アマラの戦い Ⅱ
戦いとは呼べない一瞬の出来事があったその夜が明けた日の昼。
その頃になりベルナードはようやく戦いがあったことを知った。
といっても、それは状況を知らせるために毎朝やってくるはずの伝令が来ないことから察しただけでまだ状況を確認したわけではなかった。
このような場合、本来であればこちらから確認のために斥候部隊を派遣するところなのだが、ベルナードはそれを命じることはなかった。
「……ベルナード殿が斥候を出さない理由がわかるか?シャルランジュ」
魔術師長アラン・シャンバニュールは昼食をともにしていた副魔術師長ジェルメーヌ・シャルランジュに尋ねると、シャルランジュは少しだけ考え、それからおもむろにこう答えた。
「戦力の温存というところでしょうか」
「……やはりそう思うか」
シャンバニュールはつまらなそうにそう応じた。
「だが、それでは味方を見捨てることにならないか?」
「おそらくキュースティーヌ将軍たちはすでに敗退している。さらに相手が例の男だった場合、ひとりも生きていないとベルナード将軍が考えているのではないでしょうか。さらなる敵が来るのを待ち構えている強敵のもとに出かけるのは、狩られるために行くようなものだと思っているのでしょう」
「……勝っている、少なくても五分であれば連絡が来るはず。これだけ時間が経っても音沙汰なしというのはそういうことなのでしょう」
「実に不愉快な推測だな」
だが、そうは言ったものの、シャンバニュールがシャルランジュの言葉を否定しなかったのは彼自身そう思っていたからである。
シャンバニュールは少しだけ話題を変える。
「ところでシャルランジュ」
「やってきたのは噂の者たちであったとしても、ゲブピエルがおこなうと宣言していた転移直後の敵を叩く策は避けようがない。そして、私もその策は間違っていないと思ったのだが、負けたということは、奴は唯一勝てる手を使わなかったということなのか?」
「もちろんそれ自体信じられないことではあり愚かなことではあるのだが、それ以上に問題となるのは、転移直後に攻撃をおこなったにもかかわらず敵が健在だったときだ。尋ねる。どうやったらそれが可能になる?」
実をいえば、シャンバニュールからの問いは、シャルランジュの疑問でもあった。
当然答えられるはずもない。
「転移直後に攻撃してもびくともしない敵がいるなど考えたくもないですね」
それがシャルランジュの答えられる精一杯の回答であった。
ふたりの魔術師が持つその疑問に答えたのはベルナードだった。
「……それを説明することは、そう難しいことではない」
彼のもとを訪れたふたりの魔術師がその話をした直後、ベルナードはそう言い放った。
不機嫌さを漂わせるシャンバニュールの無言の抗議にベルナードは頷き、もう一度口を開く。
「キュースティーヌの狙いは?」
「司令官のアルディーシャ・グワラニーだろう」
「そのとおり」
自身の問いに答えたシャンバニュールにそう応じたベルナードは言葉を続ける。
「おそらく最初に転移してきたのはごく少数の部隊。キュースティーヌはこれからやってくる部隊にグワラニーがいると判断し、その部隊の攻撃を見送った。だが、その少数の部隊にはボナールの配下を葬ったという例の魔術師がいた。当然その魔術師は直後に攻撃を始める。そうなればキュースティーヌに抗うすべはない」
「アマラで起こったのはそのようなことだろう」
「たしかにそうであれなすべてがあり得る話となる。つまり、キュースティーヌは予定通り最初の部隊を攻撃すべきだった。将軍はそう思うのか?」
シャンバニュールの少々強い口調での問いにベルナードは薄い笑みで応じる、
「……結果的には」
「だが、その部隊を攻撃してしまっては間違いなくグワラニーを取り逃がすことになる。奴を狙っている以上、攻撃はできまい。まして、捨て駒のようなその部隊に偉大な魔術師を紛れ込ませるなど考えもしないだろう。私だってそうだ。起こったことを知ればその可能性はあると考えても、前提条件が何もなければ最強の駒を簡単に捨てるなど考えもしない」
