニーの手中にある。
そして、彼は絶対にそれを手放さないのはこれまでおこなわれた多くの交渉で見られたこと。
もちろんダニエルも完璧なホームゲームであるはずが、圧倒的に不利な状況になっているこの交渉の香りを自覚していた。
それもこれも、すべてあの馬鹿ふたりのおかげだ。
ダニエルは誓う。
捕えたら簡単には死なせないと。
だが、そのためにはここを無事乗り切らねばならない。
「それで……魔族軍の将がわざわざ私のもとを訪れた理由。それをあらためて伺おう」
部下たちもいる。
ここで卑屈になれないダニエルの精一杯の言葉にグワラニーは薄い笑みで応じる。
もちろん、それは嘲りの成分が濃いものだ。
「フランベーニュの最高権力者がどのような人物か。それを確かめるために来ました」
「それで、実際に会った私の印象はどうだったのかな?」
「話がわかりそうな人物。というところでしょうか」
これは受け取り方によってどのようにも解釈できる。
信頼できる相手。
簡単に手玉にとれる相手。
そして、ダニエルは後者と考えた。
だが、ここはそれに気づかぬふりをして流すしかない。
「そうか。私は見た目通り話の分かる男だ。今後もよろしくと言っておこうか」
とりあえず一件落着。
安堵するダニエルがったが、その直後事態は一変する。
なんと笑顔のままでグワラニーがとんでもない提案をしたのだ。
「まあ、せっかく来たのです。手土産代わりに提案をさせてもらいましょう」
「もし、この場で休戦するようであれば、現在フランベーニュが占領している我が国の土地、その大部分をフランベーニュのものと認めてもよい」
「具体的に東西はモレイアン川を境に、南北はエクラン山地あたりを境になります」
むろんそれが実行されればベルナード率いるフランベーニュ軍主力は大幅な後退を余儀なくされるが、実際のところ、補給が続かない以上、このままでは補給上の難所となっているエクラン山地の南側まで後退せざるをえない状況にある。
つまり、グワラニーが提示したのはほぼ現状維持と言っていいだろう。
そして、以前ミュランジ城攻防戦の最終盤に現れたグワラニーに似たような提案を受けたロバウとロシュフォールはすぐに察した。
これは本気であり、受けるべきもの。
だが、その判断をするのはダニエル。
もし、ダニエルから助言を求められたら、応じるように言うだろう。
しかし、そのようなこともない中で口を挟むのは越権行為。
それを十分に承知しているふたりは黙ってダニエルの言葉を待つ。
そして、長い沈黙後。
ダニエルが口を開く。
「拒否する」
ダニエルのその言葉を聞いた瞬間、ロバウ、ロシュフォール、エゲヴィーブの表情が変わる。
三人は自身が見た圧倒的な力がこの場を支配する凄惨な光景を目に浮かべる。
敗北感が漂うその中でダニエルの、意外なくらいに力強い言葉は続く。
「つけ加えておけば……」
「一介の将である者に停戦の条件を示されて承諾するほど私の言葉は軽くない」
「魔族が本気でそのつもりであるのなら、それは王自身が語るべき言葉。そうでなければ、書面で示す。国に対してそのようなものを要求するのであれば最低でもこれくらいのことをやってもらわねばならない」
ダニエルのこの言葉はたしかに正論である。
正論ではあるが、この状況で言えるものではないともいえる。
当然グワラニーは激怒。
交渉は決裂。
ただちに戦闘開始。
いや。
虐殺が始まり、王宮、王都、そして、最終的には国が終わる。
三人の男が心の中で想像する目の前に迫る終末。
だが、三人の耳にやってきたグワラニーの言葉は少々ニュアンスの違うものだった。
「一応、言っておけば、これは国に対する降伏勧告ではありません。臨時的な停戦、そのもう一段階効力のある休戦と考えていただきたい」
「そして、一応この休戦の勧告をおこなうことを私は許されているのはノルディアやアリターナの例を見ればあきらかでしょう」
「まあ、王太子殿下の言い分にも正しさはあり、その立場もある。簡単にこちらの提案を承諾するわけにはいかないことも理解している」
「ですから、今回はこれ以上の要求はしませんし、この話はここで終わりにします」
「ただし、次にこのような形でお会いしたときに提案するものは、今回のものより遥かに厳しいものであることだけはご承知ください」
意外にあっさりとグワラニーは提案を引いた。
表面上はダニエルの主張が通ったように見えるのだが、これがそのまま評価になるかといえば違うと言わざるをえない。
「……あれが私の失策のひとつと言われれば確かにそうかもしれない。だが、あのときグワラニーの言葉を受け入れてしまったら、私は優勢にある状況にあるにもかかわらず、敵に王宮に乗り込まれるという失態を犯しただけではなく首筋にナイフを突きつけられると泣きながら降伏した『この世界一の腰抜け』として全世界の者に嘲笑されただけではなく、怒り狂った軍に暗殺されていただろう」