「包囲されていること。こちらの目標が自分でもあること。そして、そうなった場合に我々がどう考えるか。グワラニーはそのすべてを完全に読み切ったうえで転移してきたとしか思えぬ」
「ちなみに将軍は迎撃戦を望まなかった理由は何ですか?」
シャルランジュからやって来たその問いにベルナードの笑みの苦みは増す。
「アマラ以外を封鎖した時点でグワラニーは我々が待ち伏せしていることを察する。それでも、やってくる場合には捨て駒を使ってくる可能性があると思っていた。攻撃してくれば自身の転移を中止できるように。だが、私の読みはそこまでだ」
「だが、グワラニーはあのボナールの上を行く奇術師。想像もしない手を使ってくるかもしれない。私は奇術師にカモにされるのが一番嫌いだ。だから、迎撃戦を避けた。まあ、結果的にはその判断は正しかったということになるのだが」
「……だが、キュースティーヌが頭の固い奴だったら、当初の予定通り先陣を攻撃していただろう。それだって十分にあり得る話だ。グワラニーとやらが頭の回る男ならそれも計算に入れてくるだろう。ということは、奴は場合によってはその強大な力を持つ魔術師を失ってもいいと考えていたということになるがそこはどう考える?」
ベルナードの言葉をすべて聞き終えたところでそう返したシャンバニュールの問いは当然のもの。
切り札とも言えるその魔術師を簡単に捨てられる者などいるはずがないのだから。
もちろんそれはベルナードも同じ。
そこまで話したところでベルナードは大きく息を吐く。
「実はそれについて興味深い噂がある」
「これはボナールとともに戦ったエティエンヌ・ロバウが口にしていたことなのだが、実はグワラニーも魔術師。しかも、ボナールを葬ったのは奴だというのだ」
「まだある。ミュランジ城攻防戦の最終盤にやってきたグワラニーの部下らしい小娘は同様の力を持つ者だそうだ」
「つまり、とんでもない力を持つ魔術師はふたりいる。だから、万が一先行部隊に紛れ込ませた魔術師が葬られても、まったくとはいわないまでも、今後の戦いには決定的な問題にはならないという仮定が成り立つ」
「その話を聞いたとき私はありえないと思ったが、今回の一件を考えるとき、その話は笑って聞き流すわけにはいかなくなった」
「……今さらではあるが、せめてゲブピエルが予定通りやってきた直後に一撃加えておけば……」
「本当に今さらだな」
絞り出すように口にしたシャンバニュールの言葉にベルナードはそう応じ、苦笑、いや、自嘲といえる笑みを浮かべた。
「それで……これから背後からやってくるその強敵に対して将軍はどうするつもりなのですか?」
シャルランジュがそう尋ねると、ベルナードはたったひとことこう呟いた。
「これまでどおり前面の敵と戦いながら待つ」
ベルナードの言葉を聞いたふたりの魔術師はほぼ同じ言葉を心の中で呟いたが、もちろんそれは大きな間違いだった。
ベルナードは何事もなかったかのように言葉を続ける。
「奴らの目的が我々の殲滅であればいずれやってくるだろう」
「さて、そこで問おう」
「アマラからここまでかなりの距離だ。こちらの背後を急襲したいと考えた場合、どのような方法でやってくるかな?」
「……それはもちろん転移……」
そこまで言ったところでシャルランジュは気づく。
ベルナードの意図を。
「……もしかして、再び転移避けを外し、意図的に転移できる場所をつくると?」
「そうだ。それもすぐ後ろに。だが、次に現れたときは数に関わりなくすべて始末する」
そう。
これはキュースティーヌの失敗を教訓にしたグワラニー軍への対抗策。
「奴らを倒せる唯一の機会は転移直後。そうであれば、勝つためにまず奴らが転移したいと思うような場所を提供しなければならない。そして、前回の策に味をしめ、もう一度同じ手を使ったときが奴らの片腕が吹き飛ぶときだ」
「まあ、その後はどうなるか知らないが、それだけやれば我々の義務は果たせたといえるだろう」
そう言ってベルナードは笑った。
だが、ベルナードの言葉に反して、用意した罠に魔族軍はやってくるどころか反応すらしなかった。
そして……。
「……やむを得ない」
五日後。
ついに忍耐の限界がやってきたベルナードはウジェーヌ・グミエールに五千の兵とジェルメーヌ・シャルランジュを中心とした五百の魔術師をつけてアマラへの進撃を命じた。
そして、ベルナードの命令通り転移魔法を使用せずゆっくりと前進し十五日後アマラに到達したグミエールは町を取り囲むように並ぶ腐乱した死体の山を発見する。
もちろんその死体の状況は尋常ではない。
すぐにそれに気づいたグミエールは隣の男に目をやる。
「……どう思う?」
グミエールが話しかけたのは参謀役のガエタン・ボアジエール。
切り刻まれたような死体を眺め直したボアジエールが口を開く。
「死体の状況からやはり連絡が取れなくなったその日に死んだと思われますが……」
「町を取り囲むようにして並んでいることから軍全体がとんでもない一撃でやられたということでしょう」
ボアジエールの意見は自身と同じ。
グミエールは小さく頷くと後方を歩くシャルランジュに目をやる。
「ベルナード様へ連絡。アマラに到着。キュースティーヌ軍の敗退を確認。敵影なし。さらに捜索する」
二日後。
敵を発見することなくグミエールは戻ってくる。
戦果なし。
だが、相手はグワラニーの部隊。
むろん接敵すれば相応の被害が受けたのだから、戦果なしと嘆くのではなく、損害なしで帰ってきたことを喜ぶべきだろう。
「……状況から、包囲された敵が巨大な魔法を放ち、キュースティーヌたちが成すすべなく倒れた。そういうことか」
グミエールの報告を受けたベルナードは呻くようにその言葉を口にした。
「やって来た敵は数万。これは間違いないことなのだな?」
「草原地帯に残る足跡などからそう判断しました」
「包囲した状態でキュースティーヌたちがやられた。それは状況からそう判断できる。そして、やってきたのは数万」
「だが、どこかに移動したわけではなく奴らは戻っていった」
「魔法で転移しどこかに隠れているということでなければそうなります」
「なるほど」
グミエールのそう返したところでベルナードは再び唸る。
「であれば、グワラニーはどのような目的で数万を率いてやってきたのだ?」
ベルナードは有能な軍人である。
戦い方はもちろん、目の前に起こっていることなく全体を見る目も備えている。
別の世界に住むある種の人間風にいえば、「戦術眼だけではなく戦略眼ももっている」ということになる。
だが、それは戦いに関するものに限定され、さらにその目の届く範囲は自国に関わる部分。
魔族の国を挟んで反対側にまで意識はいかず、当然魔族が抱える内なる問題にまでは考えも及ばない。
だがら、一撃で数十万の兵を葬ることができる魔術師が抱えたグワラニーの部隊が限定的にしか戦場に留まらず、フランベーニュ軍主力の背後を襲える好機を捨て、圧勝後に撤退した事態が理解できない。
そのベルナードが長い思考の末に辿り着いた理由。
それは……。
「我が軍の戦力を削り取ること。そして、指揮官の殺害」
「その目的が達成されたから戻った。まあ、奴が狙っていた指揮官はもちろん私。だが、実際に出向いたのはキュースティーヌだったのだが」
「だが、それが奴の独断か命令だったのかはわからぬが視野が狭い。そのまま北上すれば私を含めてフランベーニュ主力は今頃キュースティーヌの後を追っていただろうに」
ベルナードがそう言うと一同は大きく頷く。
もちろんベルナードの言のうち目的についてはほぼ正しいと言っていいだろう。
だが、彼らがここに留まれなかった肝心の理由は、それこそ「視野を大きくしないかぎり」たどりつけないものである。
それがほぼ完全な形でわかっている者は人間の世界にはひとりを除いて存在しないのだから、ベルナードの能力を疑う必要は微塵もないのだが。
「まあ、とりあえず同じ失敗を二度とおこなわないためにも今回奴らの痕跡がある場所はすべて穴を塞ぎ転移できないようにする。今後も同じことがあれば同様の対応を取る。よろしいな」
「つまり、呼び込んで叩かないということか」
ベルナードの決定に言葉を挟んだのは魔術師たちを統括するシャンバニュール。