「将来的に国家が滅ぶ可能性が高い道。そして、国は残るかもしれないが私自身は汚辱に塗れながら消える道」
「為政者たる者、国のために自身の命を捧げるべきという意見があることは知っている。だが、それは、自身の命を捧げる必要がない者の言葉である」
「少なくても私はあの時の判断は間違っていたとは思わない」
その判断を下したダニエル・フランベーニュは後にこの時のことをこう述懐しているのだが、実をいえば、その場いたロバウも同様の言葉を幕僚たちに対して同様の残している。
「グワラニーから休戦という形の降伏勧告がやってきたとき、私は受けるべきだとすぐさま思った」
「それは、開戦直後にやってきた好条件での降伏勧告を蹴り飛ばし、結果として四十万の将兵を失ったクペル平原での苦い経験に基づいている」
「だから、王太子殿下がその要求を拒否したときには、これからやってくるのはクペル平原の再現。そして、王都壊滅」
「だが、結果的に引いたのはグワラニー」
「王太子殿下は賭けに勝ったといえるだろう」
ロシュフォールもほぼ同じことを口にしていたのだが、その中で興味深い感想を残していたのは、オートリーブ・エゲヴィーブだった。
「あそこで簡単に引いた。あれはグワラニーが王太子の言葉に感銘を受けたからではないだろう」
「おそらくグワラニーは最初からその気はなかった。誘いの言葉を口にし、その反応で王太子の器を測っていたと思われる」
「降伏するようであればそれはそれでよし。あれはその程度の意味しかなかったと思われる」
「ということで、グワラニーの言葉どおり問題は次回の会談だ。まあ、そのときまでに我々のどれくらいが生き残っているかもわからぬが……」
一方、ダニエルやロバウと違い、その後のフランベーニュがどうなったかを知っている後世の歴史家たちはこぞってダニエルの判断を批判した。
「自己の名誉と引き換えに国を衰退させたフランベーニュ史上最悪の判断」
フランベーニュの著名な歴史家ウスターシェ・ポワトヴァンはこう断言し、ダニエルの判断を非難した。
「あの時、魔族の勧告を受け入れていればフランベーニュは広大な領地を手に保持ことができた」
「グワラニーが示した国境は当時の前線からは大幅な後退している事実。だが、実際のところモレイアン川の水運が止められた時点でフランベーニュが戦線の維持ができなかったのはあきらか。いずれ後退しなければならなかったのだからグワラニーの要求は広い意味で考えれば妥当。それどころか、後退の口実ができたともいえる。だが、ダニエル・フランベーニュはすべてを承知のうえでそれを拒否した」
「ダニエル・フランベーニュは休戦という名の降伏を受け入れなかった理由。それは魔族に降伏した自分に対する批判が怖かった。その一点である」
多くの場所でポワトヴァンとは反対側で論陣を張るアシュリー・ウエルスもこの一件に関しては、ポワトヴァンとともにダニエルを批判する側に回る。
「ダニエル・フランベーニュの愚かな判断のおかげでフランベーニュは多くの領土と、それ以上に多くの命と名誉を失った。実際、この会談を境にして、会談前と会談後に分けた場合、年数が圧倒的に短いにもかかわらず、会談後の戦死者が多い。そして、より重要なのはこの戦死者の大部分が武器を持たぬ者たち、つまり戦争に巻き込まれた者たちだったことである」
「攻勢に出ていたときにフランベーニュの兵士たちは魔族の女子供を虐殺していたのは言い逃れのできない事実。だから、魔族の将兵が無辜の民を戦いに巻き込み殺した、自分たちは一方的な被害者と主張できないことは承知している。そして、それを踏まえて改めてその数字を見た時、『あの時、ダニエル・フランベーニュがグワラニーの提示した降伏勧告とは思えぬ素晴らしい条件を受けていれば』と思うのはフランベーニュ人なら当然のことであろう」
さて、多くの後日談を語ったところでそろそろ舞台をフランベーニュの王宮内に戻すことにしよう。
「では、ここでの要件は終わったので依頼された仕事をおこなうことにしましょうか」
「はあ?」
緊張感が漂うその部屋のなかでその雰囲気とは無縁の存在だったグワラニーがその言葉とともに立ち上がると、ダニエルは思わず声を上げる。
「本気で仕事をする気があるのか?」
「何度も言わせないでもらいたい。請け負ったからには相手が誰であろうと完遂せねばならないでしょう」
「だが……」
「王太子殿下。ここはこの男に任せましょう」