ただし、これはその場にいる者たち、とくに復讐に燃える将軍たちの心の声を読み取って口にしたものであって、シャンバニュール自身がその考えに囚われていたというわけではない。
一度は意外そうな顔をしたものの、すぐに老人の意図を察したベルナードはシャンバニュールに小さな会釈をし、それからそれに答える。
「相手はフランベーニュ最高の奇術師ボナールも騙すくらいの男。罠に嵌めたと思って待ち構えていたところで逆に罠に嵌められ全滅するなどというキュースティーヌと同じ醜態は晒したくない」
「そして、我々が奇術師に対抗する手段は不慣れな奇術ではなく堂々たる正攻法による戦い方だ」
「とにかく、背後を取られることがないよう注意するが、戦うべき相手はあくまで正面にいる者たち。失ったものより多くの敵を葬ることで今回のような小細工は我々には通じないことを魔族どもに教えてやらねばならない」
ベルナードの言葉に将軍たちは雄叫びの声で応じ、魔術師たちはそこまで露骨ではなかったものの、その言葉で気分が高揚したことは確かであった。
そして、それからしばらく経った同じ場所。
その場に残っていたのは、ベルナードのほか、グミエール、シャルランジュというアマラに出向いた者と魔術師長であるアラン・シャンバニュールだった。
「……総司令官とは大変な仕事だな」
周辺に人がいないことを確かめたところでシャンバニュールは含みのある言葉を口にする。
だが、これはベルナード自身も意図してやっていることであり、否定するつもりはない。
「将兵二十九万四千。魔術師二千七百。これだけの戦力を失ったうえ、おそらく敵には一切の損害を与えられなかった」
「はっきりいえば、これはクペル平原での大敗に匹敵する」
「このままでは士気に影響する。嘘でもハッタリでも構わない。兵たちの気分を高揚させねばならない責任が私にはある」
「まあ、あの様子ではそれは成功したようだな」
「まるで勝ったかのような顔で出ていったからな」
「ですが、穴埋めは大変です。特に魔術師は。二千七百という損出もそうですが、今後は後方に入られないようにほぼすべての場所に転移避けを展開させる必要があります。ですが、そうなったときには、もうひとつの問題が生まれます。ミュランジ城より先の水運がおこなえなくなって以降、輸送を担っていた魔術師たちもそちらに回さざるを得なくなります。つまり、そうなれば、輸送の主力は陸路にするしかない。そうなると、とんでもない数の荷馬車を確保しなければならないのですが、それとともに……」
「野盗か」
シャンバニュールが吐き出すように言った言葉に全員が頷く。
「何か手はないか?」
「では、荷駄の護衛に傭兵や冒険者を雇うというのは?」
悩めるベルナードに対するグミエールの提案。
これは現状ではもっとも現実的なものであったのだが、そこにもある問題が含まれている。
長い空白の時間が経ったところで、ベルナードはこう呟いた。
「信用できるのか?」
そう。
そのような武力集団が存在するにもかかわらず、軍はもちろん商人たちも傭兵や冒険者を積極的に雇い入れることがなかったのも、彼らに対する信頼がなかったからだ。
フランベーニュ国民でありながら徴兵を逃れた者。
それだけでベルナードが信用しない相応の理由となるわけなのだが、実は傭兵や冒険者の多くは祖国から逃げてきており、フランベーニュ人ではないので、フランベーニュの徴兵には引っ掛からない。
さらに偽名などを使って身分を誤魔化しフランベーニュ人が自称外国人となっているケースもある。
そのような者たちだ。
まず自身の命が大事。
そして、より高い報酬に靡く。
貴重な物資の護衛を任せるわけにはいかない。
それがベルナードの考えの根底にあり、その場にいる者たちの共通の意見であった。
だが……。
「信用できればいいわけですか?」
グミエールがさらに言葉を加える。
「そんな者がいるのか?」
「まあ、いるというか、聞いたことがあるという程度ですが……」
「圧倒的な強さを持つうえに、正義の心を持つとか」
「誰だ?そんな都合のいい奴は」
「勇者」
「……勇者?勇者とはあの勇者のことか?」
もちろん、この世界で勇者といえば特定の冒険者チームを指し示す、いわば固有名詞。
それが敵味方を問わずこの世界の共通の常識である。
つまり、それを聞き直すベルナードは世間の常識から縁遠いと言われても致し方ないところである。
だが、ベルナードの名誉のためにいっておけば、彼だってその程度のことは知っている。
そして、魔族側の一部勢力を除けば、その実態について正確に把握しているのはベルナードどころかフランベーニュ中探してもいない。
その勇者の名が突然登場したのだからベルナードがそう聞き返すのもやむを得ないとも言えるだろう。
「グミエール。おまえは勇者と知り合いだったのか?」
「いいえ。まったく知りません」
半分ほど期待を込めて尋ねた自身の言葉を見事に裏切る返答に落胆したベルナードは冷たい視線をグミエールに注ぐ。
「では、どうやって連絡を取るのだ?」
「というか……」
「……そもそも最近は話を聞かず、死んだという噂も流れているようなのだが、勇者は生きているのか?」
そう。
実際には勇者一行は精力的な活動をおこなっており、そのうちのひとつではベルナードの祖国の未来に大きく関わっていたのだが、最近彼らは諸事情により勇者と名乗っていなかった。
そのため、世間ではこのような噂も流れていた。
勇者は魔族に討たれた。
そして、魔族の王都の門にその首が晒されている。
「……まあ、今は生きていることを前提にして話を進めるわけなのだが……」
「どうやって勇者と連絡をとるつもりなのだ?知り合いでもない奴らと」
「そして、たとえやってきたとして、その者たちが本物の勇者だとどうやって判断するのだ?」
シャンバニュールの言葉はすべての点で的を射ていると言っていいだろう。
どこの誰か、それどころか生きているかどうかもわからない者たちと連絡をつけるなど至難の業以外のなにものでもないだろうから。
だが、それに対してなんとグミエールは意外なことを言い出す。
「それはそれでいいのではありませんか」
そう前置きしたグミエールが言葉を続ける。
「相手がどこにいるかわからない以上、我々ができるのは勇者に対して呼びかけをする。大声で。それくらいのことです。ですが、そうすればまちがいなく多くの者が『自分こそが勇者』と名乗り出る。そこの中で腕の立つ者を選び、雇えばいいでしょう」
「腕を見せてもらうといえば、口だけの輩は来ないだろうし、たとえ来ても落とせる。紛れ込もうとする野盗はいるかもしれませんが、厳しい検査をおこなうと言っておけば、警戒して近寄ってこないでしょう」
「もちろんこれで完璧というわけではありませんが、我々は兵士を輸送の護衛に割けない状況にある。そして、護衛には多数の人間が必要なのです。なによりも、これをやらなければ、我々は魔族と戦う前に飢え死にするのです」
だが、これはどちらかといえば小細工の部類の属する。
当然ベルナードの額には皺が寄る。
「つまり、本物の勇者でなくても構わないということか?」
「そうです。もちろん我々は彼らの名を吹聴しますが」
好みではない。
だが、これ以上の手があるかといえば、ない。
そして、何もしないという選択肢がない以上、これに縋るしかない。
「……やむを得ない。いや、悪くない」
「そうだな」
グミエールの言葉が途切れたところでベルナードは呟き、シャンバニュールもその言葉の正しさを認め、頷いた。
「我々には時間がない。最高のものでなくても、状況を改善するためにはそれを選ばなければならないのだ」
シャンバニュールが漏らしたその言葉には大きな真実が隠されていた。
それは勇ましさだけが尊ばれる英雄譚では絶対に語られない真実でもある。
アルサンス・ベルナード率いるフランベーニュ軍の前線には約二百万人の将兵がいる。
これは魔族軍の十倍近い数であり、フランベーニュ軍がこの戦線で優位に立っている理由でもある。
だが、この圧倒的数は敵にだけではなく味方にもその刃を向けていた。
兵站への負荷である。
そのなかでも特に深刻なものを挙げれば食料となる。
二百万人。
別の世界の単位を使って説明してしまえば、この二百万人がひとりの一キログラムの食料を必要としたら、全体としてどれくらいの量が必要になるか?