「たしかにこちらの補給線の脆弱さを魔族軍に知られることは我が軍にとって利になるものはありません。ですが、翌日の食料をどうするかと悩んでいる我々にはそんなことを言っている余裕がない。遠い未来を心配した結果、明日滅びては物笑いなるだけ。ここはこの男の才覚とフィーネ殿や剣士たちの力を借りて目障りな野盗を一掃してもらうべきでしょう」
「私もロバウ殿の意見に賛成します。それに王太子殿下もこの状況の改善がすべてのことに優先するものとおっしゃったではありませんか。もちろん王太子殿下が想定したすべてのことにこの男が含まれていなかったのは承知していますが、ここは目を瞑ってでもそうすべきだと考えます」
ロバウに続き、ロシュフォールからやってきた説得の言葉にダニエルは不快な表情を浮かべる。
だが、補給が途絶えベルナードが撤退を開始してしまっては先ほどの提案を蹴り飛ばした意味がなくなるのは間違いのないこと。
「……わかった。不本意ではあるが……」
「依頼した仕事を遂行してもらおうか」
それが、「やむを得ない」という言葉を飲み込んだダニエルの言葉だった。
ただし、それを言った相手はグワラニーではなく、フィーネだったところがダニエルの複雑な心境といえるだろう。
「失礼する前にひところだけつけくわえておきます。次に我々に対する攻撃がおこなわれたときは王太子殿下の命令があったかどうかに関係なく報復をおこなします」
「そして、報復の対象はフランベーニュの王都アヴィニア。この美しい都が瓦礫に変わり、ここに住む者たちは皆神のもとに向かうと思ってください」
「そうならぬよう王太子殿下は部下の跳ね上がりに十分に気をつけるべき。そう忠告しておきましょう」
その言葉を残し、グワラニーたちは消える。
さて、ダニエルの色々な意味での思い人であるフィーネだが、部屋を出た瞬間、グワラニーの耳元で自分を思い焦がれる男をこき下ろしていた。
「グワラニー。王太子の顔を見ましたか?」
「ええ。本当に申し訳ないことです」
再びサングラスを着用し、王宮内を歩きながらフィーネからやってきたその黒い問いにグワラニーは軽く答える。
「まあ、こいつが悪党であることは最初からわかっていた」
「まったくだ。本当にアリストといい勝負だ」
「その悪党のお守りをしなければならない俺たちが本当の被害者だろう」
「ああ。悪党の仲間など……」
「それをいうのなら、悪党の子分でしょう」
背後から聞こえる盛大な悪口をひとことで封殺したところでフィーネはもう一度グワラニーを眺める。
「それで……あれだけ盛大に釘を刺したのですから、王太子はもちろん子分どもも手を出すことはないと私は思うのですが、あなたはどう考えていますか?」
「ダニエル王子や取り巻きはそうでしょう。ですが、情報を手に入れた他国の間者がフランベーニュの没落を狙って私たちを襲ってくる可能性もありますので警戒は怠らないことが肝要でしょう」
別の世界の約三十分にあたる二十ドゥア後。
「さて……」
王宮を出たところでグワラニーが先頭を歩くフィーネに尋ねたのはもちろんこれからの予定だった。
それに対してフィーネはこう答えた。
「……一応、王都からミュランジ城までは転移するとして、そこからは馬車での移動となります」
「馬車は三台。三人が御者をやります」
「そのうちの一台はあなたがた専用となっていますので、自由に使ってください。それなりの準備はしていますが、不足であればミュランジ城で調達することになります」
「肝心の商品は?」
商品。
つまり、前線に届ける食料のことで、小麦と干し肉、それから塩と少々の嗜好品。
通常これだけのものが一台の荷馬車に積まれる。
効率性を考えれば、同じ商品を積んだ方がいいように思えるのだが、これは長年の経験により確立しているこの世界の食料運搬の基本となっている。
三台の馬車にそれぞれ小麦、干し肉、塩だけを積み込んだ場合、二台の馬車が襲われ、前線に塩だけが届くということもあり得る。
もちろん塩は人間にとってなくてはならぬものではあるが、必要は栄養が採れるかといえば無理。
一台しか到着しない同じ状況でも、まんべんなく必要なものが届くほうが前線の者にとっては有益。
そういうことである。
元々後方勤務で輸送について熟知していたグワラニーとしては、たとえ野盗狩りが仕事であってもせっかく前線まで行くのだ。
多少なりとも商品は積むものと考えていた。
だが……。
「私たちの馬車には荷は積んでいません」
「まあ、美人がふたりもいれば、野盗は間違いなくやってきます。いうなれば、私たちが狙われるべき商品というわけです」
本気とも冗談とも取れる言葉を口にしたフィーネはそう言って笑った。
「さて、ここから勇者と魔族の冒険譚が始まるのです」