答えはもちろん二百万キログラム。
すなわち、二千トンである。
これが毎日。
そう。
フランベーニュは毎日二千トンの食糧を前線に運ばなければならないのである。
もちろんフランベーニュは農業大国であり、それをカバーするだけの食料は生産している。
問題は、それをどう運ぶかということだった。
もちろんこれは彼らと対峙する魔族側も同じであった。
だが、彼らの場合はフランベーニュの十分の一の兵力。
そして、食料供給地から近いという利点がある。
さらに文官時代のグワラニーが構築した輸送システムがあったおかけでその問題はフランベーニュよりも圧倒的に小さくなる。
さらにどうしてもというときにはグワラニーの魔術師団を総動員して緊急輸送する奥の手がある。
そう。
ここでも圧倒的戦力であるはずのグワラニーの部隊を後方に置くことが利点になっているのだ。
それでも二十万を超える将兵への食料輸送は軍にとって大きな負担にはなっていたのだが。
フランベーニュの将兵の数が魔族の十倍。
しかも、魔族軍のような奥の手があるわけでもない。
彼らにとって悪いことに食料は諸々の事情により本国から運搬しなければならなかった。
だが、これまでどうにかこうにかやってこられたのは、大河であるモレイアン川の水運があったからだ。
だが、現在はそれが途絶え、さらに水運の代わりを担うと期待された魔術師の輸送も大規模にはおこなえないことが確定し、それまでは後方の部隊用に利用していた荷馬車による輸送を前線への輸送にも活用しなければならない。
この世界の馬車の積載量は百セネジュから百五十セネジュ。
これは別の世界の一トンから一トン半に該当する。
二千トンを荷馬車で運搬する場合、毎日千台以上の荷馬車を前線に送りださねばならない計算となる。
片道三十日の行程であれば、休みなしでも往復で六十日。
つまり、荷馬車もそれだけの数が必要となり、その数は現実離れのものとなる。
しかも、荷駄隊が使う街道は舗装されていないため、一旦荒天になろうものなら、しばらくは動けなくなる。
さらに街道とは名ばかりの細い道。
そして、険しい山道や渓谷地帯も通る。
つまり、荷馬車を使った輸送だけでは前線にいる二百万人の兵士の胃袋を支えることなど不可能なのである。
そうなれば、やはり魔術師を兵站部門へ投入することは必然となる。
というより、魔術師による輸送こそが魔族領奥深くまで侵攻したフランベーニュ側の生命線となる。
五千人。
これが最低でも必要な魔術師の数となる。
だが、本来であれば戦闘に参加できるレベルに達していない者も前線に投入している現状を考えれば、いくら重要だといっても現状と同じ数の魔術師を輸送部門に配置するようなことは、前線において魔族軍との魔力の均衡が崩れ、一気に崩壊しかねない状況になる。
そして、輸送業務に振り分けられる魔術師の数から導き出したのは一日あたり四百台の荷馬車輸送をおこなわなければならないということ。
「それで、実際のところ状況はどうなのだ?」
シャンバニュールがベルナードに問うたのは、もちろん食料に状況。
そして、その答えはこうだった。
「……兵站長のリュールによれば、現在でもこの陣地には食料の蓄えというのはないそうだ。正確には二日先の分がどうにかあるというところになるそうだ」
補給の一切を仕切るセレスタン・リュールのものという言葉はさらに続く。
「とりあえず最前線にいる兵士と魔術師、それから指揮官たちには毎日食料を出しているが、後方の連中の食事は三日に一回抜かねばならないそうだ」
「そして、これ以上状況が悪くなれば、後方は二日に一回、前線で戦う兵士も四日に一回食事が配れない状況になるそうだ」
「そうか」
「……毎日パンと干し肉と塩味しかしないスープという食事を改善するように文句を言おうと思っていたのだが、どうやらとてもそんなことを言える状況ではないようだな」
シャンバニュールは呟き、言葉を語り終えたベルナードもこれからやって来る悪夢を想像しこのような言葉を漏らした。
「……腹が減って戦えないので後退するなどという命令を出すなど考えたくもない」
「だが、戦いに負けた無能なら我慢もできるが、何も食わせず兵を戦わせた将と吟遊詩人に語り継がれることだけは御免被りたい」
「撤退に追い込まれる前になんとかせねばならないだろうな」
「……リブルヌに連絡を取る」
その言葉とともにベルナードが動き出す。
「先日の敗戦によって魔術師による兵站維持が困難になった。このままでは慢性的な食料不足に陥っていることになる」
「今後の輸送の根幹を成す陸路輸送の安全を図るために非正規兵を雇い護衛に就ける計画を立てた。そのための募集をおこなおうと思う。現状を改善し前線に食料が安定的に供給できる名案を持っていなければ、王都にこの旨を伝えよ」
「原案は書に書いたので、文面を整えたうえで王都へ届けよ」
「ミュランジ城へ赴きクロヴィス・リブルヌにそう伝えろ」
伝令が消えると、ベルナードは苦笑いする。
「前線への補給は本来リブルヌがおこなうべきもの。だが、一連の戦いで奴のもとには魔術師がいないため、こちらから魔術師を派遣している。だから、陸路こそと言いたいところなのだが……」
「奴も目の前に前線を抱えている。簡単に兵を割ける状況ではない。というより、そもそも奴の手元にはミュランジ城周辺を支えられる数の兵もいない。これだけ言えば、奴ならすぐに理解するだろう」
「まあ、リブルヌのような気が利く男がこれまで何もしなかったということは奴の手の内にも策はないということ」
「こちらの言葉はそのまま王都に伝えられることだろう」
ベルナードの推測は当たる。
前線への補給は本来物資集積地ミュランジの城主である自分の責任でおこなわなければならないこと。
だが、彼我の戦力上、それをベルナードにそれを担ってもらっている。
置かれた立場のすべてを理解しているリブルヌがベルナードからの伝言に不平を言うはずもなく、「形式上、私が言うべきもの。頭ごなしではなく私に任せていただいたことを感謝せねばならない」と呟くとすぐさま王都に出向くとベルナードからの要望を名も知らぬ文官に伝える。
少々過剰な言葉を添えて。
「いいのですか?あのような言葉はベルナード様の伝言にはなかったと思いますが」
「かまわん」
同行した新任の副官エドガール・リュクスイユが心配するものの、これまでフランベーニュの統治機関の処理速度の遅さを嫌という程味わってきたリブルヌはそう言った後に表情を険しくし声を小さくしてこう続けた。
「これは秘中の秘であり、他言無用なのだが……」
「……あれは実質的な権力者に素早く要件を伝える魔法の言葉だ」
直後、リブルヌの表情は大きく崩れた。
そして、リブルヌの言う、魔法の言葉がこれである。
「……このまま状況を放置していたら前線の崩壊は避けられません」
「ですが、今なら十分に間に合うと思い、私はこうしてやってきた。つまり、時間を浪費した結果、対処が間に合わず、前線の崩壊が起こった時の責任はベルナード殿にも私にもないことは明記してもらいたい。そして、そうなれば、その責を負うのは当然……」




